第80話「空飛ぶ麺類」
事前の打ち合わせ通り。
退避ルートには未だ兵隊の姿は無かった。
世闇に乗じて渓谷側へと向かって十分弱。
道の無い椰子の樹らしい林を一路真っ直ぐに北へと向かう。
密集した木々の中で蒸され、ジットリと汗が浮かぶ。
(此処まではいい。兵隊の笛や喇叭も遠い……渓谷を逃げ切れればいいが……)
ブラック・ペッパーと敵地域との境となる大渓谷は深さだけで言えば、50m近い代物らしいが、底に沿って東へと15㎞程行けば、人の手の入っていない密林へと抜けるとの事。
断崖の壁には幾つか人が落ち着けるような棚状の場所が複数存在し、昔は日が差さない冷暗所として食材の保管場所としても使われていたらしい。
今は技術が進んで倉庫が街中に立てられているようだが、嘗ての名残として各棚の付近には僅かながらも滑車や縄梯子を下ろせる場所があるとか。
進んでいくと僅かにカレーの匂いがした。
光も音も気付かれるという事で香辛料を道標代わりにしたのだが、暗闇の中でも確認出来る香りは誘導としては十分機能しており、程無くして複数の人影が見えてくる。
「カシゲェニシだ」
こちらの声に気付いた影の幾人かが何やらこちらに武器。
たぶんはライフルを構えていたが、声にホッとした様子で降ろす。
そのまま小走りで駆け寄ると。
傭兵と数人の侍従達がファーンの下で周囲を警戒していた。
「ご無事で。クラン様の救出。本当にご苦労様でした」
「本人は?」
近寄ってくる美女が崖下を指差した。
「先程ジンジャーが紐で背中に結わえ、下りたところです。貴方で合流予定の者は最後。ただちに撤収しましょう」
「ああ」
言ってる傍から侍従達が崖の脇に備えられていたロープを腰のズボンに通して結わえ、次々下へと飛び込むようにして降り始めた。
その命綱は幾つかある鉄製のクレーン付き滑車を通して下にもう一方も下に垂れ下がっており、何かしらの錘を付けられているように思えた。
男達は侍従達の普通の女とは思えぬ飛び込みっぷりの良さに目をパチクリとさせていたが、すぐに同じようにして降りていく。
順番待ちをしている間にも溜息が零れた。
「最初の計画じゃ縄梯子じゃなかったのか?」
「クラン様と最初に降りた者達はそれでしたが、さすがに時間がありません。滑車の反対側には石が括り付けてあります。男性用はあちら、女性用はこちらです」
左右で分かれた複数の滑車に掛かるロープの先には重さの違う石が付けられているのだろう。
「あ……マズイ、か」
「?」
「言い難いんだが、オレの体重はたぶん今、大の男の二倍近いぞ」
「ッ」
「縄梯子は?」
「まだありますが……」
その時、僅かな警告の声が下から聞こえてくる。
『橋の警備連中の明かりが近付いてくるぞ!!』
(とにかく、降りるしかないか)
「下の連中に最後に降りるロープには石を二倍括り付けるように言ってくれ!!」
そう降りている最中の男に声を掛けると声が返ってきた。
「先に行きます。一番端を使って下さい」
ファーンが衣服にロープを通し、急ぎ下に向けて降りていく。
言われた通りの滑車のロープに自分の腰を括り付けた瞬間。
パッと明かりが自分を照らしたのが分かった。
『居たぞ!! 撃てぇえ!!!』
内心舌打ちしながら、渓谷の内部へと飛び降りる。
しかし、今まで降りていた者達と明らかに違って、下るスピードが速い。
後、滑車を狙われたら、速攻で渓谷の底に真っ逆さま。
確実に潰れた蛙状態。
回復するとしても絶対に痛いでは済まない正気がピンチな状態となるだろう。
銃弾がロープや滑車に当たらない事を祈りつつ、歯を食い縛って汗の滴る背筋の震えを何とか押し殺す。
暗闇の底に落ちていくのは海の底に潜るのと大差なく。
死の気配を確かに感じさせた。
ガンッ。
発砲音に続いた火花。
そして、刹那で今までの抵抗のある落下ではなく。
自由落下に切り替わったのを感覚的に理解して、出来れば足からの着地にしようと身体を槍のように伸ばした。
最悪。
上半身でも心臓近くと頭部さえ無事ならと割り切れてしまった判断に自分が変わっている事をまざまざと見せつけられたような心地となる。
まだ3秒も経っていないだろう長い長い落下の中。
渓谷の内側から上空に光を見た。
それは光の柱。
(ッ?! またか!? やっぱり、今までの条件からして……塩の化身の力は?!)
あの連合で遺跡を起動する直前も老人がこちらに攻撃を仕掛けてきて、空からマイクロ波が降ってきたのだ。
ほぼ、確定的に屋外で自分に攻撃を仕掛けてくる相手に対し、死の光が降り注いでいるのは明らかだった。
『うぁああぁああああぁ!?』
『な、何だ!? な、何が!? あ、熱いぃいいい!? 燃えるぅ!? 燃えッ、ああぁあ―――』
その人が上げてはならない声にならぬ絶叫が次々渓谷中へ響き渡り、頭の何処かでパチンとスイッチが入ったような……そんな気分に襲われる。
次の瞬間。
腰のロープ付近から何かが迫り出して、渓谷の岩肌がガリガリと削られるような音と共に身体が減速していく。
そして、急激に腰の辺りが熱くなったかと思うとまた自由落下に切り替わり、ドサリとすぐ下の地面に落ちた。
呆然としながらも辺りを見回すと漆黒の中でも僅かに影が確認出来る。
「大丈夫でございますか!! カシゲェニシ様」
慌てた様子の侍従。
たぶん、声からしてオサゲ髪の少女だろう手がこちらの手を取って引っ張り起こしてくれる。
「カシゲェニシ殿!! お、落ちたのか!? 大丈夫なのか!?」
何やら少し細い身体がこちらにしがみ付くようにして身体をペタペタ触ってきた。
「いえ、大丈夫です」
「そ、そうか!! どうなるかと思ったが、ロープはちゃんと役目を果たしたのだな」
「………」
その言葉に腰の辺りを摩るものの、無言で通しておく。
今は内心の疑問や思考を深めている場合ではない。
身体の動作を確認しているとホッと胸を撫で下ろした皇女殿下の横に上から複数人の男女が降りてくる。
「殿下。ご無事ですか!!」
「ファーンか。うむ。何ともない。カシゲェニシ殿も無事だ。そちらに被害は?」
「いえ、ありません。こちらの人員は当方と共に降りた者で全員です。このまま谷底を抜けましょう」
「ああ、では出発しよう」
「ええ」
ファーンが全員にほぼ駆け足で離れるよう伝え。
集団での移動が始まる。
どうやらクランは傭兵に背負われているらしく。
こちらと併走する形となった。
「皆、ご苦労であった。それにしても先程の悲鳴は一体……ファーンか?」
「いえ、こちらはまだ何も。そもそも殿下を救出する事に全力を傾けていた為、追っ手の追撃を撒く事だけを考えていましたので……」
「そうか。何にしろ。天は我らをまだ見放してはいないようだ」
「はい。谷底を抜けた先の密林は人の手が入っておらず、追撃には相手も相当な時間を取られるはずです。二日か三日か。とにかくその合間に別の地域へ抜ける街道沿いの山間部に出ましょう。街道に併走する形で抜ければ、さすがに追っ手もこちらの発見には手間取るはず」
「分かった。体勢を立て直すのだな?」
「はい。現在、ブラック・ペッパーは占領されたも同然の様子ですが、他地域にも我が息の掛かった場所は多数あります。もしもの時の備えも」
「やはり、ファーンは頼りになるな」
「お褒めに預かり、光栄の至り。それでなのですが……先程はゴタゴタしていた為、聞きそびれた事を聞いてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「バジル家から何か殿下へ伝えてきた事はありますか?」
「その事か……わたしもよく分からないのだが、バジル家の使者と名乗る者がわたしに氷室は何処にあると訊ねてきたのだ。何か知っているか? ファーン」
「氷室?!」
思わずなのか。
いつも冷静なファーン・カルダモンは小走りながらも僅かな動揺に声を震わせていた。
「ど、どうしたのだ?」
「い、いえ……まさか、殿下を捕らえたのは……であるなら、これは国家の一大事かもしれません」
「どういう事だ?」
「多数の者に聞かせて良い話ではありませんので、何処か落ち着ける場所に出てから、この話は致しましょう」
「う、うむ。分かった」
何やら心当たりのある美女は重要な事を気付いたらしい。
それ以降、谷が終わるまで口を開く事は無かった。
谷底は基本的に平らな一本道で石の類は然して転がっていない。
マラソン程度の感覚で奔って1時間弱。
左右に開けた場所が見えてくる。
谷底よりは星明りで明るく。
夜目が利けば、僅かに見通せる程度の光量がある出口で一端休憩が挟まれた。
「何とかなったな」
密林を通り抜ける湿り気を帯びた風に当てられながら、岩に腰を下ろして思わず呟く。
救出に際して身体を蜂の巣にされる程度の事態は考えていたのだ。
しかし、無傷で何とか逃げるところまで漕ぎ付けた。
普通に考えれば、幸運以外の何物でもないだろう。
「カシゲェニシ殿にはまた助けられてしまったな……」
「クラン様……」
傍にやってきたのは侍従を後ろに付けた皇女殿下だった。
「休まなくてよいので?」
「……カシゲェニシ殿。もう敬語も様付けも要らないぞ。いつ継承権を剥奪されるかも分からない身だ。それにここまで助けられたのだ。もう我々は……友と呼ぶべき間柄ではないか」
チラリとこちらを見つめながらも身体を休めているファーンの方に顔を向けるも、コクリと頷きが返される。
「じゃあ、これからはクランと呼ばせてもらっていいか?」
「あ、ああ!! 勿論だとも。そなたのおかげで二度命拾いした恩。いつか、必ず返そう」
「そうか。ありがとう」
周囲に弛緩した空気が流れる。
「……それにしてもあの者はバジル家の刺客ではなかったのだな」
クランがようやく安堵出来る場所で思い返す余裕が出来たのか。
護衛の兵隊の死に様でも脳裏に浮かべたらしく。
僅かに自分の肩を抱いて、瞳を伏せた。
「確かに……」
「どういう事ですか?」
聞いてくるファーンにクランの救出時に出くわした大正ロマンな日本刀使いの話をする。
「まさか、別口で狙われていた?」
その言葉に頷く。
「たぶん、な。少なくともバジル家の兵隊が真っ二つになってた事からして、別の家か。あるいは皇位継承とは関係ない部分で狙われてたと見るべきじゃないか?」
「……そうですか。当方としては頭の痛い事態ですね。あのレベルの手慣れに狙われるのはこちらとしてもリスクが高い」
「いや、そっちは確定じゃないが大丈夫だと思う」
「?」
「ぶっちゃけ、火薬で爆破してやった」
「ば、爆破?!」
思わず目を瞬かせたファーンが凄い顔でこちらを見てくる。
「火薬の袋を切らせて、火花で着火してやったら、死にはしなかったが、重症みたいだったぞ。その上、バジル家の兵が現場に来ていたとなれば、拘束されてるか。その場で射殺か。どちらかのはずだ」
「……ならば、一つ障害が減ったと見るべきでしょうか」
「ああ、しばらくは気にしなくていい。さすがにオレみたいな回復力も無いだろうし」
ファーンが思案しつつも、コクリと頷いて立ち上がる。
「そろそろ行きましょう」
断崖に背を預けていたり、地面に座り込んでいた男達が立ち上がって、周囲を警戒していた男達に加わって侍従とクラン達を囲むように展開する。
すると、ジンジャーがこちらの横にやってきた。
「どうしたんだ?」
「(先程、落ちていくところを見た。何か腰から伸ばして岩肌を削りながら降りていたが、どういう仕掛けだ?)」
ヒソヒソと訊ねられて、思わぬところから自分の姿を聞いてしまいゲッソリする。
「遺跡の力だ。たぶん、な」
「そうか……」
それ以上、深くは聞いてこなかったが、こちらが思っていた以上に普通ではない事を理解したらしい男は世の中、不思議な事が多いものだな、と軽く肩を竦めた。
「出発するぞ」
廃兵院の男達がゆっくりと密林内部へと向かおうとしたその時だった。
最先頭の手前がチュゥウンと明らかな銃声と共に土埃を上げた。
「各自、女達を守れ!!」
すぐに指示を飛ばしたジンジャーの声で誰もが渓谷内部へと足早に下がり始める。
しかし、背後からも銃声。
地面が穿たれたらしく。
袋の鼠になった事がすぐに分かった。
だが、相手の姿が見えない。
ライフルを何処に向けていいのか分からない以上、密林に漠然と向けるしかないという状況。
マズイが、マズイ以上の言葉は出てこなかった。
狙撃手が何処にいても相手からは良い的だ。
威嚇で頭を吹き飛ばさなかっただけマシと思うべきで、だからこそ……何とか相手との交渉が出来るとポジティブに考えるべきだ。
咄嗟に男達の前に身体が出た。
「オイ!! 仕掛けてくる以上は殿下の身柄が欲しいんだろ!! 即座に撃ち殺して来ないって事は話をする用意があるはずだ!! 責任者出て来い!! こっちは逃げるのに忙しいし、話してる時間も惜しい!!」
僅かな間の後。
カッと三方からライトがこちらに集中した。
その中央から人影がやってくる。
「いやはや、まさか……そういう反応が返ってくるとは思いませんでしたよ」
光に目が慣れるのに然程時間は掛からなかった。
数秒で光の中に浮かび上がる相手の顔が見えてくる。
「?!」
思わず硬直した。
その顔の半分以上がケロイド状の男は白いスーツを身に纏い……同じ色の帽子を片手にして一礼してくる。
「お初にお目に掛かります。カシゲ・エニシさん」
「ッ」
「いや、そんなに警戒しないで下さいよ。ああ、この顔は怖いと評判ですが、中身は単なるオジサンですから」
軽快な男の口調は外見とは掛け離れたものだったが、圧倒的優位にある立場を自覚する故に相手からの質問を封殺するような気配を醸し出していた。
「お前らは誰だ。どうして此処にいる。狙いは何だ。聞きたいのはこの三つだ」
「お答えしましょう」
スラスラと軽いノリで男がケロイド状のゾンビみたいな面とは反対側の唇を僅かに微笑ませた。
よくよく見れば、男の無事な部分は二枚目と言っていいくらいには顔が整っている。
細い眉に整った鼻梁。
骨格的には白人のように思えた。
「我々は【空飛ぶ麺類教団】……此処には殿下の身柄の安全を確保し、カシゲ・エニシと呼ばれる人物と話し合う為に来ました。狙いは殿下と貴方ですよ。エニシさん」
「―――」
まさかの名前。
まさかの相手。
それに思考が追いついていない。
だが、一つだけ確かな事があった。
「いつから監視してた?」
「おや? ご理解が早くて助かります」
「いつからだ」
こちらの言葉の棘に嬉しそうな顔で男が応える。
「貴方が連合をあの平和主義者共から救った辺りからですよ」
「………」
「色々と聞きたい事もあるでしょうが、我々も秘密主義でして。まぁ、とりあえず危害を加える必要も理由もありませんので、大人しく付いて来て下さい。快適な旅を確約しますよ? 我らが船にようこそ」
「船?」
背後からファーンの呟きが零される。
男が人差し指を上に向けた。
そこでようやく夜の星明りが遮られている事に気付く。
「………全員乗船。一纏めで収容。それが最低限の条件だ」
「強気ですね。いいですよ? こちらも一々面倒見てられませんので」
『な、何だアレ?! そ、空に何か?!』
何も知らない傭兵達がざわつくものの、すぐにジンジャーがそれを手で制して静かにさせた。
「乗ります?」
男は嬉しそうだ。
その笑みは明らかに人を格下に見る底意地の悪さが見え隠れしている。
頭上に三方からのライトが向けられ、デカデカと映し出されたのは飛行船の船底に描かれたスパゲティーが蒼い空を雲のように流れる意匠。
その端には申し訳程度に白の正鍵十字が刻印され、共和国の船である事を示していた。
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