ゾウの国の果てで(予稿)

五臓六腑ひふみ

第1話 戦場に響くぞうさん

「君も怪物に食べられちゃうよ」

窓辺のぼくに、貴女が突然、語り掛けた。

サンフランシスコには雪が降っている。とりわけ僕らの故郷でもないけれど、なぜだか貴女と一緒に過ごした川崎で見た雪景色を思い出してしまうのは何故だろう、あの雪景色がいとおしいのは何故だろう。

彼女が買ってきたセイロンティーが、居間にある。このまま心まで凍えてしまいたくない。切実に僕は彼女の体温を欲している。しかし、答えが見つからない。

“いつでも8本足”――?


ああ、そうか―

貴女がいつも口ずさんでいたあの歌

 ぞうさん ぞうさん おはなが長いのね そうよ母さんも長いのよ

ブラジリアンマフィアの凶弾に襲われるまで生きていた貴女の歌が頭のなかに響き渡る

川崎は今もブラジルとの戦争で、周囲はプランクトン化した人間の死体が溢れている。

雪景色に見える白さは、全て命潰えた人間の死骸。テクノロジーの進歩によるマイクロマシンの暗躍で、

すべての生命は命の灯火が消えると同時にこれらの作用により速やかにプランクトンに分解・生成され、白の闇に消えていく

ズーン、ズーン、ズーン、ズーン、ぷにょ、ズーン、あ、やべ、ぷにょん、ズーン、ズーン

サンフランシスコからでもこの重く響く音はよく分かるようになった

口や耳からドロっとした味噌のようなものが流れ出てくる感覚がこみ上げてくる

爆心地からは数千キロも離れているのに、貴女の買ってきたセイロンティーの熱が消えていくのを、

感じながら、忘れまいとして、気がつけばあの歌を自ら口ずさんでいた。

重低音が響き渡る市街地の中でもはや足の数なんてとうに忘れかけていた

大事なのは貴女があの時言いかけていた言葉であった


ハワイ生まれの祖母が、幼い父に聴かせたという。

「オハナ、というのはハワイ語で友達という意味なのだよ」

あの大戦で、祖父は散った。祖母とは大恋愛の末結ばれたという。「グランパはね、とっても優しい人だったの。バァバが風邪をひくと泣いちゃうくらいにね」。祖父の遺骨はいまも、アジアの海のどこかにある。

ここは在日ブラジル人が集まる街、横浜市鶴見。祖母は「ブラジルの調味料が手に入るのよ」と川崎から電車でひと駅のここをよく訪れた。

国鉄の駅を降りて、まっすぐ進むと、商店街がある。幼かった私は、駅前の書店の子供雑誌を買ってもらえないことに駄々をこねた。そのたびに、祖母は少し困った顔をして、あの歌をゆっくり、ゆっくり、言い聞かせるように口ずさむのだった。「ぞうさん、ぞうさん――」

オハナ、は友達。信じていた。長く続く友と運命を共にしようと。

私の「かあさん」は――

この街で、母さんにはオハナがいたのか、分からない。ただ眼に浮かぶのは、西日が差し込む居間でワールドカップのテレビ放送を見て、少しだけ顔を上げてくれた、あの遠い日。


終わりの見えない戦いが続いていた。

ジャングルをさまよいながら、もう同じ風景ばかり見ている気がする。

食糧と弾薬は尽きかけ、仲間はもう幾人も見捨てていた。

上官の命令は今も生きている。敵を殲滅せよ。

私は硝煙と泥や血の匂い、腐った肉のような匂いとむせ返るような熱気と

草木の匂いに綯い交ぜになりながらも、

ふるさとの事を考えていた。

地平線に沈む夕日、ヤシの木、白い砂浜、マカデミアンナッツ、空港での芸能人のインタビュー

正直なところ、もはや幻覚や幻聴では無いかと思うぐらいにその光景は肉薄した雰囲気を私に感じさせていた。

もはや足の動きと手の動きはロボットのように骨と筋肉が誰かの力によって動かされているのではないかと思うぐらいになっていた。

もう何を見ても幻覚だろうと思えて、ピーナツバター人間に見えてきた仲間に向けて銃を向けようとしていたときだった。

いくら幻覚としても現実にはありえない風景が突如として広がっていた。

それは私に即座に幻覚と思わせつつつも現実のものだと同時に認識させるほどの圧倒的な存在だった。

どこかで爆撃機の音が聞こえる。その音だけが今自分が現実に存在しているのだと感じさせている。

それは親子のゾウだった。

こんな戦場の、上からも横からも攻撃が来るような戦場で、悠々と二頭のゾウが佇んでいた。

ゾウは無傷で、こんな大きな標的がいたらすぐに蜂の巣であるはずなのに、

ゾウの表情はただただひたすらに穏やかで私はここが戦場であること、いや現実であることすら忘れそうになっていた。

ぞうさん、ぞうさん おはなが長いのね そうよかあさんも長いのよ

気がつけば私は誰かにそう促されるように、歌い始めていた。はるか昔―戦地に行く前―に口ずさんだあの歌を。


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完全に多摩川を越えることは不可能となった。

所狭しと天に向かっていたタワーマンション群を覆い尽くすように雪が覆う頃、

ぼくはまたひとりプランクトン化しかけている人に向かって手を合わせたあとに、

頭のなかで響くぞうさんの歌を反芻していた。

巨大なゾウの群れは東京中枢を破壊し、超巨大カバとの最終決戦に向けて着実にその歩みを進めている。

灰色に覆われた空から燦然と眩しい光が一本刺し始めた。

それは一体何なのか、結果から言うと誰の目にも見ることができたが、

直後にその目は口や手とともにすべて焼き尽くされてしまったため、

誰もその正体について、話すことはできなくなってしまった。

ただ、ぼくはその光の正体を見る前に、誰かの声が聞こえたのを感じたため、正体を見ることはなかった。

それはいつも一緒にいて足はそれぞれ4本で合計8本。親子のゾウが空から現れすべてを無に還していくことを。

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