其の弐
店頭へ顔を出すと、待っていたのは見慣れない男だった。
鉄道が敷かれて寂れたとはいえ、街道沿いの宿場町において一見の客自体は珍しいものではない。 ただ、この店の客には常連が多く、野菜を買っていってくれるのはもっぱら近所の住人である。知らない人間が訪ねてきた場合、ほとんどが八百屋の客ではない。今回も例外ではなく、清の方の客であった。
黒一色の喪服を着た男は、現れた清を訝しげに見やる。男の年齢は五十代半ばごろだろう。口元に生やした髭、短く刈り込んだ固そうな髪にぽつぽつと白いものが混じっていた。顔つきは穏やかで人の良さそうな印象を受ける。
「はじめまして」
清は会釈をすると、男の足元へちらと視線を落とした。男の足に隠れるようにして、赤い着物の袖と小さな白い手がのぞいている。喪服を掴むその手はちょうど男の膝の高さだ。奏太と同じか、もしくはもっと幼い子どものようだ。子どもは清の視線を感じたのか、ぬっと顔を出した。
正確には、顔を出したというよりも身を乗り出したというべきである。なにしろその子どもには首から上がなかったのだ。
目の覚めるような真っ赤な着物からのぞく手足は陶器のように白く細い。ひときわ色の濃い襟元では、これまた白い首が途中でねじ切られたような歪な断面を晒していた。血が流れているわけではない。ただ「ない」のだ。首の上にあるはずの頭がまるごと存在しない。
子どもはじっと清を注視しているようだった。首がないので正確には分からないが、その体はまっすぐ清の方を向いて微動だにしない。清は表情を変えず、何も見なかったかのようにごく自然に子どもから視線を外した。
「君が……」
男は言葉を探して口ごもる。清の頭から爪先までを遠慮がちに、しかし疑いの色を隠しきれずにまじまじと見つめまわした。初めての客については、これも常のことだ。
「お話なら中でお伺いします。こんな往来でする話ではないでしょうし」
「あ、ああ」
男はちらり、と通りを振り返った。男から数歩離れた位置に、彼と同じく喪服を身につけた少女がうつむきがちに身を縮めている。少女の両手は固く握りしめられ血の気が失せていた。少女は男の視線に気付くと、青ざめた頬をぴくりと震わす。おずおずと男を見返した目は、清にすがるような視線を向けた。
「お久しぶりです。妙子さん」
清がにこりと微笑んで見せると、少女はまたうつむいてしまった。
客間というには少し狭い四畳半の部屋で腰を下ろすと、男は向かいに座った清にしかめ面を向けた。足元にまとわりついていた子どもの姿は今はない。彼らが八百屋の敷居をまたいだ時から、その姿はかき消すように消えてしまった。
「さて、それでは本題に入りましょうか。ご依頼についてお聞かせください」
「では、やはり君が、拝み屋なのか」
「このような若輩者で驚かれたでしょう。私の家は代々拝み屋の家系なのですが、父が早逝したため後を継いでおります」
「そうか……」
男は渋い顔をして押し黙った。話すべきかどうか決めかねているという感じだ。清はそれ以上口を出さず、男の隣に座る妙子の方へそっと目を向ける。彼女と会うのは久し振りだ。最後に会ったのは彼女の母親が病に倒れたばかりの頃だった。驚くほどやつれてしまい、決して彼を見ようとしない暗い瞳に、清の胸がちくりと痛む。気にかけていなかったわけではない。だが、清が彼女らにしてやれることは何もなかったのだ。金はないし医術の心得もない。拝み屋が顔を出せばあらぬ噂を立てられ暮らしにくくなることもあるだろう。
結局、彼が顔を出さずともあらぬ噂は立ってしまったわけではあるが。
「失礼ですが、あなたは妙子さんのご親戚の方でしょうか」
「ああ、私の姪になる。君はこれと長いつきあいだという話だが」
「はい。小さい頃に隣に住んでいましたので、いつもお世話になっていました。今度のことは、本当に残念です」
「そういうのはいい。今日の葬式を出したのは私の弟の嫁でね。困ったことに親戚はもう私しかいないから、まあ当然引き取りということになる訳だが……」
「もしかして、狐の話ですか」
妙子の伯父は苦々しげに頷く。
「やはり噂になっているんだな。……引き取るとなれば、これを東京にある私の家に連れて行くことになる。だが、我が家には今、赤子がいる。長男の嫁が孫を身ごもっていてね。まさかそんな所へ狐憑きの娘なんかを連れて行くわけにはいかない」
「なるほど」
「単刀直入に聞く。君にはこれに憑いている狐を祓えるのか。あまり時間もないのでね、無理なら無理だとはっきり言ってもらいたい」
「時間がないとは」
「明日の汽車で東京へ帰る。それまでにできないのであれば、他の手段を考えなければならん」
伯父は厳しい声でそう言い切ると、威圧感たっぷりに腕を組んだ。妙子が元から縮めている体を更に小さくする。清は彼らの挙動を意に介さずいつも通りの笑みを浮かべた。
「お話は分かりました。それでは、妙子さんは一晩お預かりさせていただきます。女性とはいえ、大人が命を落とすような相手ですからね。簡単に祓えはしないでしょう」
「なんだそれは。できるのか、できないのか、どっちなんだ」
「やってみなければ分かりません。この仕事に絶対というものはありませんよ」
にこにこと優しい顔を崩さない清を不機嫌に睨みつけ、伯父はふん、と鼻を鳴らした。
「明日になりましたら、またこちらへお越しください。それまでには何らかの手段を講じておきますので」
「承知した」
頷き、伯父はさっと立ち上がる。妙子には目もくれずに一人ですたすたと出口の方へ向かっていってしまった。清もその後を追って立ち上がりつつ、腰を浮かせて追うべきかどうか迷っているらしい妙子に待っていてくださいね、と優しく声をかける。彼女が素直に畳の上に座り直したのをしっかりと確認したのち、清は客間の襖を隙間なくぴったりと締め切る。伯父はもう八百屋の店先にまで出ていた。
「もう帰るのか」
きょとんとした玄治が声をかけるが、まるで聞こえていないかのように何の反応も示さない。ほうれん草や胡瓜の入った籠の合間を抜け、彼は明るい日の差す往来へと足を進める。
「なんだ、無愛想な奴だな」
なあ、と同意を求めて傍らに立つ清を見上げ、玄治はしばし言葉を失った。まっすぐに伯父を見据える目にはいつになく強い光が宿っている。唇はきゅっと引き結ばれ、両の拳も色を失うほど強く握りしめられていた。妙な迫力に呑まれ、どうしたと言葉をかけるのも何故か憚られる。強い視線を追ってみれば、彼は伯父の足元のあたりを見つめているようだ。別に地面に何かが落ちているわけではないし、伯父の足におかしな所も見当たらない。
異変が起きたのは、伯父が八百屋の外へ一歩足を踏み出したときだ。地面を踏んだ伯父の足の間から、赤い着物の袖がすうと伸びる。まるであぶり絵かなにかのように、何もない空間からあの首のない子どもが姿を現したのだ。白く細い手が絡みつくように伯父の足に抱きついていく。子供は頭を失った首でちらりと八百屋の方を覗いたようだったが、捕らえた伯父の足がさっさと先に進むためそれに伴われてすぐに見えなくなった。
子どもが視界から消えた途端、清は肺の中に貯めていた息を全て吐き出すように大きな大きなため息をついた。へなりと力が抜けたように床にしゃがみこむと、玄治が困惑した顔で目を向けてくる。
「……疲れました」
「話すだけで疲れるとは、いつもの事だが難儀な商売だな」
「父さんは何か見えましたか」
「何かって何だ」
「赤いものとか。子供、とか」
「いや。無愛想な親父が一人出て行ったのは見えたが」
そうですか、と清は力なく笑みを浮かべた。玄治はこの世ならざるものを見る目を持たない。齢六十を数えるまで幽霊や悪鬼などといった類のものを目にしたことはないという。奏太の姿だけは見ることができるが、それは清の術によるものである。
「やっぱり、なんか憑いてんのか」
「そうですね」
清はちょっと首を傾げた。
「できればあまり、触れたくないものがいましたね」
玄治はほう、と頷いて店頭へと出て行き、伯父の歩いていった道の方を見やる。午後の明るい日差しの中、遠ざかっていく後ろ姿は彼の目には普通の人にしか見えなかった。
小さな裏庭から縁側へと上り、障子をほんの少しだけ開けて部屋の中を覗く。薄暗い部屋の中には小さな人影が一つ見えた。膝を抱えてうずくまっているようだ。壁に背をぴたりとつけ、出入り口からできる限り遠い隅におさまっている。それを認めた途端、奏太はすぱんと思い切りよく障子を開ききって部屋の中へ走り込んだ。人影はびくりと震え顔を上げる。怯えた表情は、向かってくる奏太に気付くと安堵に変わった。
「妙子、あいつは。あいつは帰ったのか」
「あいつ?」
「あの男だよ、とんでもないの連れてきやがった、あいつ」
「とんでもない……ええと、伯父さんのことなら、帰ったよ」
「そうか、なら、いい」
奏太がほう、と息をつき肩の力を抜く。
「妙子がぶじで、よかった」
「奏太ちゃん」
奏太の小さな手が背伸びをして妙子の頭を撫でる。妙子は驚きを露わにして、悲しそうな顔で慌てて身を離した。彼女の背中が壁にぶつかり、また怯えるように身を縮める。
「駄目だよ。わたし、狐が憑いてるから、触っちゃ駄目だよ……」
「妙子までそういうことを言うのか」
奏太がむっとして口をとがらせた。
「狐なんか憑いてない」
「でも」
「妙子はおれの言うことを信じないのか」
仁王立ちする奏太を困ったように見上げ、妙子は口ごもる。
「狐なんか憑いてない。だからおれが触っても何も起こらない。妙子はセイが守っているから、狐なんか近付けるわけがないんだ」
「清さんが……」
妙子は目を伏せた。それきり黙り込んでしまった彼女を奏太が腹立たしげに睨む。
「入りますよ」
襖の向こうからかけられた声に、奏太と妙子は揃って顔を上げる。部屋に入った途端二人分の視線にまじまじと見つめられて、清はぱちぱちと目を瞬かせた。
「セイ」
奏太がぱっと立ち上がり、清の足元へ駆け寄ると袴をぐいぐいと引っ張る。三角座りをしていた妙子が慌てて足を正座に組み直すのに気付かない振りをしながら、清は奏太の頭をくしゃりと撫でた。
「戻ってたんだね。あの障子を開けたのはおまえかい」
「そうだ」
奏太が素直にこくりと頷く。
「閉めておいで。開けたままでは結界が弱まるからね」
「わかった」
上手く奏太を足元から引き離し、清はうつむく妙子の前でかがみこんだ。正座した膝の上で握りしめられた両手がわずかに震えている。反射的にいつもの癖で頭を撫でようとして、相手がもう幼子ではないことを寸でのところで思い出した。伸ばしかけた手のやり場に困り、不自然に宙を泳いだ手は頭を軽く掻いて自分の膝の上へとおさまる。頭を撫でるのも、肩を叩くのも、手を取るのも子供だったからこそ許されたことだった。まだまだ大人には遠いとはいえ、年頃の少女に男が軽々しく触れるものではない。
「大丈夫ですか。気分は悪くありませんか」
声をかければ、妙子は黙って首を横に振る。そして、続ける言葉を選んでいた清に向かって、床に両手を揃え深々と頭を下げたのだった。
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