第71話「カレーなる者」
「ん………」
まず香ったのは鼻を擽る匂い。
優しく身を包まれる穏やかな心地。
何処で嗅いだものか。
ふと母の横顔を思い出す。
そう……アレは外国暮らしでたまにあった休日。
珍しく親らしい料理というものをしていた時の事だ。
外国なのだから、外国らしい料理を子供に食べさせたいと思ったらしく。
現地で買い込めるものを総動員して食事を作ろうとしていたのだ。
けれど、食べられないものが多かったせいで今一料理下手な母は数字や数値や数式には詳しい癖に味付けは目分量で……香りは良いが味の物凄い煮物、のような代物を作ってしまった。
後になって、それが日本食を現地にあるもので再現しようとした料理だと気付いた。
が、それ以降の時期は研究に忙しくなってしまい。
ついに完成したものは食べられなかった。
「カレー……?」
薄っすらと目を開けると見知らぬ飴色の天井。
金銀の彫刻。
豚、鳥、牛。
三つの動物達の周囲にまるで曼荼羅のように野菜や見知らぬ草花や樹木、何かの根のようなものが書き込まれている。
その中心にいるのは誰か。
白い羽織を着て背を向けた後姿。
こういうのは普通、顔が見えるようにして彫るものだろうにと思ったが、疑問はすぐにまた別の疑問で押し流される。
「此処、何処だ?」
周囲は明るい。
自分の眠る寝台から立ち上る匂いに今までの香りが上書きされる。
それでようやく何の上に寝ているのかを何となく理解する。
(香木? いや、そうだとしたら……この寝床、何億なんだよ……)
身体を包み込むサラサラとした質感。
それがシルク製のシーツであるなら、上等な場所に寝かされていた事になるだろう。
この世界において未だ絹は貴重品だ。
大規模な農地はほぼ全て主食の生産に当てられている為、嗜好品というのは切実に高いのだ。
共和国の中でも大富豪の部類だろうオールイースト家は質実剛健という家訓から日用品は上流階級が普段使い出来る程度の品で統一されていた。
それ以上のランクのものも使えるらしいのだが、別に必要ないとフラムは過不足無ければ問題ないというスタンスで金を掛けたりはしていないらしい。
「って……言ってる場合じゃないよな」
身を起こして辺りを見回す。
幾重にもカーテンのように寝台周辺の天井からシーツと同じ質感の布が垂れ下がっていた。
何とか身を起こして、床に立つと紅の絨毯が足元を包み込む。
今にも滑ってしまいそうなくらいに肌触りの良いソレもまたシルクだった。
織り込まれている図は草花らしく。
金糸で縫い込まれた見事な文様は一点ものであろう事が感じられた。
僅かに風で波打つカーテンを手で払い除けながら、透けて差し込む光の方へ進む。
最後の一枚がふわりと横に抜けた瞬間。
穏やかで涼しげな空気が肺に入り込み。
「――――――」
目の前に蒼い空が広がる。
明け方。
雲一つ無いカンバスの下、遠方には褐色の乾いた煉瓦造りの家々が立ち並び。
周囲の眼下には広大な敷地一面に広がった庭と左右に広がる三階建ての建築群。
左はどうやら何かを祭る神殿のようで、列を成して白亜の柱と屋根が街の方へと続いている。
右は何やら灰色の建物が幾つも集まる事で形成されているらしく。
その奥の方からは男達の声が響いていた。
何かの訓練か。
統率の取れた足音が一人のように静かな一拍子を刻んでいる。
自分のいるところが少なくとも四階以上。
それも20m程も上にあるバルコニーだと気付いて、僅かに後ろへと下がる。
たたらを踏みそうになって。
ふと足元に小さな鉢植えを見つけた。
そこには小さな木のようなものがチョコンとあった。
これが匂いの大本だろうか。
「この匂い……」
普通の植物と見えるのにどうしてかカレーの芳香を漂わせるソレは緑の葉を青々と茂らせている。
「おお、起きたぞ。ファーン!! 仕度をさせろ!!」
「はい。畏まりました。殿下」
後ろを振り返ると。
いつぞやオルガン・ビーンズの一件で交渉した事のある女が隣に褐色の肌の少女を連れていた。
褐色の肌に黒い瞳。
飾らない衣装に鍔無しの灰色帽子。
煙管と煙が無い事を除けば、彼女は確かに知り合いの部類だろう。
「ファーン・カルダモン?」
「その通り……ようこそカレー帝国へ。当方の名は覚えておいでのようですね」
「あ、あぁ、って事は此処は……カレー帝国、なのか? いや、待て!! さっきまで魚醤連合の海域にいたんだぞ?! アンタがオレを助けたとすれば、どれだけ時間が経ったんだ!?」
「どうしたのだ? ファーン。この者はどうやら混乱しておるぞ」
その声に頷いた妙齢の女が何やら少女に耳打ちして、こちらの前までやってくる。
「混乱するのも分かるわ。でも、まずは此処の主である殿下にお礼を言うのが先ではなくて?」
「殿下?」
ファーンの後ろ。
カーテンの奥の方から顔を出して、少し恥ずかしそうに褐色の少女は何やら興味津々な様子でこちらを観察していた。
「……どちら様だ?」
「その物言い。もし、此処に当方以外の重鎮がいたら、処刑ものよ」
「ッ、アンタよりも上って事は……まさか、帝国の……」
「殿下。どうやら理解が及んだようですので、済みませんがこちらで紹介させて頂きますわ」
「あ、ああ!! いいぞ!! ファーンはわたしの善き理解者だ。口下手なわたしより上手に話してくれるだろう」
少女をよくよく見てみる。
着ているのは白い絹製のブラウスに紅のスカート。
灰色の体格に不釣合いな大きめの外套には銀糸で縫い込まれたと思われる可憐な白い花と樹木の、何処となくバルコニーの鉢植えに似た紋が描き込まれていた。
目鼻立ちは良家の子女を思わせて良く。
フラムに比べれば劣るだろうが、その器量良しで少し吊り目がちな顔は子供らしい無垢さと愛嬌のある猫みたいな柔らかさ、そして……ワクワクという擬音が聞こえてきそうな好奇心に耀いている。
だが、最も目を引くのは彼女が蒼い瞳をしている事だろうか。
その清んだ宝石のように印象的な眼は現在、寝起きの自分を映し出していた。
「こちらはカレー帝国の第四皇女。グランメ・アウス・カレー殿下であらせられます」
「皇女、殿下って事か?」
「はい。当方は後見人でして。此処はグランメ様の御所がある帝国第四の大都市。ブラック・ペッパー……貴方は連合の海域で拾われて二十日あまりの間、眠っていたのですよ」
「は、二十日?!! ちょっと待て!? 幾ら何でも眠り過ぎだろう!?」
「こちらとしてはこのまま死ぬのかと思っていましたが、どうやらもう大丈夫のようで」
「アンタなら知ってるはずだな!? 連合は!! 共和国と連合の戦争はどうなった!!?」
思わず訊ねていた。
例え、無礼だとしても、確認せずにいられるものではない。
「はぁ、気になるのも仕方ない事でしょう。では、簡潔にお伝えしましょうか」
「ッ」
「魚醤連合は突如として起きた津波被害の後に周辺の沿岸国と同様の天変地異に見舞われ、現在は共和国に降伏。どうやら属国になる事と新しく現れた陸地を賠償金代わりに差し出す事で講和を模索しているようです」
「そ、そうか……」
明らかにホッとしたのも束の間。
今度は驚きの言葉がファーンの口から語られる。
「ですが、我が国はこれに反対し、現在連合に軍を進めております」
「はぁ?!」
「……まぁ、一枚噛ませろというだけの事ですよ。当方も戦争というのは好きではありません」
それだけで誰が軍を動かしたのか自白したようなものだ。
「ファーン。もう、いいか?」
「すいません。殿下。では、どうぞ」
おずおずと自分の前にやってきた少女。
たぶんは十四か五くらいだろう細身で少し押せば倒れてしまいそうな皇女殿下がニコリと笑む。
「わたしはグランメ・アウス・カレー。グランメでは可愛くないから、ファーンにはクランと呼ばせている。そなたもわたしの事はクランと呼んでくれ。カシゲェニシ殿」
「もうこちらの事を?」
「あ、ああ!! ファーンが面白い話をしてくれたのだ!! その歳でオルガン・ビーンズの交渉役を勤めたのであろう? あの七日間戦争の事を聞かせてくれ!! 共和国は強かったか?! 聖女殿が国民を説得したと言う話だが、それは本当の事なのか!?」
目をキラキラさせながら、大人に御伽噺をせがむ夜中の幼子のような顔をする少女は……少なくともファーンとは対照的で純真そうに見えた。
あのオリーブ教の聖女様が無知系な純真だとすれば、こちらは幾分か年齢相応の純真と言うべきだろうか。
「話したいのは山々ですが、殿下に言ってしまうとこちらの身が危なくなるかもしれません。政治的な話は身の安全の確保、話しても問題ないという確証、その他の確約が無ければ、無闇に口外出来ないのです」
一応、丁寧に話してみるが、それに少し残念そうな顔をしながらも、最もだと皇女殿下は頷いてくれた。
「そうであろうな。済まなかった。ちょっとはしゃぎ過ぎたようだ。ファーン。カシゲェニシ殿と色々と話さねばならない事もあるだろう。わたしは少し席を外そう」
「申し訳ありません。殿下」
「いいや、ここはカシゲェニシ殿の言う通りだ。食事時になったら、また会おう。けほっ」
僅かに咳き込んだ後。
ニコリと控えめに微笑んで、テテテッと皇女殿下……クランはカーテンの奥へと消えていった。
「おい。アンタに訊ねたい事がある」
「殿下と話していた時や交渉時とは違って率直な話し方ですね」
「どうして、オレを助けた?」
「理由が必要で?」
「オレには必要無い。だが、アンタには必要だ。ただ助けただけで済ますと思えないから、訊ねてる」
「……カシゲェニシ君。当方の家は昔から事情通で通っているのですが、貴方は少なくともオルガン・ビーンズの人間ではないという事は調べが付きました」
「それで?」
「当事国の人間ではないとすれば、貴方は何処の人間なのか。助けてから関係各所を調べて随分と手を回していたのですが、どうやら面白い噂があるようで」
「噂?」
「何でもオリーブ教の聖女様は共和国の人間と婚約しているとか」
「―――」
思わず。
本当に思わず。
あの老人の惚け面が思い浮かんだ。
「助けたのは貴方が久方ぶりに当方にとって面白いと感じる人間だったから。ですが、この二十日で調べが進む程に興味が出てきました……坊やはやはり普通ではなさそうね」
たぶんは素なのだろう蛇のように相手を見据えるような瞳で最後見られて背筋が汗ばむ。
「ふふ、今のところは何もしません」
(今のところは、か)
ファーンがゆっくりと帽子を取ると片手でこちらの顎をツイッと上げさせた。
「ただ、ちょっと、その身体……調べさせて貰えないでしょうか?」
一瞬だけ内心で絶望的な気分となる。
「輸送中、些細な手違いで少し怪我をさせてしまったのですが、その時に見てしまいまして」
「ほう? 何を?」
「……面白い身体をしているようですね」
「そうなのか?」
「ええ、ですから、この十数日の間。諸々の検査をさせて貰いました。その結果から言って、当方は貴方を手放す気が無くなりました」
「……それ本気か?」
「ええ、思ってもいなかったところから、このカレー帝国に当方が一番欲しかったものがやってきた。これが幸運でなくて何なのか」
「止めといた方がいい。忠告しとくぞ」
「ふふ、強がりに過ぎない。とは言えませんか。ですが、別に切り刻もうというのではありません」
「じゃあ、何なんだ?」
死んでも蘇るのは出来れば、バレていて欲しくなかった。
最低でも傷の治りが普通じゃない、程度に考えてくれれば、まだ何とか諦めさせる事が出来るかもしれないと相手の顔を注視する。
「病気の治療の為、その身体を少し研究させて頂きたいのです」
「病気?」
「ええ、それ以外なら、まぁ……適当な女を見繕うので孕ませて貰うか。あるいは此処で結婚して一生この帝国で暮らすか。そういうのでどうでしょうか?」
思わず噴出しそうになったが、血縁があれば、体質が遺伝する可能性もあると考えるのはまだ普通だろうし、実際どうなのか分からない為、可能性として無いとは言い切れない。
「勿論、タダでとは言いません。相手を選ばせる程度は可能ですし、奴隷を所望ならそれでもいい。もし望むと言うのであれば」
僅かに妖しく優雅にファーンの手が寝巻きらしいローブの中に入り込む。
「当方がお相手をしても構いませんよ? ふふ……」
「ッ?!」
咄嗟に離れる。
未だに掴まれた感触が身体に残っていた。
「生憎と女性関係はもうお腹一杯でな」
「オリーブ教なら、それもまたよくある事でしょう」
「……とりあえず、朝飯にしてくれ。アンタと話してるだけでドッと疲れた……」
「そうしましょう。当方も久方ぶりに“男”と話して疲れました。では、一緒に行きましょうか。食堂まで案内しますわ……カシゲェニシ、君?」
その女の肌からは蟲惑的な香り。
蜘蛛に絡め取られる虫の気持ちというのが今なら分かる気がする。
(しばらく、帰れそうにないな。どうなる事やら……はぁ……)
そっと、腕を組んで来る相手が敵か味方か今は決めぬまま。
新しい場所での新しい日々に思いを馳せる。
それが望まぬものであるとしても………日常は絶えず変化し、続いていくらしい。
必ず帰る。
その約束だけは今も胸に深く刻まれていた。
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