第47話「帝都の落日Ⅲ」


 帝都襲撃事件から数日。


 ようやく帝都民も日常を取り戻しつつある現状。


 研究所も無事に再開し、後片付けも終わった。


 学院も一週間せずに再開が決定し、明日には登校という話になっている。


 だが、それよりも現在の興味は一つの論文に向いていた。


 この数日でようやく混乱から復旧した各行政が動き出したのだが、それで出て来た寄稿済みの論文で複数種類の金属の単離を終えたとの話が耳に入って来た。


 研究所の所員の多くは在野の金の無い平民出の研究者や大学に属する軍の高等諮問機関、要は軍研究機関から引き抜いているわけだが、実際に研究者として多いのは貴族出の金を持っている連中だ。


 自分の保有する鉱山などの鉱物を研究するのは帝国の資金源である鉱山開発を行える大貴族や優秀な貴族の特権だろう。


 そして、いそいそと現在、帝都郊外に住まう偏屈な貴族研究者の家に出向いているのである。


「バッフェンガム卿は御在宅でしょうか?」


 錆びた獅子の口のノッカーを鳴らして数秒。


 中規模の邸宅だが、庭は手入れされていない様子の館内部から微妙に垢染みた貴族風の衣装に身を包んだ白衣の男が出て来た。


 ギョロリとした瞳の偏屈そうな相貌だが、その目には狂気というよりは理知の瞳が見える。


 まるで山羊を人にしたような細面。


 だが、それよりも目を引くのは顔の半分が焼け爛れて、白内障を患った左目だろう。


「……おお、これは愛らしいお嬢さんだ。どうしたのかね? 此処は危険だとお母さんに教わらなかったかな?」


「御冗談がお上手ですね。バッフェンガム卿……前々からお手紙は出していたはずですし、貴方の論文を見る限り、貴方の知的水準は帝都でも恐らく最上位1割の層に入るはずなのですが……」


「失礼したようだ。噂の小竜姫が直接会いに来るとは思わなくてね。この屋敷は所謂、偏屈な人間が使い易いように作り直している。普通の貴人が来るところではないというのが、社交界では常識なのだよ」


 男が僅かにグッグッと変調した声帯で自嘲気味に笑う。


「大丈夫ですよ。危ないとなれば、これがありますから」


 特性のガスマスクを見せると男は興味深そうにしながらも頷いた。


 背後にはイメリがいる。


 本日、ノイテもデュガもゾムニスも所用があったので家にアテオラがいるならばと借りてきたのだ。


「活性炭に幾つかの加工を加えたものかね?」


「ええ」


 内部は荒れ果ててこそいないが、微妙に煤けたような感があった。


 絨毯などは敷かれておらず。


 木製の床は微妙に偏食した部分が多い。


 ただ、重厚な作りなのは間違いなく。


 数人の20代から50代の使用人達が出迎えてくれた。


「生憎と応接室は全て研究用の部屋でね。私室で悪いが案内しよう」


 言われるがままに二階の私室に入ると僅かに驚かざるを得ない。


 硝子張りの木製の棚が壁一面に存在し、その内部には大量の希少鉱物の原石らしいものが存在していた。


「これはまた……素晴らしいご趣味のようで」


「ふ、石の価値を理解しない貴族が多い中。その言葉を聞いたのは人生で3回目だ」


「銅や鉄、金、銀、錫くらいしか有用な金属が無いと思っている方は多いですから、仕方ないかと」


「はは、違いない」


 男が天蓋付きの寝台横にある少し大きめのソファーに腰掛ける。


 テーブルは低く。


 小さな焼き菓子の入った硝子製の壺が置かれていた。


「さて、それで論文の中のどれに興味があるのか聞こうか」


「全部です。まだ命名されていないとか」


「ああ、名前に付いては興味が無い。番号で呼んでいるだけだ」


「名前はこちらで考えて来ました。単離後にインゴットにして使用する事や食品の保存料や特殊な薬剤の保管や調合時の触媒、諸々として全ての研究開発成果に対して使用する許可を頂きたく参上しました」


「強欲だな。対価は?」


「わたくしに用意出来るものならば、何でも……」


「何でも、と来たか。くく、ならば……君の研究所に運び込まれたらしいバルバロスの遺骸を研究に必要になったら、必要な分だけ都合してくれと言ったら?」


「最優先で回す事をお約束します」


「はは、剛毅な話だ。あの価値に気付いていないわけでは無かろうに……」


「ええ、ですから、その相貌になるまでに重ねられた苦労を苦とも思わず自らの知的欲求に従い命と寿命を摺り減らしても探求出来る人間にソレを預けるのは妥当な判断だと思いますよ……」


「っ、ふ、ふはははは!! 普通、この顔を見て、畏れぬ者の方が少ないと言うのに面白い事を言う!!」


「今、帝国が鉄の利用法を獲得し、様々な鉱石から鉱物を抽出し、利用の幅を広げているのは貴方の研究成果に寄るところが大きい。エルゼギア時代から色々と成果を出されてもいたようですし、本来は研究所に欲しいくらいなのですが」


「生憎と一人が好きなんだ」


「そのようで……本来、大貴族に列せられ、皇帝陛下からも叙勲されていたはずなのに断って、それより好き勝手に研究出来る利権と鉱山をくれと言った貴方は正しく研究者ですよ」


 ロート・バッフェンガム。


 変わり者貴族。


 金属焼けのバッフェンガム。


 怪物卿。


 それが男の異名だ。


「鉱物毒に塗れた男の下に麗しい姫が訊ねて来る。まったく、此処は御伽噺の城ではないのだがな」


「御伽噺のお姫様ではなく。綺麗なものを貯め込む竜の姫が来たと解釈すれば、よろしいのでは?」


 イメリに視線を向ける。


 持って来た鞄から次々に小瓶が取り出されて、テーブルの上に並んでいく。


 その内部には粒状の様々な金属が入れられている。


「―――ッ、素晴らしい。まだ単離に取り組めていない金属ばかりか。これ程の成果……これを在野の凡人共にやらせていたわけだな」


「ええ、凡庸であるからこそ、試行回数を重ね、努力と創意工夫で地道な作業を常に行い続ければ、こういう事も可能なのです」


「それで……単離法の詳しいところを寄越せと言って来たという事はソレで造るものは決まっているようだが、何がしたい?」


「どうやら秘密には出来そうにもありませんね」


「金属類の事で私以上に詳しい者は帝国に存在しない。例外は軍上層部が秘匿しているバルバロス関連の鉱物のみだ」


「具体的には3番、4番、8番が必要なのです」


「3番は固いが靭性を出すには苦労する。合金化まではまだ手を付けていない」


「アレはチタンと命名します。高価でしょうが、単離法が開発されている点で今後の様々な機材や一部の兵装に使用したいのです。軽いですしね」


「鉄と違って軽過ぎて刀剣類には向かんぞ?」


「精々ナイフや野営用装備の一部。鉄では重過ぎる金属部位を軽い金属と合金化して重量を減らします」


「そういう使い方か。それならば、十分に利用出来るだろう」


 老人が頷く。


「4番は錆び易い。放って置くとすぐに酸化して用途は未だ無い状態だが」


「アレはネオジムと命名します。アレを他の金属に混ぜて磁石を作りたいのです」


「ほう? 用途を見出して来た、と」


「ええ、今現在開発中である幾つかの工業製品に必要な代物です。その為の設備の開発も数か月を待たずに終わります。その後、磁石を用いた資源設備の設置を行いたいのです」


「面白い試みだ。8番は危険極まりない代物だが、君はアレをどう使うのかね?」


「フッ素と名付けて見ようかと。有毒なのは理解出来ます。瓦斯を吸えば、猛毒。化合物に触れても猛毒。実験器具を改良し続けて真冬に塩や他の金属で温度を下げ、ようやくまともに単離したようですが、その実験器具を更にこちらと共に改良しませんか? アレを量産出来れば、人類の数は100年後には100倍くらいになってますよ。きっと」


「ははは、猛毒で百倍に増える人類を化け物と呼ぶべきか。それとも猛毒を人の役に立てて人類を増やしてやろうという君を化け物と呼ぶべきか。迷うな」


「勿論、猛毒なのは承知していますが、それも使い方と使用方法次第でしょう。要は毒と薬です」


「表裏だと?」


「ええ、それらを越えて、その制御を可能とした時、ようやく人は初めて自分達の生きている世界に対する理解をほんの少し進めるのではないでしょうか」


 バッフェンガムが僅かに目を見開き。


 そして、僅かに懐かしそうな瞳になった。


 誰を思い出しているのか。


 あるいは何を瞳に見たのか。


「……ふ、この死に掛けの老人によもや……まだ、仕事が残っているとは因果な話だ。だが、奴らの末が君だと言うのならば、君に託してみるのも悪くはない」


「奴ら?」


「皇帝陛下と呼ばれるようになったクソガキに大公と呼ばれているクソバカと昔はよく蔓んでいた……」


「あの2人をそう言ってのける人を初めてみました」


「そして、人生で二回目の言葉は三回となった。いよいよ、天寿を全うする日も近いな。だが、その前にやらねばならない事もある、か」


「どういう事でしょうか?」


「君の産まれに関する秘密にはある程度、理解があるつもりだ」


「!!」


「どうやら調べてはいるようだ。あの2人はきっと君に何も教えないだろう。私も詳しい事を知っているわけじゃない。だが、我が研究者としての人生の始りはあの2人と出会った起源にまつわる事件だった」


「起源?」


「あの2人はブラスタの血脈。そして、エルゼギアの始り。この世界の始りに関連した事だと言っていたが、私はあの2人にも隠している秘密があってね」


「秘密?」


「ああ、今は議事堂になっている場所の地下には昔、何かが眠っていた」


「………」


「その何かの正体は私には分からない。当時、そこまで深く関わっていたわけではないが、まだエルゼギアの時代だった時期、我々三人は共に地下へと潜り。奴らは起源となる何かと出会ったと言った。そして、私はその地下でその言葉に関連しているのだろうモノを見付けた」


 老人が硝子で覆われた壁の標本棚の一部を外して、内部の標本を退けて、奥の壁を外し、紐らしきものを引く。


 すると、ガコンと音がして、カラカラと歯車の回る音と共に棚の一部が奥に押し込まれて、内部から下に続く梯子が出て来た。


「少し待っていたまえ」


 そうして、地下に降りて行った男がゆっくりと小さな麻袋を抱えて出て来る。


 それをゆっくりとテーブルの上に置いて、抜き出す。


「……黒い紐?」


「私はこれを不破の紐と呼んでいる」


「ふわのヒモ?」


「まぁ、アレだな。破壊出来ないのだよ。君の祖父とあの皇帝に見付かったら、殺されているかもしれない機密の一部だ。恐らく」


「―――そんなものが?」


「核心は無いが……当時、地下で私はこの紐が繋がる先を見たはずなのだが、記憶に無くてね。恐らくは記憶が衝撃で消し飛んだか。あるいは消されたか。とにかく、コレを握って私は事件当日に呆然と議会の傍にいた」


「これが……」


「触って見たまえ」


 言われるがままに触ると違和感に襲われる。


「これ、は……」


「紐の片方の端が認識出来ないだろう? 掴めるかな?」


「ッ―――紐の端は認識……」


 一瞬で何かが脳裏を通り過ぎた気がした。


 それは宇宙のようでもあり、虚空のようでもあり、寒々しい世界のようでもあり、何か意味がありそうな情報の塊にも思えたが、的確な表現をするとするなら、紐は何処かに繋がっている、その先に何かあるというイメージだった。


 思わず口元を抑える。


「大丈夫かね?」


「………はい。確かに紐の先は見えないというよりは認識出来ていない。まるで、その先から世界が無くなってしまったような……」


 紐の片方は本当に不可思議な何かだ。


 だが、もう片方には金属らしい緋色の菱形の突起が付けられている。


「この突起は……」


「未だに合金なのか元素なのか分かっていない。だが、どんな酸性の液体にも溶けないし、化合物にもならない。紐は恐らくどんな重量でも切れない」


「本当に破壊出来ない?」


「ああ、この数十年試した。物理的に安定なようだが、紐の黒い部分が外側なのか内側も同じ物質なのかすら分からない。柔らかいと言っても黒い外側から内部に僅かでも圧し込む事すら出来ない」


「完全に常軌を逸した何かという事ですか?」


「今までの経験から推測は出来る。我々が想像も付かないような恐ろしい程の、この世界よりも大きな質量が凝集したような。それを黒く封じ込めているような未知の何かではないかと」


「何故、そこまで質量があると?」


「測定不能なのだよ。まるで地表に墜ちる力が働いていないような。あるいはその空間に制止しているような。重量は感じられるのに重さが測れない。地表に落としてみた事もあるが、酷い目にあった」


「酷い目?」


「落ちた地表が撓むのだよ」


「撓む?」


「人間の手に持てるのに地表に墜ちると何処までも奈落のように地面が撓む。他の物質に包まれている状態や人工物の上ではそのような事にはならないが、その撓み方は深くなればなるほどに穴が大きく為る」


「……どうやって回収を?」


「飛び込んで掴んで、身体に包んだら、何か世界が歪んだような感覚に襲われながら……気付けば、地面は元通りだった」


 まるで御伽噺。


 だが、ヴァッフェンガムの瞳には狂気も嘘も無い。


「重要なお話をありがとうございました。ちなみにですが、これを全て今まで御一人で抱えていたのですか?」


「人生で話したのは君で1人目だ」


「……どうして、そこまで?」


 そんな大そうな秘密を抱えて死ぬ事くらい……目の前の男には出来るだろうことは短いながらも言葉を交わせば分かっていた。


「言っただろう? 歳だと……自身の生死に興味は無いが、自分の成果や秘密が他人に迷惑を掛けるというのも聊か気になる話だ」


「つまり、押し付けられる内に押し付けておく事にした、と?」


「ははは、そうだとも。肩の荷が下りたよ……」


「まだ、どうするか言っていないのですが……」


「要らないかね?」


「……要ります」


 男が初めて常人らしく相手に一杯食わせてやったという喜びにニヤリとする。


 帝国における唯一にして最大のマッドサイエンティスト枠な男はこうして協力者となったが、イメリは何か自分が聞かなくて良かった重要な話を聞いてしまったと言わんばかりに帰りの馬車では終始ジト目なのだった。


 *


「………」


 不思議でヤバげな紐をゲットした当日。


 紐の長さを測定し、ギリギリ認識範囲が1m30cmだと理解した。


 ついでに認識出来ない紐の片方の性質が触れていてもその先に認識が無い。


 存在しないというところに帰結する事も分かった。


 無いのが解る。


 だが、それは紐が無い、のではなく。


 まるでその空間が存在していないかのような不知覚領域になっているのだ。


 紐の端の領域は恐らく3cmの球状であり、肌に触れさせていても、その周囲の感触は存在しない。


 このまま何処かに保管するのもヤバそうなので現在試作中のバルバロス毛皮製な戦闘用の外套……北部での海戦や南部への遠征を行う際の装備に組み込めるように採寸して変化する片腕と衣服を繋ぐ飾り紐。


 もしもの時の為の命綱的に使えるよう研究所の所員達に制作依頼を出しておいた。


 それが出来るまでは片腕に巻き付けて結んでおくことになったが、誰も気付かない程度の話である。


「ふぁ……んぅ」


 腕に巻き付けて寝台で眠ってみたが、起きても以上無し。


 相変わらず紐の端は認識出来ない。


 ギリギリ認識出来る範囲から先の領域がポッカリと意識の範囲外になっているような感じだろうか。


 最初から視界はこういうものであったような錯覚と現実と認識の齟齬に気持ち悪くならないよう凝視はせず。


 ノソノソ起き出して、今日の天気を確認する。


「ん?」


 快晴。


 青空。


 蒼穹。


 初秋に入りつつあるにしては未だ暑さの片鱗を残す空に違和感を感じた。


 まぁ、今は構うところでもないと着替えて屋敷の私室から出ると。


 ようやく異常に気付く。


 ギョッとする程の違和感。


 通路はこんなにも恐ろしく思えただろうか。


 だが、その理由は空気にある。


 気配と言い換えても良い。


 何かが通路の先からヒタヒタと歩いて来ていた。


 誰もいない世界。


 そのヒタヒタを見逃す程、我が家のセキュリティーは甘くない。


 皆殺しにされたのならば、血が臭っているはずだ。


 だが、それもない。


 つまり。


(此処は少なくともオレの知ってる帝都の現実じゃない?)


 冷静に冷静に冷徹に冷徹に頭を冷やして己の腕を見て……最大のポカに気付く。


 もはや自分の一部のようにも思えていた文様が無い。


 咄嗟に足音を吸収する絨毯を走り、外に向かった。


 館内部でかくれんぼなどホラー的にはアウトである。


 庭から外に向かう通路へと走り、館の正門へと向かうと。


 背筋が冷えた。


 ボキンという音と共に自分の骨でも折れたかと思えば、生きながら食われる覚悟をしていた自分が馬鹿らしいくらいに化け物らしいあの時に見た腕が……千切れて自分の横にボトリと落ちる。


 弾けた勢いで此処まで飛んで来たのだろう。


「………」


 だが、問題はその腕の主がにズルズルと引き摺られていく事だ。


 その上、未だビクビクしているあの時に見た腕は生きている。


 思わず後ろに下がって、いつでも生きた腕から逃れられるように距離を取る。


 ついでに腕の主を引き摺って行った何かも警戒する。


 このまま館の外に出られるかとソロリと開かれた正門から後ろに下がっていくと。


 腕がグイッと引っ張られた。


 ソレは自分が腕に巻き付けていた紐だ。


 それが何故か知覚不能領域の方から引っ張られているらしく。


 まるで吊り上げられた魚のように体が上空へと引き上げられていく。


 何をされているのかは分からないが、恐らく悪い状況に成る事は無い。


 という確信が何処かにあった。


 大きく安堵の息を吐いた途端。


「が?!!」


 足に激痛が奔る。


 もう20mは上空へと引き上げられているのにあの腕が自分の片足を掴んでいた。


 ギリギリと爪が食い込み。


 引き摺り落とそうと胴体も無いのに引っ張って来る。


 そして―――足を縦に引き裂きながら、腕は急速に上昇する此方に付いて来れず。


 館の方角へと落ちて行った。


 意識が朦朧としていく。


 流した血の量は分からないが、悪夢から解放されても肉体に影響が出ていないと良いが、と溜息一つ。


 まだ生き永らえたならば、やる事は山積みなのだ。


 理不尽な死が降り掛かる事など前提ではあるものの。


 それでも痛いのは痛いし、泣き叫ばないだけ男の子だと自分で思うくらいにはちょっとした尊厳くらいは残っていた。


「………………?」


 目が覚める。


 今日も良い青空がカーテンの間から見えている。


 庭に植えられている虫除けの香草の薫りが僅かに開けられた硝子窓の隙間から漂ってくる。


「おーい。朝だぞ~~~」


 遠慮なく入り込んで来るデュガが欠伸をしながら、カーテンを開けた。


「よく眠れたか~~?」


「生憎と悪夢で死にそうなくらい脚を持ってかれた後だ」


「お~~~? でも、健全だと思うぞ? そういう夢が見られている内はまだよいって部隊の連中が言ってたしな♪」


「そんなもんか……」


「そんなもんそんなもん」


 上に掛けていた絹製のブランケットを剥ぐ。


 足はちゃんと付いていた。


 だが、無事では無かったらしい。


「ん? 足……腕と同じになってる?」


「どうやら、悪夢でもこういう事になるらしい。悪いが、ちょっと全身確認してくれ。後、研究所の女医へ先にノイテを送って準備させておいてくれ」


「お、おぅ……」


 呆気に取られた中で全身の衣服を脱いで脚を確認する。


(悪夢で切り裂かれたところと同じか……)


 その傷口に沿うようにして腕と同じ色合いの文様が太ももから足先まで化粧で誤魔化すには苦しい感じに飾っていた。


 ついでに指先の爪も同じ色合いに変化している。


「どうだ? 後ろにも広がってるか?」


「ええと、腰くらいまで来てるなー」


「はぁ、今度は両脚か」


 肩を落としつつ、服を着替えて、これからの生活をどうするか悩む。


「化粧っぽいし、誤魔化せると思うぞ!!」


「はいはい……」


「あ、今スゴイ馬鹿にされた気がするぞ!?」


「バカにしてない。ちょっと、疲れただけだ」


 そう言いつつ、今後の予定を内心で組み替える事にしたのだった。


 *


 一日精密検査を受けた翌日。


『英雄達の帰還だぁ!!』


『すっげー!!』


『ああ、ようやくあの人が帰って来るのね……』


 道端には人々が誰が管制しているわけでもないのに道を開けて車列を通している。


 帝都には次々に早馬や馬車で帰参した将軍や将校達が到着しつつあった。


 帝国議会は正式に現行の全ての領土拡大の為の戦争を終了する旨をすっぱりと出して、敵軍と呼べる相手が存在する地域以外からは制圧していた戦力の多くを引き上げ、各地にはもしも反攻によって押されても撤退可能な退路を確保する守備隊だけを残していた。


『馬車も傷だらけだなぁ』


『歴戦の勇士、か……30年前も同じ光景を見たよ』


『じいさん世代は懐かしいみたいだな……』


 何処の最前線も殆ど敵らしい敵は全て殲滅していたせいで撤退がスムーズに行われたというのも相手からしたら堪ったものではないだろう。


 だが、現地に残した守備隊の1割にすら敵の数は満たないところが殆どであり、現有領土の支配領域外に追いやられている敵勢力は1万人単位も存在しない小グループばかりだとの事。


 それすらも帝国の現地軍による駆り出しによって次々に降伏するか死ぬか。


 降伏後は奴隷として国外追放されている為、上手く軍の大本営が計画していた戦後プランは今のところ機能している。


『英雄達の帰還ですよ。貴女も将来はああいう軍人さんに嫁ぐのよ』


『はい。お母様』


『それにしても劣等種の数も多いなぁ……』


 カポカポと馬車の列が通る。


 だが、凱旋パレードは行われない。


 それもそうだろう。


 これから帝都で始まるのは最前線付近に張り付いていた各地の大本営。


 司令部の合同会議であり、軍戦略の主要目標の大まかな達成と現行での見直し策を固め、軍の再編成を行うという帝国議会肝入りのなのだ。


 帝国陸軍としては帝国議会の○○政策に反対である、意見する、修正を求めたい。


 みたいな議論をしたいわけである。


 そういうのがあーだこーだとガヤガヤやられるわけで戦後の頭の痛い問題だろう事は想像に難くない。


『議会はどうやら領土の拡大は終えると専らの噂だ』


『小竜姫殿下が帝国議会で何でも演説なさるそうだぞ』


『何処から聞いた話だ? ソレ』


 無論、帝国議会=サンはこちらの息が掛かっている。


 ついでに帝国陸軍も議会の要請は無視出来ないし、祖父の手前、強行な攻勢計画は打ち出し難い。


 主部隊の完全な引き上げは更に遅れるらしいが、それよりも早く北部に旅立つのは確定しているので陸軍に干渉するのはこの時期しかないだろう。


「ふぅ……(T_T)」


 帝都の大通り。


 ディアボロの何号店か忘れた場所のテラス席で紅茶を啜りつつ、結構弓矢や剣や槍の傷が多い馬車の群れを見やる。


 後方とはいえ。


 それでも足りない戦力を司令部から捻出していたらしく。


 帰宅する軍人達の多くは大ケガこそしていないようだったが、負傷した者や既に長く戦地にいて癒えた古傷を抱える者が多数。


 それでも圧倒的な鉄製武器の差と戦略、戦術、戦争における技術の差は如何ともしがたい様子で現状でもキルレートは150対1くらいらしい。


 それも犯罪者の類を戦争で肉壁にしたおかげで未だに部隊の充足率は9割8分を超えているという。


『貴族の方が噂なさってたんだよ』


『姫殿下は今や北部同盟の盟主だし、西部でも何か大事業をなさっているらしい』


『北部は今好景気だとよ。兵器類は売れなくなったらしいが、他の姫殿下が売り出したもんが大量に出回ってるってんで商人連中が忙しそうだったぜ』


『そういや、近頃やたら便利な道具が増えたよなぁ。ほら、エンジェラって知ってるか? あの一番治安悪いとこでやってる店。あれも実は姫殿下の―――』


 徴兵された民の殆どは現地から各領地に馬車で揺られて帰る途中。


 帝都周辺から出された常備軍である半数以上の兵は軍の体裁を取りながらも順次一時帰宅が許され、帝都のあちこちでは感動の再会が行われているとか。


 無論、ついでのように現場で戦利品にした奴隷達がセット販売染みて付いて来る。


 その多くは絶望し切った顔をしているが、ケガは無く。


 最低限以上の衛生管理はされているようで致命的な精神の摩耗を除けば、肉体には疲労以外のものは見て取れない。


『まぁ、劣等種があんなに……まだ帝都に慣れていないでしょうから、怖いわねぇ』


『しばらくは外に出るのは控えなさいね? 半年くらいしたら、劣等種の奴隷もちゃんと帝都に慣れるでしょうから』


『はーい。お母様』


 商家の子女達がヒソヒソと奴隷達の列を見て、少し気圧された様子になっていた。


 帝国において如何に奴隷が他国よりはマシな部類で扱われようと奴隷による犯罪が無いわけではない。


 それを理解しているからこそ、奴隷に出来るだけ反抗されないよう差別はしても、あまり容赦のない仕返しや仕打ちはしないのが暗黙の了解だ。


 だから、奴隷に不満をぶつけられたり、罵られたりする事は帝都でも割りと多いらしい。


 そういう現場はオークショニアから聞いているし、現場も何回か街中で見ている。


 そういった奴隷達も自分達が何とか食べられるし、戦地よりはまともな暮らしが出来る事に気付くと大人しくなっていくというのがお決まりだ。


『―――クソ、帝国の畜生共め……』


『―――しっ、聞こえるよ』


 何か近頃は無駄に体の調子が良い自分には奴隷達の愚痴とか嘆きが聞こえていたりする。


 これほどに大量の奴隷が戦地から連れ帰られた事はあまりない。


 理由は単純である。


 戦争が膠着状態に陥る戦線が多くなり、最終的には軍は敵軍を攻めるよりも敵の戦力を削る目的で奴隷化が決定していた地域では戦地後方を襲っていたからだ。


 何も殺すわけではない。


 戦力にならない女子供や一般人を捕まえて、戦地に従軍する奴隷商人達に反抗的だったり、面倒な相手は売り払い、残る大人しいのを自軍の後方に当たる都市へと輸送し、売買しているというだけの事だ。


 問答無用で皆殺しにする事は半々。


 それも基本は危ない思想・主義の少数民族相手の弱い者虐めに限られる。


(その殆ども独自の宗教原理主義やコミュニティーとして結束が固く同化出来ないと判断されたところが大半……)


 お茶を一口。


(戦争で殲滅したというよりは選別していたような痕跡も軍の情報からは見て取れる。軍の裏の基本戦略がそうだとすれば、単なる戦後処理だけの話にしてはかなり徹底されてる。何かしらの原因があるはずなんだ。帝国陸軍の最上層の連中の頭の中を覗かないと分からないんだろうな)


 大本営による極めて合理的で暗黒面に墜ちている戦略は周辺国から畏れられ、自軍に下る者を増やして敵を更に減らす効果や敵の内部分裂も引き起こす。


 結果として装備でも戦術でも戦略でも兵站でも負けている敵は分散している帝国軍を各個撃破する事も出来ず。


 逆に大規模な戦域での一方的な消耗に晒されてジワジワと減り、最終的には消滅していくのである。


『若い子も多いわね。後で少しは買わないと……』


 市民達の声。


 その言葉には傲慢が見え隠れしているが、憐憫の情も多分に含まれる。


 帝国の多くの国民は属国など以外の中核となる地域においては奴隷達には基本的な面で同情的である。


 帝都民も劣等種と蔑みはするのだが、過去の自分達のように栄達まで昇り詰められるよう劣等種にも新たな道と祖国に貢献する機会を与える。


 というのが帝国のである。


 この大増上慢の上にある善良さに顔を引き攣らせる属国人や他国の知的階級の人間は多いが、自国の奴隷の状況よりも余程に恵まれている待遇の人々を見て、明確に批判をする者達は少ない。


 商家の子女達の言葉も傲慢で差別的ではあるが、大陸全体で見れば、慈悲深いという類のものであり、彼女達自身もまた若い奴隷達に新しい道を用意するという善道に少しでも貢献出来れば、という……如何にも当人に激怒されそうな事を本気で信じて実行しているのだ。


「さて、行くか」


 お茶が尽きたので腕の紐を僅かに認識しつつ、その場を後にする。


 今日も今日とて馬車はゾムニスが御者をしている。


 アテオラとイメリは学院。


 メイド達とフォーエは郊外のグラナン校。


 リージは毎度のように積み上がる決済の裁可と秘書の教育。


 人材の層は厚くなってきたとはいえ、まだまだ自分の仕事を肩代わりさせるには足りなかった。


「今日は何処まで?」


 隣にいる最優な兵士筆頭であるウィシャスが訊ねて来た。


 朝から研究所と他の店舗の開設の為の投資関連の会議に出て来たばかりなのだ。


「コイツに色々と買ってやる予定だ」


 自分より背の高い相手をポンポンしておく。


「ぁぅ……」


「解りました。荷物持ちと」


「理解が早くて助かる」


 現在、帝都の商人連中には投資先を三か所紹介している。


 北部、帝都、西部の三か所だ。


 集中投資、長期投資。


 利益の還元に関しての基本的な論理を商会関係者達に教えていた。


 短期的な利益を得るよりも長期的な投資で資産を低リスクで長期間保存し、一定の低金利による資本の増加を得る。


 投資先としてリスクが高くなれば、金利も上昇させるし、投資目的は基本的にあくまで帝国内の商売環境の保全や改善が目的であり、短期的な利益の追求で破滅するよりは薄く広く自身の利益を確保していく事が寛容云々。


(長期投資に見合った見返りとして一般化する技術による工業製品やインフラの早期導入、現代式の企業の効率的な働き方を指南。利益よりも社会の安定と生活の向上を目的とした人生プランまで……食い付きは良かったな……)


 元々、短期的な利益を上げられる程の投資案件が今の帝国には無い。


 そもそもの話として人口の増加率はこの30年でかなり上向いており、殆どの商会は上り調子であって、不況を経験していない。


 このような状況下では過当競争にならないよう帝国議会が色々と規制を導入して、増加する商会の資本に対して社会への還元を謳って色々と税を取って来た。


 儲けは出るが支出も大きい。


 これが帝国の現状。


 そこに新しく投資先を用意したが、そちらは低金利でリスクもそれなりとなれば、人気は低い……それを補うのが社会資本の増加や現状の生活向上なのだ。


(より便利な社会になるってのはあの展示会を見た後なら、さすがに理解しないわけにもいかないだろうしな……)


 その為に多くの貢献を資金として提供し、名誉を得る事。


 それは歴史に名が残る事であると詐欺師張りに宣伝した。


 この話はそれなりに満足な状況で商売をしている相手には心を擽る話のはずだ。


 金と地位を手に入れた人間が次に欲しいのは人間関係。


 名誉の類である。


 そして、実際に現在の自分がやっている新しい業態の店舗や技術知識による高効率で回せる産業形態や利益よりも人間を育て、必要な規制をして、コンプライアンスをガッツリと強化し、人間を安全資産として確保しようという話は安定を求める商人達には響いた事だろう。


 今の地位を安泰とする為の一歩は遠回りである。


 そう吹き込んだ大商会のトップの大半は大喜びで話に乗り、食い付きの悪い新興の商会などには各地域への輸出を行う為の工場群の建設計画への出資を進めた。


 工場はこれから幾らでも工業製品を各地に輸出していく事になる。


 この工場の建設計画は大規模なところよりも中小が合同で運営し、長期的な経営の柱として規制を遵守した上でならば、税的な優遇措置も出すと言ったのだ。


 経営資金に乏しいところには大規模な商会からの貸し剥がし無しの無利子での長期融資も行わせる旨を確約した。


 これで帝都の半数以上の商会は取り込めたので経済的な面での負担や危険度は大きく減った事になる。


「……?」


 フェグ。


 先日、何とか一命を取り留めた後、検査漬けの毎日を送っていた少女はようやく回復後に安定した。


 という事で本日は馬車に載せて奴隷生活以外の世界を学ばせる為に商店の立ち並ぶ一角へと向かっている。


「……ごしゅじんさま。考えごと?」


「いつの間にご主人様になったんだ?」


 袖の端を握られていた。


 奇妙な寄生生物に血液の中へと潜まれていた彼女は現在、研究所の女医が用意した町娘風の小奇麗なドレスタイプのワンピース姿だ。


 夏の終わりという事で少し厚手の田舎娘風。


 少しやぼったい色合いの生地の為、帝国の片田舎から嫁いできたばかりの娘みたいに見えるだろう。


「使うって言った……」


「じゃあ、ご主人様からの命令だ。他人の前ではご主人様と呼ばずにふぃーって呼べ」


「ふぃ、ふぃー?」


「そうそう」


「ふぃー……ふぃ-……」


 ウンウンと何度も頷きが返る。


 覚えたらしい。


「ついでに訓練と教育も受けて貰うぞ。面倒を看る以上は出来る事は出来るようになって貰うし、出来ない事を把握しておく必要もある」


「お仕事……?」


「そうそう。お前は訓練と勉強がお仕事だ」


「お仕事、がんばる……!!」


 両手を握って頑張るを表現しているらしい。


「………」


「何か言いたげだな」


 ウィシャスが視線を微妙に横へ逸らした。


「いえ、何でもありません」


「何でもないヤツは何でもないとは言わない」


「………何の訓練をさせるつもりですか?」


「自分の身を護る訓練に決まってる。利用されたヤツはいつでも誰かに利用されるヤツだ。そして、コイツにはそういうヤツから身を護れる技能や知識が不足してる。つまり、コイツに必要な事を訓練させるわけだ」


 ウィシャスが何とも言えない顔になる。


 女子供に軍事訓練とかこの目の前の相手は一体何を考えてるんだろうくらいの事は思っているに違いない。


「ちなみにオレやお前が護ればいいってのは無しだ。互いにそんな暇じゃないだろ。連れて歩く事も前提だ。少なからず面倒を看ると決めたし、傍で面倒を見ないとならないからな」


「?」


 フェグは首を傾げ、ウィシャスがその胸元に視線を向ける。


「……つかぅ?」


「ゲホ?! 違います!? 使いません!!?」


 ちゃんと意味を理解した好青年である。


「ちなみに胸元のは完全に一体化して取れないらしい。硬い部分は削れるみたいだが、削ると擽ったいんだよな?」


「笑っちゃぅ……こちょこちょされたみたいに……」


「という事だ。女性の胸元を心配している暇があったら、これからの訓練予定を立てておけ」


「……は?」


 思わず呆けたウィシャスに肩を竦める。


「ゾムニスは生憎と西部関連のお仕事がある」


「ええと、つまり、彼女を訓練する人が自分しかいない、と?」


「オレがそんな暇あるように見えるか?」


「……女性を訓練した事はありませんよ。さすがに勝利の学び舎でも女性士官はいませんでしたし」


「現地や他国の一部には女性軍人もいただろ。資料は取り寄せてやる。基本的にはオレ達に随伴する事を前提にした訓練だ。少しずつでいい。まずは生き残れるようにする事が先決だ」


「……分かりました。謹んで、その命令を受諾します」


「ん♪」


 猫みたいに擦り寄って来るフェグはあの黒猫より猫っぽいかもしれない。


 世の中には不思議な縁もある。


 少なからず。


 それは大事にしていこう。


 人の関係を利用する以上、信用出来たり、信頼出来る人間は多いに越した事は無いのだから。


 *


―――???


 何にも報われないという事が世界の現実だと理解した時。


 人々は安らぎと導きを求める。


 出会いが世界変えると人は言い。


 出会いが世界を超えると人は信じる。


 だから、その限りにおいて、自らの何もかもを捧げ尽した時。


 人間が思うのは―――。


『これがお前らの選択か』


 世界には蒼穹。


 地には業火。


 人の生きるべき大地は今や罅割れた硝子細工。


 噴き出す溶岩と瓦斯と無限に噴出し、降り積もる岩塊。


 その噴煙混じりの獄炎が文明の何もかもを呑み込んでいく。


 世界は最初からいつだって自分には優しくない。


 生命はその上で一時の安寧を得ているに過ぎない。


 そう教えてくれるかのように一切合切の生物は終わりの中へと燃え上がり、蒸発し、炭化し、世界に練り込まれていく。


『アマルティア級か。それで倒せるつもりか?』


 大地の果ての果て。


 天と地の果ての先。


 虚空に巨木が浮かんでいる。


 その巨大過ぎる200kmはあるだろう幹の上。


 無知覚領域。


 四次元世界において一次元的な厚みへと収斂された物質の極北。


 その黒い紐がゆらりと揺らぐ。


 相対しているのは機械が人の形を取ったような躰を持つ幾つもの仮面。


 それに対するのは無精髭の男だった。


『楢薪君……君は解っているはずだ』


『ええ』


『人の域の限界に達してしまった今。これが最善なのだよ』


『でしょうね。教授……』


 白衣姿の無精髭の男に対して相対する仮面が呟く。


『だが、それが全てでもないでしょう』


『そのパスタを作るのにどれだけの資源が失われたと思っているのかね? 今ならまだ間に合う。返したまえ……』


『はは、ならば、まずは代金を支払うのが相当では?』


『君が創ったわけでは無いだろう』


『教授……人間は人間のままです。域を超えても、世界を越えても、やはり人間は人間のままだったんですよ……』


 無精髭の男はカチャリと白衣の下の黒い漆黒の軍装らしきものに下がっていた仮面を被る。


『人間、か。君はその先に行って来たのにな。未だ超ええぬ我々の方が人間離れしてしまった……いや、何とも運命。いや、物質界における因果の連なり、正しく量子の振る舞いそのものだな』


『結果の収束に意味はありません』


『その精粋たる君がソレを言うのか』


 黒紐が仮面から垂れ下がっている。


 仮面は……無貌であった。


 その表面にゆっくりと瞳が二つ開き。


 口が一つ歪み。


 鼻が高く競り上がり。


 いつの間にか烏の嘴の如く。


 まるで中世のペストに怯える医師達の如く、成る。


『残念だが、お前らにはほとほと愛想が尽きた。悪いが、コレは頂いて行く』


 今までの声とは打って変わった相手を嘲る声が嘴から紡がれる。


『仮面か。君が手を出したソレの力は破滅と混沌そのものだ。それを理解して尚、それに侵食されても使うと。そう、言うのかね?』


『教授。問いに意味は無い。意味は無いんだ』


『仕方ない……諸君。楢薪君には我らの世界から退場願う事になった。用意はいいかね? 準備は出来ているな? 嘗ての有志にして我らの掛け替えのない友人に最後の華を添えよう』


 機械の身体持つ仮面達の背後。


 遥か遠方12万4000km地点。


 彼ら仮面達の切り札の一つがその躰を発光させる。


 その猛烈な輝きは人類が目にすれば、即失明する程の光量であり、その体躯は一体一体が凡そ1200km程だろうか。


 その巨大な人型でありながら、翼と蜥蜴の頭部の如きものを持ち。


 巨大な尻尾を揺らめかせる白き竜の如き何かが総勢で32000体。


 天を覆う程の、星々になり得る程の、惑星を囲う程の全方位において声を上げる。


『さぁ、君は何とする?』


『当然の事を聞くなよ。オレはアンタじゃない。だから、最初から答えは一つだけだ……全員、此処で滅ぼす。天雨機関は此処で終わる』


『何とも融通が利かんな。君が居ない間に我々が準備をしていなかったとでも?』


 巨大な―――壁が惑星を囲うように降り注いだ。


『ッ、これは……出来ていたのか!?』


 壁は星を全て覆う程に大きく。


 ソレが手である事を誰も認識しない。


 全てを掴み潰すかのように迫るソレは星を掴み取るように公転軌道から外して。


『これでも苦労したのだよ』


『【全天ダイソン・オブジェクト】!!!』


 仮面はクツクツと笑う。


『……我々は【勇敢なる拒絶を選びし、天頂く鋼なる星Bravery Rejection Zenith Matelize Hydraulic Terra】……ブラジマハターなんて呼んでいるよ』


 仮面達は肩を竦める。


 それは時間の効用だろう。


 如何な芥子粒のような人々にも時間さえあれば、バベルの塔が創れる。


 ならば、自分達のような極まってしまった者ならば、何が創れるのか。


 それは目の前にある。


『絶望してはいないようだ……』


『……そういう事か。これも……』


 楢薪と呼ばれた男が黒い紐を見やる。


『まぁ、いいじゃないか。これから消える君には関係の無い話だ。もしも、これを相手にまだ生きていたら会おう。我らが元同志よ』


 仮面達が消えていく。


 サラサラと粉のように消えていく。


 跡にはただ、星より広き腕に抱かれた割れ砕かれる運命の星が一つ。


『……生憎とまだ絶望するには早いと思うんだ。無貌なる者よ』


 誰に声を掛けているのか。


 あるいは独り言なのか。


『お前が絶望と混沌を司ると言うなら、まだこの世界で遊び足りないと言うなら、あのエリート面の連中の顔を歪ませてやるのも一興だろう?』


 ぐぐ―――。


 そんな、声のような何かが聞こえたような。


 しかし、そんなものを確認している暇もなく。


 星は圧倒的な速度で割り砕かれ、彼はその内部の熱極の世界に消えていく。


 ただ、溶岩と大地と大気の圧縮に閉じられていく世界に最後の瞬間。


 黒い紐がふらりと揺れて、斑模様の肌を持つ何かが、世界の何処かで嗤いを堪えるように小さな小さな声を漏らしていた。

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