1ー4
店を開くために、まずラーラが行った作業は、庭の草刈だった。
何しろ胸元まで丈のある草が所狭しと生えているので、景観云々の前に家に近づくことも困難な状態だった。
「とりあえず家までの道だけでも作りましょう」
ラーラは脹脛まであるスカートをたくし上げると、膝の辺りで縛った。これで作業がしやすくなる。
道具はありがたいことに、オーガストが貸してくれた。鎌や鍬、それに木製の鋤もある。
鋤や鋤が地面に入るならば、作業の時間が短縮できそうであったが、雑草の根が張り巡らされているのか、びくともしなかった。
まずは草丈を短くすることだ。
ラーラは近くにあった雑草を一掴みすると、ゆらゆらと揺らしてみた。子どもの手首ほどはありそうな立派な茎が、左右にしなった。
それを根元の方から、鎌を使って切り取っていく。
「それにしても、あんな言い方はないと思わないかい?」
「シグルド、あなたって子は」
ラーラが呆れつつ、後ろを振り向くと、木に背を預けたシグルドが休憩を取っている。
休憩と言っても、シグルドはこの草刈を何一つ手伝ってはいない。ただただ休んでいるだけだ。開始早々、力仕事は向いてないと言い、ああして傍観している。おそらく手が汚れるのが嫌なのだ。
「ラーラ、君だってそう思うだろう。バターや砂糖が入っているから美味しいだなんて、作り手に対しての冒涜だよ」
がーがーと、後ろから聞こえる雑音は止まらない。
ラーラは立ち上がって、腰を二、三度拳で叩いた。そのあと手を当て、後方に上体を反らして、筋を伸ばす。
「これっていつまでかかるのかしら」
「ラーラ、君に対しての侮辱だけじゃない。僕の味覚も、彼は軽んじているわけだ。お前たち都会の人間は、高価なものさえ入れておけば満足するんだろうってね」
「シグルド、言葉を曲解するのは止めて。オーガストは、そんな嫌味な人間じゃないわ。それにあのオーガストの言葉も一理あるわ。本来のスパイスクッキーは、あんなに砂糖もバターも入れるものじゃないもの」
「だからって、バターや砂糖をただ入れれば、美味しくなるってわけじゃない」
「それも一理あるわ。素材の味を生かすも殺すも料理人次第」
「だったら、がつんと言ってやればよかったんだよ。馬鹿にするなってさ」
「ねえ、シグルド。美味しい料理の条件って一体なんなのかしら?」
「急にどうしたんだい?」
「私の親は料理をするのが嫌いでね。台所に何日も前に買ったパンが山盛りにして置いてあって、そこから食べられそうなものを探して食べるのが、私の食事だった。新しいパンを買うと、母はいつも上から継ぎ足すから、下の方はいつもガチガチに固まっていて、食べられたものじゃなかったわ。だからね、それに見かねたオーガストの母親がよく料理を差し入れしてくれていたの。大抵はパンとスープとか、麦粥とか。まあ、田舎だったら普通の料理が多かったんだけど、たまに余ったパンで、ラスクを作ってくれたの。分厚く切られたパンの表面が、キャラメリゼされた砂糖でコーティングされていて、田舎じゃみたことないお洒落な食べ物だった。何かに浸してあったのだと思うけど、噛むとさくっとした触感のあとに、じんわりと甘い汁が口の中に広がるの。微かに蜂蜜の匂いがする優しい味だった。私、今でもオーガストのお母さんが作ってくれたこのラスクの味を忘れられない」
ラーラの話を聞いていたシグルドの喉が、ごくりと鳴った。
「元々の素材の力も大きいけど、美味しい料理の条件にとって、一番大事なものは料理人の腕だと、私はずっとそう思って、料理の腕を磨いてきたわ」
シグルドが大きく頷いた。
王宮で毎日食事をしてきたシグルドは、素材を生かした料理を多く食べてきたと同時に、まったく生かされていない料理も数多く口にしてきたのだろう。
その頷きには、力が込められていた。
「その通りだよ。だったら何も落ち込むことなんて、ないじゃないか。間違っているのは、あの男のほう。それで解決だ」
「シグルド、私、小さい頃オーガストのママが作るラスクをもっと食べたくて、家でその味を再現できないか、試したことがあるの。固くなったパンはいくらでもあったから、作ることが出来れば、毎日お腹いっぱいあのラスクを食べられると思ったわ」
「そうだね。きっと子どもの僕でも、同じことを考えるよ」
「ええ。でも何度やっても同じ味にはならなかった。オーガストのママに聞いても特別なことはしていないって言うの。私悔しくて、宮廷料理人になってからも再現しようと、何度も挑戦したわ。食材も子どもの頃よりいいものを揃えて、私が思いつく限りの技術を込めた。もちろんそれだけ力を入れたのだから、美味しいラスクはできた。でも駄目ね。どうしてもあの味にならなかった」
ラーラは力なく肩を落とした。
「私は今でもあのラスクが最高の食べ物だと思っている。だって私の原点なんだもの。ねえ、シグルド。私は美味しい料理って、そういうことなんじゃないかと思うの」
「母の味ってこと?」
「母の味だけじゃないけど、心に触れる料理ってこと。私には、まだそれが作れない」
「僕はラーラの料理を不味いなんて思ったことはないよ」
「美味しいだけじゃないのよ。私はあのラスクをそう何度も食べたことはないけど、今でもはっきり思い出せるの。味だけじゃなくて、そのときの情景や気持ちまで。シグルドにもあるでしょう。そんな料理が」
「思い出の料理ねえ」
「私、知りたいのよ。どうしたら心に触れる料理が作れるのか。だから、あの最高のラスクを作ったオーガストのママがいる故郷に帰ってきたの」
シグルドは口元に拳を当てると、地面をじっと睨み付けた。
しばしの間のあと、何か思い付いたように顔を上げ、こちらに向かってきた。ラーラの腕を掴もうと手を伸ばし、直前でそれを諦める。
そうだ。シグルドはラーラに触れられない。
「そうか。じゃあ、行こう」
「行くってどこに?」
「そのオーガストのママのところだよ。きちんとレシピを見て、ママのラスクを作るんだ。そうすればラーラの言う、心に触れる料理がわかるんだろう」
シグルドは手招きをすると、オーガストの家に向かって歩きはじめた。しかしいつまで経っても、ラーラが歩きはじめる気配がない。
振り向くと、ラーラが困ったように微笑んでいる。
「シグルド、気持ちは嬉しいけれど、それは無理なのよ。オーガストのママはもういないの。家に荷物を送ったときに、オーガストから手紙が来たの。私が帰る少し前に、農作業中に倒れてそのまま亡くなったって」
「嘘だろ。なら何のためにこんな田舎に。あの男の母親がいないなら、ラーラの知りたかったことはわからないじゃないか」
「いいのよ。例えレシピがわかったとしても、それだけじゃ意味がないの。あのラスクをもう一度作ることが、私の目的じゃないもの。同じように私がラスクを作っても、オーガストのママのように、小さかった私を魅了することはできないわ。きっと私の探している答えは、そんな簡単なことじゃないもの」
シグルドは、額に手を当てると気落ちした。ふらふらとして、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「ラーラ、僕は君の言っていることが全くわからないよ。美味しい料理は、美味しい料理だ。それでいいじゃないか。君にはそれを作る才能がある。あのまま宮廷で料理人を続けていれば、女性で初の料理長にだってなれたかもしれない。それじゃあ、駄目なのかい」
ラーラは先ほどのように困ったように、微笑むだけだった。
シグルドはこんな表情をする女性を何人も見たことがある。物わかりの悪い子どもを諭すような、先生や母、あるいは姉の顔だ。
――シグルド、あなたって本当に困った人ねえ。
女性はシグルドにそう言って、こんな表情をする。そのあとは、胸に抱き寄せ子どもにするように頭を優しく撫でてくれるのだ。
無論、猫の姿でだが。
シグルドは女性の、この困った表情が嫌いではなかった。甘やかすような優しい声音で囁かれると、ふわふわとした気持ちなる。
しかしラーラのそれは、どうにも気持ちが騒めいた。
大きくため息を付くと、シグルドはその場にしゃがみ込んだ。
シグルドにはラーラが何を不満に思っているかわからなかった。食材も調理場の設備も、以前のほうがずっと優れていた。生活だって、がらりと変わる。ラーラの言う美味しい料理の条件がここで掴めるとは、到底思えなかった。
こんな表情をするとき、女性はだいたい覚悟を決めている。
シグルドが接してきた女性たちは、女遊びの止まない困ったシグルドを受け入れる覚悟を。
そしてラーラは――。
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