1ー3

 ラーラの生家は、町の一番奥にある赤い屋根の小さな家だった。少し丸みがかかった屋根の家は、遠くから見ると毒々しいきのこのようだった。

 みんなが自分の家をきのこ、きのことからかうので、ラーラは町の中で一軒だけ風貌の変わったこの家が、幼い頃嫌いだった。そのせいか、今でも目立つことは好きじゃない。

 しかし現在の生家は、トレードマークであるはずの屋根がうっすらと苔に覆われて、壁全体を這うように、蔓状の植物が巻かれていた。

 きのこと言うよりは、大木といった様相が近いだろうか。長年の月日によって、すっかり自然と一体化してしまっていた。

「そんな離れていたはずじゃないんだけどな」

 町を出たのは、ラーラが十二のときだった。母が亡くなって一週間後のことだった。それから一度もラーラはこの家に帰ってはいない。

 記憶の中でラーラの家は、白い柵でぐるりと囲まれていたはずであった。庭にはハーブが植えられ、母によっていつも綺麗に手入れされていた。

 しかし今はその柵も取り払われ、庭は荒れ放題となっていた。雑草が育ち、玄関が見えなくなっている。

 記憶と同じ場所は、庭に作られた丘に植えてあった胡桃の樹だけだ。母は毎年、この樹から取れる胡桃から、胡桃油を作っていた。

 食用にもなる胡桃油だが、母はこれを薬として使っていた。日焼けや湿疹、むくみ、フケなどの肌の乾燥にも効果がある。他にも、胡桃油は乾くと固まる性質を持っているので、ワックスとして食器や家具の手入れに使ったり、蝋燭の代わりに使用したり、様々なことに役立てていた。

「それにしても、汚いな」

 腕に抱かれたシグルドが、不快そうに顔をしかめた。町に付いてからずっとこの調子で、機嫌が悪い。歩きたくないのか、ずっとラーラの腕に収まり、過剰なほどに鼻をぴくぴくと動かしている。

「そうかしら」

 ラーラがわからないと首をかしげると、シグルドがその零れ落ちそうな目を細め、睨み付けてきた。

「ラーラ、お前本気で言っているのか。この臭いだよ、この臭い。町に入ってからずっとそうだ」

 シグルドは息を吸うのも耐え難いというように、鼻先を抑えた。見た目は完全に猫なので、一々仕草がかわいい。

「この臭いって言われてもなあ」

 ラーラは深く鼻から空気を吸い込み、臭いの元を探した。キョロキョロと辺りを見回してみる。

「ああ、もしかしてあれのこと」

 ラーラは、隣家で育てている牛や羊を指さしした。

 こくこくと肉球で鼻を抑えたままシグルドが頷く。

「獣臭いったら、ありゃしないよ」

 自分も獣のくせに、とラーラは思った。

「猫だから、鼻が私より効くのかしら」

 ラーラの故郷は酪農の盛んな町だった。町の九割は、豚や羊などの家畜を育てて生計を立てている。

 ラーラが町を不在にしていた間も、そのことは変わらなかったようで、町の家々には畜舎が備え付けられていた。そのためどこへ行っても動物たちの姿が確認できた。

 幼少期をこの町で過ごしたラーラにとって、家畜の臭いは懐かしいものであったが、はじめて訪れたシグルドには耐え難いものがあったのだろう。

「見てみろよ。あそこ、あんなに蠅が飛んでいる」

「猫なんだし、追いかけてきたら」

「お前、俺をいったい何だと思っているわけ」

「猫」

 シグルドが指さしした先には、一頭の牛がいた。尻尾をパタパタと振り回し、どうやらお尻に集る蠅を払っているようであった。

 牛を見ながら、二人でああでもない、こうでもないと騒いでいると、突然何者かにこつんと頭を叩かれた。

「いたっ」

 ラーラは咄嗟に頭を押さえ、腰を屈める。すると頭上から、不機嫌そうな男の声が降ってきた。

「悪かったな。汚くて」

「すいません。そういうつもりじゃないんです」

 振り向きざまに頭を下げ、相手の顔を確認する間もなく、ラーラは素早く謝罪をした。どうやら話を聞かれていたらしい。

 散々罵倒していたシグルドをちらりと横目で見ると、バツが悪いのか、ニャーニャーと猫の真似をしていた。完全に罪を擦り付けるつもりのようだ。

 相手が黙っているので、ラーラは恐る恐る顔を上げた。

(あれ、この顔)

 知っている顔だ、とラーラは思った。

 ラーラの故郷は狭い町で、住民すべてが親戚のような町だった。知らない顔はいなかった。頭を叩くという気安い態度から察するに、おそらく彼は知り合いなのだろう。

 ラーラは記憶を辿ってみたが、ぼんやりと靄がかかったように思い出せなかった。

 ラーラが町を離れたのは、十二のときだ。それから十五年も月日が経っている。相手も成長しているので、無理もない話だった。

「お前、家を出てったまま連絡の一つも寄越さないで、何を考えているんだ」

 男の声には微かな怒りが含まれていた。どうやら相手はラーラのことをわかっているようであった。

「あー、えっと、あの、オーガスト?」

 ラーラは恐る恐る隣家の少年の名を口にした。家の場所が変わっていないならば、シグルドが文句を垂れていたあの家は、彼の家だった。

「そうだけど、何だ」

「お、当たり」

「お前、ふざけているのか」

 オーガストは苦虫を噛み潰したような顔をすると、自身の頭をくしゃくしゃに掻いた。言葉に詰まるとよくやる、彼の癖だった。

「一月前に、急に荷物だけ送ってきて、何事かと思ったよ」

「私の荷物オーガストが受け取ってくれたのね。ありがとう」

「お前の家は、誰も住んでいないからな。配達屋が俺のところに聞きにきたんだよ。母屋に置いてあるから、あとで持っていけ」

 そう言ってオーガストは家を指さしした。

「助かったわ。ラーラなんて娘は村にはいない、って誰も受け取ってくれなかったらどうしようかと思っていたの」

 ラーラは冗談交じりに言って見せた。しかし仕事に明け暮れていた月日のほうが村で過ごした幼少期を超えてしまっている。あながちそれもないとは言えなかった。

「そう思うなら、連絡の一つぐらい寄越せ」

 こつんと、オーガストは拳骨をラーラの額に当てた。

 オーガストの昔と変わらぬその気安い態度が、ラーラの帰郷を歓迎しているようで、ありがたかった。表には出さないように努めていたが、心の中では、みんなが自分のことを忘れてしまっているのではないかと、不安だったのだ。

「荷物もあんなに大量に送ってきて。中身はいったい何なんだ? 服や靴にしちゃ、やけに多いし、重かった」

「香辛料や調味料、保存食、でもほとんどが調理器具ね。私、料理人をしていたの。少し置いていこうかと思ったんだけど、あれもこれもと、荷造りしているうちに増えちゃってね」

「お前が料理人だって」

 オーガストが訝しげな声を上げた。

「そうよ。しかも驚くことなかれ、宮廷料理人をしていたのよ」

 ラーラが言ったあと一瞬、沈黙があった。そしてそのあと、オーガストは自身の頭を盛大にかき乱した。

「本気で言っているのか」

「嘘なんかついて、どうするのよ。私が料理人なんて、意外かしら?」

「意外というか、まあ、そうだな。そんな想像はしていなかった。料理をするとは思っていなかった」

「失礼ね。私だって、料理ぐらいするわ」

「いや、お前というよりは、母親だな。おばさんの料理は、なんていうか、その、美味くなかった」

「私の母さん、料理嫌いだったものね。確かに料理はいつもまずかった」

 オーガストの素直な回答に、ラーラは思わず破顔した。

「でもだからかしら。外で食べた料理の美味しさに私、感激しちゃって。こんなに美味しいものが世の中には溢れているのかと。どんな料理を食べても思ったわ。それで料理人を目指したのよ」

「仕事が順調だったなら、何よりだ。でもなら、なぜ帰ってきたんだ? 宮廷で働いていたなら、安泰だったはずだろう」

 オーガストの心配はもっともなことだった。宮廷で働くことは、望んだからと言って簡単にできることじゃない。田舎の出のラーラにとっては、名誉なことだった。

「ここへは、自分の店を開こうと思って帰ってきたの」

 そこまで言うと、オーガストが険しい顔になり、難色を示した。

「店だって。レストランでも開くつもりか」

「一人で切り盛りするつもりだから、そんな立派なものじゃないけどね」

「ラーラ、悪いことは言わない。少し考え直せ。仕事を探して、地道に働くのが堅実的だ。お前の腕がどれ程の物かは知らないが、ここには何もない。客なんか来ない」

 オーガストはきっぱりと言い切った。

「お貴族様が食べているような、高級な料理に金を出せる客なんてここにはいないし、そんな肥えた舌を持つ人間もいない」

 オーガストは本気で自分の心配してくれているのだろう。

 適齢期を過ぎた独り身の女が、店を開く。女性が将来のために店をかまえることは、都会で多くはないがあることには、あった。しかし彼女たちのように、パトロン付けて大々的に店を開くのとはわけが違うことをラーラもよく心得ていた。

「見栄えのいい、珍しい食材を使った料理を出すことだけが、私がしたいことじゃないわ。そりゃあ、作れと言われたら作れるけど」

「何もこんな田舎で開くことはない。お前、宮廷で働いていたってことに胡坐をかいているんじゃないか。最初は物珍しくて客は来るかもしれない。でも最初だけだ」

「それでいいわ。食べるのに困らなければ、構わない」

「そう言ったってなあ。現実問題、その食べるだけってのが、簡単じゃないんだ」

 尚も言い募ろうと、オーガストが口を開く。

 するとイライラとした声が、ラーラの腕の辺りから放たれた。

「おいおい、さっきから黙って聞いていれば、まるでラーラの料理が不味いみたいな言いようじゃないか」

「誰もそんなことは言っていない。ただ俺は心配を」

 そこまで言いかけ、オーガストははたと気が付く。一体自分が話しているのは誰なのかと。

「心配? 俺たちは都会からこんな田舎まで遥々やってきたんだ。あんた女の身で料理人をすることがどれ程大変なことか知っているのか? まだやりもしていないことを否定ばかりして、どういうつもりだよ」

 オーガストは声の主を探して、辺りを見回した。

「ここだよ。どこ見ているんだよ。ここだ」

 シグルドがオーガストに向かって声を張り上げる。

 オーガストが視線を落とすと、ラーラの腕の中で、苛立ちを抑えきれないと言った様子でパタパタと尻尾を振るシグルドと目が合った。

「お前、昔から変わった奴だと思っていたが、やっぱり魔女だったのか」

「違うわよ。この子は」

「ラーラ、何か食べるものを出せ。俺はこいつに一言言ってやらなきゃ気が済まない」

 シグルドはラーラの言葉を遮ると、地面に飛び降り、トランクの中を漁りはじめた。

 しかし出てくるものと言えば、干からびたパンや干し肉、豆類など、到底シグルドの味覚を満足させるものではなかった。

「あっ、そうだ」

 シグルドは何か思いついたように呟くと、ラーラに飛びつき、今度はポケットの中を探りはじめた。

 そしてスパイスクッキーの入った包みを取り出すと、一つ摘まんで口の中に放り投げた。

 カリカリとクッキーが砕ける音が、ラーラの耳に届く。

 しばらく時間が経っているとはいえ、前回の変身と同じ料理で戻るのは至難の業だ。

 ラーラは気が気ではなかったが、ぽんと小さな破裂音がし、シグルドは無事人間の姿へと戻ることができた。

 一度に色々なことが起き、呆気にとられているオーガストの口に、シグルドは素早く残っていたスパイスクッキーを押し込んだ。

「お味はいかがかな?」

 びっくりして咳き込むオーガストの顔を、シグルドは自慢げに覗き込んだ。オーガストは涙目になりながら、クッキーを飲み込むと、人間に戻ったばかりのシグルドをじろりと睨み付けた。

「いったい何のつもりだ」

「ラーラの料理の味だよ。君がごちゃごちゃうるさいから、食べてもらったほうが早いと思ってね」

 どうだい? 美味しいだろう? と、シグルドは胸を張った。

 途端、オーガストは渋い顔になった。

「美味しいよ」

「そうだろう。そうだろう」

 シグルドは気分よく頷いた。

 しかし次の瞬間、さっと顔色が変わった。

「これだけ贅沢なクッキー、不味いわけがない。そりゃあ、これだけ砂糖だ、バターだ、とたっぷり使えば美味しくもなるさ」

 オーガストはそう言うと、ラーラたちにくるりと背を向けた。

「町のみんなには、お前が帰ってきたことを伝えておくよ。俺ができるのはそれぐらいだ」

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