第8話「朝の始まり」

『まぁまぁ、まぁまぁまぁ、まぁまぁまぁまぁ♡』


 頭が上手く働かない。

 しかし、まぁまぁと連呼する生物がどうやら近場には生息しているらしい。


『お休みになられてますね♪』

『はい。こんなに仲睦まじく。ああ、このリュティッヒ……涙で前が』

『メイド長って実は涙脆いですよね。三日に一回ぐらい泣いてませんか?』

『後で屋敷の拭き掃除を三周したいですか?』

『あ、いえ、何でもありません』


『それにしても……フラム様がこんなに……ゴクリ……これ、見ちゃっていいんですかね。メイド長』


『目に焼き付けておいて構いません。これから、この様子が日常となっていく予定ですから♪』


 何やら頭が働かない。

 食べて風呂入って美少女と同衾しながら寝て。


 何処かのヒキニートが歯軋りしながら滂沱の涙を流しつつ悔しがるシチュエーションだと思うのだが、相手次第では命が危うい。


 それを思えばこそ、疲れているのかもしれなかった。

 ただ、それを癒すような柔らかな感触に頭を包まれているような。

 シットリとした肌触りのものを抱き枕にしている気がする。

 少しだけ食い込む指や腕が心地良い。

 沈み込む柔らかさは寝台のマットレスや羽毛にしては固すぎず柔らか過ぎず。

 絶妙だろう。


「うぅん……んっ……っ……はぁ……はぁ……」


 耳に心地良い声。

 僅か香るのは花というよりも何処かミルクにも似ていて。


『ゴクッ』

『ゴクリッ』

『グビッ』


 指が幸せなのはそれが仄かに温かいからだろう。

 安心するのは優しい香りが包んでくれるからだ。

 何やら邪な気配がするような気もしたが、結局眠気には勝てず。

 そのまま少し熱い足を安定するようヒンヤリとした何かに絡める。


「んぅ……ん……っ……」


『こ、これは……』

『もう少し見てていいですかね? メイド長』


「フラム様~~~朝ですよ~~?」

「何だ。もう朝か……んぅ……ん?」


 何か抱き枕の温度が高くなった気がする。

 しかし、それはそれで構わない。

 指が相変わらず幸せなのも変わらない。


「―――ッッ?!!?」


 何かがバッと身体を押し出して、そのまま寝台の上から転がり落ちる。


「ッッ?!!?」


 額を床にぶつけて、目が本格的に覚めた。


 何とか手を当てて摩りながら起き上がると寝台横には三人程昨日のメイドが屯して何やら頬を少しだけ赤くして愛想笑いをしている。


 本日は晴天。

 朝焼けが庭の方から差し込んで来ていて温かい。


「?」


 視線を寝台の方へ移すと何故か。


 極悪な目付きの美少女がシーツを胸元に引き寄せて、少しだけ涙目でこちらを睨んでいた。


 頬が僅かに赤い気もする。

 昨日振り返らずに見ていなかった姿。

 黒い下着を身に纏ったフラムはかなり……扇情的だった。


 だが、腰辺りには紐が見えるのだが、胸の辺りには何も付けられている様子が無い。


 それが純粋に必要ないからだと。

 何となく悟って、そっと視線を逸らす。

 こちらの気遣いに気付いたのか。

 あるいはからかっているのか。

 そのお嬢様の背後で何やらニコニコとしたメイド長が一言。


「昨日はお楽しみでしたね♪」

「!?!!?」


 フラムがガッと寝台を降りるとバッとメイド達が拾い集めていた衣服を持って、そのままダッシュで部屋から逃げ出していく。


「………昨日の軍服以外で普通の一般人が着るような旅装とか、あります?」

「ええ、それはもう!! 昨日夜鍋して縫いましたのでもう出来ております。カシゲェニシ様」

「あ、はい……」


 さすがに内心ドン引きだった。


(昨日、測られた……んだろうな……今の件を含めて全部忘れよう)


 夢の中で全てを夢として片付けつつ。

 メイド達が差し出してくる洋装一式を見てみる。

 顔の引き攣った理由は下着まで誂えられていたからだ。


「どうも」


 それを受け取り、メイド達が何やら出て行く様子もなく待っているのでさすがに声を掛ける。


「出来れば、着替えるので出て行ってくれると……」

「お着替えをお手伝い致―――」

「さなくていいです。一人で出来ますから。もし、後で着方が間違ってたら教えてくれれば」

「分かりました」


 リュティさんが頭を下げてから扉を潜るとそれに他のメイド達も続いた。

 バタンと扉が閉められる。


「はぁ、ようやく着替えられる」


 ホッとして、洋装がどういうものなのか確認してみたが、それは普通の紳士服。

 スーツというよりはタキシードに近い代物だった。

 ただ、バリバリの正装というわけではないらしく。

 仕立てこそ良かったが、動き易さを重視して作られており、堅苦しさは無い。


 そうして、昨日着込んでいた上下の白い寝巻きの紐を解いて、着替えようとしてパリッと糊の効いたパンツが目に入る。


 何故か股間部分が薄い革製だった。


 股下から尻の部分に掛けて厚く作られており、内側の布地には触り心地の良い絹の類が使われているようだ。


 穿いてみるとピッタリという感じがする。

 それもそのはずか。

 男性として最もデリケートな部分の収まり具合が異様に良かった。

 何から守ってくれるのか知らないが……明らかに無用な意図を感じる。

 ピッタリと吸い付くような下着。

 逆にいつも市販品を穿いている身からすると恐ろしく快適で精神的に気持ち悪い。


「何も考えるなオレ……」


 そのまま心を無にしてシャツや上着、ズボンを身に着けていく。

 すると衣装は全体的に汚れても良さそうな感じのフォーマル感があった。

 良いところの腕白小僧が着ていそうな、といった感じだろうか。

 青み掛かったグレーの上着はポケットが複数有り、実用性を強調している。


『お着替えは終わりましたでしょうか~』


「ピッタリです。ありがとうございました」


『それはよろしゅうございました♪』


 ドアから出るとメイド長が一人廊下で待っている。


「そう言えば、トイレあります?」


「あ、はい。厠は左の突き当たりを右に真っ直ぐでございます。朝餉の用意はもう出来ておりますので、食堂の方にお越し下さい」


「分かりました。ちなみ……フラムは?」


「おひいさまは自分を立て直すのにもう少し掛かるかと思いますが、朝食が終わる頃にはお出でになるかと思われます」


「そうですか……それじゃ」


 昨日、一日不思議な事にトイレへ一回も行っていなかった。

 今更に思い出したような感覚が襲ってきて、言われるがまま早足で歩く。

 すると、背後から僅かに声がした。


「昨日拝見して、その……全てがとてもご立派だったのでお一人でのは大変かと思うのですが、は要りますでしょうか?」


 僅かに顔が赤くなる。


「遠慮しておきます……」

「そうですか。ですが、もしも、必要になりましたら、いつでも申し付け下さい。


 ゾワリと背筋が震えた。

 その声は何処か艶やかで常とは違い仄暗いような気がして……。

 そうして、何事もなく頭に何も入らないまま洋風のトイレで用を済ませて出てくると。

 通路には誰もいなかった。

 昨日の記憶を頼りに食堂まで行くと今日もやはりガスマスク姿のメイド達が並んでいる。

 それでもハッキリとリュティさんが分かるのは胸元故だろう。


 本日の献立は何やら和風だ。

 一膳の中に全てが凝集されている。


 焼き鮭。

 海苔。

 若布ワカメの酢の物。

 卵。

 味噌汁。

 そして、白米。


 シンプルに統一された純日本食は日本人にとって最高の朝食に違いない。

 席に付いてそっと手を合わせる。


 頂きます。


 そんな風にする余裕も昨日の夕飯時は無かった事を考えると。

 今はかなり精神的に安定しているに違いない。


『やはり、カシゲェニシ様は公国のお方なのですね。その作法を昔お見かけした事がございます』


「そうなんですか?」


『はい。その時もこうして公国風の朝食をお出ししましたから』


「ごはんは日本の宝だと思う」


『カシゲェニシ様の故郷の事は存じませんが、ご冗談はお上手なんですね。ふふ……』


 ガスマスク越しではまったくにこやかな朝食とは成り得ないのだが、それでも和やかに食事は済み。


 最後に出されたお茶を一口啜ると全身が弛緩する。


「エニシ!! 馬車が来たぞ!! さっさと食べて行く準備を―――」


「どうぞ。日数分のお着替えと日用品の入ったトランクです。馬車の方にはもうお弁当を届けておきましたので、お昼頃になったらどうぞ」


 ササッと寄ってきてトランクを手渡され、手際の良さに驚いている間にもツカツカ歩いてきた昨日と変わらぬ態度のフラムが微妙に目付きを鋭くした。


「そういう事らしい」

「………そうか」


 明らかに何かを疑われている。


 しかし、何か言ってしまうと瞬間で弾丸が飛んできそうな以上、何も言わないのが吉だろう。


「行くぞ」


 白い外套が翻り、黒い制服の内側がチラリと見える。

 その胸には幾つかの勲章らしきものがあった。


「ああ」


『お帰りをお待ちしております』


「昨日も今日も美味しい食事をありがとうございました。じゃあ、また機会が有れば」


 後ろは見ずに歩き出すフラムに付いて玄関へと向かう。


「お前は食事しなくていいのか? フラム」

「先程、パンと塩と水。それから野菜を幾つか齧った。それで十分だ」

「そうなのか……あんなに料理上手な人がいるのに勿体無いな」


 靴を履き、玄関の扉に手を掛けた寸前。

 僅かに振り返る瞳がこちらを睨んで来る。


「料理、か……貴様は本当に一体、何なんだろうな……」

「オレはオレだ。それ以上に哲学的な事は言えないな」

「哲学? また、面白い事を……貴様は……いや、今はいい」

「?」


「貴様が何だろうと昨日言ったように軍務上の付き合いだ。命令が下れば、処分するだけ。もし、それ以外が命じられても、淡々と実行すればいいだけ……それだけだ……」


 また乾いた瞳をしている美少女に肩を竦める。


「とりあえず、一ついいか?」

「何だ? 下らん事だったら、殴るぞ」

「もっと胸の為に栄養のあるものを摂っ―――」


 ベキリと顎と首が嫌な音を立てて、即行で意識が落ちていく。

 たぶん、上段蹴り。


「やはり、貴様は敵だ!! この野蛮人め!!!?」


 羞恥と怒りの二重奏。

 見事なハイキックだった。

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