池崎さん! もふもふしてもいいですか?
第30話 イングランド原産で最も有名なセター種であるイングリッシュ・セター。セターという名の由来は狩りの際に獲物を見つけるとその場に静かに座り込んで(set)飼い主に知らせる習性からきています。
本章のエピタイで紹介するイングリッシュ・セターは、次回のInterlude ~池崎馨の夢Ⅸ~に登場します。先取りしてご紹介します!
第30話 イングランド原産で最も有名なセター種であるイングリッシュ・セター。セターという名の由来は狩りの際に獲物を見つけるとその場に静かに座り込んで(set)飼い主に知らせる習性からきています。
〔今日は慌ただしく帰る形になってごめんね〕
〔私は大丈夫です。亜依奈さんの具合はどうでしたか?〕
〔解熱剤を飲んだらしく、僕が行った時には熱は下がっていたし、ただの風邪みたいだよ〕
〔たいしたことないようでよかったです〕
嘘。
本当は “大丈夫” なんかじゃない。
“よかった” なんて思ってない。
池崎さんが亜依奈さんに呼び出されて慌ただしく帰った日の夜のLINE。
画面の文字だけならば、きっと私の本心は隠せたはず。
亜依奈さんの元へ駆けつけた池崎さんは、彼女とどんな会話を交わしたのだろう。
病気だと甘える彼女にどんな介抱をしてあげたのだろう。
彼女に対して、どんな気持ちで接していたのだろう――。
墨を垂らしたような黒いもやもやが心の中いっぱいに渦巻いて、鬱々としたマーブル模様を広げていく。
これ以上心の染みを広げたくなくて、ベッドの上に座ったまま、隣で丸くなっていたチョコ太郎を抱き上げた。
そのままごろんと仰向けになり、伏せの態勢になったチョコ太郎を抱きしめて、胸と胸をむぎゅうっと合わせる。
チョコ太郎の黒く澄んだまあるい目に、歪んだ顔の自分が映る。
合わせた胸の温もりだけを感じたくて目を瞑る。
チョコ太郎の澄みきった心を、どうか私に分けてください。
健気で純粋な愛情を、どうか私に教えてください。
こんなもやもやはいらない。
池崎さんを信じて、池崎さんの幸せを願う、そんな純粋な気持ちしかいらないのに――!
🐶
翌日のチョコ太郎の散歩は、池崎さんとアリョーナのテリトリーとは反対の方向へ向かうことにした。
折笠山へ向かうなだらかな坂道をチョコ太郎を連れてとぼとぼと歩いていく。
日が落ちるのがかなり早くなり、ぼやけた白い光を発する街灯のほかは、歩道沿いの民家や畑もグレイッシュパープルの夕闇に溶け込んで輪郭をとどめなくなりつつあった。
時折車のヘッドライトが、俯いた私の視界から闇を掠め取っていく。
行くあてのない散歩だった。
そろそろ家の方向へ引き返そうか。
そんな風に思っていたとき。
山の方から、坂を下って走ってくる人影と共に「瑚湖ちゃん?」という声がこちらへ向かってきた。
肩幅のある引き締まったシルエットから、声の主はすぐにわかる。
「征嗣くん……。久しぶり」
「珍しいね! こっちの方に散歩に来てたの? なんにもない方向なのに」
「うん。なんとなく、気分を変えようかなって思って」
征嗣くんは弾む息の間に「ふうん」と相槌を挟みながら、首にかけたタオルで額の汗をぬぐいつつ、私の顔をじっと見た。
街灯の少ない道でよかった。
私の暗く沈んだ表情も、きっと周囲の暗がりに溶け込んでいるはずだ。
「もう暗いし、山の方はもっと明かりが少ないよ。
そろそろ家に戻ったら?
俺もそこそこ距離走ってきたところだし、途中まで一緒に歩いて帰ろうよ」
「うん……」
征嗣くんの明るさがささくれた心にチクチクと触るんじゃないかと不安になった。
けれど、その日の征嗣くんの明るさは、キャンドルの柔らかい光のように優しく私の中の暗がりを包んでくれて。
照らされた部分だけはマーブル模様のもやもやが消え去って、心地よい温かさがじんわりと染みていった。
「結局家まで送ってもらっちゃってごめんね。征嗣くん遠回りになっちゃったね」
「ココちゃんと久しぶりにゆっくり話せたから俺は嬉しかったよ」
尻尾をぱたぱたと軽く振りながら、征嗣くんが夜闇に白い歯をこぼす。
「瑚湖ちゃん、飲みに行かない?」
「えっ?」
「なんか嫌なことあったんならさ、ぱあっと楽しく飲んで忘れちゃおうよ!
こないだ俺が大会で優勝した祝賀会も兼ねてさ!
……って、祝賀会って自分が言い出すことじゃないか」
いいこと思いついた!って顔を輝かせた後に気恥ずかしそうに後頭部に手を持っていく征嗣くん。
やっぱり彼は裏表がなくてわかりやすい。
わかりやすくてほっとする──。
「そうだね! お祝いまだしてなかったし、たまには飲みに行くのもいいかも」
彼につられて、素直な気持ちでそう言えた。
「マジでっ!? やっったぁー!!」
大袈裟に両手を突き上げて喜ぶ征嗣くんに、思わずくすりと笑いがもれた。
🐶
LINEでお互い都合の良い日を伝えあって、翌週の月曜日に待ち合わせた。
てっきり大衆居酒屋あたりで飲むのかと思っていたら、駅前で待ち合わせた征嗣くんが入ったのは、シャインロードの一本裏通りに佇む、小洒落たアメリカンダイニングバー。
「へぇー。征嗣くん、こんなお洒落なお店知ってるんだね!」
「体育会系だから、居酒屋ばっかり行ってると思った?
実はこういう店を探すの結構好きなんだよね」
オールディーズの流れる明るいセピア色の照明の下、アメリカのビールのロゴの入ったグラスを傾ける征嗣くん。
「遅くなっちゃったけど、優勝おめでとー!」
「サンキュー!」
同じグラスをカチンと合わせて、久しぶりのビールをゆっくりと口に運んだ。
征嗣くんの学生時代の体育会系サークルのはっちゃけた話とか、どんな犬種が好きかっていう犬バナとか、グラスをどんどん空けながら二人で熱く盛り上がる。
アルコールと楽しい会話が、
「ココちゃん、ちょっと飲み過ぎたんじゃない?
夜風にあたって少し酔いを覚まそうか」
お店を出る頃には、征嗣くんに気遣われるほど酔いが回っているようだった。
🐶
「そう言えば、椎名川親水公園の紅葉ライトアップが始まったってお袋が言ってたんだ。
まだ紅葉には早いけど、酔い醒ましにちょっと歩こうよ」
駅前のタクシー乗り場でサラリーマンの行列待ちに混じりながら、征嗣くんが笑顔で私を覗き込む。
「うん、いいねぇ」
顔はぼわんと熱いけれど、足取りはそんなにふらついてない。
ひんやりした夜風に当たりながらゆっくりと歩くのは気持ちがいいかも。
親水公園は池崎さんとアリョーナのテリトリーでもあるけれど、夜遅くなら散歩に出ていることもないだろうし。
こういった思考ができる程度には意識がはっきりしていた私は、タクシーが公園に向かう間もふわふわとした心地のまま車窓を流れる夜の景色をぼんやりと眺めていた。
「ライトアップしてるのはこの奥のはずだな。
運転手さん、この先は一方通行になるんで、ここら辺で降ろしてください」
征嗣くんがタクシーを停めて降りたところは、公園へ向かう細い道路に入る手前の路肩だった。
「ここから公園まで5分くらいだけど歩ける?」
「全然大丈夫だよ! むしろ歩いた方が気持ちがいいし」
二十年前はニュータウンと呼ばれていたらしい住宅地の細い道路の先に、影絵のような黒い木々が広がっていて、地面近くの柔らかな光が幹のシルエットをぼうっと浮かび上がらせているのが見える。
そちらへ向かって、カーテン越しに明かりの漏れる家々の前を二人でゆっくり歩いていたときだった。
斜め前の家の扉がガチャッと開いて、真っ暗だった玄関ポーチの照明センサーが反応し、白い光が下に立つ人物を照らし出した。
「あれ? 馨さん?」
隣にいた征嗣くんが、驚いたように高い声をあげた。
ふわふわと軽かった足取りが、何かに絡め取られたように動けなくなる。
玄関のドアを開けたまま、驚いた顔でこちらを見る池崎さんの背中から、黒髪をおろした亜依奈さんがひょこっと顔を覗かせた。
「あら!ココちゃん!こんばんは」
立ち尽くしていた池崎さんを押し出すように、スリッポンをつっかけてポーチへ出てくる。
「ココちゃんがこんな時間にこんなところ歩いてるなんてびっくり!
……あ、ここ私の自宅なの。部屋着のままの恥ずかしい格好でごめんなさいね」
スウェット素材のパーカーに膝下のフレアースカート、化粧を落としてキツさの和らいだ目元が、以前会ったときよりも随分と幼く見えた。
「あ……」
酔っているせいか、頭が真っ白で何も考えられなかった。
言葉も出なかった。
「瑚湖ちゃん、行こう!」
どうして征嗣くんが私の手首を強く握って公園へとぐんぐん引っ張っていくのか、酔っていた私には何もわからなかった。
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