最期の愛の伝え方

神宮司亮介

最期の愛の伝え方

 GW明けもということもあってか、広い講義室で席についている生徒はまばらな数しかいない。淡々と教壇に立つ先生が、今の日本の経済について問題点を説明している。抑揚のない声は欠陥を指摘することに向いていないのか、前列で真面目に板書をしている生徒ですら、先生の話には耳を傾けようとしていない。

 優花はルーズリーフの隅に描いたキャラクターの落書きをペンでなぞる。両隣には友達が座っており、二人共スマートフォンを持ったまま講義を終えようとしている。

「先生、質問があります」

 先生がチョークを置き、そろそろ講義を終えようとした時、講義室の端の方に座っていた一人の男子学生が手を挙げる。紺色のカーディガンの袖がアンテナのようにピンと伸びた。

「ねえ、あいつなんかウザくない?」

 右側に座る友人が呟く。波打つように流れる茶色い髪から覗く肌は荒れていて、ファンデーションを塗り込んでも隠すことは出来ていない。

「そうかな。私は、別に気にしないけど」

 優花がそう答えると、彼女は首を振る。そして、毒を吐くにしては柔らかい瞳で、優花の方をじっと見つめてきた。

「だって、毎回講義終わりに質問するから早く教室出れないし、それに、関西弁がなんかイヤなの」

「わかるわかる! あたしもなんかムリ!」

 優花の左側の席に座っている友人が頷く。黒縁の眼鏡をかけ直し、優花へ諭すように告げる。眼鏡の雰囲気に似合わず、フレームを掴んだ爪先は派手に装飾されている。

「大体、優花はそういうところに鈍感過ぎなんだよ。普通はウザいって思う筈だよ」

「そっか。でも、私はあんまりそういうの気にしないタイプだから」

 優花は細い指先で、元気にルーズリーフの端を飛び回っている少年をなぞる。見えない何かに身体中をくすぐられているような感覚が伝わってくる。

「ありがとうございます」

 そうこうしているうちに、男子学生の質問は終わってしまった。関西弁のイントネーションか、ございます、の語調を強めて席に着いた。

 長い爪が少年を引っ掻いたことに気付いたのは、「やっぱ無理だよね」と念を押す様に友人が呟いた後だった。


 居心地の悪さから、優花は友人たちと別れ、一人講義室を後にする。背伸びできないヒールをカツカツ打ち鳴らし、茶色く舗装されたメインストリートを横切っていく。

 様々なクラブの部室があるクラブ棟は、都会のビルも驚く講義室の入ったそれぞれの学部棟とは外れた場所にある。教授の車が行き交う道路を越え、優花はクラブ棟に入る。

 階段を上がり、三階に辿り着くと、右奥の方へ向かう。何の活動をしているかわからない団体の教室を三つ挟んだ場所にある部室へ、優花は入った。

 塗料が何重にも重なって塗られた匂いが鼻を突く。優花は黒髪を揺らし、息を整える。

「先輩、こんにちは」

 優花の少し垂れた瞳が見ていたのは、紺色のカーディガンを羽織った、青年の後姿だった。

「山村か」

 青年は優花の顔は見ず、淡々と作業を続けている。元々は白かった筈のキャンバスは、色とりどりの世界に変わっている。

「……あ、あの」

「何か用か」

「あ、いえ……何でも、ありません」

 ほんの少し赤く染めたチークのお陰で、照れは隠せている。ただ、優花の胸は嘘をつかなかった。ベルトの付いた深緑色のスキッパーシャツを脱いでしまおうかと思う程に、身体中の体温が熱くなっていく。

「暇なら、何か描いとけよ」

 青年はぶっきらぼうに答えるだけだ。

 優花は、裸の爪を胸の辺りに立てる。少しだけ痛みを感じたが、それよりも強い感情が頭の中を走っていった。



 優花が青年に特別な感情を抱き始めたのは、優花が一年の時の秋だった。

大学祭を前に控え、所属している美術部の展覧会の準備をしている時、たまたま優花と青年の二人になる機会があった。

「あの、先輩、この前はすみません、期日までに作品、出せなくて」

 か細い声で優花は謝る。青年は夕焼けを眺めながら言葉を返す。

「別に。妥協するよりマシやと思う」

 聞き慣れないわけではないが、ドラマやアニメが嘘を吐いているとよくわかる関西弁を受け、優花は明るい色でチェック柄のポンチョの裾を握った。

「あ、あの私、亮太、先輩の絵、好きです」

 淡々と絵を飾る青年、亮太は優花の言葉を受け流す様に答える。

「そう」

「す、すみません」

「別に悪いこと言ってないし、謝らんでもええよ」

「……はい」

「ちゃんと人の話は聞けるんや」

「え、それはどういう」

「大体、謝るな、って言葉の返事は『ごめんなさい』やから」

「ああ」

 特に発展しない会話が終わる。優花は肩甲骨の辺りまで伸びる黒髪をボサボサと掻き乱す。亮太の方を見れなくなって、目線を逸らした先には、亮太が描いた絵が飾られていた。『理想の世界』をテーマにした今回は、個性的というより自己陶酔に陥ったような、派手な作品が多かった。その中にあって、亮太の絵はオアシスのような役割を果たしている。白い羽根が生えた母親が、子供を抱きかかえている様子を現した絵だ。

 亮太は、そんな優花の方を初めて見た。定規で引いた様な鋭い目元が、小刻みに動く。

「山村みたいな子がもっとおったら、俺も楽なんやけどな」

 亮太の口から飛び出した言葉に、優花は思わず息が止まった。

「それってどういう……」

「い、いや、なんでもない」

「……先輩が、そういうことおっしゃるのって、珍しいですよね」

「別に。忘れろ」

 そう言って、亮太は作業に戻ろうとする。軽く咳き込む音が、優花の耳には聞こえていなかった。

 この時の胸の高鳴りは、ポンチョの奥に隠そうとしても収まらないくらい、激しく響いていた。



「一人か」

「はい、一人、です。先輩は、あの……もう講義、終わったんですか」

「ああ」

 優花は聞こえないように溜息をつく。弾まない会話を尻目に、亮太は絵を完成に近付けていく。

 とりあえず、優花は雑多に置かれた椅子に座り、傍に手提げのカバンを置いた。教室の中には、過去の作品が壁際に置かれている。適当に重ねられた作品から外れて、亮太が描いた母親の絵は飾られている。

「なあ、山村。次の展覧会のレイアウト、お前が考えてくれるか」

「はい……え、わ、私でいいんですか」

「お前しかおらんから。ちゃんとやってくれるって、信じられるの」

 亮太は筆を置いて立ち上がった。女性の美しい横顔を中心に、虹色のリボンが結ばれていた。

「亮太先輩にそう言ってもらえると、すごく嬉しいです」

「そうか……頼りにしてるぞ」

 亮太は優花の方を向き、少し尖った輪郭を柔らかくして微笑んだ。初めて見た表情に、優花はヒールを鳴らす。

「あ、あの……ありがとうございます! 私、先輩にそう言ってもらえてすごく嬉しいです!」

 自分の気持ちをすんなりと言葉にでき、優花は嬉しくなる。鼓動が先走っているのも気付かず、優花は口を開こうとする。

「かはっ、かはっ」

 鼓動が張り裂けるよりも先に、亮太の細い身体は、塗料で汚れた床に崩れ落ちた。

「せ、先輩、大丈夫ですか!?」

 優花の言葉を無視して、亮太はズボンのポケットに手を突っ込み、何かを探している。みるみるうちに、真っ新なキャンバスのような色に顔色が変わっていく。

「ない、薬がない! 薬が!」

「先輩、亮太先輩! しっかりしてください!」

 優花はパニック状態の亮太に近寄り、背中をさする。教室に吹き込む風の温度に似合わない汗が、亮太の首筋から滴っていく。

「はや、く……よべ……」

「え……あ、わ、私、救急車呼んで来ます!」

 その時の外の景色は、祝福の鐘を天使たちが鳴らしていると言われても疑わない、澄み切った青空を創っていた。



「先輩、大丈夫ですか」

「……別に」

「なら、良かったです」

 亮太は一命を取り留めた。相変わらず呑気に晴れた空を背にして、優花は亮太の傍で看病をしている。

 今は、病人とは思えない顔色をしている。ベッドを出て、退院すると言われても疑問は浮かばない。

「あの、先輩」

 優花は、勇気を持って切り出した。

「その、まさか先輩が病気だったなんて、私、全然知りませんでした」

「誰にも言ってへんしな」

「どうして、言ってくれなかったんですか」

「別に。お前には関係ない」

「あ……その、すみません。変なこと言っちゃって」

 謝られることはなく、怒られることもない。平然と、淡々と、心電図が一定の数値を保っているのと同じ。亮太はいつもの口調で優花に話す。あからさまに、優花は肩を落とし、長く息を吐いた。

「……お前はやっぱり、他の奴とは、違う」

 そして、亮太は優花の目を見るでもなく、ぼそりと呟く。

「心配してるのに素っ気なくされたら、俺は、嫌かも」



 日が暮れて来たので、優花は病室を後にする。夕陽が後ろ髪を引っ張って来るが、扉を閉めて振り解く。

 重い扉を動かした後のように、優花は取っ手を掴んだまま項垂れる。肺が上手に酸素を取り込んでくれない。

 それは、突然降って来た。

トントン、肩を叩かれ、優花は慌てて振り返る。そこに居たのは、スーツ姿の男性だった。四十は超えているとわかるが、頼りがいのありそうな佇まいを見る限り、若々しく見える。

「君が、山村優花さんかな」

 優しげな顔付きとは裏腹に、低い声からは人生経験の長さを感じる。

「え、あ……はい」

「そうか、君が救急車を。ありがとう。助かったよ」

 男性は頬を緩め、安堵の表情を浮かべている。優花は男性の存在を悟りつつ、乾燥した口を開く。

「もしかして、先輩のお父さんですか」

「ああ、ごめん。紹介が遅れてしまったね。亮太の父の、武史です」

 律儀に礼をくれるので、優花も軽く頭を下げる。痩身の亮太に比べると、武史のがっちりとした体格は家族を支える父親として十分過ぎる程だった。

「……亮太のことを気にかけてくれている人がいて、安心しているんだ。あいつ、無愛想で、近寄りにくい性格しているだろ」

 初対面の、それも亮太の父親に言われ、優花は引き出しの言葉選びに迷う。正しい言葉がどれなのかを探ることに必死だった。

「正直に、言ってくれていいんだ」

「……ええと、私は、あまり気にならないんですけど、人によっては、冷たいって言う人もいます」

 武史の一言で、優花は喉の奥に引っかかっていた真実をゆっくりと吐き出す。たった一言だけなのに、胸の辺りの血液が勢いよく走っている。

「君には、言っても大丈夫そうだな」

 父親の顔が、一層濃くなる。武史は安堵の表情を消し、優花の心へ入り込もうとして来る。父親だと言われていなければ、優花は間違いなく逃げることを選択していただろう。

「な、何を、ですか」

「僕の、妻の話になるんだが、聞いてもらえるかな。ここじゃ何だし、場所を移して」

 首を横に触れる雰囲気ではない。優花はゆっくりと縦に頷いた。



 ***



 朝の陽射しが降り注ぐ。庭に植えられた色とりどりの花たちは、元気に咲き誇っている。綺麗に整理されたリビングは、ラベンダーの香りと朝食に用意されたコンソメスープの香りが混ざっている。

 亮太は慌てていた。起きた瞬間から、寝坊をしたことに気付いてはいた。だからといって休むわけにはいかない。絵の具の色が袖に残ったブラウスを着て、丈の短いズボンと白い靴下を履く。ランドセルを抱え、泣きべそをかきながらリビングへ降りて来る。そこから家を飛び出してしまえば良かったが、食卓は亮太を待っていた。

 程なくして、怒号が轟いた。

「アンタはいっつもいっつもやること遅いなあ! もう小学生やろ、いい加減にしいや!」

 まただ。亮太は心の奥で呟く。急いで席に座り、バスケットにあったロールパンを頬張る。不甲斐なさや恐怖が押し寄せて、上手く食べることが出来なかった。瞳からは涙が零れ落ちる。

 それを、亮太の母は見ていた。クマが中心に描かれたエプロンは、すっかり元気をなくしている。

「はいはいもう泣くんやったら余所で泣いてくれ! 私は知らん!」

 定規で引いた様な鋭い目元が、小刻みに動いている。肩にもかからない茶髪が忙しく暴れ、スリッパは叩きつけられる音を打ち鳴らしている。こんな日に限って父親は居ない。

こんな日々が続いている。母親には、嫌気が差していた。胃の奥から食べた物ごと、全てを吐き捨てたくなる。

「なんで」

 嫌気が差しながらも、母が作ってくれる大好きなコンソメスープすら、今日は飲みたくなかった。パンを置いて、亮太は口を開く。

「何! もう早く学校へ行きなさい! 遅刻するんでしょ!」

「なんでオレのお母さんは優しくないん!?」

 寝坊は確かに亮太のせいだ。しかし、頭ごなしに怒られるのは辛い。友達に聞けば、朝からこんなに怒鳴る親なんていないらしい。生まれた場所を間違えたとしか、思えなかった。

「お母さんなんか嫌いや! 大っ嫌いや!」

 きっと、怒られる。亮太はそう思っていた。そして、その前に逃げてしまおうと、ランドセルを背負って走り出そうとしていた。

 母は、呆然と立ち尽くすだけだった。亮太はその姿を見ることはなかった。



 ***



「ラヴ・ディジーズ症候群……?」

 一連の話に付加された病気の名前で、優花は頭の中のハテナを埋める作業で必死になった。

「まだ、病気と認められたわけじゃないんだ。国内での症例は、僕の妻が初めてでね」

「……その、病気は」

「よくわかっていないんだけど、家族や、恋人、仲間。大切な人や物に対する愛情表現を行うことで、身体的な影響が出る病気さ。最悪の場合、死に至るね。妻も、亮太が幼稚園の頃はそこまでひどくなかったんだ。でも、悪くなるのは急だった」

「……もしかして」

「ああ。あの日から、妻は優しくなった。でも、三日目に発作を起こして、そのまま、目を覚まさなかった」

 武史の瞳が潤む。よくわからない病気で死んでしまうなんて。涙を堪えている目がそう訴えかけているように、優花には見えた。

「認めたくはないけどね。人を愛することが、身体を蝕んでいくなんて。でも、人を愛することは、そんなに簡単じゃないということなんだろうなあ」

 励ましの言葉をかける程の勇気はない。聞き流す程の図太さもない。行き交う医者と患者が無表情で進んでいく不自然な世界を見つめながら、優花は神妙な面持ちで話を聞くことしか出来なかった。

 他にも、妻が生粋の大阪人であること、出会ったのは大学生の時、同じゼミだったということ、今日はたまたま東京で仕事だったということなど、色々話はしてくれた。しかし、優花にはあまり関係のないことでもあり、その部分のことはあまり覚えていなかった。

「ここまで聞いてくれてありがとうね」

 武史がようやく述べたかった言葉を全て終わらせ、使命を果たした戦士は、清々しく笑みを浮かべた。

「いえ……良かったです。大事な話を、聞かせてもらって」

「……実はね、もう一つ、知っておいてもらいたいことがあるんだ」

 その先の台詞が何なのか。優花にはわかっていた。ただ、わかっています、そうは言えない。気付かないふりをして「何ですか」と訊ねる。

 武史の涙が引いた分、優花の目には、涙が浮かんでいた。



 それから数日が経った。優花は眠ったままの亮太を見ると、外を見る。あの日以来、天気はどんどん悪化している。今日は鈍色の雲が今にも雨を吐き出しそうだったので、橙色の傘を持ってきている。

 愛の病。ざっくりと言ってしまえば、これが一番しっくりくる。亮太を蝕んでいる愛は、一体誰に向けられているものなのだろうか。

 余計なことを考えているうちに、優花は睡魔に襲われる。レポートや課題が重なり、最近あまり寝ていなかったせいだろう。それに、病室の温度は、眠るのにはちょうどいい。

 早く帰ろうと、優花は立ち上がろうとする。しかし、意識の糸はプチンと切り落とされる。誰かが、ここから動くなと耳元で囁いているような気がした。その確証を掴めぬまま、優花は暫しの眠りに就く。


「山村か……」

 優花が眠ったのとほぼ同じタイミングで、亮太は目を覚ます。見飽きた真っ白な天井を眺めつつ、白い布団に頭を埋める優花の姿を捉えると、亮太は胸を押さえた。

「このまま死ぬんかな」

 ラヴ・ディジーズ症候群。その診断を受けたのは一年前。うまくいかなかった高校生活を消し去るくらい楽しもうと、上京までした矢先のことだった。発作を起こしそうになった時の薬を持たされるようになってからは、誰かに想いを伝えることが億劫になっていった。

 優花に出会うまでは。

「せめて……もっと……普通に……誰かを好きになりたかったなあ」

 いざ、自分のことを打ち明けようとしても、打ち明けようとさせる程の存在は居なかった。それに、そんな病気がある事など信じてもらえると思っていなかった。

 気が付けば、亮太の周りには誰も居なくなっていた。

「……何で……何でこんな身体になったんや!」

 少しでも歩み寄れば、心臓が見えない手によって握り潰されそうになる。肺胞が潰され、呼吸が出来なくなるような錯覚に陥る。現に呼吸困難が、この病気の主な症状だ。

 そして、いつの間にか感謝の言葉すら、言い出す時に心の準備が必要になった。

「何で、好きな奴に、好きって言えんのや……」

 段々、高鳴っていく心臓。これは、病気のせいではない。誰かを好きになった時、恋が始まった時に訪れるものだということを。

 入院生活で余計に細くなった腕を、亮太は優花に伸ばす。深い眠りに入ったまま、優花は起きる気配を見せない。ほんの少し、顔が赤く火照っているように感じる。

「最期くらい…………させてく……れ」

 躊躇はなかった。頭を横にさせ、亮太は自分の唇を、優花の唇に合わせる。一秒、二秒、三秒。どんどん時間は経っていくのに、この世界が止まってしまったような錯覚に陥る。

 これが、キスなんだ。そう認識して、すぐだった。

 心臓は、高鳴るレベルを超えて、張り裂けそうに叫び始める。苦しさに亮太は思わず呻き声をあげた。初めてのキスに喜びを感じる暇はなく、舌の奥がうねりを上げて呼吸を止めてしまった。


 優花は、暫くして起き上がる。いつの間に眠ってしまったのかと、瞼をこする。窓に打ち付ける雨の音が、醒めない夢を終わらせようと鳴り響く。

霞んだ視界の先に、うずくまる人の姿を捉えるまでは、ゆっくりと時間が流れる。ただ、その存在を焼き付けた瞬間から、砂時計の砂は落ち始めた。

「せ、先輩!」

 誰かはすぐにわかった。優花は無理矢理脳を起こす。視界が一気に晴れると、そこでは亮太が胸を押さえて身体を折り畳んでいる画が広がっていた。鮮明に描かれたそれは、嘘ではなく間違いない現実だ。眉間に皺が寄っているにもかかわらず、呼吸の音も聞こえないくらい、静かに

 優花は暗闇の迷路を掻き分けるようにナースコールのボタンを探し出す。使い方がわからず、二回か三回ほど、細かく押し続けた。

「どうかされましたか?」

 ベッドに備え付けられているスピーカーから、看護師の声が聴こえる。

「せ、先輩が……は、早く来てください!」

 スピーカーからの声は、途絶えた。優花の意識の中では。

 白い海の中で溺れていく魚。泳ぎを止めまいと流れに抗うも、その力はみるみるうちに小さくなっている。優花は喉の奥に詰まったものが吐き出せず、咳き込んだ。心臓が締め付けられるように痛み、上手く呼吸が出来ない。それでも身体は酸素を望んでいた。

「先輩……しっかり、しっかりしてください!」

 優花は小さくなった亮太の身体を揺する。操り人形のように、手足がダラダラと動くだけで、意識は戻りそうにない。

 このまま、何も言えないまま終わってしまうのだろうか。優花の頭の中には、寂しい想像が張り付いて離れない。剥がそうとしても、その未来しか浮かばない。

 声にならない声で、嘘だ、嘘だと叫ぶ。自然に天へ伸びる睫毛が黒くにじんだ。

 言わなきゃ、ここで言わなきゃ、きっともう、言えないかもしれない。

 勇気の鐘が鳴らされる。激しく、何度も何度も。優花は胸に手を当て、零れ落ちる雫の存在を忘れて、言い放った。

「わ、私は、先輩の病気とか、全然知らなくて……。友達も普通に居るし、家族だって大好きだし、だから、先輩の苦しいとか、全然わからなくて……でも、病気じゃなくても、誰かを好きになったら、胸は苦しくなって、息は出来なくなるんです! 私だって先輩の前じゃ、病気になっちゃうんです! だから、だから……せめて、私に好きだと、言わせてください! お願いします! 先輩、先輩!」

 必死だった。地面が無くなって、奈落の底まで突き落とされそうなくらいに、身体は支える力を失い、思わずその場にへたり込んだ。

しかし、返事の代わりに聞こえたのは、心電図が泳ぐことを止めたと知らせるサイレンと、窓を割らんばかりに降り注ぐ雨の音だった。



 ***



「つかさ、あいつと別れようかなって思っててさあ」

「うんうん、嫌なら別れた方が良いって」

「ホント、恋愛って面倒……そう思わない? 優花」

 講義中に繰り広げられる恋愛話を聞き流していた優花は、どちらともつかない返事をする。友人二人は隣り合って、親や別の友人の悪口を言い続けている。

 優花は、ポッカリと空いてしまった講義室の端を眺めていた。もう講義が終わってしまうのに、そこに大切な人の姿はなかった。

 講義が終わると、優花はクラブ棟へ向かう。展覧会が始まる時期になり、部活動は忙しくなっていた。

 腕時計の針は直角を目指しつつある。普段なら、部室には必ず誰かが居てもおかしくない時間だった。

 そこには誰も居なかった。描きかけの絵がまだ残っている、意識の低い部員が出て行った跡だけが残っている。

 優花は準備のことを忘れて、部室の窓から外の景色を覗きに行く。能天気に空は笑っている。海の向こうでも、醜い争いごとは怒っていないのだろうと信じたいくらいに。

「先輩」

 優花は茶色く染めた髪を風に揺らす。艶やかに色濃くなった睫毛を瞬かせて、遠くの町を見ようとした。



 トントン、肩が叩かれる。

 優花は、ゆっくりと首を動かし、振り向いた。



 突き抜ける程に青い春が染まった部屋の片隅。

 亮太が昔に描いた絵と、新しく描きあげられた絵が、二つ並べられてある。

 かつて映っていた女性の姿は、絵の世界から、綺麗に、消えていた。そこに、初めから居なかったかのように。












 愛せなくていいから。

 せめて、貴方には、愛す歓びを、知ってほしくて。

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最期の愛の伝え方 神宮司亮介 @zweihander30

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