道連れ
神宮司亮介
道連れ
僕は、大学時代の友人、相川が死んだことをニュースで知った。
慌ててスマートフォンを手に取ると、ラインを開く。そして、相川との会話履歴を見た。昨日の23時には「またな」というメッセージを返していた相川が、もうこの世にはいないとは信じられなかった。
だからといって、僕は彼の死を悼んでいる暇がなかった。スーツに着替えて家を出ると、いつもと変わらない雑踏が僕の耳を包み込んだ。
ケース1 相川亮太の場合
僕は彼が死ぬ前日、彼と酒を飲んでいた。飲む数日前に突然相川から連絡があり、お互いの休みが被ったこともあって夜に会う約束をした。
相川は紺色のスーツを着て僕の前に現れた。中のカッターシャツは黒で、夜の街には似合っている。休みだからとパーカーで出てきた僕はその格差に、いきなりため息をついた。
僕らは駅前のチェーン店に入ると、「とりあえず生」と店員に注文をする。相川は上着を脱ぎ、出されたおしぼりで顔を拭いた。
「久しぶりだな」
僕はメニューに目を落としながら、会話を始めようと相川に投げかけた。大学を卒業してから二年が経ったが、彼とは定期的に酒を飲む程度の仲ではある。
「悠は今何やってるんだ」
「何って、就職したところで働いてるけど」
「相変わらず、詳しいことは何も言ってくれないんだな」
相川はそう言うと、頼んでもいないのに名刺入れから自分の名刺を差し出して来た。「株式会社サイバーテクノロジー」「相川亮太」の文字はすぐに理解できたが、役職の部分に書かれている英語の横文字をこの時間で理解することは出来なかった。
「俺この前、開発のリーダーになってさ」
「へえ、二年目でリーダーってすごくない?」
「ベンチャーだったらそんなの当たり前」
ふうん、と生返事をしそうになったとき、頼んでいた生ビールがジョッキで届いた。泡がジョッキから溢れこぼれているほうを、相川は僕に渡してきた。
「さ、飲もうか」
僕はそんな相川のことが、そんなに好きではなかった。
ビールを飲むスピードはあまり変わらなかったが、相川は昔から酒に弱く、すぐに酔う体質であった。この日も例に漏れず、二杯目のビールを飲む途中で顔が赤くなり、頼んでいた焼き鳥を持つ手がおぼつかなくなっていた。
「いやさ、毎日毎日忙しくてさ。残業しなきゃやってらんねえわ」
「いつも遅いよね」
「ホントさ、でも、そんくらいやんねえと上行けねえし」
「上」
「つか、もったいねえよな。悠だったら、うちの会社でもやっていけると思う。つか、優秀な社員が沢山いるとか言ってたけど、お前でも勝てる相手、うちにゴロゴロいるからな、アレ大嘘だぜ」
相川は器に食べかけの焼き鳥を置いた。まだテーブルにはいくつか食べ残している料理がありながら、彼はまた食べきれない量の料理を注文する。
「あ、ここは俺が払うから」
当然だ、僕は心の中で呟いた。
相川は昔から、こういう性格だった。自分を中心に格付けを行い、自分より下だと判断した相手しか付き合わない。僕と付き合うのは、勤務先も、役職も、年収も全て自分が上だと思っているからだ。そして、自分では相手を気遣って、「お前も優秀だから」と慰めるようなことを言ってくる。自分は人の立場にも立てる、思いやりのある人間だと盲信しているのだ。
僕だって、確かに名前はあまり知られていない中堅企業で働いているが、彼のように毎晩終電近くまで残業をしていない。給料は一般的な大卒二年目と遜色ないが、お金に困っているわけでもない。身なりに気を使って、自分からステータスを上げる必要もない、気楽な生活が出来ている。別に負けているとは思っていないが、相川は僕を「負けている」人間であるかのように扱ってくる。
「でも、僕はあまり、毎日残業することに意味を見いだせない」
だから、僕も酒の力を借りて、そんなことを言ってみる。
「寿命を縮めるだけじゃないか」
「別に、俺は100歳まで生きたいわけじゃない」
まだ軟骨のから揚げが残っているテーブルに、チキン南蛮が運ばれた。
「いつ死んでも、後悔しないような生き方がしたいんだ」
僕は、氷だけになった梅酒のグラスを持つと、冷たさだけを喉に流し込んだ。
相川は、後悔しているだろうか。
まさか、死んでしまうとは思ってもみなかっただろう。僕はそれ程好きではなかったが、確かに頼りがいのある人間であることは間違いない。
なんとなくラインの履歴を見返していると、実はそれ程悪いやつでもないかも、とすら、思ってしまった。
もう、彼がこの世界に居ないことが、わかっているからだろうか。
***
相川の死後から二週間が経った。
酔ったまま風呂に入った、そしてそのまま、眠ってしまった。溺死が、死の真相だったらしい。
しかし、僕はどうしても彼が死んだ理由が気になっていた。
確かに、僕は彼のことを嫌いな部分はあった。しかし、こんなことで死ぬような人間でもないと思ってた。たかだかチェーン店で飲もうとするだけなのに、律儀にスーツ姿で訪れる人間が。ドラマの主人公のように、警察でも何でもない自分が謎を暴き、真実へ近づいていく様を、どこかに描いていた。
まず、僕はある友人の顔を思い浮かべた。相川とは幼馴染の関係であった、石田の存在であった。
ケース2 石田圭介の場合
「彼のこと、嫌いでした」
繁華街にある個室の居酒屋で、石田は開口一番、相川に対する感情を吐き出す。黒縁の眼鏡を外し、三白眼が僕の方を見た。
「そう思いませんでしたか。すぐに人を小馬鹿にする。見下した相手を、徹底的に貶めるじゃないですか」
石田はこんな僕にでも敬語で接してくれる。物腰の低い好青年であると、僕はその部分については彼を評価していた。
「まあ、気にはなっていたけど」
「……あの、成果発表会、覚えてます? 街づくりイベントの企画。あれ、僕の提案だったんですよ」
グラスの烏龍茶によって溶かされた氷がカランと音を立てる。石田は冷えたそれを飲むと、息を深く吐いた。
「あれ、相川君のアイデアじゃなかったんだ。野球教室」
「みんな、まさかスポーツに興味のない僕が野球教室のアイデアを出したなんて、思わなかったでしょうね」
確かに、とは思わなかった。相川が人のアイデアを盗むことは、その企画をする前から有名だった。厳密にいえば、人のアイデアを昇華させ、よりよいアイデアに変えてしまうのだ。
だから、僕からすれば石田は真面目な割に想像力が欠けていると感じていた。
僕らが大学生の頃、大学近くにあった商店街の活性化をテーマにしたイベントがあり、僕らのゼミ生がその企画出しに参加したことがあった。
正直なところ、ゼミ生には画期的なアイデアを出す気概はなく、前の年に開かれた地元高校のブラスバンド部を呼んだイベントを今年もやればいいという話になっていた。
しかし、その中でやる気を見せていたのが相川だった。彼は「本気を出さなければやる意味がない」と意気込み、その中で、地元球団があることや小学校から野球をする人口が多いこともあり、「野球選手を呼んで野球教室を開こう」という話が上がったのだ。
「あのイベント、成功したけどね」
「ええ。でも、面倒なことは僕がやったんです。野球選手とのコンタクトだって、結局は僕のつてだったんですから」
その話は、僕も知っていた。彼がアルバイトをしていたファミレスに、地元球団に所属している野球選手と友達の先輩がいたらしく、その繋がりを使ったとのこと。でも、相川は当時からアポイントも自分がやった、と言っていたようだが。
「結局、彼はチームで頑張ったことを自分の手柄にするんです。そして、就職活動ではそれを全て自分がやったかのように話すんです。正直、集団面接でその話を聞かされた時にはびっくりしましたよ」
石田はそう言った。だが、今更そんな話をされても、というのが正直なところだ。僕は返す言葉が見つからず、店員を呼ぶボタンを押した。
「でも、死ぬとは思いませんでした」
僕がメニューを開こうとする。その時、石田はこれまでの発言を撤回するかのように言った。
「何で?」
「……人のアイデアを盗むくらい、生きることに貪欲な人でしたから」
石田はそれからしばらく何も言わなくなった。雰囲気を伺っていた店員が、「お待たせしました」と申し訳なさそうに入って来た。
結局、死の真相を聞こうとするはずが、聞けたのは石田が抱いていた相川への不満だった。幼馴染だからこそ、抱えている悩みを知っていたりするものかと思っていたが、まったくもって無意味な会談であった。
***
石田と会った次の日。
僕はある友人の家を訪れていた。
ブラウンで統一された部屋の中は余計なものがなく、その癖にバニラの香りが漂っている。ベッドの傍にある小さなカラーボックスの上に、香り付きのスチームが出る、女の子が買ってそうな雑貨が置かれていた。
ケース3 宇野武弘の場合
「まるで、彼女の家に来たみたいだ」
「びっくりした? よく言われるし、女の子からは引かれるんだよな~」
お調子者の男ではあるが、昔から几帳面なことは知っていた。だが、こうして彼の来てみると、几帳面という言葉では表現しきれない余白を感じさせる。
「それが嫌だったら、もう少し落ち着いた口調にするべきだと思う」
「無理かな~。オレ、お前みたいに真面目じゃねえもん」
台所に立っていた宇野は、オレンジ色の鍋をテーブルに置いた。蓋を開けると、湯気の向こうに赤い液体が詰まっている。
「オレ氏特製のミネストローネだよん」
「そういや、料理得意だったな」
食欲をそそる香りはするが、部屋に漂うバニラのせいで、僕は胃の中に気持ち悪さを感じた。細かいところかもしれないが、こういう部分に気が付かないのは、あまり好ましくない。
ちょうどここへ来るときに買っていたビールと宇野が用意していたフランスパンを並べると、ささやかな宅飲みが始まった。
宇野はゼミで一緒だったころからこんな感じで、実のところゼミ活動の印象よりは、サークルでバンドのボーカルを務めているというイメージのほうが強かった。彼がどんな歌を歌っていたかまでは定かではないが。
お互いに買ったビールをそこそこに飲み終わり、少し余っていた紙パックの梅酒を二人で分け合った。まだまだ飲み足りない気分ではあったが、恐らくこの場は飲むことが本題ではない。
「で、僕を呼んだ理由は?」
僕と宇野とは、正直接点はなかった。ゼミで一緒だったとはいえ、二人で会って遊ぶほどの仲ではなかったと個人的には思っているし、相川が死んだ後も、宇野と会う気はあまりなかった。だから、石田と別れた後すぐに宇野から連絡が来た時には、宇野の顔を思い浮かべる作業から始まったくらいだ。
「何でしょうねえ」
僕は知っている。こんな風に調子に乗っている彼の頭の中は、相川や石田よりよっぽど、活発に動いているということを。
「昨日、石田君と話したときに、君も相川君のことを嫌っていたって話を聞いた。あの野球教室の企画、相川君は殆ど参加してなかったんだよね」
宇野はミネストローネに浸したフランスパンを齧ると、少しグラスに残っていた梅酒を一気に飲み干した。
「そうだったなあ。あの時は石田っちが可哀想だったような気がするけど」
「君はゼミにはあまり関心はなかったけど、石田君の頼みは断れなかった。君は、そういうのを放っておけない性格だよね」
「うんうん、確かにそうだったなあ。石田っち、あんまりにも大変そうだったから」
「……何か隠している?」
僕は宇野の調子めいた部分が嫌いではなかった。むしろ、変に生真面目な人間が多かったゼミ生の中で、陽気な性格だった宇野の存在は貴重だった。
ただ、彼はだらだらとゼミ活動を続けながらも、ゼミ内では最も早く就職活動を終わらせていた。それも、ゼミ生が第一志望にしていた大手メーカーに。
「君はそういう性格なんだよね。普段はヘラヘラしているのに、大事なことは隠している。君は別に将来なんてどうでもいいって言いながら、抜け駆けして大手に就職した。今、君は何を隠しているんだ」
宇野はテレビをつける。『動機は何なんだ』とベテランの刑事が犯人に向かって叫んでいた。
「……逆に聞くけど、何で呼んだと思う?」
「…………」
「……オレ、気付いたら人を傷つける天才なんだよね。就活の時、ひしひし感じたよ」
「……僕は別に」
「だよね。第一志望、別にメーカーじゃなかったし。むしろ、あんなに良くしてあげたのにさ、石田っち、オレがあそこに行ったこと未だに恨んでるんだぜ。君が居なかったら、本当は僕があそこに行けたんだって」
テレビから悲鳴が聞こえる。犯人が崖から飛び降りたらしい。
「あいつ、金貸してくれとか、言わなかったか」
急に声色が変わる。いつものお調子者だった面影は、一瞬にしてなくなった。
「オレは通って、あいつは最終面接で落ちた。それが許せなかったらしいけど、そのくらいなら流せるじゃん。あいつ、仕事辞めたんだよ。でも、転職が上手くいかないわ、ストレスでギャンブルに手出して金もなくなるわで。そんな状態で、あのプライドの塊が、相川に相談なんかできねーじゃん。ということで、オレに話が来たってわけ」
昨日話していた石田から、そんなことは一切聞かなかった。そんな素振りも見せなかった。
「まあ、気晴らしよ。あんまりにも石田っちがうるさいから、他の誰かと話したくなってさ~。でも、居酒屋なんか行ったら金かかるだろ?」
そう言われてしまうと、僕はもう何も言い返せなかった。奥歯に挟まったフランスパンが歯茎に食い込んで、ほんのりと痛みを感じる。
「なら、飲みなおすか」
僕は疑いも忘れて、宅飲みに心を移していく。そこそこ盛り上がった会話を経て、楽しい時間はあっという間に過ぎた。時間も遅くなったので、僕は帰る準備をした頃だった。
ここへ来た時に気になったスチームの、あの香り。
僕の記憶の中に浮かび上がる、切ない記憶。
「それ、プレゼントだったりして。あいつが好きだったんだよな」
「あいつって」
「……榎本」
その時、宇野のスマートフォンにメッセージの通知を知らせる画面が表示された。
僕はその音に気付いて、不意に宇野のスマートフォンを見た。
送り先の名前が目に入る。部屋を包んでいたバニラの香りが、一瞬にして掻き消えた。
すっかり、相川の死の真相が何か、ということを追いかける気もなくなっていた。まず、石田の事実が、僕には衝撃が大きかった。真面目な彼がギャンブルに手を出しているなんてことも、全然知らなかった。 それに、もう一つ――。
だが、僕はもっと重大なことに気付くべきだった。
宇野が、僕との接点がないにも関わらず、わざわざ会う約束まで取り付けたことを。
彼が、本心を語らない人間であるということを。
宇野は次の日、死んだのだ。
***
警察からの事情聴取を受けたが、僕の疑いが晴れたこと以外に進展はなかった。
状況を聞くと、宇野は体中を何か所も刺されていたらしい。また、通帳と財布が盗まれていたことから、強盗による殺人も視野に入っているということは伝えられた。
だが、僕はその時、心当たりがあるとは言えなかった。
警察を出た後、僕はLINEにメッセージが入っていることに気付いた。
差出人は、僕にとっては少し、話したくない相手だった。
だが、それ以上に、メッセージの内容が僕を、震え上がらせた。
『石田君が、亡くなったって』
ケース4 榎本優香の場合
死因は心臓発作だって。カフェラテを飲んだ後に、榎本はボソリを呟いた。
石田の葬儀が終わった週の終わり、僕はわざわざ榎本が勤めている会社の近くにあるフレンチレストランへと出向いていた。休みなのに仕事があるらしく、時間も夜の8時を過ぎてからになると聞いて、僕はスーツ姿のまま店の前で彼女が来るのを待っていた。
榎本は定刻を少し過ぎてから、慌てて走って来た。休日は私服での出勤が許されているらしく、紺色のニットとベージュのパンツを纏っている。首にはネックレスをかけている。甘い香りの香水を振っているのも相変わらずだった。
「何か、おしゃれだな」
「安心して、悠のことを好きでも何でもないから」
予防線を張っている榎本に対して、僕は何も言わず店に入った。別に、よりを戻そうなどとまだ言っていないのにわざわざそういうことを言うあたり、僕は榎本と一度別れてよかったと思ってみる。
適当に料理を頼み、あまり話の弾まないまま食事は進んでいく。あまり気張った店には入らないせいか、話をすることよりも見栄え良く料理を食べようとすることに集中していた。
「三人もいなくなっちゃったね」
不意に榎本が口を開く。場所が場所だけに、「死んだ」という表現はしなかった。
「そうだな。立て続けに、しかも同じゼミ生がね」
「……相川君は、なんか忙しそうだったから。平日はほぼ会社に泊まってるとか聞いたこともあるし」
「ふうん」
その事実は、なんとなく予想はついていた。だが、あいつはそんなことでどうにかなる人間ではないとも思った。もっと自尊心を傷つけられるようなことがないか、気になった。
「……で、ちょっと見せたいものがあって」
榎本はテーブルにスマートフォンを出すと、そのまま僕の方へと差し出して来た。
「私、石田君に相談されてたんだ」
画面にはLINEの会話履歴が残っている。僕は迷いなく、画面を見た。
「……場所、変えね?」
僕はここに来た本当の理由を隠したまま、話す場所を変更しようと提案した。榎本もそれに同意したので、デザートに行きつく間もなく店を出ることとなった。
土曜日の街は人で溢れていたため、落ち着いて話せる場所などなかった。ただ、彼女が勤めている会社のビルにあるカフェは休日のおかげか空いているかもしれないということで、そこへ向かうこととなった。
その道中で、僕たちは宇野のことを話し始めた。
「石田は何を言ってきたんだ」
「金を貸してくれって」
「……ああ、あいつ、金に困ってたって、宇野が言ってたな」
「え、武弘君が?」
宇野を名前で読んだことが気になり僕は彼女の方を見た。榎本もちょうど、僕の顔を見ていた。
「名前で呼んでるんだ」
石田のこともそっちのけで、僕はそのことに引っかかった。ゼミに居た頃は少なくとも、名前で会話をしていた記憶はない。
「あ……ごめん」
「別に、僕たちはもう、別れてるんだから」
聞きたくなかった。どうせ、あいつと付き合っているんだろう。
宇野の家にあったあのスチーマーは、僕にも見覚えがあった。バニラの香りは、榎本が好きなものだということも思い出した。
あの日、宇野のスマートフォンには、榎本からの「明日、楽しみだね」というメッセージが入っていることは、何より決定的な証拠だ。
気まずくなって、僕からは何も言い出せなくなった。暫く経って、口を開いたのは榎本だった。
「……いつ、会ってたの」
「ああ。宇野が死んだ前日に、会ってた」
「何で」
「何でって、宇野に呼ばれたから」
「……それって、助けてもらいたかったからじゃ」
宇野が僕に助けを求めていた。確かにそうかもしれない。だが、彼の口から助けてくれとは言われなかった。むしろ、僕に忠告をしてくれたくらいだ。石田に金を貸すように言われても放っておけと。本当に助けてほしいなら、助けてくれと、そう言うはずだと。僕は頭の中で断定した、いや、言い聞かせた。
「でも、それなら言ってくるだろ。狙われてるって」
「でも、言えない理由があるとしたら」
「……何で助けなかったかって言いたいのか」
僕が助けなかったから宇野は死んだとでも言いたいように僕には聞こえる。それに、僕にはもう一つ腑に落ちない部分があった。
「それに、石田が宇野を殺したとでも言いたい口ぶりだな」
「べ、別に私は……」
「……お前は、いつだってそうだ」
少ない証拠で何でも決めつけようとする。榎本と別れた理由もそれだ。働き始めて戸惑っていた僕のことを、連絡が滞っているからという理由だけで「他に好きな人が出来た」と決めつけてきたことを、僕は忘れていない。結局、こうやって会う時になっても、榎本は僕が何も気付いていないかのような人間だと決めつけている。
結局、この女は人を断片的にしか見れないのだ。
「そうやって、昔から自分の思い込みで人を判断する」
「な、何よ。今更説教垂れるつもりなの」
「説教? そんな高尚なものじゃないよ。僕は君のそういうところが嫌いなんだ」
僕がそういうと、榎本は喉元を鳴らして反対方向へ走り出した。
僕が別れ話を切り出したときも、こんな感じだった。膿を出し切る前に、絆創膏で塞いでしまう。その膿が溜まった原因も解明しないままに。
でも、僕らが別れたあの日、僕は追いかけなかった。心の中で、そんな榎本のことが嫌だったからだ。
だが、今日は違う。僕は追いかける。心の中で、そんな榎本のことがまだ好きだったからだ。
スーツ姿でみっともなくも追いかける僕は、歩道橋に差し掛かったところで榎本の腕を掴んだ。
「待てよ」
「離してよ! あんたみたいな人でなし、やっぱり会うんじゃなかった!」
「勝手に決めつけるなよ! 僕は浮気なんてしてなかった。それは君が勝手に作り上げた嘘だ」
「嘘よ! じゃあ何で認めたの、浮気したって認めたのよ!」
恐らく、周囲の目がこちらに向けられているだろう。でも、僕はそんなことを気にする余裕はなかった。体の芯がどんどん熱くなっている。
「あの時はいっぱいいっぱいだったんだ。お前と、うまくやる自信がなかったんだ。もうどうでもよくなったんだ」
「……何よ、どうでもよくなったって何よ! そんな理由で、浮気したって言ったの!」
「そんなことで何怒ってるんだよ、言われもない理由で浮気したって言われた、こっちの気持ちも考えてみろよ! 大体、お前こそ、宇野のことが好きになって、僕のことなんかどうでも良くなったんだろ? はっきり言ってみろよ、宇野とはいつから付き合い始めたんだよ」
好きな気持ちを押し殺して、関係を断つ辛さがお前にわかるのか。
言われもない理由を飲み込んだ屈辱がお前にわかるのか。
恨みが、憤りが、吹き出しそうになる。
「やっぱり、会うんじゃなかった……私は、あんたのことなんか何とも思ってないから。大っ嫌いだから」
榎本は僕の手を振りほどいて、僕から逃れていく。
何も答えないのは、そっちのほうだ。
僕との関係についてはまだいい。宇野との関係を聞いて、そこについて何も言及しないということが、僕にとっては許せない。
それは、僕が思い悩んでいる時、他の男に浮気していたという、証拠になるから。
「待て!」
逃げるな。僕の手から離れるな。お前は、僕の物だ。僕は榎本を追いかける。もう榎本は、階段を下りようとしている。
させない。逃してなるものか。もう二度と、放してなるものか。
僕は自分でも不思議なくらい、飛んだ。鳥かごから放たれた鳥のように、心の檻が壊れる音がした。
その音は痛みと共に、頭を何度も行き交った。
***
ケース5 大崎悠の場合
僕が目を開けると、青緑色の天井が見えた。そこは歩道橋ではない。別の場所だ。
すぐに、頭に痛みが走る。一か所ではなく、何か所からか交互に波が押し寄せてくる。
病院にいる、そのことに気付くのはそう遅くなかった。
追いかけたとき、僕は榎本と共に階段から転落したのだ。彼女を逃さないと思う気持ちが逸るあまり、僕は彼女を引き留めるどころか――。
――優香は。
僕は優香の姿がないことに気付いた。病室に居るのは僕だけだった。他のベッドは空いていて、誰かが居る形跡などなかった。
まさか、死んでしまったのか。
僕の、せいで。
「優香、おい、優香、居るんだろ……居るんだろ!」
すぐそこに居る気がして、僕は彼女の名を叫んだ。あの時は言えなかった、彼女の名前を。
すると、廊下の方からか、カツ、カツ、と足音が聞こえた。僕は確信した。優香だ、優香が来てくれたのだと。
そして、僕はその方向に、顔を動かした。
『あなたも、道連れにしてあげる』
***
夜のファミレスの中で、男はテーブルに書類を広げながらいくつかメモを取っている。
その向かい側で、眼鏡をかけた青年はコーヒーを一杯飲むと、大きな息を吐いた。
「うちの大学の卒業生が、立て続けに5人も死ぬなんて。なんか呪いですかね」
「呪いだったらまだかわいいだろ。溺死に他殺、病死に事故死って……洒落にもならない」
「しかも、石田君がねえ」
「でも、石田君って友達にお金貸してって回ってたんでしょ。何かあったんだろうねえ」
「何かねえ……そう言えば、あの事故死した二人、女性の方が先に亡くなって、男性は一回持ち直したらしいですよ」
「それなら俺も知ってるよ。お医者さんたちが一安心してる間に容体が急変ってね。絶対先に死んだ女の怨念だよ、怖いねえ~」
男が茶化して言ったが、青年は苦笑するしかなかった。
「そんなことより」
青年はタブレットを取り出し、あるニュース記事を開く。
「最初に亡くなった方の会社、炎上してるの知ってます?」
「そりゃ知ってるよ。パワハラ天国で実績は上司が横取り、おまけにサビ残地獄ときたら」
「天国と地獄混ざってますよ……まあ、手記も出てきたみたいですしね」
「……死の真相とは関係ないけど、彼は早かれ遅かれ、そうするつもりだったんだろうねえ。自分が問題なくても、同僚が病んで会社を去っていくのが、見ていられなかったんだろうなあ」
タブレットに二人は目を落とす。そこには見出しで、彼の叫びが書かれていた。
『私は、私を追い詰めた人間たちを許しません。私が死ぬと共に、同じ不幸が彼らに与えられますように』
***
ケース1 相川亮太の真実
そうだよなあ、と思ったことがある。
悠が言っていた、『でも、僕はあまり、毎日残業することに意味を見いだせない』という言葉が、一人暮らしの部屋には寂しく響いていた。
俺だって残業がしたくて仕事を頑張っているわけではない。今の会社で結果を残し、いずれは海外で働くためにも、今は我慢するしかない。
そう思っていたが、それは果たして正しいのだろうか。
つい先週、同僚が倒れた。三徹目が過ぎた日の朝、緑色のエナジードリンクをキーボードに撒き散らして、ゾンビのように。
彼はまだ、目を覚ましていない。
俺は我慢してきた。結果を出すために犯した過ちも含めて。そこまで執着する理由は何故か。
小さい頃から、親には「結果が全て」だと教えられてきた。テストで90点を切れば、「出来損ない」と怒られた。大学受験に失敗したときは、軽蔑するような目で俺を見てきた。
そうだ、そういう教育を受けてきたからだ。俺には、結果が必要なんだ。
なのに、俺が受かったのはベンチャー企業とは名ばかりのブラック企業。俺が行きたかったメーカーには、同じゼミでちゃらちゃらとバンド活動をしていた宇野が内定を貰っていた。今の就職先に、父も母も、納得するはずがなかった。
そんなことも知らないくせに。
残業に意味が見いだせないだと。
「俺だってわかんねえよ! 何のために働いてるかわかんねえ! 俺は何で、何で生きてるんだよ! 誰のために生きてるんだよ!」
雄叫びをあげて、机の上に置いていたものを払い飛ばす。腕に走った痛みをそのままに、テレビを蹴り飛ばした。
「俺は……俺は……」
俺は何なんだ。そう言おうとした時、足元に黒い手帳が落ちてきた。
日記代わりに使っている手帳。落ちた反動で、ペンを挟んでいたページが開かれた。
俺は決めた。
前々から、決めていたんだ。その勇気がなかっただけで。
親も、友人も、会社も、全ていらない。全てから、解放される。
全てこのために今があった。
きっと、今死ねば、俺はこの狂った社会の歯車によって抹殺された悲劇の青年として取り上げてもらえる。
でも、この事実を知れば、親も、友人も、会社も、平穏には過ごせない。
俺が勝手に死ぬせいで、意味もなく罵声を浴びせられることになるのは、納得いかない。
どうして、死のうと考えている時ですら、こんなことを思うのか。
それはつまり、死にたくないということなのか。
「何でこんなこと思うんだよ……!」
俺は手帳を拾うと、窓を開けた。そして手帳を、外へ投げ捨てた。
家の傍には川がある。その茂みに、恐らく手帳は落ちていった。
やっぱ、死ぬのは怖えよ。
俺は首を振った。
きっと酔っているからだ。酔いを醒まそう。でも、少し疲れたから、少しだけ湯船につかろう。
少しだけだ。うっかり寝て、溺れでもしたらそれこそ、ここまで頑張って来た意味は、ないからな――。
道連れ 神宮司亮介 @zweihander30
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