第5話 飾り毛のある大きな耳が羽を開いた蝶のように見えることから名付けられたパピヨンは、マリー・アントワネットなどの貴婦人から寵愛を受けた優雅な風貌の小型犬です。

「やっぱりあれがいいんだよねぇ……」


 翌週のお店の定休日、私は再び市民センターに向かった。


 先週借りたミステリーはまだ読みかけだし、ケークサレだってチェックしたレシピを試せていない。


 でも気になって仕方がないんだ。


 あの水色のサマーニットセーターが。


 こないだは前カレの言葉を思い出して辛くなったけれど、それでもまたあのセーターに会いたくなった。

 すごく繊細で、すごく優しい風合い。

 可愛いけれど、大人っぽさもちゃんとあるデザイン。

 もう一度あのセーターが見たい。

 っていうか、あのセーターを着てみたい!


 市民センターの窓口を通り抜けて、階段の先の陳列スペースに向かう。


 よかったぁ! あった!

 ハンガーに掛けられて、陳列スペースの壁に背中を合わせている。


 目の前に立ってみる。


 うん。

 今日は大丈夫!

 こないだは不意に見つけてしまったから、突然あの言葉を思い出して辛くなっただけだ。


 よく見るとサマーニットの下に、細長い紙でサークル名が書かれている。


【手編みサークル トリコテ 】


 トリコテ?

 不思議な名前。


 私はそれを記憶して、二階のコミュニティセンターへ向かった。


「手編みサークルトリコテに問い合わせしたいんですけど、連絡先を教えていただけますか?」


 コミュニティセンターの受付にいた女性に尋ねてみる。


「少々お待ちくださいね」

 中年の女性が席を立って、後ろの棚からフラットファイルを取り出し、綴られた紙をめくり出す。


 あのサマーニットセーター、譲ってもらえるものだろうか。

 もしダメなら、編み図だけでも欲しいなぁ。


 そんなことを考えているうちに、窓口の女性がメモを一枚渡してくれた。

 そこには、代表者の福田和美さんという名前と携帯電話の番号が書かれていた。


 🐶


「あのセーターは講師の先生が作ったのよ~。

 だからお譲りできるか、編み図があるかは先生に聞かないとわからないわねぇ」


 いかにも気の良さそうなおばさんといった口調の福田さんが電話の向こうでそう話す。


「今度の土曜日の夜7時からコミュニティセンターでサークル活動があるの。

 もしよかったら、そこに顔を出して講師の先生に直接聞いてみたらどうかしら」

「わかりました。じゃあ、その時ちょっとお邪魔してみます。ありがとうございます」


 丁寧にゆっくりと電話を切った。


 なぜ私はあのサマーニットセーターにそこまで心を奪われているんだろう。


 既製品ではあんなに手の込んだものは見つからないかもしれないけれど、ネットで探せば凝った手編みの作品を販売している人も沢山いる。

 そう考えて、ネットで似たようなデザインを探してみたけれど、どれもやっぱりピンとこなかった。


 普段の洋服はお出かけ着だってそこまでこだわってるわけじゃない。

 街中のファッションビルを2~3箇所回れば服も小物もまかなえる。

 でも、あのセーターだけは、どうしてもあれが欲しいと思った。


 高校時代から編み物は好きで、優希にお揃いのマフラーを編んで一緒に巻いてたこともある。

 前カレに編んだセーター以来、編み物には手をつけていなかったけれど、久しぶりに編んでみてもいいかなって気持ちになった。


 大丈夫!

 少しずつでも私は前に進んでる!


 編み物にもう一度触れることでそれを実感できたら、また池崎さんに声をかける勇気も持てるような気がした。


 🐶


 土曜日は、夕方6時過ぎに最後の予約のトリミングを終えた。


「お母さん、今日私7時前にお店出てもいいかな? ちょっと市民センターのサークルのぞきたくって」

 一緒に掃除をしている母に話しかけると、母は掃除の手を止めずに問い返してきた。


「サークル? 別にいいけど、何のサークルに興味があるの?」

「手編みサークルなんだ。こないだ市民センターに可愛いサマーニットが展示されててね。それを譲ってもらうか、編み図をもらうかできないかなって思って」


 私がそう言うと、箒で床に落ちた毛を集めていた母の手がぴたりと止まった。

 顔を上げた母がにこやかに微笑む。


「瑚湖が編み物するなんて、すごく久しぶりじゃない? 上手だったんだし、自分で編んでみたら?

 夜なら時間の融通もきくし、サークルに入ったっていいのよ?」


 母は私が前カレに手編みセーターを編んだ直後に別れたのを知っている。

 その後、私が編み物をしなくなったことも知っている。

 口には出さないけれど、私が編み物の話をしたことで母もホッとしているみたいだ。


「ありがとう。とりあえず今日は顔を出すだけね。サークルに入るかどうかはそれから決めるよ」


 私はドッグバスを洗い流しながら、この二年半、私のことを密かにずっと心配してくれていた母にお礼を伝えた。


 🐶


 7時を5分ほど過ぎて、コミュニティセンターの第二会議室の前に到着した。

 ドアの右半分に嵌め込まれたすりガラスから、室内の蛍光灯の白い光と数人が談笑する声が漏れてくる。


「こんばんは……」

 ちょっと緊張しながらドアを開けると、会議テーブルにサマーヤーンの玉をのせ、編み針を手に持ちながら談笑する女性数人が一斉にこちらを向いた。


「ああ! お電話くださった成田さんね!」

 恰幅の良い初老の女性がにこやかにそう言うと、手にしていた編み針を会議テーブルに置いて立ち上がる。

 この人がきっと電話で話した福田さんなのだろう。


「講師の先生、まだいらしてないのよ。

 とりあえず空いてる席に座って待っていてちょうだい」

「あ、はい」


 15人ほどが座れるように、ロの字形に配置された四つの細長いテーブル。

 L字に座る7人のおばさま達から2つほど席を空けて、私はお行儀よくパイプ椅子に座った。


「随分若いお嬢さんねぇ。おいくつなの?」

 うちの母と同年代に見える女性に尋ねられる。

「23です」

「まあ! うちの息子と同い年ね!

 若い人が入ってくれたら、先生もきっと喜ぶわよねぇ」


 まだサークルに入るって決めたわけじゃないんですけど、と心の中で言いつつ、愛想笑いだけを返す。


「私もあと20歳若ければ、先生にアタックしてたのにねぇ~」

「あらやだぁ!20歳程度じゃきかないでしょうよぉ~」

 アハハ、オホホ、と笑い声が飛ぶ。


 愛想笑いを続けながら、心に湧き上がる疑問。


 20歳若ければアタック???


 講師の先生って──


 その時、私が背中を向けたドアがガチャッと開く音がした。


「お待たせしてすみません!」


 聞き覚えのあるイケメンボイスにぎょっとして振り向く。


 そこには、まごう方なき池崎さんが顔をのぞかせていたのだった。

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