其の参
深々と頭を下げた妙子は、ほとんど誰にも聞こえないような小さな声で「お願いします」と呟いた。
「どうか、お願いします。私の、私に憑いている狐を、祓ってください」
清はそれに答える前に、障子戸を閉めた奏太の方を振り返った。彼は戸に手をかけたままじっと二人を注視している。妙子のか細い声が彼のところまで届いていたかどうかは定かでない。清は大丈夫、というように一つ頷いて見せ、裏庭の方をすっと指し示した。奏太は顔を背け、障子戸をぴたりと閉めて部屋を後にする。狭く薄暗い部屋の中、清と妙子は二人きりになった。
「妙子さん」
はい、とかすれた返事が返ってくる。
「あなたもお母様も、狐憑きではありません」
妙子は顔を上げると途方に暮れた様子で清を見つめ返した。赤く腫れた目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「でも」
震える声が迷いながらも続ける。
「伯父さんはそう思っています」
「妙子さんは伯父さんと暮らしたいですか」
清が問いかけると妙子は言葉に詰まった。目線を自分の膝の上に落とし、絞り出すようにつぶやく。
「もう他にどこにも行く場所はありません」
「では、うちに来ませんか」
さらり、と何でもない事のように清がそう言った。妙子の首が下を向いたまま小さく横に振られる。肩が小さく震えだし、膝の上の握りこぶしは開かれ顔を覆う。
ふっ、と清の口から、笑いともため息ともつかない息が吐き出された。
「そんなに、嫌ですか」
彼の言葉は冗談めいたものだったが、それを聞いた妙子の方は必死だった。ぶんぶんと勢いよく首を横に振ってしゃくりあげる。
「ちがう、ちがうんです。嫌、じゃ、ないの。そうじゃ、ない」
妙子の涙はもう止まらなかった。一度泣き声をあげてしまえば簡単には止められない。うずくまって上下している背中を清の手が遠慮がちにとんとんと優しく叩いた。
泣き疲れた妙子が眠りに落ちるまで、我が子をあやす母親のように清はその手を止めなかった。
妙子が目を覚ますと、既に日が傾いていた。締め切られた部屋の障子戸が夕陽を浴びて橙色に染まっている。灯りのない部屋の中は昼間よりも更に暗い。どれだけの間眠っていたのか、熟睡していた彼女には分からなかった。ここ数日まともに寝ていなかったためか、変な時間に寝てしまったからなのか、体がだるい。起き上がると、畳からべりっと顔がはがれひりひりとした痛みを感じる。頬に触れてみればくっきりと畳の凹凸が刻まれていた。体にかけられていた薄っぺらい掛け布団がずるりと落ちる。思わず手に取ったそれは見慣れない模様をしていた。ふっと鼻に届いた自分のものとは違うにおいに、ぼやけた思考が一気に鮮明になる。
覚醒した妙子は起き上がり、きょろきょろと辺りを見回した。四畳半の狭い部屋には彼女の他に誰もいない。
「奏太ちゃん……」
姿が見えないだけで実はいるのかもしれないと、幼馴染の名前を呼んでみる。すると案の定、何もない空間からすうっと奏太の姿が現れた。
「起きたか」
「あの、清さんは」
「出かけた」
「そう」
妙子はため息をこぼす。腫れぼったい目をこすっていると、目の前にしゃがみこんだ奏太が顔を覗き込んできた。
「泣かなくていい。清がいればあいつに手出しはできない」
「うん。でもね、私はずっとここにいられるわけじゃないの」
奏太がきょとんと首を傾げる。
「なぜだ」
「伯父さんの家は東京にあるの。明日になったら、私も伯父さんと一緒に東京へ行かないといけないの」
「とうきょう、とは、なんだ」
「ええと。ここから汽車に乗って、半日ぐらいかかるところにある町だよ。私は……もう、お母さんもいないから、一人じゃ今の家に住んでいられないの」
「ここに住むのではないのか」
「だめだよ、そんなの。迷惑かけるわけにはいかないよ」
「迷惑ではない」
「……そう言ってもらえるのは、本当に嬉しいけど」
妙子は口ごもった。孤児になったからといって、清の好意に甘えているわけにはいかないのだ。引き取ってくれる親戚がいるだけありがたいことであり、我儘を言ってはいられない。他人の家に厄介になることなどできるはずがなかった。たとえ生まれ育った町を離れるのがどんなに心細くても、だ。
だが、それを奏太に納得させるのは難しそうだった。不満げに彼女を見上げる奏太は人間の子どもの姿をしているが、本当は人間でないことを彼女は知っている。彼には人の常識が通用しないのだ。伯父のことが好きになれなくても、清のことがどんなに好きでも、妙子には東京に行くという選択肢しかない。奏太は何故だ、と問うだろう。行きたくないのに何故行かなくてはならないのか。何故だろう、と妙子は思った。病に倒れた母の代わりに家事の一切を引き受けてきたし、あちこちに頭を下げて回って母の薬も手に入れた。少しでも栄養のつきそうな食べ物は全て母に与え、狐憑きだと言われるようになってからは毎日のようにお社へ通って母を助けてもらえるようにお参りした。清のところへも狐を祓ってくださいと頼みにきたが、その時も彼は狐など憑いていないと言った。玄治と二人で店先の野菜を持ちきれないほど渡してくれた。
できる限りのことはしたが、それでも母は冷たくなった。
とんとん、と外から襖を叩く音がした。清かそれとも玄治か。襖を開けようとしているが、何かがひっかかっているらしい。がたがたと音がして襖が揺れている。妙子は立ち上がり襖を開けようと手を伸ばした。
「だめだ、開けるな」
「え」
振り返った拍子に妙子の手が襖に触れる。その瞬間、襖がすぱんと大きな音を立てて開いた。視界の端に赤い着物を着た小さな手が映る。ぬっと音もなく妙子の眼前にその白い指が突き出される。
「妙子っ」
奏太に手を引かれ、畳の上に尻餅をついた。赤い着物の子どもに奏太が思いっきり体当たりをかます。部屋の敷居を跨ごうとしていた子どもはよろめいて数歩後退した。仁王立ちしている奏太の後ろにかばわれながら、子どもの風体を覗き見た妙子は悲鳴をあげそうになった。
子どもには首がない。異様に赤い着物の袖と裾からはそれぞれ血の気を感じない白い手足が伸びているが、白い首は引きちぎられてささくれ立ったような歪な断面を晒している。怪しのものだ。子どもはその白い両手をかっと突き出し奏太に襲いかかる。奏太の肩越しに、あるはずのない子どもの目が自分を見据えているような気がして妙子は身震いした。首の表面がひりひりと痛い。
首を絞めようとしているのか、子どもの両手は奏太の首元をまっすぐに目指す。奏太はぎりぎりまで身動きせずに子どもの体を近付けると、袂から取り出した紙の札を子どもの首の断面へ叩き付けた。
「失せろ」
火花の散るような音が響き、子どもの小さな体が弾かれたように吹っ飛ぶ。廊下の向こう側の壁に激突するかと思われたとき、妙子の視界からはふっと掻き消えてしまった。金属を引っ掻くような甲高い悲鳴が、耳にではなく頭の中に直接鳴り響いている。耐えきれずに頭を抱え畳の上でうずくまる。頭が痛い。喉が痛い。うまく息ができない。
奏太は乱暴に襖を閉めると、袂の札を襖にもう一枚貼りつけた。妙子が襖を開けようとしたことで怪しのものを招き入れる形になってしまったが、改めて封をしたためもうここから侵入することはできない。ぐるりと部屋を見回しても、守りの薄いところは見当たらない。これでひとまず清が戻るまでは持ちこたえられるはずだ。
そう思っていられたのは束の間のことであった。
恐怖と衝撃の余り呼吸すら覚束なかった妙子が落ち着きを取り戻したころ、また襖を叩く音が聞こえてきたのだ。札が貼りつけられていない方の襖からとんとん、と音がする。びくりと震えた妙子の前に立ち塞がりながら、奏太は身振りだけで返事をするなと示した。
「妙子ちゃん、どうだ。もう起きてるか」
玄治の声だ。妙子が奏太に目配せするも、奏太は駄目だと言うように首を横に振る。
「そろそろ腹が減っただろう。味はよくないかもしれないが、飯を用意したから一緒に食べよう」
話している間にも、声の主はがたがたと襖を揺らしていた。奏太も妙子も返事をしない。妙子に関しては、したくてもできないというのが正しかった。襖が音を立てて揺れるたびに、首の左側が痛むのだ。最初はひりひりする軽い痛みだったのだが、時間が経つにつれて痛みが増してきている。まるで鋭利な刃物かなにかを押し付けられているような痛みだ。当然ながら手で触れてみてもそこには何もない。傷はないのに、首を切られる感触がある。妙子は首を守るように添えた手ががくがくと震えているのが分かった。気が狂いそうだった。
「もうすぐセイが来る。それまでここから出なければ、あいつを招き入れなければ大丈夫だ。だから安心しろ」
奏太の言葉が、妙子には気休めにもならない。襖は壊れそうなほど騒がしい音を立てて揺れており、床も天井もみしみしと不吉な音を鳴らしている。刃物を押し付けられている感触は、はっきりと肉を切られる感触に変わっていた。ざり、ざり、と異物が体内へ押し込まれる。生命の灯火が消えていく感覚。手足の先から血の気が引いていく。まるであの怪しのものと同じような白い手足へ変わっていく。がちがちと歯を鳴らし始めた妙子は、刃物が骨に到達したことを示す鈍い音に声にならない悲鳴をあげた。
意識を怪しのものへ向けていた奏太は、背後から聞こえた妙子の不規則な呼吸音にようやく異変を感じ取った。部屋の守りは未だ破られてはいない。だが妙子の様子は明らかにおかしかった。一度でも正対してしまったのがいけなかったのだろうか。奏太は妙子の肩を掴み見開かれたその目と目を合わせる。
「妙子、怖がるな。この中にいれば手出しはできない。怯えてはだめだ。あいつの思うつぼだ」
こくこくと壊れたからくり人形のように妙子は頷いた。彼女とてこの痛みが怪しのものによるまやかしであることは分かっている。だが分かっているからといって恐怖するなというのは無理な話であった。首を切られる感覚など当然ながら体験したことはないし、正気でいられるようなものではない。だから、夕陽の差し込む障子戸の方から聞きなれた声が聞こえてきたとき、彼女が彼の名を呼んでしまったのも仕方のないことであった。
「妙子さん、無事ですか」
「清さんっ」
瞬間、奏太の体が宙を蹴った。目にもとまらぬ速さで文字通り障子戸へと飛び付いた奏太は、障子紙が破れそうなほどの勢いで札を叩き付ける。開きかけていた障子戸ががたんと大きく揺れ、部屋が再び閉め切られる。その後も障子戸はかたかたと小さく揺れ、まるで貼りつけられた札を振り落さんとするかのようにその動きが強まっていく。奏太は片方の手で札を押さえ、もう片方の手で障子戸を止めようと押さえた。
そして、障子戸が締め切られるのと同時に、妙子の首に一筋の赤い線が走った。その線からは真っ赤な血がじわりと滲み、呆然としている彼女のすっかり白くなった指を染めていく。首を伝って黒い喪服にしみ込んだ辺りで、彼女はこわごわと自分の手を見つめた。彼女の頭の中が真っ白になる。これはまやかしだ、と自分に言い聞かせることもできなかった。肉を切られる生々しい感触と痛み、骨を削られる音と振動、そして傷口から流れる血液の赤い色。五感の全てが支配された彼女には自分の目に映り耳に届くものが真実だとしか思えなかった。
意識が遠のいていく中、彼女は確かに自分の骨が砕ける音を聞いた。
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