第61話「悪の帝国聖女Ⅲ」


「ゾムニス!! 緊急出航準備だ!!」


「帰って早々か。何があったんだい? そちらのお嬢さんは?」


「出航してから話す」


「了解だ。全艦に出航用の非常ベルを作動」


 ジリジリジリ―――。


 今まで一度も鳴らされなかったベルのスイッチと同時に次々のマニュアルを熟読しているクルー全員が各自の持ち場に付いて行く。


「外のロープは外しておいた。後の事は帝国の役人がやってくれる。工具類をエーゼルが仕舞い終えたら、その足で北部同盟の中央下くらいの方角に向かう。アテオラ!!」


「は、はい!!」


「イメリもいるな。今から此処でオレが言う通りに地図に書き込んでくれ」


「了解しました!! 姫殿下!!」


「機材は此処に。すぐに始められます」


 アテオラとイメリが操縦室のテーブルの上に地図を広げて、すぐに準備する。


『エーゼルが戻ったぞ~』


 遠間から竜騎兵としていつでも出られるように準備しているデュガの声が響く。


「即時発進だ。高度200で最大船速。ノイテ!!」


「はい。此処に」


「イクリアとか言うのにエーゼルが取り付けた設備でちょっと充電させてくれ」


「まだ、試験的なものだったはずですが?」


「いいから、今のままじゃ電力が足りない」


「解りました」


 メイド服に鎧姿のノイテがすぐに操縦室から背後の貨物室へと向かって行く。


 そして慌てた様子のぶち犬っぽい少女と何やら会話していたが、すぐに電池を図るメーターに充電されている旨の反応がある。


「そのまま維持してくれ!!」


 言い置いてから、予定高度に到達した操縦室内からの景色で相手の居場所を割り出そうと瞳を凝らす。


 横には簡易にモーターをぶら下げた自分の外套を羽織るヴェーナがアワアワしながら、目を見開きつつ、竜でもないのに飛んでる飛行船を前に絶句していた。


「……何だコレ……動いでるのか?」


「どうした?」


 ゾムニスに進路を微妙に調整させながら、アテオラに指示した点が次々に僅かずつ地図の上で広がっていく。


「コレは……マズイな。ウィシャス」


「どうするんだい?」


 何を言わずとも背後にいる相手に命令を下していく。


「リセル・フルスティーナの竜騎兵総員で各地に飛んでもらう。例の緊急時条項を使う。緊急避難警報の発令と各国の軍に展開指示を出す。マニュアルは読んでるな? BA2だ」


「了解。何処かの国でバルバロスが暴れて、しかも普通の軍隊じゃ歯が立たないって事かい?」


「そうだ。騎馬以外は全て避難民の避難に当てる。騎馬も弓の類で気を引いて相手を誘導しつつ逃げる感じだな」


「交戦規定は?」


「接触不可。取り込まれたら即死と判断して見捨てていい。そうでないと取り込まれまくって収拾が付かなくなる可能性が高い」


「範囲は?」


「この一帯に接する国全部だ」


 地図の上の円を描く。


「了解。すぐに出る。順序は大国順でいいかな?」


「いいや、退避が遅れそうな順だ。そこから更に竜郵便連中に声を掛けてくれ」


 ウィシャスが走って後ろの通路に消えていく。


「す、スゴイだな。ん、ん!!」


 ちょっと興奮気味に両手を握ったヴェーナがブンブンと上下に拳を降る。


 どうやら興奮しているらしい。


 目がちょっとキラキラしているし、頬を紅潮しており、初めての大航海と物語的な展開を愉しむ余裕くらいはあるようだ。


「オレだと見る事しか出来ない。悪いが、土神の詳しい移動経路が知りたい。頼めるか?」


「わ、解っただ!!」


 少女の外套の上で回っていた粘体に包まれたコイルが止まる。


「っ……」


「今の現在地が此処で、この方向に飛んでる。動いてるのは何処だ?」


 相手に黒炭の欠片を持たせる。


「ぜ、全部だ。コレ……どうしてこんなに……うぅ……」


 衰弱気味に顔色が青くなった少女が震える指で事件が起きている中央付近から幾つも外側に線を引き始めた。


「悪いが、土神を止める方法で人柱以外で何か心当たりは?」


「ウ、ウチよりは物凄く小さいけど、これ……一番でっかいのは此処にいるだ。此処にいる土神さんを静められれば……」


 粘体を繋ぎ直して、コイルを回しつつ、ヴェーナに自分がいつも使っている椅子を勧めて、目を閉じて色々と整理してみる。


(地図だと山が無い。という事は地下に埋まってた。もしくは発掘後に何処かに隠されてた代物か? 今出て来た理由は偶然、必然、どちらだとしても侵食された人間その他の生物がヤバそうなのは変わらないな。ゾンビものみたいに爆発的に侵食が増えたら手が付けられない……)


 重要なのは被害者を出来る限り出さずに相手を止める事。


 もしも、不可逆な変化な場合は最悪殺す事になるだろうが、生け捕りにして閉じ込めておけるならば、治療の芽はある。


 その為にも最初にやるべきは頭を潰す事だろう。


 浸食されたのが動物であれ、人間であれ、人が戦える大きさならば、まだ問題無い。


 問題は生物は生物でも侵食されたのが極小の蟲や蚤やダニや細菌、ウィルス系だった場合だ。


 特にABC兵器染みたものに化ける可能性がある危ない極小生物を侵食されている場合は同じレベルの浸食機能が無い細胞で出来た人間は一溜まりも無いだろう。


 最悪、硫酸でも吹き掛けて処理という事になれば、人間は勿論死ぬ。


「静める方法は……」


 縮こまったヴェーナがフルフルと首を横に振る。


「解った。取り敢えず、火力で黙らせる」


「黙らせると言っても弾薬しかないはずだが?」


 ゾムニスが地表に向けて撃っても当たるのかと言いたげに首を傾げる。


 竜騎兵を総動員して連絡役にしてしまった今、上から攻撃を仕掛けてどうにかなるのならば良いが、大規模な火力投射は現実的ではない。


 空爆に使えそうな爆薬類の大半は全て海辺で降ろした後なのだ。


「エーゼル!!」


『は、はぃいいい!!!?』


 倉庫に控えていたエーゼルがすぐに通路の先からやって来た。


「今、積んでる弾薬の種類と量は?」


「せ、先日、化合物の薬品類は全て各航空基地に分配して配備してしまったので、超大型狙撃ライフル用の弾がええと12カートン。生物毒の対バルバロス弾が3カートン。それから通常の拳銃弾が30カートンです!!」


 すぐに報告が返って来る。


 減ってないのは当たり前だが、使うとしても相手に効くかどうかは試してみなければ分からない。


 後、一番問題なのは中枢を黙らせれば、浸食されたのが停止する。


 という話が本当でも殺せばいいのか。


 あるいは単純に麻痺させて活動を低減させればいいのか。


 そういうのが解らない点だ。


「聞いていいか? ヴェーナ」


「え、ええだぞ?」


「お前みたいに土神を侵食されてるヤツを黙らせる方法は解らないって話だが、どういう事をされると苦しかったり、気を失ったりするかは分かるか?」


「う、ぅぅん……このグルグルは何か重い感じがするだ」


「重い感じ、か」


「ぅ、ぅん」


 ヴェーナが今も粘体内部で回転している簡易のモーターを指差した。


「電磁波が重い。通常の元素じゃない超重元素有りだと考えて、空飛ぶ超重元素の塊であるバルバロスが浮かぶわけだから……お前、空飛べたりするか?」


「へ?」


「空、飛べるか?」


「と、飛べるわけねぇだ?! 人間は鳥じゃねぇだぞ!?」


 まるで今から一緒に飛ぶかと聞かれたかのように蒼褪めたヴェーナが首を思いっ切り横に振る。


(莫大なエネルギーを算出する土神の組成が超重元素の場合、浮かんでる可能性もある。こっちが飛べないと不利そうなのは変わらないな。それに濃硫酸が無いのが惜しまれる。このままじゃ、どう考えても完全に融かし切る手札が無いせいで、もしもの時に殺し切れない)


「……手詰まりか? いや、変な鉱物でも鉱物は鉱物なんだ。何か対策出来る手札は………」


 ジッと地図を見やる。


 数秒の沈黙の後。


 詳細に書かれた地図の内部にふと気付いた。


「アルジーナが直線距離で近いのか。アテオラ、此処からアルジーナまで全力で行ってから、3時間で出立、そのまま目的地の中心地まで向かう航路で時間算出してくれ。天候込みだ」


「は、はい。ええと……」


 イメリの補助を受けて、二十秒程地図に書き込み暗算していたアテオラがこちらに向き直る。


「凡そ32時間です。今の天候が崩れた場合はこれに追加で6時間」


「仕方ないな。ゾムニス進路変更。アルジーナに向かえ。アテオラ、アルジーナが避難してたら、オレ達だけで目的のものを仕入れて積み込まなきゃならない。地図を出してくれ」


「は、はい」


 こうして半日程掛けてアルジーナに向かう事が決定した。


 ゾムニスにしばらく操船を預けて、迅速な物資補給の為の手順とルートを作成。


 馬車が無かった場合を考えて、物資の生産場所に直接乗り付ける事にし、僅かな休憩時間を入れる事にしたのだった。


 *


「す、スゴイだな!! 先の世界!!」


 取り敢えず、私室でヴェーナと共に休む事にしていた。


 ノイテ、デュガ、ウィシャス、フォーエが全員出払っているので紅茶はイメリが入れてくれており、アテオラは操舵室に定期で入って天候確認をしながら、航路上の危険が無いかどうかを確認してくれている。


「どうぞ……」


「ふ、ふぁぁ……こ、これ飲んでもいいだか?」


 ヴェーナの瞳が琥珀色の紅茶にキラキラしていた。


「はい。ごゆっくりお楽しみ下さい」


 イメリが未だに麻布の服に外套を一枚羽織っただけの少女に動じる事なく。


 着せ替える為の衣服を取りに私室から出ていく。


 その様子は完全にメイド業が板に付いて来た感があった。


 あれで軍略と政治学と経済学の本をしこたま読ませて、同時にまたこっちが必要だと思う知識を大量に学ばせている。


 それでもしっかりと付いて来れている点で自分の見る目は間違っていなかったと思う。


「食べていいぞ」


「ご、ゴチソウになるだ!!」


 ハムッと皿からクッキーを一枚齧った少女が昇天したような蕩けようになる。


 ついでに紅茶も一口。


「―――」


 忘我の境地に達した様子で一瞬呆けていたが、ハッとした様子ですぐに御淑やかにならんとチマチマ小さくクッキーを齧り始める。


「どうだ? 美味いか?」


「ぅ、ぅん。美味しいだぞ……その……」


「何だ?」


「男みたいな方が本当だんだが?」


「偽物も本物も無い。お前だって偉い人と家族の前で同じ態度は取らないだろ?」


「ん、んだ。それはそうかもしれんだ」


「それと同じだ。ちなみに出発が慌しくなったのは正直済まなかったと思ってる。この件が終わったら、故郷を一度ゆっくり見て回るといい」


「帰ってくれるだか?」


「お前を知る人間はいないかもしれないが、お前の故郷だ。ちゃんと目に焼き付けておけるように計らうから安心しろ」


「……ふふ、ありがどう。その……おめぇすげぇだな。あんな立派な戦士の人としゃべっでるなんて」


「大切な部下だからな」


 その言葉に僅かにヴェーナが口元を歪めた。


「ウチの大切な村ぁ……少し見だけど、もう知ってるどころなぁんもながっだ……」


「そうか……」


「でも、いいんだ。ウチはあの時、姉ちゃん助げだ。今も村ぁある。だがら、いいんだ」


「ああ」


「……でも、でもよぅ。思うんだ。土神様がいながっだら、飢えで死んでもみんなで暮らせでだんがなぁ……って……」


「帰りたいとしてもオレは過去にお前を返してはやれない」


「はは、んなの知っでるだよ。でも、ああ、おめぇはそうしようと思ってくれるだが……ん、ん……何もかんも違うげど、此処はウチの村ぁみたいに暖けぇだな」


「色々終わったら部屋も確保しておこう」


「頼むだ。ああ、でも……おめぇの身体……怖いって土神様言ってらぁ……ほんど、おめぇは不思議だなぁ……」


 紅茶がカップから空になった後。


 うつらうつらしていたヴェーナの瞳が閉じられた。


 どうやら、ノンストップで色々あり過ぎて疲れたらしい。


 そのままというわけにも行かず。


 触手で寝台へ寝かせようとした時。


 フッと少女の瞳が開いた。


 そして、ソレが少なくとも少女自身でない事が見て分かる。


 少女の内部から発されていたはずの電磁波の波が今はまるで色を変えたかのように新たな周波で発されていた。


「……土神か?」


 こちらの言葉を理解しているのかどうか。


 僅かに首を傾げたソレが自分の姿を繁々と見てから、こちらを見て、目を細める。


「どーほー……囚われたか」


「同胞?」


「天より降り来るものに始祖の地を追われた我ら百八種……しかし、無貌為りしものも畏れん」


「っ」


 その言葉が引っ掛かるのは皇帝に助けられた悪夢の中で言われたからだろう。


 顔の無い化け物こそが自分を切り裂いていたモノの正体だと。


「地に蔓延りし、天の種の子……我らの力を取り込む為、それに手を出したか」


「オレはコレに襲われただけだ。どういうものかオレ自身は知らない」


 無表情なまま。


 土神らしき意識がこちらの変質した腕や足を衣服越しに見やる。


「いや? これは……そうか。そういう事か……その蒼き瞳……始原の……」


 瞳を細めたソレが僅かに視線を俯ける。


「我らは滅ぼされしものの末……蒼き瞳の稀人よ……心せよ」


「何?」


「星砕くものらの手は既に大地を覆い尽し、審判の日は迫らんとしている」


 その言葉に月を砕く指が思い出された。


「我らが打ち負けたるは種の力届かずの為、なれど……」


 キロリとこちらに土神が心の底を覗き込むような空虚の瞳を寄越す。


「瞳継しものよ。久遠の彼方より万世の環を越えし子よ。もしも―――」


 空虚の瞳が僅かに歪む。


 それは嘲りとも違うが、何処か面白がるような、やれるものならやってみろと何処か遠くから眺めて悦に入るような、そんな瞳の色に違いなく。


「もしも、始原のものを喰らわんと欲すならば、我ら恩讐の縁に因りて」


 最後に土神は意地の悪そうな笑みで瞳を閉じた。


「その道行きに助力せん………」


 カクンと寝落ちしたヴェーナを抱き抱えて寝台に寝かせる。


 すると、まるで止まっていた時間が動き出したかのようにイメリが入って来る。


「寝てしまいましたか?」


「ああ、疲れてたみたいでな。一つ聞いていいか?」


「はい。何でしょうか?」


「今、何分で戻って来た?」


「1分程ですが」


「……そうか。服は其処に置いといてくれ。後で起きたら着替えさせて貰う。その前に風呂で少し磨いてやってくれ。一応、石鹸類は使わずに手でな」


「解りました」


「ちょっと、行ってくる」


 部屋を出て貨物室の方に向かいながら、今聞いた情報を整理する。


(天、稀人、バルバロス、百八種、滅ぼされた、始原のもの、恩讐……怖がられてるのはオレの力の源になった無貌ってヤツか? なら、星砕くものってのは……南部の宗教の詳しいところも調べなきゃならなくなったな。新しい情報出過ぎだろ……)


「マヲ?」


 ノシッと頭の上に突如として黒猫のアンブッシュである。


「お前……一体、本当に何なんだ? ブラックホールからやってきた超絶宇宙人とか?」


「マヲヲ~~♪」


 ゲラゲラとそんなのいるわけないじゃん的な笑い声が響く。


「まぁ、いい。少なくともお話は惑星規模みたいだ。まぁ、何れ……オレを蒸発させてくれた何かにはお礼参りするつもりではあったけど、技術的に数十年以上先かと思ってたんだがなぁ……」


 不意に腕にずっと巻き付けていた例の不破の紐が締め付けられたように感じて、祖でを捲る。


 すると、シュウシュウと金色の文様が発熱して僅かに赤くなり、肌は焼けていなかったが、何かが蒸発でもしているかのように煙を上げていた。


「まだ、焼き肉になるつもりは無いんだが、何だ? 今の話を聞いたから、なのか?」


「マゥヲ~?」


 どうしたんだろうねーと興味深そうに黒猫が尻尾をユラユラ、紐を見ていた。


 紐そのものはまるで何も変わっていない。


 だが、未だ僅かに締め付けられているような感覚がある。


 金色になった文様の一部が歪んだかと思うと肌の上で別の象形を形作り始める。


「………」


 束ねられた金糸の象形が剣のように変質し、手の甲から指の爪先まで文様で埋まる。


 何が変わったものか。


 ちょっと立ち止まってから腰に差していたガンホルダーから普通の拳銃の方を抜き出して、弾を全て抜いてから、少し力を込めて握ってみる。


「……少なくとも超握力とかには為って無いか」


 何処かホッとする。


「ん?」


 爪の色がいつの間にか増えていた。


 グアグリス、クリーム色っぽい鱗の主に続いて先程まで傍にいたヴェーナの肌の色にも近い白金色。


「……追加か。お前は一体、何が出来るんだ?」


 爪の色に問い掛けつつ、貨物室まで行って適当な木箱の一部を掴み“千切って”みる。


「力を使おうとしなければ、発動しないタイプか……」


 意識的に指先がヴェーナ染みた色合いになっただけだ。


 無意識にモノを引き千切る事は無さそうだが、問題は侵食能力やヴェーナが使っていた物体の再構築能力だろうか。


 ケイ素を用いて土を作り、樹木の遺伝子から種を生成し、莫大なエネルギーを算出する。


 少なくとも遺伝子操作というよりは再構成と呼ぶべき現象や電力の発電現象の実態を掴まなければ、使い道は限られるだろう。


 まさか、生物を吸収して、再構成してみるわけにも行かない。


 いや、少なくとも植物とネズミさんでは試すだろうが……。


「誰もが解るものを目指そうとするオレが一番不可解で高性能になるのはどうもなぁ……」


 肩を竦めつつ、出来る事を一つずつ確認していく事にするのだった。


 *


―――アバンステア帝国首都郊外十字外縁路街。


 悪の帝国における悪徳というのが戦争とそれに伴う残虐行為。


 簡単に言えば、少数民族の絶滅行動だとすれば、その逆。


 美徳というものは大抵が貴族精神に基づく高尚さや技術や叡智の文化的な活用であろう。


 それは滅ぼされた民族からすれば、噴飯ものであるが、周辺諸国への文化流入による普遍化はかなりの面において帝国ありきである。


 要は帝国式の文化が一時代を築くに足るものである事の証左だ。


 首都周辺にある大規模な国道の整備はこの30年で殆ど完璧に行われ、その周囲数百㎞内であるならば、山道ですらも必要があれば、整備されている。


 十字外縁路の異名を持つ街は帝都南部に位置しており、帝都に他国からの物流を確保する4つある街の一つだ。


 ここ最近、帝都から大量に出回り始めた安い大量生産紙の廉価大量販売という製紙革命によって、人々の生活における文章や絵画、その他の象形を用いる文明的活動は羊皮紙主体から媒体が廉価で薄い紙主体になって来ている。


 特に帝都から流通している質の高い印刷物。


 刷り上げられた絵画や文章による文化領域における水準はうなぎ上りである。


 例えば、他国ならば、卑しい者が使うとされるだろう酒場での飲食や排泄行動。


 有料ではないどころか。


 柔らかなトイレ用の排泄物を拭う為の紙がほぼ無料に等しいような価格で大量に売っていたり、ゴロツキの類が屯する酒場の喧騒がまるでしなかったりというのは他国にはない出来事だろう。


「何や何や……帝都周辺も何処もぎょーさん回ったのに静かなもんやなぁ」


 酒場の一角。


 旅人らしい少女という程でもないが、若く見えるだろう女達が一番奥の席で無料で出て来た水を一口飲んで……物凄く真顔になった。


「まともな水が出て来るんか。此処……」


「うん。水道でも引いているのかな?」


「ご注文はお決まりでしょうか~」


 酒場に若い女性と言うのは珍しくない。


 だが、そういう事を強いられている女性の大半が何らかの問題を抱えている。


 ついでに売春もさせられている。


 だから、面倒事が起きないよう若くない三十路過ぎから初老くらいまでの女性を敢て使っているところもある。


 というのが、大陸では常識なのだが、女給さんは溌剌としており、彼女達は僅かに眉目をピクリと動かした。


「あ~~此処の昼時の一番人気教えてくれん? おねーちゃん」


「はい。垢鳥の麺麭包みです~~」


「じゃーそれ二つお願いします~」


「はーい。垢鳥の麺麭包み二つ~~!! 七番テーブルさんです~」


 こういった酒場と言えば、不愛想なバーテンが適当に食事にも満たない干した乾物にキツイ酒を出しているところというのが、旅人スタイルな姉妹達の実感であった。


「水出て来るどころか。ごろつきっぽいのすら静かや。酔い潰れてるヤツもおらん。ついでに首都郊外とはいえ、壁に硝子の額縁に入れられた絵画と来とる」


「さっき、トイレ見たけど、何か感謝してる優しい笑顔の聖母様が微笑んでたよ」


「いやぁ~~何なんやろな~~この大陸で今世紀最大に尻に優しい紙まで買えるとか」


「話を総合するとここ最近は色々変わったって事しか分からないけど……」


「衛生管理が厳しくなって愚痴っとる飲食店や卸売りのおっさんの話も多かったなぁ」


「うん。でも、それだけじゃないよ。これ……」


「人の心に訴え掛ける感じの絵があちこちに掛けられとるもんなー」


「それどころか。変革期だって言ってる人多かったよね」


「確かに三十年前以上に帝国が変わるって考えてる連中ばっかやったな」


「街の噂じゃ軍に例のお姫様が口出しするようになったって聞いたし」


「その姫さん。平和主義なんかね」


「平和主義者は隣国を事実上平定して、大国を造ったり、南部皇国の艦隊を全滅させたりしないと思うな……」


「つーか、何処から何処までが本当なんやろな……見えざる竜騎兵団ドラクーン、南部艦隊を全滅させた北部大艦隊、巨大バルバロスを内側から食い殺す猛毒のお姫様。北部の最精鋭の軍団を身一つで説得したとか」


 2人の旅人が話している内に料理が運ばれて来た。


「……んまい。ほんと、料理だけはまともに美味いんよなぁ帝国って」


『そりゃそうよ。何てったって今や帝国は大改革時代だぜ?』


「あん?」


「?」


 2人が背後からの声に振り返るとそこには傭兵っぽい無精髭のおっさんが旅装束姿でモシャモシャと二人前くらいはありそうな2人と同じ料理を食っていた。


「何やおっさん。大改革時代って」


 食器で肉を切り分け口に運びながら男が肩を竦める。


「さては御登りさんだな? 今、帝都は嵐のど真ん中なんだ」


「嵐って何や?」


「小竜姫殿下の事さ。あの方が何から何までテコ入れしたせいで市中じゃ混乱してるところも多いが、その内にみんな治まるだろうよ」


「テコ入れねぇ。そんな大そうな事しとるんか? この国の姫さんて」


「そりゃそうよ。あむ」


 男が肉を噛み千切り、ゴクリしてから水を一杯。


「とにかく清潔好きでな。飲食店どころか。あらゆる業種の連中に新しい規律と規則を発布して、規制を設けたおかげで街の連中愚痴る事も多いが、随分と綺麗な身形になったんだ。軍人も上から下までぜーんぶ含めてな」


「へ~~」


「しかも、物流が変わったんだよ。とにかく安く早い。そこらの賃金も上がったし、より良いものを造ろうって連中が今じゃ我が物顔で新商品を出して、姫殿下の経営してるところの品をお手本にして色々やってるんだ」


「おっさん。詳しいなぁ。傭兵やないんか?」


「はは、こう見えてもおじさん傭兵じゃなくて正規兵なのさ」


「それにしてはゴッツイ年季の入ったもん着てるやん」


「お忍び用でね。これでも貴族の末席なんだ。ここの料理は好きだが、食いに来る恰好が軍服じゃ無駄に気を遣わせるからな」


「面白いおっさんやなぁ。で、そんなに小竜姫殿下ってのは噂で言われるようにアレなんか?」


「この間から、帝国の経済活動がゴソッと変わったりしたからな」


「何や? 新しい商売でも始めたんか?」


「ああ、新しい商売を初めた、なんてもんじゃない。あらゆる業種へのテコ入れに始まり、改善した業種の人材の育成に力を入れてて、経済活動の内容そのものが激変したのさ。その煽りで軍備と戦略も大幅に変わる事になったんだ」


「へぇ~~そら大そうな話やなぁ」


「今まで軍事に割いて来た金を6割以上国土開発に当てる事が軍の上層部でも決定されたし、解体された部隊が再編されて商会の護衛任務や周辺国への傭兵、商隊や建築、飲食、色んな商売に就されてな」


「どういうこっちゃ? んな無茶苦茶やないか?」


「ああ、軍が金食い虫だから、自分達で自給自足しろって言われたんだよ」


「此処の軍も随分と苦労してんなぁ……」


「いやいや、そもそも徴兵制度止めるって話だから。これからは少数精鋭でやるらしい」


 その言葉に彼女達も驚く。


 大陸のスタンダードは徴兵制であり、志願制でどうにかしているところは殆ど無い。


「……何も手に職が無い連中はどうすんの?」


「食い扶持が稼げるような能が無い連中は軍の建築部門で働いてるよ。各地の軍民兼用の橋とか道とか砦とか作るのさ。給料も普通だから、食いっ逸れる事もない」


「金取ったりするんか?」


「はは、それが全部民間事業者からの借金なんだよね。軍としては負債を抱えたくは無かったんだが、現有資産として不動産、造ってる諸々の使用を優先的に行える権利とやらを年単位で切り売り、借金と相殺して30年償還とか。そんな感じ……」


「はぁ~~~軍がいきなりそんな面倒そうな商売して大丈夫なんか?」


「いやぁ、全然大丈夫じゃないね。はは♪」


「何でおっさんが虚ろな目になるねん」


 男がグッタリする。


「いやぁ、おじさんこう見えても管理職でさぁ。毎日毎日激増する書類仕事がスゴイ事になってるんだよねぇ。これなら最前線で戦ってた方がマシかもしれない」


「ぁ~~おっさんも苦労人なんやな」


「でも、帝国は変わったよ。これから軍が血で血を洗って取って来た帝国領土も分割しちゃうらしいし、いやぁ……上の人が考えてる事なんて解らんもんだよ」


「そりゃスゴイ話やなぁ。大陸でもほぼ現有領土最大とか聞いたで? 返してしまうんか?」


「詳しい事は知らないけど、色々な制約を付けてお返しするそうだよ。政治って怖いよねぇ……陸軍内じゃ不満を唱えていいはずの人達がみーんな影響力を失って、ついでに奴隷みたいに小竜姫殿下の賛同者になるか。あるいは最前線で死んでて残ってない有様さ」


「うわぁ……」


「ま、さすがにこういう生々しい話は貴族やその筋の話に詳しい吟遊詩人共もしないけれども。実質、この数か月で軍の掌握を進められちゃってたんだよねぇ。知らない内に……」


「スゴイなぁ。その小竜姫殿下って……」


「説得力と実力が山盛りになって常識を殴り付けて来るんだよね。何て言うのか。大陸最大の魔境だった北部諸国を靴ペロしてくれる子犬ちゃんにしてみたり、帝国陸軍がそれなりに動員されでもしなきゃ戦えもしないだろうバルバロスをやっつけてみたり、敵国を逸早く発見して相手が先制攻撃を仕掛けて来たと思ったら実際にはもう迎撃準備が整えられてたり……」


 男が肩を竦める。


「ついでに削減した軍事力を労働力にした挙句。民間人になった元軍人を組織化して軍民一体になって強固な後攻支援態勢を整える有様だ」


「もーそのお姫様一人で全部解決するんちゃうん?」


「あはははは、ホントそうだよね。いやぁ、おじさんも仕事の鬼ってくらいに仕事は優秀なつもりなんだけど、敵わないよ。あのいつ寝てるのか知れないお姫様にはさ」


「有能が服を着て歩いてる、みたいな人もおるんやなぁ」


「噂じゃ、日に30通近い手紙を書いて、40近い法令を書いて、20人近い要人に指示を出しつつ、500近い報告書を読むんだとか」


「それ人間か?」


 男が肩を竦める。


「いや、我らの小竜姫殿下ですとも。ごっそさん。お代置いとくよー」


 食べ終わった男がグッと伸びをしたかと思うとテーブルに銅貨を置いて去っていく。


「おねーちゃん。あれ、帝国の諜報員じゃない?」


「いやぁ? でも、周辺にそれらしい連中おらんで。そうだとしても単独やろ」


「単独でとなると、かなりの大物なのかな?」


「確かにあの感じ……何か胡散臭いを通り越して親しみ易いわな。あのくらいになるともう大物って感じや確かに……」


 妹の言葉に姉が応じる。


「外から軍や諜報員が近付いて来る気配も無いし、情報だけ渡して去っていったね。あの男の人……」


「示威行為なのか。あるいは単純に自慢したかっただけなのか。いや、実際本当に単なる軍のお忍びな管理職さんだったんかもね」


「そんな人があんな明け透けに帝国の内情を喋っちゃうの?」


「さてなぁ。そういう軍人もおるんかもしれん。取り敢えず、有益な情報は頂いたが、まだまだ小竜姫殿下とやらが返って来る様子も無いとなれば、帝都から一旦出て立ち寄りそうな場所に向かうのが良いんかね?」


「うん。それはそうかも……でも、例の帝国内の協力者にまだ会えてない。本当にガードが固くて殆ど正体も分からないし、足取りが途中で追えなくなってる……もう少し探した方がいいんじゃない?」


「まぁ……実際、このままお姫さんを追い掛けても無駄足になる可能性は高いんよなぁ。あの来た時に見た巨大飛行船。アレに乗ってたっぽいって事はウチらもその類が無いと追い付けんやろうし」


 姉妹が煮詰まっている頃。


 街道沿いの乗合馬車の停留所前で良い気分で待っていた男が背後から肩をトントンされて振り返ると数名の装いの良さそうな男達がいた。


「あ、ええと、これは……」


……陸軍省から閣下に下された決裁書類だけでまだ3020案件残っております」


「あのさぁ!? こう見えても書類仕事は出来るんだよ!? でも、明らかに人間が処理する件数じゃないって!? 小竜姫殿下じゃあるまいし、もう少し普通の数にしてくれないかな!?」


 男が愚痴っぽく小声で思わず喚く。


 それに男達は不憫そうな顔になりつつも、肩を竦めた。


「1日300枚程、決済書類に押印するだけです。降ろされて来た時点で精査は終了しておりますので単純に押すだけですよ。3秒で1枚ずつ……我々もお手伝いしますので」


とあろうものが情けない。労務管理はお手の物でしょうに」


「そもそもですが、若い頃の恰好までして口調もそのように……もうそろそろ良いお年である事を御自覚下さい」


「それ程に疲れているというのならば……近頃は首都勤めという事もあり、お見合いの話も来ているとの事ですし、もう観念して身を固められては如何です?」


 男達の正論攻撃にもはや不動将ビスクードはグッテリした様子であった。


「解った。解った。大いに解った。諸君……せめて、一日に会う人数だけは調整してくれ。連続で3回も会食したらロクに食べたものの味も分からない」


「解りました。では、昼食と夕食時のみという事で。残念ですが、未だに閣下のお話を聞きたいという軍人と貴族の方々は多いのですから、どうかご辛抱の程を……」


「はぁぁぁ、恨みますよ。姫殿下……どうして空の旅にこの自分を招集されなかったのか……」


 悲哀が宿る男の瞳が遥か地の果てにいるだろう帝国最初の空飛ぶ船に乗る相手に向けられる。


 だが、その青い空には雲一つ見えず。


「船が空を飛ぶ時代、ですか。馬で大本営を移動させるのに驚いていた時の事を思い出します」


「まぁ、人智を越えていると噂の小竜姫殿下の配下の方々の代物です。確かに普通ならば聞いているだけでは信じられない話だったが、小竜姫殿下と聞けば、さもありなんとも思える」


「そもそも南部で張り付いていた時にアレを見ている手前、我らの心には諦観がありました」


「ですが、今は、今ならば、何とかなるのかもしれないとも思える」


 男達が一緒に乗合馬車に乗り込むと普段ならば、据えた臭いのするはずの室内には微かに芳香が漂っていた。


「こうして乗合馬車が臭いどころか。ウチの寝床より上等な匂いをさせていれば、疑う理由もありますまいて」


「我らはきっと時代の転換点にいるのでしょうな」


「帝国がこの地から消えるかどうかはあの恐ろしくも気高き小竜姫殿下の手の上でしょう」


『おう。あんたらも姫殿下の事が好きなんか? そうだそうだ。ほいこれ。吟遊詩人共が今じゃ宣伝に紙を配ってるってんで貰って来たんだ。もし良ければ、独演会に行ってみるといいよ』


 御者の男が男達の言葉の姫殿下というフレーズに気付いて後ろの木戸を開けて、チラシを一枚差し出す。


『いやぁ、新作が愉しみでなぁ。何でも今度は奇跡の力で人々の傷と病を癒す聖女様になられたらしい。でも、生憎と文字は読めんくてなぁ。ああ、すんげぇ綺麗な服で人々に微笑んでるのを想像したら、ふひひ……』


 木戸が閉められる。


 男達は初めて聞いた新たな小竜姫伝説の内容を見てみる。


【大いなる天空の翼を得た小竜姫殿下は更なる高みへ!!】


【黒き鋼の戦船を先導し、英雄諸氏と共に大空を征さん!!】


【遂には大海を支配する邪悪にして巨大なるバルバロスを駆逐せん!!】


【癒しの奇跡を携えて民草を救わんと今、聖女が降臨する!!!】


【次回『帝国の聖女。此処に降臨す』に好ご期待!!!!】


 カラフルに刷られた紙には船と翼と少女の姿の陰影と共にそんな謳い文句が書かれていた。


「「「「………(・ω・)」」」」


 彼らは誰も何も言わなかった。


 世の中、言わなくても解る事は解るものだ。


 空を飛ぶのだから、きっと他のも大半が事実なのだろう。


 軍への報告はフィティシラ・アルローゼンの保有する組織とは伝達経路が違う。


 なので情報伝達に若干のタイムラグがあったり、そもそも別に彼らに回さなくても良い情報は廻って来ないという事も在り得る。


 情報部門が敢て情報を止めている場合もあるので初めて聞くという事もまったく有り得る。


「今度はどれだけ大きな得物を仕留めたのでしょうな。姫殿下は……」


「きっと街を呑み込む怪物を三つ四つとまとめて屠ったに違いない。HAHAHA……無いよな?」


「癒しの奇跡? 病やケガすら治せるようになったのだろうか……死んでさえいなければ治せるとなれば、不死身の軍団まで出来そうだな。はは……在り得るか?」


「諸君、野暮は言うな。取り敢えず、後で確認だけは取っておけ。それから、その情報を元に陳情書でも書け。傷病に伏せる同胞への介抱の嘆願とかな」


 不動将はこうしてまた伝説が増えた事を確認しながら、新たな時代を空に見るのだった。

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