第25話 厳しい寒さに耐えられるバーニーズマウンテンドッグですが、夏の暑さには弱く、人との触れあいが大好きな犬なので、室内で愛情をかけて飼育することが望まれます。

「おはよう」

「おはようございます。よろしくお願いします」


 先日のデートの時のように、池崎さんが助手席のドアを開けてエスコートしてくれる。

 私はチョコ太郎を抱えたまま、革のシートに乗り込んだ。

 後部座席からにゅっと長い顔を出してきたアリョーナにも「おはよう」と挨拶すると、膝に抱えたバッグの中のチョコ太郎が尻尾を高速に振って伸び上がり、アリョーナと鼻先を近づけて挨拶する。

 池崎さんが運転席のドアを開けて乗り込むと、秋風になりたての爽やかな空気がふわりと車内に入り込んできた。


 この間のデートはあんなに嬉しくてドキドキしていた車の中なのに、今日は戸惑いと緊張でドキドキしている。


 ―――――


 サークルがあった先週の土曜日。


 私は征嗣くんの大会の応援に行って、サークルで池崎さんに会って、無関心をつきつけられて。

 その後 “ごめんね” って謝られて、今日のドッグランに誘われた。


 池崎さんの考えていることが、よくわからない。


 よくわからないのに、やっぱり私は彼に会いたかった。


 ドッグランへのお誘いLINE。

[予定があるので、すみません]

 と返信しかけた文字をデリートした。


 しばらく空白のメッセージボックスを見つめた後、

[わかりました。行けます。]

 と入力して、送信ボタンを押した。


 届かない辛さを何度も味わっているのに、

 行先変更すれば、すぐ手に入りそうな幸せが見えているのに、


 それでも私は、この間見つけたたくさんの宝物を手放せないでいる。


 ──―――


「貴重なお休みに付き合ってくれてありがとう」

「いえ……。私もアリョーナが気持ちよく走る姿を見たいので。チョコ太郎もドッグランに行けるのは喜びますし」

「そう言ってくれてよかった」


 ほっとしたように、深めの息とともに言葉を吐き出す池崎さん。

 池崎さんも、こないだのやりとりを気にしているのかな……。


 私のこと、少しは気にしてくれてるのかな──。


 🐶


 あの事件のあったログハウス内のカフェを通り、ドッグランを囲う柵沿いを歩く。

 お互いどこかぎこちなく、沈黙の間に時折当たり障りのない会話を差し挟む。


 芝生広場の入口の手前に来た時に「しまった!」と池崎さんが声をあげた。


「どうかしました?」


「いや……。ココちゃんに、アリョーナの走る姿を間近で見てもらおうと思ってたけどさ……。

 よく考えてみたら、ココちゃんやチョコ太郎とは、僕達が利用できるエリアは違うんだよね」


【←小型犬専用エリア】【大型犬エリア→】の案内板の前で呆然と立つ池崎さん。


「それって……こないだ征嗣くんがまったくおんなじこと言ってたじゃないですか」


 あのときの征嗣くんと同じように、池崎さんにしょんぼりと垂れ下がる尻尾が見えた気がして、思わず吹き出してしまった。


「あぁ、そういえばそうだったね」


 池崎さんが気まずそうに頬をかいた。


 私がクスクス笑っていると、「ちょっと笑いすぎじゃない?」とムッとする。


「池崎さんの笑い上戸がうつったんですよ」

 ムッとした顔が可愛くて笑い続けていたら、「そんなに笑うところかな」って、池崎さんまでくつくつ笑い出した!


 案内板の前で笑う私たちを、柵の中にいる人たちが訝しげな顔をしてチラ見している。

 そんな状況が余計におかしくて笑いが収まらないうちに、あれこれ悶々と考えていたことがどうでもよくなってきた!





 一緒にいられれば、それで幸せ。





 もやもやを笑い飛ばした後に残ったシンプルな気持ち。


「じゃあ、柵の真ん中で待ち合せましょう」と池崎さんに微笑んだ。


「了解。また後で」池崎さんも柔らかく微笑み返して片手を上げた。


 🐶


「わあぁ……! アリョーナ綺麗……!」


 緑の芝生の上を、白い長毛を風になびかせて優雅に走るアリョーナ。

 コマーシャルや映画のワンシーンで使えそうなくらいになるなぁ。


「あいつ、本当に嬉しそうに走ってる……。

 ココちゃん、改めてありがとう」

 柵越しの池崎さんに居ずまいを正してお辞儀をされ、慌てて両手を左右に振る。

「そんな! こないだ素敵なお礼もしてもらったし、もう気にしないでください!」


 胸の前に出した私の右腕を池崎さんの眼差しが捉えた。

 今は絆創膏もしていないけれど、マキシの歯形が赤みを帯びた皮膚に変わって痕を残していた。


「ココちゃんが僕たちを助けてくれるかもしれないっていうのは、なんとなく予感していたんだ。

 けれど、そんな風に怪我を負わせることになるなんて思ってもみなかった」

「それって……前に言っていた、予知夢を見たからわかってたってことですか?」

「まあ、そんなところだね」


 池崎さんは、アリョーナがトラブルに巻き込まれることも夢で察知していたんだよね。

 出会ってすぐの頃、私が夢の中に出てきたようなことも言っていた。


 池崎さんには、ちょっと先の未来が見えるってこと……!?


「その予知夢に、私が出てきたりするんですか?」

「ココちゃん本人っていうわけじゃないけれど、ココちゃんってわかる姿で出てくるよ」

「その夢の中で、私が池崎さんを助けたんですか?」

「そう。夢の中でも僕の無実を君が証明してくれたんだ」


 なんかそれって、かなり正確な予知夢なんじゃ……。

 そうなると聞いてみたい。

 これからの私たちのこと。


「その後、私が出てくる夢は見ました?」


 その質問に、池崎さんは表情を微妙に変える。


「あ……、うん。一度見たね。

 ただ、正確にはココちゃんは登場しなかった。

 夢の中でココちゃんはセージ君と出かけていて、僕の前には現れなかったんだ」

「へえ……」

 征嗣くんまで夢に登場しているとは。

 征嗣くんのライフセービングの大会の応援に私が行くことを予知していたってことかな。


「ごめんね」


 不意に、こないだ送られてきたLINEと同じ言葉が池崎さんの口から出た。


 解釈に戸惑って彼を見ると、池崎さんの穏やかな瞳がわずかに揺れていた。



「サークルで、いたずらに盛り上がる人達の前で煽るような発言をしてしまったこと……。

 ココちゃんがすごく対応に困っていたのだから、僕はフォローするべきだったのに。

 夢に影響されて、あんなことを言ってしまったんだと思う」



“征嗣くんはいい人だと思うよ”



 この一言が予知夢に影響されての言葉だとしたら、池崎さんの本心はどこにあるんだろう――?


 なおも戸惑いの消えない私を前に、池崎さんはわざと明るい声で不思議な夢の話を終わらせた。


「まあ、そんな感じで時々ちょっと変わった夢を見てしまうんだけどさ。

 これからは僕もあまり夢に引っ張られないようにしようと思うんだ。

 だからココちゃんも、夢の話は忘れてくれる?」


 もしも池崎さんに未来が見えているのなら、どうしても気になってしまうよ。


 夢の中の私は、池崎さんとどんな距離にいるんだろう?


 夢の中の私は、池崎さんの前で笑顔でいられているのかな?


 夢の中の私が、いつか池崎さんの隣にいられる日はくるのかな──?


 🐶


 爽やかな風の吹くドッグランでアリョーナとチョコ太郎をたっぷり走らせながら、いつものようにたわいもない話をした。


 優希の彼氏の健太郎君がここのカフェのパンケーキを気に入ったのだという話をしたら、それを食べてみようということになった。


 池崎さんはパンケーキはメープルシロップのシンプルなものがいいと言って、上に盛られた生クリームをナイフですくって私のパンケーキに乗せてきた。


「だったらこの “メープルシロップパンケーキ” にすればよかったのに」と私がメニューを指さすと、「そこに書かれてるの、気がつかなかった」とちょっと落ち込んだ。


 その後もう一度ドッグランに戻って、池崎さんがアリョーナとじゃれ合いながら走るのを笑いながら眺めた。


 🐶




 その日がきっかけだったんだと思う。




 バザーの販売グッズに使うお花モチーフの相談や、[明日の夕方、親水公園に散歩に行くつもりだよ]といったお散歩情報をLINEでやりとりするようになった。


 秋に入り散歩に出やすくなったせいもあってか、親水公園で一緒に散歩をする機会も多くなった。


 池崎大陸のフィヨルドが、徐々に削られているんじゃないかと思えていた。


 このまままっすぐ順調に、彼に向かって突き進んでいけるんじゃないかと思えていた。




 そう。




 あのひとが、再び私の前に現れるまでは──。

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