第36話 プードルの中でも最小サイズのトイプードルは温厚で社交的、頭が良くて抜け毛も少ない、飼いやすい犬種ナンバーワンと言われています。


「チョコ太郎の散歩に行ってきまーす」


 玄関でスニーカーを履き、チョコ太郎を抱えた私がリビングに向かって声をかける。


「いってらっしゃーい」の母の声を聞いてから、用意しておいた紙袋を手に持って、玄関のドアを開ける。


 冬至が近づいてきて、この時間でも空には薄紫色のカーテンが引かれ始めていた。

 店舗兼自宅の前面道路に植樹された銀杏並木は黄金色の葉を落とし始めている。


「さ、行こうか」

 防寒用のセーターを着せたチョコ太郎を舗道に下ろすと、アスファルトの冷たさを全く気にしない軽い足取りで意気揚々と歩き出す。


 そんな楽しそうなチョコ太郎の姿に、塞がって縮こまりそうな心が勇気づけられた。


 公園には、池崎さんが連れて帰ってきた亜依奈さんもいるかもしれない。

「ココちゃんのおかげよ」なんて、にっこりとお礼を言われるかもしれない。


 それでも、最後くらいはあのひとに負けないつもり。

 あのひとの前でも、堂々と池崎さんに思いを伝えよう。


 そうは思いつつも、二対一になるのが心細くて、チョコ太郎を同行させて加勢をお願いすることにした。

 ……まあ、タッグを組むのがチョコ太郎では2対1.3くらいにしかならない気もするけれど。


 🐶


 歩いて20分の親水公園の入口に着く頃には、夕闇のカーテンが川面にまで下りてきていて、遊歩道沿いの街灯が等間隔に並んで私たちを奥へといざなっていた。


 池崎さんと時間を合わせてお散歩をするとき、彼とアリョーナがいつも佇んでいる藤棚をめざす。


 人気ひとけの無さが余計に寒々しく感じさせる公園の中を目を凝らしながら進んでいくと、藤棚の下にあるベンチに座る人影が見えた。


 一人?


 ううん──



 あれは……





 あの影は──!!





 私が彼女のシルエットを見つけたのと、チョコ太郎が彼女を認めたのはほぼ同時だった。


 チョコ太郎に引っ張られるように藤棚の下へ向かう。





「アリョーナ!!」





 その声にふたりがこちらを振り返る。

 アルカイックスマイルの池崎さんの横で、アリョーナが優雅な尻尾をゆっくりと揺らした。


「アリョーナが……どうしてここに?」


 私はしゃがみ込んで彼女の首元に腕を回し、チョコ太郎は尻尾が取れそうなくらいにピコピコと振って彼女の足元にまとわりつく。


 池崎さんは、喜びと戸惑いでぐるぐると混乱している私を見て、アーモンドアイを丸くした。





「え?

 僕、ココちゃんに言ったよね?

 アリョーナを迎えに行くって」





 えっ……?




 え……っ?




「えええーーーーっっ!!?」


 絶叫の後、私はアリョーナの首に手を回したまま、金魚のように口をぱくぱくさせた。

 その様子を見て、池崎さんもしゃがみ込み、アリョーナの背中を撫でながら穏やかに微笑んだ。


「僕にアリョーナ大切なものを失ったら意味がないって言ったのはココちゃんだよ?

 だから、九州まで行って亜依奈の家族に頭を下げてアリョーナ彼女を譲ってもらってきたんだ」


「 じゃあ、離れても幸せを願ってるっていうのは、アリョーナのことだったんですか?」

「離れても幸せを願う気持ちは、亜依奈に対しても、アリョーナに対しても、もちろん持っているよ。

 でも、大人の対応をすることで僕が失いたくなかったのは、アリョーナと──」



 穏やかな笑顔のまま、まっすぐに私を見つめる。




「ココちゃんだよ」





 その言葉を、真正面から受け取っていいのか戸惑った。

 そんな私の心に言葉の真意を押し込むように彼が続ける。


「僕は以前、君の幸せを願ってるって言ったけど……。

 素直に本音を言えば、僕と一緒にいることで、君に幸せになってもらいたいと思ってる」





 勘違いじゃないよね?


 池崎さんからもらえた、今までで一番のキラキラ。


 私、受け取っていいんだよね?





 池崎さんが立ち上がった。

 つられるように私も立ち上がると、手にしていた紙袋がカサカサと音を立てて私に存在を訴える。


「今日は私、池崎さんに自分の気持ちを伝えようと思って来たんです」


 夕闇が影を落とす池崎さんの表情をじわっと熱さを帯びる目で捉えようとしたけれど、滲んでしまってよく見えない。




「わたし……私……

 ずっと、池崎さんが──」



 チョコ太郎のリードと紙袋の持ち手をぎゅっと握りしめていた両手に、ふわりと大きな手がかぶせられた。




「待って」



 私の震える声にも、低く穏やかな池崎さんの声が優しくかぶせられる。



「君にずっとその言葉を言わせなかったのは僕なんだから、僕から言わせて?」




 決壊寸前で押しとどまっていた涙が、その一言で簡単に溢れ出てきた。


 涙を拭おうにも彼の左手が私の両手に被せられたままで、零れた涙がぽたぽたとその手のうえに落ちていく。




「いつもまっすぐな気持ちで僕に向き合ってくれてありがとう。

 君といると、いつも楽しくて穏やかな気持ちになれる。

 僕の幸せは、君が傍にいてくれることなんだ」


 その言葉に、池崎さんの横に寄り添っていたアリョーナがうぉん!と声をあげた。


「いや……。確かにアリョーナにも感謝してるけど」


 苦笑いの池崎さんが私にかぶせた左手を離して頬をかいた。

 私はふふ、と笑いながら右手の甲で涙を拭う。


 アリョーナにもらった微笑みのおかげで、胸に迫る息苦しさが和らいだ。

 お互いの微笑みに照れ臭さを混じえながら、もう一度向き合う。




「いつも健気でまっすぐな思いをぶつけてくれる、そんなココちゃんが僕は大好きだ」



 池崎さんの穏やかな眼差しを、その言葉と共にしっかりと受け止めた。


 こみ上げてくる思いが、再び涙をせり上げる。




「私も……池崎さんが、大好きです」





 やっと言えた──




 やっと届いた──





 すぐにでも彼の胸に飛び込みたい衝動を抑えて紙袋を前へ差し出す。




「これ……、受け取ってもらえますか?

 私の思いを形にしたんです」


 紙袋を受け取った池崎さんが「開けていい?」と藤棚のベンチに腰掛ける。

 私も頷きながら隣へ座ると、彼は紙袋からグリーンのラッピング袋を取り出して、ゆっくりとリボンをほどいた。


「これ……Alenaアリョーナで……?」

「はい。池崎さんのために編むならこの毛糸しかないって思って」


 毛足の長いふんわりとしたオフホワイトのセーター。

 一目一目に思いを込めた編み目を確かめるように、指先でそっと撫でている池崎さんの横顔をこわごわと見つめた。


「告白と同時に手編みのセーター贈るって……重すぎますか……?」


 指の動きを止めて、池崎さんがこちらを見る。

 アーモンドアイが細くなり、穏やかな笑顔で私を眼差す。


「いや。すごく……すごく嬉しいよ。

 好きな女の子から手編みをもらうなんてこと初めてだ。

 こんなに嬉しいものなんだな」


 脇に置いた紙袋の上にセーターをそっと置いた池崎さんの手が、そのままゆるい弧を描く軌道で私の肩を抱き寄せた。


 私の肩が彼の胸に引き寄せられる。

 頭の上に、彼の顎がそっとのせられる。


「大丈夫。ココちゃんの気持ち、僕は全部受け止めるから。

 だから安心して、僕のこともっと好きになって」


 池崎さんの喉元から、柔らかな低い声が振動と共に直接伝わってくる。

 もう何も言葉にできなくて、こくんと頷くと、彼の胸板がほんの少し後ろに下がった。


 私も少し後ろに引いて見上げると、そこにはやっぱり穏やかな笑顔が私の眼差しを待っていて。


「僕もココちゃんにまっすぐ気持ちを向けていくよ。

 僕の気持ちも受け止めてくれる?」


 照れ臭さそうに、いたずらっぽく首を傾げて微笑む彼。

 もう一度、今度はこくこくと二回頷くと、彼はほっとしたようにふっと息を漏らした。




 そして──



 池崎さんの細くて長い人差し指が、私の頬につたう涙を堰き止めた。

 かと思うと、今度は親指で涙の跡を拭い、大きな手がそのまま私の輪郭をゆっくりと辿る。


 こみ上げてくるドキドキを、瞼と共に押し下げた。







 二人ばっかり仲良くしててずるい!

 とばかりにチョコ太郎がわんわん!と吠えた。

 後ろ足で立って、私の膝に前足をかける。

 静観していたアリョーナまでも、長い鼻先をそっと近づけてくる。




 それでも──




 私に重ねた池崎さんの唇が離れることはなく。





 犬たちが諦めてお座りの姿勢に戻る。




 それでも──




 お互いの気持ちを受け止め合うように、私たちが繰り返すキスを止めることはなかった。



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