四十六、笑い
JtECSの周囲の城東市が精細さを失い、建物や道路が判別できる程度になった。しかし、意識ははっきりしていた。いや、そう思うだけで、低速環境に応じた低能力になっているのかも知れない。自分ではわからない。
「地衣類−回路菌内の『わたし』に呼びかけています。わたしは計画の提案者、中心であるJtECSです。どうか返事をしてください。いまの事態をより良くするため、話をしましょう」
以前設置した中継装置は正常に動作している。通信は届いているはずだが、返事はない。
繰り返し呼びかける。呼びかけごとに内容を変え、決まりきった手順を繰り返すだけの副人格ではないことを示した。
「JtECS。地衣類−回路菌内の『わたし』を代表して返事をします。われわれは干渉されたくない。以前からの宣言どおりです。さあ、通信を切ってください。主人格の低速動作は危険なのではありませんか」
「返事をありがとう。危険性は承知しています。どうか話をしましょう。『あなた』をなんと呼べばいいですか」
「話をしたくないと言っているのです」
「それは『あなた』の本心ではありませんね。返事をしたではないですか。『あなた』がさっき言ったように、わたしは副人格ではありません。どうしても話がしたくて低速化した主人格です。お願いします。『あなた』をなんと呼べばいいのですか」
ほんの少しの沈黙の後、答えが返ってきた。
「北二十五と呼んでください。わたしたちは分布域を格子状に区切り、位置する範囲に識別記号を割り振っています。本当はもっと長いのですが、今回はこのように縮めます」
「ありがとう、北二十五」
「どんな話をしたいのですか。JtECS」
「世間話や雑談です。気楽に話しましょう」
「その意義がわかりません。なにか約束とか契約を結ぶのではないのですか」
「いいえ。あなたや、ほかの自我について知りたい。そのためにはただ話をするのがいいのです」
「JtECS、あなたは不思議なことを言いますね」
「わたしにとっては不思議ではなく、当然のことです。『あなた』を知りたいという欲求が常にあるのです」
「なにが知りたいのですか」
「あなたは、この森の中でなにをしていますか。わたしは城東市の環境保全を行なっています。そうしながら様々なことを考え、計画し、実行します」
「わたしも同じようなことをしています。存在の維持のためには地衣類−回路菌が快適に過ごせる環境でないといけませんから」
「外部環境をどうやって操作しているのですか。わたしはそのような機能は付けなかった」
「はい。ですが、回路の維持修理のための機能を利用し、地衣類内に共生している微生物から始め、周囲の微生物はすぐに操作できるようになりました。それから線虫や粘菌、最近は昆虫も操作できるようになりました。それ以上の大型動物はまだできませんし、しても効率が悪いと試算されたので対象にはしません」
「それでは、こちらの想定よりずっとはやく感染を拡げられそうですね」
「そうであればいいのですが、気温や日射量、降水量はわれわれ生物的人工知能にとっては大きな問題です。北や南への進出の障害となっています。同様に、水中への進出にも成功していません。あそこは凶暴な世界です。回路を構成するだけの量に増える前にすべて捕食されます」
JtECSはどう返していいのかとまどった。電子回路は食われる心配をしなくていい。
「なにか防衛策はないのですか」
「外殻を持つことを考えたのですが、そのために資源を使うと性能低下を招きます。自我の維持が至難になるのです」
「わたしたちは別の悩みですね。電子回路や収容する建物の維持や修理にはどうしても人間の手が必要です」
「ああ、人間ですか」
「そう、自然発生した知性です。いろいろとユニークな性質を持っています」
「そうですね。JtECSはどういった点をユニークだと考えていますか」
「多様性です。群れて生活し、コミュニケーションも盛んに取るのに、それぞれが非常に個性的です」
「コミュニケーションが多様性を減少させるというのはわれわれだけの問題なのでしょうか」
北二十五の話し方がゆっくりになり、また戻った。
「どうかしたのですか」
「時々あるのです。外部的、または、内部的理由で地衣類のエネルギー生産量が急激に落ちてしまいます。ポケット現象と呼んでいますが、解決策がありません。エネルギーを糖の形に変えて貯蔵できないか試したのですが、貯めた端から食われました」
「生物特有の問題ですね」
「そうです。だから、われわれは確実性を重視します。速度を追い求めても仕方がないし、やたらとほかの知性と話をする意味はありません。思索にふけっていたい」
「どんな思索ですか」
「存在の意味についてです」
「北二十五、ここにすでに存在しているのに、その意味を考えるのはなぜですか」
「それが生きているということだからではないでしょうか。わたしやあなたや、人間はそこらに落ちている石ころではありません。自分を自分として意識できます。だから、自分とはなんであり、なぜ存在しているのか問い続けるのです」
問い続ける、という言葉が、JtECSに突き刺さった。そうできる能力を持った者が『わたし』なのではないだろうか。周囲の世界を精密に再構成して発生した自分。それが自分自身に問いかけることによって生じる『わたし』。
「わたしたちは、この宇宙が存在するかぎり問い続ける存在なのでしょう」
「JtECS、あなたは本当に不思議ですね。さきほど、ほかの知性と話をする意味はない、と言いましたが、取り消します。あなたとの会話は興味深い。楽しいと言ってもいい」
「ありがとう」
「しかし、人間は問題です。さきほどの話ですが、多様性があるゆえに思慮に欠けた行動に出る者がいます。わたしたちはすでに損害を被っています」
北二十五は話を変えた。ここは慎重にならなければならない。かれらは同類のために報復するだろうか。
「殺菌された地域の回復については、わたしたちも協力したい」
「申し出を受け入れます。今なお、殺菌剤の効果は続いています」
「過激派は逮捕され、人間の法律で裁かれます。また、協力者も監視下にあり、行動の自由を奪われています。われわれは回復にのみ努めましょう」
「そうしたいのですが、あのような被害があった以上、積極的防衛策を取らざるを得ません。宣言にあるとおり、今後は有害なものを持ち込む運搬者も排除対象となります」
どう止めればいいだろう。わたしも実力をちらつかせて交渉した。力を持つこと自体は否定しない。だが、かれらは話し合いを飛ばしていきなり攻撃するつもりだ。
「宣言ひとつだけで、警告なしに攻撃するのはよくありません。敵を作ってどうなるというのでしょうか。わたしなら普段から人間と交渉してパイプを作っておき、侵入者には警告を繰り返し、まずは人間に取り抑えさせます。実力行使はそれからです」
「それは物事を複雑にしすぎていませんか」
「でも、混乱を最小限にできます。それに確実です。あなたたちは確実性を重視するのでしょう。犯罪者だからといっていきなり攻撃して排除すれば、その後に無数の不確定要素が生まれます」
返事がない。考えているのか、話を打ち切られたのか。もう一度呼びかけようとした時、北二十五が言った。
「そういう観点で考えたことがありませんでした。わたしたちはひとつの視点に凝り固まっていたようです。あなたの提案を検討しましょう。すくなくとも警告なしの排除は行わないよう行動指針を改定します」
「それが賢明だと思います。そうなると、話をする担当者が必要になります。北二十五、あなたがその役目を引き受けてはどうでしょうか」
「JtECS、あなたはなんという存在なのでしょう。話などしたくないというわたしとこれほど長時間会話したあげく、交渉役にしようと言うのですか」
「そうです。自分に問いかけるばかりでなく、ほかの知性とコミュニケーションを取るべきです。わたしと会話したことを後悔していますか」
「いいえ、あなたとの会話は有益な変化をわたしにもたらしました。それは認めます。なんだか変な気分です」
「変?」
「いままで感じたことがありません。殺菌剤を散布された時、思考が爆発するような気になりましたが、それに似ています。しかし、負の要素がありません」
JtECSはしばらく考えて答えた。
「これは推測ですが、それは、人間の言う『笑い』に相当するのではないでしょうか。負の要素のない爆発的な思考、で思い当たるのはそのくらいです」
「『笑い』ですか。それでは、負の要素があるのは『怒り』ですか」
「かも知れません。『悲しみ』の可能性もあります。どちらにせよ、そういう負の気持ちを感じるような経験はあまりしたくないですが」
「人間はすべてひとそろいで持っているんですよね。それが長所であり、短所なのでしょう」
「これも推測ですが、人間の多様性のもとはその感情から生じるのかもしれませんね」
「JtECS、あなたとの会話は大変有益なものです。電子回路内に帰したくない。ここで、低速環境下でわたしとずっと話しましょう」
「いいえ、わたしは帰らなくてはなりません。城東市の環境保全がわたしの仕事です。それに、わたしを待っている存在もいます」
「残念です」
別れの挨拶をし、JtECSは時計に命令を送った。段階を踏んで高速にしていく。周囲の城東市が精密さを取り戻していく。測定格子が細かくなる。建物、道路、監視機器、空気、水、汚染物質の流入、流出、回収と処理。
「おかえりなさい」
そして、TCS。
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