間奏「その夕暮れ時の事Ⅰ」

 暖かい日差し。

 春雷が間延びする居間でウトウトしていた時の事。

 何処か少しだけ哀しげな声が聞こえた。


『ワールデンブルグらしい』

『私のせいね……』


『いや、君のユニークなところを遺伝子でも受け継いだ。それだけさ』


『でも……』

『いいじゃないか。瞳以外は全て正常……問題ない』

『苛められないらしら?』

『それは自己体験かい?』


『子供の時から苛められる相手すらいなかったわよ。あの田舎じゃね』


『ははは、じゃあ問題ないさ。君の息子なだけあって、この子も頑固だからね』


『そう、ね……』


『少し休んでから、今日は食事に行こう。行き着けのあそこが新メニューを開発したってさ。確認したが君にも食べられるものだったよ』


『……ありがとう。あ、あなた……』


『あなたなんて君に呼ばれる事になるとは昔の僕に教えてあげたいくらいだよ』


『もう!?』

『ごめんごめん。さ、縁はこっちで面倒見ておくから』

『え、ええ、よろしくね。縁、お父さんの面倒を見てあげてね?』 

『そりゃあ、ないだろう。マイワイフ』


 世界は天気雨。

 夢現の中。

 一人は去って、一人は残り。


『………抗体反応制御は上手くいってる……抗グリアジン抗体と抗筋内膜抗体の検査も良かった。エリテマトーデス、クローン、バセドウ、全て大丈夫だった……あの薬は完成してる……まったく、僕も随分とマッドサイエンティストって奴だな』


 何処か自嘲する響きが声には篭る。


『君は彼女の希望なんだ縁……だから、僕は君が彼女のお腹にいた時、あの薬を投与した事を後悔していない。君が彼女の未来になってくれ……いつか、僕の罪が白日に曝される日が来ても、僕は誓って懺悔しないだろう……研究者としては道を踏み外したのかもしれないが、家族としては正しかったと思うからだ』


『……んぅ。おとうさん?』


『ああ、起こしてしまったかな? お母さんは今休んでるから、もう少ししたら外にお出かけしよう。それまではオヤスミ』


『ん……ぅ……ん』


 僅かに紅茶が香る。

 静かに春雷が鳴り響いている。

 世界は天気雨。

 しかし、声は続ける。


『VATER、CHARGE……畸形症候群の予兆も無し……免疫系の遺伝子疾患そのものをある程度、克服出来るなら、あの薬の先で逆に“普通”を更に“優秀”とする事も……いや、それは僕の領分じゃないか……』


 小さな音量。

 何かが振動する音。


『はい。もしもし……ああ、お前か。ああ、ああ、大丈夫だ。それより試験体の培養は? え? 予算が凍結された? 教授会の意向? どうやら、老人達にあの論文は刺激が強過ぎたみたいだな。ああ、ああ、分かった。明日には先方に出向くと伝えてくれ。やはり、海外で研究するしかないようだ』


 溜息が一つ。


『……あの話、受けようと思う。妖しいって? 今更だろう。イスラエル系の米国研究機関なんて確かにこの時期、胡散臭いと思うよ。でも、この研究を野に埋もれさせるわけにもいかない。ウチの子の経過がどうなるか。まだ予断を持って言える事は何もないんだ。もしもの時に備えられる設備や研究資材も欲しい……彼らにはそれを提供する理由があり、僕にはそれを受ける理由がある。それだけの事さ』


 肩が竦められたような気がした。


『また、戻ってくる。此処は僕の祖国だ。そして、この研究は必ず完成させる。何年掛かっても、家族に僕が出来る事はそれだけだからな』


 何かを言われて思わず苦笑する声が響く。


『獅子と一角獣、か。さて、僕が行く神曲の道程に彼らは何を与えてくれるやら……え? 地獄の沙汰も金次第? いやいや、研究者は逆だろう。幾ら金があろうと、沙汰を下すのは、結果を出すのは僕ら研究者だ。地獄すらも変えてみせると嘯く位で丁度いいさ』


 紅茶が注がれる音。

 そして、呟きは零される。


『そうだ……何が正しかろうと彼女と君を失うより、怖い事なんか無いんだ……』


 世界は天気雨。

 しかし、そろそろ上がるだろう。

 今日は虹の掛かったハレの日。

 春雷はもう夕闇の前に鳴り止んでいた。

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