さよなら、また明日

神宮司亮介

さよなら、また明日

 黒い雨が降り注ぐ。腕時計の長針と短針は、ぴったり同じ場所に合わさっていた。

 僕は、バイトからの帰りを急いでいた。明日提出するレポートが残っていたからだ。これの出来次第では、単位を落とされてしまう可能性があった。

 紺色の傘を差して、僕は住宅街を進む。僕の家があるマンションは、その先でぽつぽつ明かりを灯していた。こんな時間になっても、人はまだ眠らない。そして僕も、眠れない夜が待っていた。

 しばらく進み、十字路を通り過ぎる。もうすぐマンションが着く、というところで、僕はふとあるものを目にした。視界の隅っこ、電信柱の傍に座り込んでいる、白い服を着た少女。暗闇に映える黄色い髪を、腰の辺りまで垂らしている。近くでは見かけないし、そもそも日本中を探しても、こんな少女に出会う機会はないと、僕は思った。

 とにかく、少女の元に駆け寄る。こんなに冷たい雨を浴び続けていたら、風邪をひいてしまうと心配した。

「君、どうしたの? こんなところで居たら風邪ひくよ」

 僕は紺色の傘を、彼女の頭上に被せた。ちょうど、僕の背中が濡れるまで。でも、彼女はゆっくり腰を上げて、傘の下から出てしまった。

「ちょっと、君!」

 少しムッとした感情はあった。自分の身体を濡らしてでも、雨を防ごうとしたのに。

 そして、彼女は何食わぬ顔で僕の方に振り返った。背は小さいのに、凛とした容姿は年上の女性を思わせる。切れ長の目が、僕の幼い感情を刺激した。

「いいの。私は平気」

 少女は冷たい声をその場に残して、暗い道を進んでいく。僕は引き留められなかった。いや、引き留めたくなかった。勝手にしろ。こっちの好意を踏みにじりやがって。その気持ちでいっぱいだった。

「……変な奴!」

 何も言わないまま帰るのは嫌だった。向こうに聞こえるくらいの、それでいて雨音に掻き消されるくらいの声で言った。彼女は、何の反応もなく暗闇に消えた。



 家に戻って、すぐに眠れたらどれほど楽だっただろうか。疲れた体をお風呂で温めた後、僕はパソコンとにらめっこをし続けた。

 レポートを書くのは、苦痛だ。興味のない分野について、転載しただけの文章にならないよう、学んだつもりになって書き続けること。青白い光を浴びる瞳は、早くベッドへ向かってくれと叫んでいる。

 教科書とネット上のサイトを交互に見ながら作業を続ける中、スマートフォンはその画面を輝かせる。その向こうでは助けを呼んでいる友人たちが待っていた。

「鬱陶しいな……集中させてくれよ」

 僕は、そういうのが嫌いだった。こういう時に連絡を送って来る奴は、大体講義にちゃんと出席していない奴だ。わざわざこんな時間になって『レポートの範囲は?』なんて馬鹿げたことを送ってきているに決まっている。

 それでも、僕はスマフォに手を伸ばした。こんなに嫌だと思っているのに。一つ一つ丁寧に、範囲を教えては、新しい通知が表示される。

『今どんな感じで書いてる?』

『参考にしてるサイトは?』

『ちょっとだけレポート見せて』

 そして、恩は大体仇となって還される。自分で考えることを止めてしまった者たちの叫びが、スマフォに集まる。ピコン、ピコン。飽きることなく鳴り続ける叫びに、僕は溜息をつくしかなかった。

「大して講義も出てない奴の為に、何で僕が協力しなくちゃならないんだよ」

 そして、僕はスマフォの電源を切った。この向こうで、頼みの綱が切れた彼らはどんな思いで返信を待っているだろう。これで単位が無くなっても、僕は知らない。僕は頑張って講義に出続けた。そして、何を勉強すればいいか必死に知ろうとした。その違いだ。努力は報われるべきだ。なのに、どうして。

この世界において、努力に対する見返りはどうして、不平等なのだろうか。



 レポートは無事に終わった。無事に提出出来たし、単位もきっと無事だろう。ただ、返信を怠ったせいで、彼らとの仲は少し悪くなった気がする。お互い何も言わないが、お互い『どうして』の四文字は顔に貼り付けてあった。

 モヤモヤした感情を引き下げて帰路に着く頃には、夕暮れが近付いていた。電車の中からぼんやりと眺める景色は、いつも変わらないようで少し変わっていた。それが何なのかはわからぬままに。

 耳にはイヤフォン、手には音楽プレーヤー。小さな部屋を自分で作って、僕はぼんやりと椅子に座っていた。乗客の少ない各停電車で、バイトのない日はゆっくり帰るのが好きだった。

 周りを見渡しても、狭い画面を凝視する人間しかそこには居ない。老若男女問わず、無駄にしたくない時間を無駄にして。そこには何の価値が生み出されているのだろう。飽きたら忘れてしまうようなデータの海しか、そこには広がっていないのだろうけど。

 住宅地と田んぼのアンバランスな景観を通り過ぎて、駅のホームがやってくる。僕は腰を上げた。ゆっくりとした電車が、ゆっくりと止まる。そんな駅でしか、僕は降りられない。

 昨日と同じ道を歩く。帰るのに駅からは十分ほどしかかからない。イヤフォンを繋げたまま、僕は子供たちが行き交うところを進んで行った。

 そして、昨日あの少女が居た場所が近付いてくる。音楽が支配している意識の中で、僕はきっと気にしていた。あの少女が居る場所を。

 そこには、平然と座っている、黄色い髪の少女が居た。

 昨日はあんなに濡れていたのに、風邪をひいているような様子はない。電信柱を隣に、灰色のアスファルトをただ見つめている。

 僕は正直、驚いた。まさか今日も出会うとは思ってもみなかったからだ。

 ただ、会いたいと思っているわけではなかった。どちらかと言えば、会いたくないと思っていた。人の好意を、素直に受け取ってもらえなかったから。

 僕は無視を決め込んだ。イヤフォンの音量を上げ、顔を下げる。塗装された道を眺めながら、電信柱を追い抜いた。家はもうすぐだ。帰ったら、今日は少し寝よう。寝てないから苛々する。苛々するから、今日が憂鬱になる。

 まるで、心に雨が降っているみたいだ。

「あなた、何か悩みでもあるの」

 それは、不意に聞こえてきた。ドラムの音が、ベースの音が、ギターの音が、ボーカルの声が掻き消える程に、彼女の声は僕の耳に届いた。

 僕は振り返る。彼女は立っていた。僕の後ろで暮れる藍色の空を背に、立っていた。

「……僕に、何か用」

 イヤフォンを外しながら、僕は問う。彼女は緑色の瞳を開いて、返してきた。

「不思議ね。本当は嫌なのに、どうして断ち切れないのかしら」

 何を言っているのかわからなかった。ただ、僕は思った。何かを悟られている、と。

「何のことだよ。僕は別に……」

「そんなに面倒なら、捨ててしまえばいいじゃない。携帯電話も。友達も」

 名前も知らない彼女は、僕が抱えているモヤモヤを撃ち抜いた。綺麗に、跡を残さず。不敵な笑みを浮かべる彼女は、たったそれだけを言い残す。黄色い髪を振り、僕に背を向けて来た。

「待って」

 ついさっきまで、本当に、ついさっきまで無視を決め込もうとしていた人間に対して、僕は興味が湧いた。どうして僕の悩みを知っているのだろう。誰にでもありそうな悩みだけど、どうしてこのタイミングで言って来たのだろう。気になって仕方がない。

それに、僕は彼女の名前を、知らない。

「君、名前は」

 彼女は、こう言った。

「……あなたはきっと、わたしの名前を、憶えてる」



 僕は知らなかった。覚えているはずがなかった。彼女とどこかで会った記憶はない。

 ベッドに寝転がって、僕はゆっくりと思い出を掘り起こす。彼女のような子の記憶があるかもしれないと、必死になって過去に戻る。ただ、黒髪だらけの世界に、黄色い髪の少女の姿はなかった。

 何だったんだろ、あいつ。僕はそのことに支配されて、ぼんやりと天井を眺めていた。

 あんな奴、知らない。僕は知らない。見たことなんかない。

 なら、彼女は何故、あの場所に居たのか。僕に話しかけて来たのか。

 それも、一番僕が今、触れられたくなかったことを。

 そうやって、時間は無駄に過ぎていく。明かりのない天井を眺める目は、次第に霞んで行った。

 秋が終わる頃の夕空は、あっという間に闇へ溶けていく。だから、まるで真夜中に眠れないような気分だった。すっかり真っ暗になってしまった部屋の中、僕は目を閉じる。

 やっぱり、君は何処にも居ない。



 それから、僕はあの場所を気にするようになった。会いたくなかったはずなのに、会いたくなった。

 ただ、そんなことを思ってからは、彼女に出会わなくなった。あの電信柱の傍で座り込んでいた黄色い髪の少女は、僕の前に現れなかった。

 人間は都合のいいもので、最初のうちはあたりを探したりした。マンション近くの公園や、住宅街の通りを何度も探し回った。それでもやっぱり、彼女はいなかった。

 それが何日も経つと、僕は探すのを諦め始める。彼女が居なくても、生きていける。彼女が居なくても、時間は過ぎていく。

 二週間も経てば、そういえばそんなこともあったなあというくらいの感覚に落ちていた。

 そんなある日。間もなく大学の講義が一旦終わり、冬休みを迎えようとしていた頃のこと。

 バイト終わりの夜は、寒かった。天気予報では、そろそろ雪が降るのではと言っていたのを思い出す。茶色のコートのポケットに手を突っ込んで、冷たい道を進み続けた。

 十字路を越えて、ポツポツと明かりの灯るマンションを前にする。僕は、立ち止まった。

 あの電信柱の傍。

 僕は確かに見た。彼女は、こちらをずっと、見つめていた。

「久しぶり。すっかり忘れていたようね」

 僕は動けなかった。彼女が言う通り、僕はすっかり忘れていた。彼女の存在を。

 だから、不意に現れたことに、僕は驚くしかなかった。

「人間はそう。都合の良い記憶は忘れていくように出来てるの。あなたもそう。みんなそうなのよ。だから、気に病むことはないわ」

 冷ややかなようで、どこか温もりのある声が、僕に届いた。どうせ身勝手なら、それを受け入れていく方が良い。そう言われていうような気がした。

「君は……あの時の」

「そうよ。でも、あなたは変わりなさそうね」

 退屈な人生送ってて悪かったな。そう言い返しそうになった。確かにこの二週間、特別変わったことは起きなかった。刺激のない毎日は、平和と言ってしまえば響きが良い。平和な毎日は、時間を無為に溶かしていた。

「僕に何の用?」

「思い出してほしくて来たの」

「思い出す? だから、僕は君を知らないんだって」

 僕は本当に知らなかった。彼女は少し唇を噤むと、立ち上がった。

「こんな感じで、しゃんと背を伸ばしてたの。あなたは、そんな私を、見てくれていた」

 彼女はそう言った。もちろん、そんなことを言われてもというのが、僕の本音だった。

「そんなこと言われても……」

「僕は見覚えがない。そう言いたいんでしょう?」

 彼女は常に、僕の心を読んでいた。不敵な笑みを浮かべて、僕の方を見て来る様が、あまりにも不気味だった。

「わたしは知っている。あなたの名前も知っている」

「じ、じゃあ、答えてみろよ、僕の名前は……」

「あなたの名前は……高瀬、悠」

 彼女は、名乗ってもいない僕の名前を知っていた。

 僕は狼狽えて、そのまま逃げだした。青白い街灯の下を抜けて、固い地面の上を駆け抜けた。無我夢中で。前だけを見つめて。

 マンションへ入ればすぐだ。いざとなったら、周りの人に助けを求めればいい。焦る必要はない。そう言い聞かせながら、僕は焦っていた。怖がっていた。

 彼女は、白いワンピースを揺らして、走って来ていた。

 そんなに足が遅いわけではなかったはずなのに、彼女とは距離を離せない。むしろ、どんどん彼女の足音が近づいてくる。悪魔の足音だ。

「た、助けて! 助けてくれ!」

 マンションは間もなく。僕はロビーへ飛び込むように駆け入ろうとした。

 しかし、僕の腕は彼女の冷たい掌に包み込まれた。

 少女の力とは思えない力が、僕を襲う。骨の奥が軋んで、思わず呻き声を上げた。

「助けを求めたって意味はないの。わたしの姿は、誰にも見えない。あなたしか知らないの」

 僕は、殺される、そう感じた。彼女からは殺気だった感情が溢れ返っていた。必死に彼女の手を引きはがそうとしても、彼女の手は僕を離さなかった。

「は、離せ! 僕が何をしたって言うんだ!」

「何もしていないかもしれない。でも、わたしは、憶えているの」

 彼女は強い力で僕の身体を押し倒してきた。地面に背を打って、僕は抵抗できず、咳き込んだ。

「き、君は……」

 こんな状態になっても、僕は彼女が誰かを聞き出そうとした。しかし、その後の言葉が出て来なかった。彼女の両手が、僕の首を捉えていた。

「わたしは、あなたが好き。だから、わたしとずっと一緒に居てほしいの」

 彼女は笑っていた。幸せそうに笑っていた。確実に、僕の首を締め上げていく。僕は口を動かせなくなった。そして、息がゆっくりと小さくなっていった。蔓が絡み付いて、抜け出せなくなった虫のように。

「少しだけ、わたしに、時間が欲しいの」

 甘い毒に誘われるように、僕は遠くなる視界に身を委ねる。まさか、三度しか会ったことのない不思議な少女に殺されるなんて。こんな、訳も分からないタイミングで。

 その時、もう一つ感じたのは、頬に張り付いた白い雪の冷たさだった。今日は寒かったから。降ってもおかしくないくらいに、空は黒かったから。

 初雪の下で、死ねる。それは、少し良いかもしれない。僕は諦めて、目を閉じた。彼女の笑い声が、最後に聴こえた。



「さあ、目を開けて、悠」

 はずだった。ふと、名前を呼ぶ声がして、僕は瞼を開ける。

「おはよう。気が付いた?」

 薄くなった視界を切り開くと、そこには彼女の顔があった。

「う、うわあ!」

 それに気が付くと、僕は思わず彼女から飛びのいた。少し前に、僕を追いかけて来て、首を絞めて殺そうとした存在だからだ。

「く、来るな!」

 僕は逃げようとした。目の前の、マンションに向かって。

 しかし、僕が見た世界は、さっきとは違っていた。

 白い花が、一面に広がる花畑。凛として咲く花は、幸せそうに揺らいでいた。

「ここは……」

 僕は言葉に詰まった。ひょっとすると、ここは天国なのかと疑った。それなりに生きてきた見返りに、気まぐれな神が向かわせてくれたのかと、僕は別世界に戸惑っていた。

「ハルジオン。わたしは、ハルジオンの花」

 突然のことに戸惑う僕を尻目に、彼女は言った。背の小さな少女は、自分の名を告げた。

「ハルジオン……」

 僕はもう一度、この光景を目に焼き付ける。確かに、背の高い花が遠くまで咲き誇っている。白い花びらと、中心の黄色い部分が特徴だ。

「わたしは、ハルジオンの花。あなたは、これでも思い出せないかしら」

 もう一度、彼女の、ハルジオンの顔を見る。

 僕は、幾つも、その花を見ていた。道端に咲く、寂しいハルジオンの花たちを。

「ハルジオンは知ってる。でも、君かどうかは、わからない」

「いや、あなたは知っている。あの場所で、ひっそりと咲いていたわたしを、あなたは見てくれていたから」

 どこだ、どこなんだ。僕の記憶の中に眠っている中で、どれが本物の君なんだ。わからない。僕には全然わからない。わからない。

「昔のことなんて、憶えているはずなんか……」

 項垂れて、足元に咲く花に目を遣った。小さくても、根を張って太陽の光を浴びている花は、強く生きていた。

「昔のこと……僕が知っている君は……」

 風が吹いている。涼しげな風が、吹いている。僕は思い出せなかった記憶に、ゆっくりと手を伸ばしていた。

「ほら、知っていたでしょう?」

「……あの場所に、咲いていたのは、君だったんだ」



 それは雨の日だった。もう十年は前の話で、黒いランドセルを背負っていたくらいの頃だった。

 理科の授業で習った花の名前を思い浮かべながら、その日は帰っていた。アスファルトの道には、花なんて咲いていないとわかっていながら、僕は探していた。凛と咲き誇る花を。

 その時に、僕は出会った。電信柱の傍で、雨に打たれながら咲いている、白い花を。そして、習いたての、ハルジオンという花だということがわかって、僕は嬉しくなって近付いた。

「こんなところに咲いてるんだ! すごーい!」

 ハルジオンは強く、地面に根を張っている。風が吹いても、雨に打たれても、決して折れることはなかった。でも、子供心には心配だった。

「花も、カゼひいたりするのかな?」

 今思うと、有り得ないようなことを考えていた。花が風邪をひくことなんて、普通は考えない。実際には病気になってしまうこともあるらしいが、人間とは一緒にしないはずだ。

 ただ、この時の僕は、目の前のハルジオンに傘を差しだす必要があると思っていた。

「カゼひいちゃ大変だもんね!」

 僕は傘を置いて、マンションへ帰った。傘を持たずに帰って来たところ、母にこっぴどく叱られたことも憶えている。



「あの時、僕は、ハルジオンに傘を渡した。今思うと、馬鹿みたいなことをしたなって思うけど」

「でも、わたしは憶えてる。あなたは、わたしに優しくしてくれた」

 ただ。そう、彼女は続けた。

「あなたは熱を出した。三日ほど、学校を休んだ。わたしは、その間に、枯れてしまった。あの雨じゃ、わたしは生きていけなかった」

 彼女は悲しげに俯いた。

 僕はあの日から熱を出した。ただ、どちらにせよ学校へはいけなかった。雨が強くなり、警報が出続けていたからだ。近くの川が増水し、氾濫すれば大きな被害に繋がる。そんな状態だったらしい。

 僕はベッドの上で、身体を休めることしか出来なかった。高熱にうなされ、動くことが出来ない状態の中、僕は何度も目を閉じた。眠たくなくても、暗闇に意識を投げようとした。

 元気になって、学校に行けるようになった日、僕はあの電信柱へ真っ先に向かった。雨がずっと降っていたことは知っていたから、無事かどうかが気になっていた。出来れば、冷たい地面を割って、灼熱の太陽に手を伸ばす花びらが、そこで咲いていて欲しい。当時の僕はそう思っていたはずだ。

「でも、ハルジオンは咲いてなかった。もちろん、僕の傘もなかった」

「雨で枯れただけじゃない。排水溝への水流はすさまじくて、わたしは勝てなかった。せめて、もう一度あなたに逢いたいと思っていたけど、無理だったの」

 僕は探すことこそしなかった。ただ、しばらくはハルジオンの居なくなったところを見つめては、溜息をついていた。あの花は、もう、死んでしまったのだ。

「あの雨の日を、わたしは忘れられない。あんな場所で咲いている花に興味なんて持たれないし、それに、自分の傘を差しだしてくる人間なんて、びっくりした」

 彼女は瞼を閉じて、微笑んだ。優しく微笑みかけてくれるその表情は、太陽の光を浴びている花びらのように、美しかった。

「……でも、どうして今、君はその姿に」

 一つ謎が解けた。ただ、まだまだわからないことはいっぱいあった。あの花が、どうして僕の前に現れたのか。それも、人間の姿で。

「わたしにも、わからない」

 彼女の答えは、拍子抜けたものだった。

「気が付くと、この花畑で、わたしはみんなと一緒に咲いていた。太陽と雨が仲良く、わたしたちを育ててくれるこの場所で。ここは、わたしたちにとっては永遠に咲き誇ることが出来る、あなたたちにとっての天国のようなものなのかもね」

 そして、彼女は続けた。

「ハルジオンって、あの街の花にとっては、嫌われ者なの。人間にも、要注意外来生物というものに指定されているらしいわ」

 そう言って、彼女は僕に背を向けた。僕にはまだ知らないことが沢山あったのに、彼女の告白は余計に頭を混乱させた。

「ど、どういうことなんだ……」

「ここで教えてもらったの。わたしが、ハルジオンという花が、一体どういうものなのかということを。そこで知ったわ。わたしたち、よそ者だったんだって」

「だから、どういうこと……」

「あなたも、怖いんでしょ? わたしみたいに一人、日陰で咲くことが」

 わからないまま、今度は僕の話になる。核心が掴めていないのに僕の弱さに付け込まれて、心が痛くなる。

「友達は必要ない。でも、一人になるのは嫌。だから、嫌でも付き合わないといけない。何処に行ったって、それは同じよね」

 わかったような口を聞きやがって。僕は憤慨しそうになる。ただ、それまでの話が片付いていなかったのもあって、僕の怒りは置いてきぼりになっていた。

「僕のことは、今関係ないだろ」

 彼女は首を振った。

「ねえ、本当は、嫌なんでしょ。友達は必要でも、不要な存在は斬り捨てたい。でも、そんなことを出来る立場ではない。そうやってあなたたちは困り果てていくのよね」

 豹変する彼女の言動。僕は拳を握った。爪が皮膚に入り込んで、痛みを走らせても、僕は止めなかった。ジリジリと、彼女を睨みつける。

「言ってみなさいよ。わたしには、人間の感情がわからないから」

 そう言った彼女の笑顔は、あまりにも素敵だった。背の小さい、それでいて、凛とした少女は、僕の心を既に射抜いていた。

 だから、僕は叫んだ。この幸福しか残されていない世界で、叫んだ。

 何かとは言わない。それは、この日常への鬱憤だ。

 最初は友達という名の足かせから始まる。調子のいい時だけ友達面をして、一緒に居る時は輪の中に入れてもらえないジレンマを何度も何度もぶつけた。

 移り変わって、大学のことに話が移った。面白くない講義を延々と続ける教授や、対応の悪い事務への、些細でありながら積もり続けた不満が、一気に吐き出される。

 やがてバイト先になり、ついに親の事まで言い始め、それでも足りなくなった。こんな世界で、生きていて、何が楽しいんだ。そんなことすら、言い放った。

「本当に、それだけ?」

 肩で息をする僕に彼女が投げかけた言葉は、まるで挑発だった。

「ど、どういうことだよ」

「本当に言いたいことは、もっとあるはずよ」

 これ以上他に何が。そう言いたくて、言いたくて、仕方がなかった。

「僕は、僕は……」

「……あなたは優しい人だから、本当に言えないことがある。優しい人ほど、自分自身を、愛せない」

 言い返そうとして、僕は言葉を用意しようとする。

 でも、もう僕には反論できる言葉が一つもなかった。何も言えない。何も、言い返せない。

 そこに言葉が無くなって、僕は空っぽになった瞳で彼女を見つめた。少し潤んだ瞳で、微笑んでくれている。

 僕は何だか馬鹿らしくなった。ここまで自分勝手なことを言い放って、僕自身は、そんなことを言える資格があったのか。

 大体、彼らを友達に選んだのは自分自身だ。向こうから優しくしてくれる時もあるのに、それを拒んだりするのは他でもない、僕自身。それに、学校のことだって、暇を持て余してスマフォを弄り、大事な連絡を怠って事務の人に助けを借りたのは誰だ。バイト先で上手く行かないのは僕の努力不足で、両親には育ててもらっている恩が沢山ある。

 嫌なことばかり目について、本当に大事な物は何か、見失っているのは、僕自身だ。下らない世界だと吐き捨てて、その世界を離したくないのは僕自身だ。

 全部、失いたくないものだったんだ。そう気付くと、瞼の裏に溢れた涙を止めることが出来なくなった。まるで、あの雨の日みたいだ。重たく広がっていた鈍色の空が、延々と涙を流していたように。

 膝をついて、僕は、僕自身に叫んだ。変わることなく、駄々を垂れ流した自分を罵った。

「でも……僕は……そんな僕が大嫌いだ! 何も変わろうとしないのは僕なのに、誰かのせいにする僕が、大嫌いだ!」

 足元にも、ハルジオンは咲いていた。ただ、僕の足の下には、踏みにじられた花が何輪も泣いていた。

「あなただってそう。誰かに踏みにじられるような思いをされたことがあるはず。だから、あなたが背負う痛み、わたしに全て預けてほしいの」

 彼女の声が降る。そして、彼女の白い腕が、僕の身体に伸ばされた。小さい、小さい身体が、僕を包んでくれた。

「人間は不思議ね。自分だけでも生きることが精一杯なのに、誰かのことを気にかけようとする。そんなことしなくてもいいのに。わたしには、あなたたちのことがわからないわ。でも、そんなあなたが好き。傘をくれたことは、忘れられない。もちろん、あなたの優しい、その顔も」

 こんなに嬉しくなれる言葉を沢山かけてくれて、僕はもっと涙が止まらなくなった。確かにそうだ。毎日、平凡に生きているフリをして、実際はその日を終えるだけでも大変だ。定められた時間に追われ、課せられた義務を背負って生きている。捨てられたら良いと願うこともある。

「もっと身勝手に生きて。それでも、わたしはあなたが好き。誰が何と言おうと、わたしはあなたを、愛しているわ」

 愛している。僕は、胸に伸ばされた手をギュッと握った。

「わからないよ……何も信じられないよ」

 まだこの場所も、彼女の存在も、わかっていないって言ってるのに。

 ただ、理屈はどうでもよくなった。君が傍に居てくれるだけで良い。ここで、抱き締めてくれているだけで良かった。良い香りがするわけではなかった。太陽のように温めてくれるわけでもなかった。

「でも、僕も……君に逢えてよかった」

 そんな二人の、本当の再会を祝してくれているのか、晴れ空から雪が降って来た。僕の肌に落ちて、結晶が染み込んでいく。

「雪……ごめんなさい。もうすぐ、終わりね」

「え……」

 しかし、彼女は寂しそうな声で言うと、僕から離れてしまった。僕は彼女を見る。そこに、あの凛とした少女の姿はなかった。

 もう、跡形もなく、無くなっていた。

「おい! 何処に行ったんだよ!」

 そして、消えていく。

 あんなに綺麗に咲き誇っていたハルジオンの花畑が、消えていく。青空が割れて、闇に変わっていく。

 消えていく、大事な世界が、消えていく。

「待ってくれ! 僕は、まだ大事なことを言えてないんだ!」

 壊れていく。世界は無くなっていく。僕は辺りを見渡した。彼女の姿を追うどころか、僕の行く場所が無くなっていく。黒が、無が、僕の元へ侵食してくる。前にも進めない。後ろにも逃げられない。ただ、堕ちていくのを待つだけだった。

 ほんの一瞬の出来事だった。こんなあっさり、離れてしまうとは思わなかった。僅かな時間に渦巻いた、様々な感情が、最後の涙となって零れ落ちた。

「僕は……」

 そして、僕の足元から、地面が無くなった。僕は、終わらないジェットコースターの浮遊感に襲われたまま、無の中を沈んで行った。

 もう君が居ない。そんなことはわかっていた。

 でも、僕は言いたかった。たった一言だけ。

「僕も……君のことを」

 愛してる。


 それから、間もなく。僕は生きていた。

 ふと意識が蘇って、瞼が開くことを確認する。ゆっくりとこじ開けて見えたものは、あの住宅街の塀だった。

 まだぼやけた視界を頼りに、辺りを見る。切れかかった街灯に群がる蛾は、光に当たっては跳ね返されるのを繰り返していた。

「夢、か」

 頭を叩き、僕は腰を上げる。街に降り注ぐ雪は、まだ止んでいない。そして僕の隣には、電信柱。ずっとこんなところに居たのかと思うと恥ずかしくなり、同時に、誰も気付いてくれなかったのかと思うと悲しくもなった。

「……結局、何だったんだ、あれ」

 長い夢を見ていたにしては、とてもリアリティがあった。それに、まだ彼女が抱き締めてくれた感覚が僕の中に残っていた。

 僕は足元を確認する。そこに、彼女が咲いていそうな気がしたからだ。こういう時、映画だったりしたら、花が元の場所に咲いていたりするだろう。僕はそんな展開を期待した。

 でも、そんな期待は大外れだった。そこには何もない。灰色の排水溝の蓋が、はめ込まれているだけだった。

「そんなもんだよな」

 僕は絵空事を信じていた自分が可笑しくて、仕方なくなった。



 家に帰って、お風呂で身体を温める。レポートはないので、すぐにベッドへ倒れ込んだ。脱いだ服は床にそのまま置いている。片付ける気力はなくて、明日の朝にでも直せばいいやと思っていた。

 そんな時、跳ねる音でスマフォがメッセージの通知をしてきた。もう寝ようとしていたので、そのまま無視しようかとも考えたが、僕は渋々コートに直していたスマフォに手を伸ばした。

 電車の中では、みんな無意味なことをなんて思っていたけど、実際はどうなんだろうか。そんなことをふと、考える。大事な連絡をしていたり、調べ物をしたりしている人も居るかもしれない。まあ、誰がどう時間をどう使おうと、気にしないでいいか。僕は少し、気が楽になっていた。

 コートのポケットに手を突っ込んで、スマフォを取り出す。通知は、電話会社からのものだった。

「あー。無視して良かったじゃん」

 ぐったりと肩を落とし、僕はスマフォを机に置いた。そのまま寝ようとしたが、僕は暗い画面を、何となく眺めていた。

 僕は、見つけた。そこに、彼女かもしれない証を見つけた。

 白い花びらが、暗い画面に一つ、咲き誇っている。

 僕は、嬉しくなって言った。 アイシテル、と。

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