絵空事

神宮司亮介

絵空事

 病院の中は、簡潔に述べると、暗い。

 人工的な灯りに照らされ、病人は心を塞ぎ込んで、一日を生きているように見える。最新型の空調設備が整っているようだが、院内の空気はそんな技術程度では換気など出来ない。一日中、窓も開けずに過ごすような感覚。死期などあっという間にやって来そうだな、誠は思った。病院の中でいるには、青のジーパンと灰色のTシャツは実に似合わない。もっとちゃんとした服を着て来れば良かった、とは思わない。

 目が虚ろな状態で談笑をする看護師たちが集うナースステーションを右に曲がり、少し進む。左側に面している部屋のうち、順に歩いて三番目。そこに、誠の母方の祖母が入院している。

 川越スミ子。その名前が、病室の前の小さなホワイトボードに書かれている。何度も何度も上書きされた跡なのか、消えない黒ずみが広がっている。

 病室には、窓の外をぼんやりと眺めるスミ子の姿があった。もちろん、身体はベッドの上にある。白衣のようなシーツに掛布団。あまり、寝心地は良さそうではない。

「どう、おばあちゃん。調子は」

 髪から黒の色素が抜け、灰色とも言える、白髪交じりの髪の毛を見ると、調子が良いとは言い難い。上半身までを布団に包まれ、白い海から顔だけを出している状態だ。

「今日は、ちょっと天気悪いね。昨日は晴れてたけどね」

 スミ子の髪に似た色の空が、雫を吐き出している。左手に持つ、ビニール袋に入れた黒い傘に、誠は目をやる。今日は雨だ。

「お母さんから話聞いたんだけど、おばあちゃん、最近調子いいみたいだね。上手くいけば、一時的だけど、退院できるかもって」

 皺の深くなった顔。誠の声に気付き、振り向いたスミ子の顔には、生気がない。目は開いているかどうか判別できない程、瞼が落ちている。頬も心なしか痩せこけているように見える。掛布団の上に震えを帯びた手が姿を現す。血管がかなり浮き出ている。

 会話にすらならないやりとりが終わり、それから無言の時間が十分ほど流れる。誠はスミ子が何かを言い出すことを待っていたが、スミ子は再度曇天の空に目を移すと、誠の方を向かなかった。誠は「今日はもう帰るよ」と言って、そそくさと病室を後にした。

 スミ子が入院して一か月。誠は必ず金曜日の夕方、お見舞いにやって来る。この日は確実にバイトがない。一日自由に時間を使うことが出来る。だから、お見舞いに行く日はこの日と決まっている。

大学を卒業して一年以上が経過したが、誠は就職をしていない。大学生時代から働いていた飲食店のアルバイトを現在も続けている。大体週四、主に昼から閉店の十時まで。人並みには生活できている。とは、言えない。

生活するための、最低限のもので溢れる部屋。帰宅した誠はコンビニ弁当を小さな木製のテーブルに置いた。温めてもらった筈の唐揚げ弁当が、美味しくなさそうな顔をして待っている。

 実家には、しばらく帰っていない。大学四年の終わり、就職の決まらないまま卒業の道を選んだ誠に対する両親の目は明らかに冷め切っていた。夢を叶えるまでは帰らない、そう決意してからというもの、祖母の入院の話を聞くまでは連絡すらとっていなかった。

 あの日、なかなか決まらないヒロインの告白の言葉に燻っていた誠。その時久々に聞いた母の声は、十年でも経ったのかと耳を疑う程だった。もちろん、母が言った内容にも。

 誠の夢。それは、小説家になること。理由は、今でも交流のある友人の言葉だ。「お前の小説、好き。もっと書いてよ。俺、もっと読みたい」中学時代の頃、そんなに友達がいなかった誠にとっては、その一言がたまらなく嬉しかった。

 それから、誠は定期的に小説を書いては、友人に見せるという行為を続けた。誠はそんな日々が楽しかった。いつしかそれが習慣化し、当の友人がいなくても小説を書き続けた。そして、今に至る。

 かつての小説家は、紙に人を魅了する文章をつらつらと書いていた。パソコンのワードソフトがあれば、修正は簡単だ。もちろん推敲の作業は大変だが、一世紀も前の文豪たちに比べると楽を出来ているように思える。現在でも原稿用紙に書く小説家はいるようだが、誠は利便性を取った。

 テーブルにパソコンを置き、電源を点け、小説を書き始める。それと同時進行で弁当を食べる。温めはしない。胃の中に入れば、どれも同じ。それが誠の考えだ。飲食店で働いている人間とは思えない。唐揚げからは、特別な旨味を感じることはない。口の中に含んだ瞬間、肉汁が飛び出すわけではない。衣で誤魔化された小さな鶏肉が、下の上でぐったりと横たわっている。

 誠の退屈を紛らわしてくれるものは、ラジオ。床に置いてあるラジカセの電源を入れる。FM局の番組を聴きながら小説を書く。これが、誠の中では楽しいひと時。

『洋楽だけがロックじゃない! 邦楽にも、熱い魂の籠ったロックに溢れているぞ!』

 いつもハイテンションなパーソナリティは、いつもの台詞を口にする。誠は首を、縦に振る。大学時代に入ったゼミの教授が洋楽ロックファンだった。そしてアンチ邦楽ロックを掲げる音楽好きであった。散々洋楽の良さと邦楽のレベルの低さを語られたが、その内容は、教授に勧められて聴いた有名なロックバンドの歌詞と一緒で、わけがわからなかった。日本人だから、英語をつらつらと歌われても、理解に困る。メロディーがなんだ、演奏技術がなんだ、とかく邦楽のロックにないものを沢山挙げられたが、誠の中の最優先事項が歌詞であった。

「ちゃんと翻訳すれば、いい歌詞が溢れてるんだろうけど」

 誠は薄暗い蛍光灯の下、クライマックスの一文を書くのにためらっている状態で呟く。英語が嫌いでなければ、ひょっとすると自分も洋楽にのめり込んでいたのだろうか。

「そういや、今日は多村が死んだ日か……。もう一年経ったんだな」

 パソコンのモニターと会話するように、誠は言う。頬杖をつき、溜息を漏らす。多村、とは、誠が好きなバンドのボーカル。個性的な歌詞と独特の曲調で、コアなファンを獲得していたバンドで、誠も大学に入学後すぐに出会い、ファンとなった。しかし、一年前の今日、交通事故で亡くなった。享年二八歳。早すぎる死にファンは皆、事実を受け入れることが出来なかった。誠もその一人で、一週間ほどはバイトも身が入らなかった程だ。

 ラジオから、多村の歌声が聞こえる。ロックを歌っているとは思えないような、気怠い歌声。やる気がないと取られてもおかしくないそれは人の耳に届くまではフラフラと漂っている。そして、胸の奥に到着すると、途端に棘を出して、心を突き刺す。多村のおかげか、最後の唐揚げを口に入れた時、その一つだけが美味しいと感じた。五つ入りの唐揚げ弁当でありながら、四つ分で半分しか減らなかった白米にがっつく。マカロニサラダと漬物、茹でパスタには手を付けないまま、誠は蓋をした。

 同じタイミングで、携帯電話が鳴った。夜は九時を過ぎた頃。こんな時間に電話をかけてくる奴は一人しかいない。黒い、折り畳み式の携帯電話のディスプレイには、『あっちゃん』の文字が浮かぶ。

「もしもし、誠だけど」

「だけど、の次の台詞は?」

 調子に乗っているのか、向こうの声は上機嫌で、遠慮を感じない。誠は電源を切るボタンに親指を乗せた。

「切るぞ」

「ああ、ごめんごめん。今夜飲まないか? 金は俺が出すから」

「……わかった」

「車で迎えに行くから」

「じゃあ飲めねえだろ」

「俺は下戸だよ」


 金曜日の夜の飲食店は混むはずなのだ。学生や社会人が羽根を広げるために集うからだ。やれレポートをやっていない、仕事が残っていると愚痴をこぼしながらも、ゆったりと飲む時間は確保している。顔を赤くして、今からどんな告白を始めるのか問いたくなる人間が山ほどいる中、誠は友人であり、あるプロ野球チームの外野手である藤本篤史に連れられ、焼肉屋に入った。今の誠の給与では入れないような店だ。子供の騒ぎ声であるとか、店内を走り回る様子はない。

「流石、野球選手は違いますな」

 誠が言うと、篤史は一時期流行った芸人が見せたように、着ている黒いジャケットの襟首を整えてみせる。中に着ている灰色のシャツこそ誠のそれと大して変わらないが、不思議と有名ブランドのシャツではないのかと疑ってしまう。ジャケットの奥には引き締まった肉体が身を潜めている。しかし、鋭い目つきに、筋の通った鼻、サッパリした黒の短髪が、スポーツ選手の面影をちらつかせる。

「ああ、それなりに活躍してお金貰えるようになったら、こんなことくらいは簡単に来れるわな」

 黒を基調とする、落ち着いた雰囲気を醸し出す個室。テーブルは艶やかな輝きを放っている。日本人らしく座敷となっており、掘り炬燵が設置されている。照明も、相手の顔がちゃんと見える程度の、程よい明るさ。和紙と竹を用いて作られたそれは、懐かしさを連れてくる。

「とりあえず、昨日は勝ち越しのタイムリー、おめでとう」

「ありがとう! ってことで今夜は俺の奢りな!」

 篤史は元々大きな瞳を更に大きくさせる。整った白い歯をこちらに見せ、無邪気に笑う。

「普通逆だろ?」

「じゃあお前がこの店で食べた分の代金出してくれんのかよ」

 食べ放題らしいが、流石に二人で一万円程の金額を誠が出せるはずがない。漆で出来た箸が目の前に置かれ、主役の肉がやって来る。店員の男性もまた、落ち着いた雰囲気がある。チェーン店のアルバイトである自分との差を、痛感する。

「ごゆっくりどうぞ」店員がお盆を脇に抱え去って行く。タキシードに身を包む店員が去って行くのを見て、「俺、家にこんな執事欲しい」と篤史が呟いた。

 誠と篤史は、幼稚園からの付き合いだ。性格はその頃から対照的だ。誠はおとなしく、篤史は活発。友人の数もそれに現れている。ただ、家が近いということがあり、両親共々の交流があった。小学校、中学校までは一緒だ。クラスも殆ど一緒で、中学時代に至っては三年同じクラスとなった。ただ、篤史は野球三昧の毎日。年々、共に過ごす時間は減っていった。

 中学時代の帰り道は大体一人。活動が形骸化しアニメや漫画について語る美術部でもそもそとデッサンを続ける放課後。ただ、たまにお互い帰る時間が合った。その日は嬉しかった。篤史なら他にも友人がいる。しかし、一人で帰ろうとする誠を選ぶ篤史の存在が、誠にとっては非常に大きかった。

 ちょうどその頃から、誠は小説を書き始める。普通、中学生が書く小説はファンタジーであるとか、少年漫画にありそうなストーリーであったりするが、誠が書く小説は野球をテーマにしたものだった。

「俺、誠の野球の小説好きだったなあ。お前も野球好きってのは知ってたけど、俺なんかよりもよく見てるなあって」

「そうかな。ただ、自分が野球出来てたら、人生変わってたんだろうなって思って書いただけだよ」

「やっぱり、誠は他人と違う。俺も誠に影響されてちょっと書いてみた時期あったけどさ、少年漫画とかでよくありそうな、バトルするやつしか書けなかったぞ。中学生で野球の小説って、よくやるよ」

 そう言いながら篤史は新品同然の網に、脂の乗った肉を置く。消化器官が喜びと覚悟を決める音を鳴らす。

「篤史も書いてたんだ」

「うん、誠の書き方参考にしてな。でも、ああいう小難しいことは俺には似合わないな。なんつーかこう……考えるのが」

 篤史はトングを使って、肉の焼き加減を見る。考えるのが難しいという割には、「こっちの方が早く焼けそうかな」と、しっかり考えて肉を焼く作業を行っている。

「僕がやるよ」

 誠は篤史のトングを奪うように手を出すが、篤史が左手で遮る。

「俺が奢るから、俺の自由」

 煙が立ち上る。香ばしい炭の匂い。炎のように赤かった牛肉たちが、どんどん肌を焦がしていく。

「僕、タンから行きたい」

「じゃあ俺ハラミ」

「カルビは二人で分けような」

「あ、僕もう夕飯済ましてたんだ」

「それを早く言えよ」

 焼肉における協定を簡単に結ぶと、あの店員がタイミングよく現れてご飯を二人分運んできた。二人の表情が綻ぶ。

「でも、こんな高いもの、自分じゃ食べれないからな」

 コンビニ弁当は、誠の中ではなかったことになっている。篤史に差し出されたタンを、レモン汁の入った容器に移す。

「お前なら、いつでも連れて行ってやるよ。なんなら、野球観戦だって、特別席に招待してやるよ。うちいつもガラガラだし」

 焼けた肉を小皿に移し、引き続けて新しい肉を焼き始める篤史。動作の流れに乗って、決して軽くはないことを口に出す。

「どうして……僕なんかに」

「忘れたのかよ。糸電話のこと」

「糸電話……ああ、糸電話。思い出した」

 躍る舌が止まる。誠は脳に意識を変えると、もう十数年は前のことを記憶から引き出す。モノクロがかる、鮮明な記憶。涙を流す誠、笑みを浮かべる篤史。

「親友ってのは、この世界に一人出来ればいい方なんだ」

 甘辛のタレに浸されたカルビが、白米の上で眠っている。箸もトングも置いた篤史は、語り始めようとする。

「ああ、そうだな、その話は何回も聞いた」

「誠は何回聞いても忘れるだろ」

 トングを奪って、誠は親に放置された子供の面倒を見るように肉を焼く。篤史の演説が、続いたからだ。つい先程まで「俺が奢るから焼くのは俺の自由だ」と言っていた人間とは思えない。まあ、誠にとってはむしろその方がありがたい。自分のペースで肉を食べられ、お金も払ってもらえる。篤史の話を美味と共に流していけば、幸せの一時が待っている。

「大体、野次飛ばすジジイには俺らの気持ちなんてわかんねえんだよ。俺だって毎回打てて毎回走れて毎回守れて、完璧だったらメジャーでも何でも行ってやるよ。出来ねえから今までレギュラーも中々獲れずに燻って来たんじゃねえかよ。ちょっと実績がないからって、『打てねえならやめちまえ』って、こっちだって打ちてえよ、クソが!」

 篤史の手元にあるウーロン茶は、本当にウーロン茶なのかを疑う。縦に細長い、お洒落なグラスも台無しの発言が続く。

 篤史は神奈川の横浜にあるプロ野球チームの選手である。今年で六年目の現在二三歳。俊足が持ち味である。

 今年はシーズンが開幕してからそこそこ調子が良いようだ。昨日はチームの勝利を決める勝ち越しタイムリーヒットを打ち、ヒーローインタビューを受けていた。相手チームの守護神から放ったタイムリー。一五二キロの早いストレートを、センター返し。値千金の勝ち越し打。ハイライトを見て、誠は痺れた。

「お前、テレビないだろ、何で見てるんだよ」

「ネット配信のスポーツチャンネルで見た。僕、小説以外にそれくらいしか使わないし。あとはラジオで聴いて気に入った曲を聴いたりとか」

「そりゃどうも。でも、明日はベンチスタートだよ。予告先発で、明日は右投げの投手。俺は右利き。野球のセオリー。右には左」

「野球界も色々あるんだね」

 誠はウーロン茶を飲み干して、テーブルに大きな音を立てて置いた。

「そりゃそうだよ。俺も早く、スターになりたい」

 これが本音か、誠は焦げた肉を自分の小皿に移した。



 検問に引っかかることを恐れながらも、誠は篤史に自宅まで送ってもらえた。東京で一人暮らしをするのは心細いことも多い。しかし、こうして篤史と会えることで少し落ち着くことが出来る。

 帰って早速、誠は押し入れから段ボール箱を数個取り出す。封印したゲーム機、漫画、小説が顔を出す。自分で結界を破る気分は、あまり気持ち良くない。

 篤史との食事中、話題に出た『糸電話』。

 すっかり忘れていたもの。しかし、それは誠にとっては大切なものだ。大切なものほど近くにあって忘れやすいとは言うが、誠には大切なものの遠近感がつかめなかった。

 三つ目の段ボール箱に、糸電話はあった。蓋を開けると、箱のてっぺんで空が現れることを待っていた。長い年月が経ち、真っ白な紙コップの色も褪せている。被っている埃を軽く払って、誠は右耳に紙コップを当てた。もちろん、何も聞こえない。

 この糸電話は、誠が小学生の頃、スミ子から貰った。小学生の頃、誠の両親は仕事で忙しかった。母の実家が近かったこともあり、誠は学校から自宅には帰らず、スミ子の家へ行くことがあった。そんなある日、誠は篤史と喧嘩をした。理由は些細なことだ。篤史が、誠が貸した漫画を中々返してくれなかったという、本当に些細なこと。しかし、誠は友人と喧嘩をするということが今までになかった。そのため、「誠のバカ!」と言われ、道端に取り残されてしまった時、誠はしばらく動けなかった。

 その日、誠はスミ子の家に帰る。どうしていいのかわからず、誠はスミ子の顔を見た途端、ホッとしたのか大量の涙の粒を瞳から落とした。居間で事情を聞いたスミ子は、誠の頭を撫で、「マコちゃんは何も悪くないよ。おばあちゃん、良いもの持って来てあげるから、ちょっと待ってなさい」と言った。そうは言われても、誠の頭にはあっちゃんに嫌われてしまった、という思いこみに浸食されていた。落ち着こうにも心臓の鼓動はどんどん速くなり、胃の中のものを全て戻してしまいそうな気持ち悪さにさいなまれていた。

 そんな中でスミ子が持って来たのは、糸電話。子供心にも、バカにしているのかという怒りが込み上がる。しかし、自分から泣きついてここへ来た以上、いらないとは言えなかった。誠は渋々その糸電話を受け取る。

 ただ、スミ子は帰ろうとする誠にこう、添えた。

「その糸電話は、人の耳に当てるものじゃないわ。人の心に当てるものよ。そうしたらきっと、相手の本当の想いが、わかるはずよ」

 家に帰ってからは、誠はずっと部屋に籠っていた。初めての経験に足がすくみ、明日また篤史に会った時、どう接すればいいのかがわからなかった。ベッドに身体を預け、枕を涙で濡らす。

 翌日、誠はスミ子に貰った糸電話を学校へ持っていった。キャラクターが描かれた手提げ袋に入れて。しかし、篤史は学校を休んだ。その日の手紙と給食のパンを持って、誠は帰り道の途中で、篤史の家に寄ることとなる。

 篤史は仮病を使っていた。篤史の母親に促され、篤史に対面する。まるで昨日の自分を見ているようだと、誠は篤史の動揺に自分を重ねる。

 手提げ鞄から取り出した糸電話。笑われることは覚悟で、誠は篤史の心臓の上に、片方の紙コップを当てる。そして、誠の右耳にはもう片方の紙コップを被せた。

『ごめん、誠は何も悪くないのに、バカって言って。でも、自分から言ったから、こんなこと思ってるの、ずうずうしいかなって……昨日のことで、誠に嫌われたらどうしようかなって、そんなことばっかり考えてて……誠はグズだとか、マヌケだとか、そんなこと全然思ってないんだ……ごめんなさい……ごめんなさい……』

 心の声が、確かに聞こえた。誠は糸電話を鞄にしまう。

「ボクこそ、昨日はごめん……。あっちゃんはボクのこと友達だなんて思ってないんでしょ、なんて言っちゃって……」

 篤史はあの時、何を思っていたのだろうか。いきなり糸電話を出し、それも耳ではなく胸に押し当てて、勝手に納得している誠を見て、何も思わないことはないだろう。ただ、その日を境に、お互いの絆が深まったのは確かだ。

「ちゃんとあったんだな。良かった……」

 失くしていたら、暫く立ち直れなかったかもしれない。糸電話の存在を忘れていた人間が言うのもおかしいが。眠りから覚めた糸電話は、テーブルに置かれた。



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 一週間経っても、スミ子は変わらず、白い海に浮かんでいる。誠も一週間前と殆ど変わらない。ただ一つ言えることは、あの糸電話を持っていることだ。

「おばあちゃん、これ、覚えてる?」

 あの日の手提げ袋と共に、糸電話は長年の沈黙を打ち破って姿を現す。スミ子が目線を動かす。誠は口角を上げた。

 もう、長くて一か月持つかどうか。人間味を見せつつも、淡々と担当医は誠に告げた。眼鏡の向こうの細い目は、全く曇っていない。彼には次の患者が待っているから。

 それはスミ子もわかっているのだろうか。口数は少ないという程度のものではない。見えない鍵がかけられているのか、それとも言葉という概念を失ってしまっているのか。どちらにしろ、固く閉ざされた口が動き、そこから声が発されることはない。骨ばった顔と、流れる皺に、悲壮感を漂わせるだけだ。

「あの時、おばあちゃんに貰って……それで、まさか、本当に心の声を聞けるとは思ってなくってさ。それから、結局全然使わなかったんだけど、ずっと持ってたんだ」

 持っていた、という表現には明らかな語弊がある。押し入れにしまっていただけだ。大事に持っていた、という発言に誠は自分でも違和感を感じた。

 スミ子は何かを訴えかけるでもなく、虚ろな目をこちらに向けてくる。心なしか、口の周りの筋肉が動いているようにも見える。

 伝えたいことは、誠にもある。グズグズの服装で、ちゃんと職にも就いていない、いわゆる負け組の存在。ずっと、スミ子が誠を心配していたことは母に聞かされ「お前がちゃんと就職しなかったから」スミ子は病気になったんだ、とも言われた。

 子供の頃こそ、スミ子に甘えていた。それは年齢を重ねるにつれて失われていった。説教染みた言葉が鬱陶しく思えてからというもの、いつしかスミ子に会いに行くことすら拒み始めた。

 今更。事態が悪化して、今更。

 そんな人生。

 いっそ、この糸電話をスミ子の胸に当ててしまえば、スミ子の気持ちが理解できる。今、何を欲しているか。どんなことをしたいか。そして、誠のことをどう思っているのかを。しかし、怖かった。もし、母が言うように、自分の体たらくを憂い、その結果病気になったことを憎んでいると思われていたとしたら。誠は生きていける自信がなかった。

 スミ子がこちらをずっと見てくれている。誠の表情の陰りを読み取ったのか、心配そうな表情を見せる。しかし、今の誠には

スミ子の顔を直視できる勇気がなかった。

「じ、じゃあ、今日は帰るよ、また一週間後ね!」

 そして今日もまた。逃げ出した。今更、スミ子に差し伸べる手もない。断定。それも勝手な、断定。ただ、病室を出た後に、騒がしい雨音を耳にしない。今日は、傘を持って来ていない。



 その日の夜、先週と同じく篤史から電話がかかってきた。「ドライブに付き合って欲しい」男同士では全然雰囲気が出ないが、心は躍る。そして、あの糸電話を携え、家を出る。

 篤史はいつも、日本車に乗って現れる。野球選手といえば、外車を乗り回すイメージがある。見た目からして、速く走れそうな赤いフォルム。自分が座る席と、恋人が座る席、二つだけの世界。

 それが、家族が出来た時を想定してか、席は四つ。と言っても、後部座席には子供の代わりに荷物が置かれている。試合に使う道具なのだろう。銀色のスポーティーな車体は、誠には十分外車と張り合えそうに見える。実際は、そうでもないらしいが。

「今日は二人で夜景を見に行こうかと思ってさ」

 まるで誠が彼女であるかのように、篤史は言う。英語の文字が書かれたTシャツ。「LOVE & PEACE」の文字が、全く愛と平和を象徴しない、殴り書きのように描かれている。今から戦争でも始めんばかりの文字に、誠は思わず唾を飲んだ。

「なんか、変だよ」

 誠は窓の外に目をやる。高速道路から眺める街の風景は美しい。ビルが発光し、工場は煙を出す。明かりに包まれた世界。それとは対照的な、車内の暗さ。メーターが輝く程度で、外を歩くよりよっぽど、夜を体感出来る。

「いいじゃん。俺たち、ずっと仲良いんだから」

 ハンドルを握る篤史の手は、三十分ほど先の未来を楽しんでいるようだ。高速道路を走っているという性質上、カーブはあまりなく、あってもハンドルを大きく動かす必要ない。スピードが出ている分ほんのわずかハンドルを回すだけで車は曲がってくれる。単純にそれが、楽しんでいるようだと錯覚したのかもしれない。

 渋滞もなく、目的地である展望台のある公園へは、三十分もかからずに到着した。市街地を離れ郊外に出ると、うるさく発光する輝きはなく、閑散とした景色が広がっている。

「手繋ごうぜ」

 専用の駐車場に車を置き、展望台へ行くところで、篤史はそんなことを言う。さりげなく、左手が誠の方に出ているが、誠は気付いていないふりをした。篤史の手は、いつ見ても木の幹のように固そうだ。

「綺麗だな。星。街の中で居たら、全然見えない」

 おとなしく夜空に散らばる、無数の星。普段の生活では忘れてしまいそうになる自然の輝きに思いを馳せる。

「そうだ、俺にもあの糸電話、見せてくれよ」

 誠は車内で糸電話のことを話していた。スミ子のお見舞いの時と同じく、そして、篤史の心の声を知った時と同じ手提げ袋の中に、糸電話はある。

「特に変わったところはないぞ」

 誠は糸電話を取り出す。何の変哲もない、糸電話。それを篤史は高価なものを見るかのような反応を見せる。今時こんな携帯電話が開発されたとしても、どの会社もこれを売り出すはずがない。

「それでいいんだ……。俺と誠の友情を繋いでくれた糸電話だぜ」

 子供の頃に戻ったかのようなはしゃぎっぷりで、篤史は糸電話を手に取る。

「まあ、今はこんなもの使わなくたって、俺たちは繋がってるけどな」

 そう言って、自分の耳に片方の受話器を当てる篤史とは、見えない電話線で結ばれているような気もする。もしもし、とでも言えば、今からキャッチボールするか、とでも返答がありそうだ。

 展望台から見る夜景は、簡単に言ってしまえばロマンチックだった。周りで手を繋いだり、寄り添って、キスをするようなカップルの中で一組、場違いな二人は夜景を見てはしゃいでいる。

 市街地に密集する光は、複数の線になって、山へと延びていく。漆黒の海がずっと遠くで寝静まり、それと同じ色を見せる山々は太陽を待っている。

「彼女と見たいな、こういう景色は」

 誠は木製の柵に腕を置き、街の灯りを眺めている。隣のカップルがこちらを見ているようで、場違いな誠と篤史を自分たちと比べ、幸せだなあと安堵の表情を浮かべている。

「そうか。大切な人となら、俺は誰とだっていい」

 篤史は折角の景色に背を向け、柵にもたれ掛かっている。頭の後ろで街を眺め、本来の場所にある二つの瞳は澄んだ空気の中で輝きを増す星空を捉えている。

「それが、僕?」

「決まってるだろ。灯台下暗しだ。大事なものは、すごく近くにある」

 二人の関係とは、あまり関係のない諺に聞こえるが、誠は糸電話がそれに当てはまると確信した。すごく近くにあって、わからない。忘れてしまったもの。納得して足元を見る。篤史が履く、茶色のレザーブーツと、自分の汚れた白いスニーカーを見比べて、また、納得する。

「僕はものを買う金が少ない」

「友達じゃなくて?」

「今更友達の数なんてどうでもいいよ」

「それもそうか。あ、そんなことより、俺もちょっとしたものを持って来たんだよ。誠に見てもらいたくてさ」

 そんなことより、わざわざ友人の数が少ないというコンプレックスを篤史から出しておいてそれはない、誠は内心穏やかではなかったが、美しい景観に怒ることも忘れてしまう。

「何を持って来たんだよ。どうせたいしたものじゃないんだろ」

「うん。高校時代に俺がちまちま書いてた小説。小説家の卵に読んでもらいたいなあと思いまして……謝礼ならなんなりと」

 指でお金の形を作って、篤史は誠の方に目をやる。断る理由はなく、誠は首肯する。

「じゃあ、後でどっかファミレスにでも寄るか」

「はあ、お前、バレるだろ、藤本篤史だって」

「それが、バレないんだ。俺レギュラーじゃないから」

 ファミレスのレギュラーサイズのハンバーグが愛されるのと同じで、レギュラーになると良いことがあるのだなあと、誠は憂鬱を携えた。



 自然のプラネタリウムを退館し、今度は山の麓にあるファミレスに入った。高速に乗って帰るのではなく、国道を走っていく、篤史はそう言って、法定速度の六十キロに則って走行を続けた。

「篤史って、こんな小説書いてたんだ」

 誠は目を丸くした。大学ノートに書き連なる文字は、野球に打ち込んでいる人間とは思えない程丁寧に書かれていた。灯台下暗しを、また実感する。すっかり、小説を手書きで書く時代は終わった気になっていた。

「毎日、少しずつな。あんまり文章書き直したくなかったから、丁寧に書いたつもり……でも、今思えばあんな面倒なことはしたくないな」

 篤史はソファに仰け反って、過去の自分を嘲笑する。研修中のアルバイトの男子学生が、危なっかしい手つきでテーブルに料理を置いていく。篤史は和風ハンバーグセットを、誠はサーロインステーキセットを注文した。誠は苦手な野菜サラダを篤史に押し付け、先に届けられたコーンポタージュを飲みながら、小説を読んでいる。

「篤史ってゲームとか好きだったっけ」

「高校入るまではそんなに。ホント、野球を真面目にやればやる程ゲームも楽しくなってきた、そんな感じだな」

 箸でハンバーグを割り、口に運ぶ。篤史の一口はいつも小さい。この小説の字と言い、食べ方と言い、スポーツ選手のイメージとはかけ離れている。

「にしても、面白いなあ。ただ、この中の登場人物だと、お兄さん浮いてるな」

 鉄板の上で食されるのを待つサーロインステーキを放置するのもそろそろ可哀想な気がし始め、誠は一度ノートをソファに置く。数年前の代物としては、保存状態もいい。

「やっぱり? 登場させたは良いけど、あんまり存在感がなかったし、今思うと必要なかったなあって思ってるよ」

 ファンタジックな小説の内容。魔法が禁じられた世界で、魔法が使えるようになってしまった少年の物語。少年の幼馴染の少女や、家族が中心人物となっているが、その中で兄の印象が薄い。必要ないのでは、正直なところ、誠は感じる。

「書きたかったことは沢山あるんだけど、それを上手く文章にするのって難しいよなあ。誠はすごいって、俺は思うぜ」

 付け合せのコーンとほうれん草のソテーを平らげ、皮付きのフライドポテトを残したまま、メインのハンバーグを消化していく篤史。目線を誠に合わせることはないが、耳はしっかり、声を聴いている。誠は見飽きたサーロインステーキにがっつく。見飽きても、食べ飽きてはいない。

「今更なんだけど、このチェーン店で働いてるんだ。僕」

「そうだったかあ……じゃあ、さっきのバイト君の点数は?」

「最初のうちなら、仕方ないよ」

 自分だって同じ時期があったんだ、誠は思い返す。高校生の慣れた手つきを、大学生である自分が羨ましく思うことは多々あった。年下に一から教わることは、歯がゆかった。注意されたり、怒られることもあった。その度に、顔から火が出るほど恥ずかしくもなった。偉そうな口調で言われる筋合いはないと憤ったこともあった。それすらも懐かしく思える。

「誠は良い奴だなあ」

「そっちこそ。あ、あと一つ聞いてもいいか」

「ああ、どうぞどうぞ」

「折角主人公とヒロイン、身長の話に合わせて恋愛も発展していってるのに、最後、どうしてキスまで行かなかったんだ?」

 ラストまでの過程。身長の低さにも悩む主人公とヒロインが、その身長の話に合わせて、どんどんと距離を縮めていく。だから、物語のクライマックスはてっきり、キスまで行くものだと思っていた。抱き合って、手を繋いだなら。

 篤史はこう言った。

「どっちかが虫歯なんじゃないかな」



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 次に篤史に会ったのは、三日後の月曜日だった。この日は誠も篤史も予定がなく、最近都内に新しく建ったスカイタワーへ行くこととなった。五百メートル程もある建造物だが、誠は特に興味がなかった。しかし、篤史がどうしても行きたいと言うので渋々付き合わされている感がある。

「高っけえ! マジかよ、見てみろよ、街がめっちゃ小っさい!」

 子供の様にはしゃぐ篤史だが、首にかけた十字架のネックレスが、大人であることを証明する。見るからに高価だ。

「子供かよ」

「心の中はいつまでも子供だよ」

 白い歯が輝く。逞しい肉体を見せつけるように、腰に両手をあてて、仁王立ちをする篤史に、誠は苦笑する。

「そんなに堂々と立ってたら流石に野球選手だってわかるんじゃないか?」

「それが、中々顔をさされないんだなあ、これが」

 早く活躍しろよ、誠は言うと、篤史は浮かない顔をする。

「それが、最近結構成績安定してるんだよな」

 賞レースに出てもさっぱりの誠からすれば、しっかりと夢を叶え、グラウンドに立っている篤史はちゃんと夢を叶えた、憧れの存在ではある。しかし、あくまでもそれは通過点。篤史はまだ、第一線で活躍しているような選手ではない。

「って言っても、ずっと安定してたらレギュラー獲れるわな」

「そうか。その割に、篤史の盗塁はいつも決まってる気がするけどな」

 誠がそう言うと、走り出す構えを取った。

「いつも決められたら、いいんだけどね」

 それにしても、タワーから見る街の風景も格別だ。晴れていたこともあり、彼方には雪を被った山が見える。その前に広がるビルの無機質な存在感。人と車の波がその間を通っている。

 鳥は何処へ飛んでいくのか。自由に飛び出せるその翼で、何処へ向かうのだろうか。

「あ、メール」

 篤史はズボンから携帯電話を取り出す。誠とは違い、最先端を走る、スマートフォン。

「そうだ、篤史、前のネット放送見たぞ。最近泣いたこと、って話でさ、お前、何であんなこと言ったんだよ」

 野球のボールのようにスマートフォンを持つ篤史。大きな掌にすっぽり包まれた、その壁紙を、誠は恐る恐る確認する。とあることを思い出したのだ。

「え、変だったか? 事実だぜ」

「普通さあ、すごい人の話を聞いた、とかさ、映画見て感動した、とかさ、普通の選択肢があるだろ? それが何で、ゲームなんだよ」

 毎週日曜日に更新される、篤史の所属チームのネット配信番組。昨日は篤史を含めた三人の選手がフリートークを繰り広げていた。その中でテーマに上がった『最近泣いた話』。他の二人の選手は親から激励の言葉を貰い、思わず泣いたという話と、自分の子供の誕生日に活躍出来、その日子供に言われた言葉で泣いたという話をした。

 その二人が苦笑いする話を、篤史は続けた。

「あのですね、チームメイトから貰ったゲームなんですけど、俺のゲームプレイが下手過ぎて、主人公をラスボスに勝たせてあげられなくてですね……結局主人公、自分の命まで投げ打ってラスボス共々消滅しちゃうんですよ。こんな悲しいことないなって思って俺はその彼に連絡しましたね、俺今泣いてるって」

 ゲームの内容自体、勇者が魔王を倒す類の、良くある話。ただ、篤史はこれからも語り継がれるような、すばらしい作品であるかのように話していた。

「そのゲーム、そんな人気あったっけ」

「一応はあるんじゃないの? 公式サイトで人気投票やってた。主人公が上位五位に入ってなくて泣きそうになった」

「どんだけ涙腺ゆるいんだよ」

 ゲームの主人公の人気が低いことなど、良くあることじゃないか、誠は思う。

「でもさ、めちゃくちゃ重い宿命を背負った主人公が報われないって嫌じゃないか! それに、人気を見てもそれと見合ってない感じで」

「この世の中は、真っ直ぐで頑張ってる人間より挫折して苦労して、失敗した人間の肩を持とうとする集団と女好きの集まりだから仕方ないだろ。それに主人公って、何歳だよ」

「十四」

「今時、その年齢が主人公の作品って流行らないんじゃないの」

 篤史は頬を膨らませる。

「いいもん、俺が感動したって事実は変わらないし」

「本当に待ち受け画面もゲーム仕様で、ある意味僕も感動した」

 あの日、篤史がスマートフォンの壁紙を公にして、ネットでスレッドが沢山立ったことを、篤史はきっと知らないのだろう。それを、誠は話すつもりもないが。



 タワーを降り、近くの喫茶店に入る。お洒落な雰囲気と煙草の香りが合わさって、心が落ち着く。

「そういや、誠のおばあちゃん、入院してるんだろ?」

 篤史は頼んだソーダフロートのアイスを食べながら、誠に尋ねる。業務用のソフトクリームではあるとわかっていながら、喫茶店で出されるそれは、手作りで出来たもののように錯覚してしまう時がある。ソフトクリームの山の麓にあるさくらんぼを篤史は手に取り、一口。

「まあ。もう、一か月生きれたら、良い方らしい」

「そっか。誠のおばあちゃんにはお世話になったなあ。俺も、お見舞い行けたら良いんだけど」

「むしろ、今日行けばよかったな」

 男二人でタワーの見物よりは、自分の祖母のお見舞いの方が、世間的に見ても正しい休日の使い方だ。湯気が漂うコーヒーに映る自分の顔が、情けない。

「でも、急に行くのは、良くないんじゃないか? ちゃんとこの日に行くよって言う方が、おばあちゃんも良いだろうし」

 ウェイターの女性がカレーライスとサラダを二つ、運んでくる。服装が、二週間ほど前に行った、あの焼肉屋の店員が着用しているものに似ていた。

「……今までは、僕が確実に空いてるのが金曜日って理由だけで、その日にしか行ってない。おばあちゃんは、僕に口を開いてくれないし」

 右手にフォークを持ち、コールスローサラダを食べようとしていた篤史の手が止まる。

「それ、お見舞いに行ってるって言えるのか?」

 凛々しい眉が、眉間に寄る。皺の出来た顔は、相手投手を威嚇する様だ。

「一応は……」

「そういうの、俺はちょっと、信じられないな」

 そう吐いて、篤史は元の表情に戻る。その時だけ、別人格が現れたようで。誠は膝に手を置き、しばらく何もすることが出来なかった。ジャズの流れる店内も、誠の耳には篤史が立てる食事の音しか聞こえない。

「いっそ、あれで小説書けば」

 沈黙を打ち破るように、篤史が言う。カレールーの残ったスプーンを皿の上に置き、水を飲む。

「糸電話。普通有り得ねえ話じゃんか。人の心が読み取れるなんてさ」

 誠はただただ俯くのみだった。先程まで、他愛のないことで笑い合っていた仲であったのに。次元でも変わってしまったのか、喫茶店内の二人の雰囲気は最悪だった。

「でも、後にも先にも、一回しか」

「だから、今使えよ」

 今。その言葉に、篤史はハッとする。

 あの日、偶然押し入れから発見した糸電話。それはただの旧い思い出で終わらせておくだけのものではなかった。一方的に語りかけるだけ。相手の言葉は一切聞かず、待つこともない誠を助けてくれる、アイテム。

 昔の喧嘩の時も、そうだった。誠が篤史に貸した漫画は、篤史の兄が勝手に持ち出していたらしい。兄が物に関してはルーズで、その漫画を中々返してくれなかったことで、誠へ返す時間が遅れてしまったということらしい。

 もちろん、篤史がその背景を教えてくれていれば、誤解が生まれることもなかった。ただ、喧嘩が始まった瞬間を誠は鮮明に覚えている。何かを言いかけていた篤史に対して、「あっちゃんはボクのこと友達だなんて思ってないんでしょ」と、一言。それが、篤史を怒らせる言葉になった。

「オレ、まだ何も言ってないじゃないか」

「でも、隠してる。きっと、ボクのこと、嫌いだから、そうやって、本当のことを言ってくれないんだ」

「……だから、オレは……」

「いいよ。そのまま、漫画あげるから」

「…………誠の……誠のバカ!」

 よくよく考えれば、喧嘩の割に誠は泣いていた。本当はこんなことは言いたくない。でも、口からは思いもよらないことが溢れ出る。篤史自身、あの時は動揺していたのだろう。兄の行為を他人に話すことは、当時はきっと勇気が必要だったに違いない。日頃から「お兄ちゃんは怖いんだ」と言っていた。そのことも、誠はわかっていたつもりだった。

「普段は本音とか、何も話してくれないのに、何かのきっかけで思いっきり吐き出すよな、誠は」

 喧嘩という喧嘩は、後にも先にもそれっきりであった。ただ、それもよくよく考えれば、誠が一方的に言っていたのを篤史が全て受け入れてくれていただけなのかもしれない。

「次行ったら、待ってあげなよ」

 カラン。ソーダフロートの氷がひっくり返った。小さく静寂の闇が破れる。

「うん。そうする」

「でも、あの糸電話はやってほしいかも……お前がどう思われてるのか俺は心底気になる」

「自分のおばあちゃんにか」

「それで、『お前なんか嫌いだ』なんて言う結末だったらどうするよ。それで小説書いたら売れるぜ、多分」

 救いようのない結末だ。が、ありえそうな結末だ。誠は天井に目をやる。汚れのたまった蛍光灯のカバーが、光っていた。

 こんな近くに、こんなに自分を想ってくれる人がいたにも関わらず、いつも自分のことしか考えていなかった。子供の頃も。自分の悩みで頭がいっぱいで、人の話をちゃんと最後まで聞こうという気がなかった。興味が無ければ、追いかけることはしなかった。そのまま、手を付けないまま。

 篤史に差し出したサラダに目を落とす。この静寂を破る言葉。今なら言えた。ありがとう、と。目線を篤史に向けた瞬間。

「イノセントブレイドオオオ!」

 店内にこだまする着ボイス。少年の高い声が、紳士と淑女が優雅にお茶を楽しむ空間に流れる。篤史は慌ててスマートフォンを取り出した。店内の客が、篤史に注目する。それでも、野球選手であることは誰にも知られなかった。

「俺マナーモード切ってたっぽいな」

 タワーにいるときは確実にマナーモードであったから、大嘘を吐かれた。どこかでワザとマナーモードを解除したに決まっている。篤史はこの事態が発生することを見越していた。そして、涼しげな表情でスマートフォンを触っている。誠はありがとう、を水で流し込んだ。

「お前のゲーム愛は、それで十分わかったよ」



―――――――――――――――――――――――――――――



「おばあちゃん。おはよう」

 昼も三時だと言うのに、誠は朝の挨拶をする。バイト先ではいつでも「おはよう」と挨拶をするためか、その癖が中々抜けきらない。スミ子は今日も外の景色を眺めたままだ。

 いつもは自分から話しかけるだけ話しかけ、会話が成立した気になっていた。

 今日は違う。スミ子のベッドの隣。丸椅子に座る。清潔感に溢れる院内。ただ、スミ子の方を見つめればわかる。精神的には、非常に不衛生な場所。決して病院が悪いわけではない。しかし、病人が集まっているという性質があってか、非常に重苦しい空気が漂っている。点滴は、小さなカプセルの中に一滴、一滴、等間隔で落ちる。これで身体を治すのか。毒が注入されていて、どんどん生気を失っているようにしか、誠には思えない。

 三十分ほど、沈黙が続く。途中、女性の看護師が入室してきた。何の行為もない部屋に違和感を覚えつつも、スミ子のベッドのそばに置かれていた水差しを交換する。看護師は誠に目くばせをする。本来は看護師がやってもいい仕事ではあるが、ここは何もすることなく「また後で来ますね」とスミ子に言い、病室を後にした。

 この時、誠は初めて、水差しの存在を知ることになる。今まで何を見て来たのだ、と言われても仕方ない。見落としていた水差しに、誠は手を伸ばす。指紋をつけたくないと思う程、それは美しかった。

「飲む?」

 スミ子はゆっくり、顔を縦に動かした。

 お見舞いに来るということを実感したのは、まさにこの瞬間。自分の調子で水を流してしまうのではなく、スミ子のリズムで。流すというよりも、垂らすという表現が正しいか。ハムスターが水を飲むときの感覚に、どこか似ていた。

 五分程しか経っていないというのに、誠の中では何時間もかかっているような感覚だった。

「今日はもうちょっと、ここにいるよ」

 スミ子の目を見て、誠は言う。これまでは視界に貼り付いた物の一つのように、スミ子の存在があった。今日は、誠の瞳の中にはスミ子の細い、弛んだ目を中心に、スミ子の存在が人として捉えられている。顔中にあった皺が、それぞれの意思を持っているかのように動く。そう、スミ子は、笑ってくれた。

「……今日はゆっくり……顔が見れて嬉しいわ……」

 そして、誠の耳に、確かに声が届いた。スミ子の声は、聴こえにくく、しわがれていた。息を吐くように、ボソボソとしか聴こえない、声。それも、間に息を吸わなければ声が続かない。

 人間とは不思議なもので、たった一言、脳が認識するだけで、見る景色が変わっていく。スミ子はまだ、死んでいない。生きている。命の灯火は、まだ消えていない。

「僕も……おばあちゃんと話が出来て、嬉しい。楽しい……よ」

 今まで現実から目をそむけて、逃げ続けた人生。夢と名の虚像に、大した目標もなく走り続けるだけの人生。誠は溢れ出る自分の過去に、そして今に、胸が苦しくなった。スミ子は話せた。ちゃんと生きていた。今、この瞳に映るスミ子は、とても幸せそうだ。

「昔から……マコちゃんは人の話を聞かないねえ……」

 掛布団の中から這い出る左腕。震えながらもゆっくりと、誠の方へ伸ばされる。皺だらけの掌は、きっと温かい。今までに何度と触れられたスミ子の掌は、優しく、誠の心を包んでくれた。

「ごめん。おばあちゃん。ずっと、迷惑かけっぱなしで」

 だから、誠は泣いた。触れなければ、感じられない。聴かなければ、確かめられない。心の眼で覗かなければ、見つけられない。わからなければ、見つけに行かなければならない。それを怠った自分は、取り返せない。

「僕のせいで……ずっと心配かけてたから……だから……」

 スミ子を励ますために来ているはずだった。かさついた掌に抱擁される心。そして、涙腺が刺激を受ける。青いジーパンに染みが広がる。藍色は、元を辿ると赤く充血する誠の瞳から溢れ出していた。スミ子の掌を両手で握る誠。そこには優しさが確かにある。もっと早く、気付いていたかった。後悔が押し寄せる。

「マコちゃんのせいじゃないよ……」

 スミ子は笑った。十数年前の記憶を甦らせる。あの時はまだ、皺も少なかった。言葉もすらすらと話せた。掌には瑞々しさがあった。時間は流れていく。懐かしい匂いが、忘れられない。

「ごめん……今更……ごめん……」

 誠は、項垂れて、子供の様に泣きじゃくった。後で現れたあの看護師が驚くほどには。



―――――――――――――――――――――――――――――



 野球場は、いつ来ても魂が揺さぶられる。まだ試合が始まる前の、練習中の時間。誠は一塁線側のファールグラウンド横に設置された特設席に座っている。プレーを間近で観ることができ、より野球選手の熱い戦いを感じることが出来る。誠はホームチームのレプリカユニフォームを着て、独特の緊張感を味わっていた。水色を基調としており、チームのロゴは流星をあしらったものになっている。

「こんな時こそ、笑えよ」

 ユニフォーム姿の篤史はそう言う。大きい肩幅に、太くどっしりとした下半身。野球選手であることを改めて認識する。ただ、他の選手と見比べると身体の大きさは劣る。非力だ、とファンから揶揄されるのも仕方ない、そう思ってしまう。

「こんな時だから、笑えないんだよ」

 お見舞いに行った次の日、スミ子は永遠の眠りに就いた。享年、八十六歳。バイト中の、一番忙しい昼時。携帯電話を携帯しているはずのない時間。知らせに気付いたのは、午後三時過ぎ、休憩に入った時だ。滅多にない母親からの連絡。これが篤史からの連絡だったらどれほど良かっただろうかと、誠は今でも思っている。通話ボタンを押し、わかりきっている結末を聞く。

「じゃあ、何で野球なんか観に来てるんだよ」

「篤史がチケットくれたからじゃないか」

 篤史は舌を出す。

「せめて、お通夜くらい出るべきだったんだろうけど、行けなかった。申し訳ないよ。折角連絡してくれたのに」

「いいんだ。それに、おばあちゃん、篤史がこの前活躍して、ヒーローインタビューを受けてたこと、知ってたみたいだよ」

「へえ。そりゃ嬉しい」

 等間隔で鳴り響く音。ボールが木製のバットに当たり、放物線を描いて遠くへと飛んでいく。緑の芝に多数転がるボール。中にはフェンスを越え、スタンドに入るものもある。

「別に、難しい話はいいからさ。とにかく、飛ばしてくれよ」

「おばあちゃんのところにか」

「うん。きっと、天国にいるから。見せてやってよ、おばあちゃんに。ホームラン」

「俺、まだプロになってホームラン打ったことないんだぞ」

 篤史はそう言い残し、一塁側のベンチへ向かった。

 スミ子がこの世を去って、もう三週間。それぞれの生活がまた前に向き始めるであろうタイミングで、篤史は誠へチケットを贈った。本当は彼女を招待する予定だったと言うが、篤史に彼女はいない。もっと面白い冗談をつけ、誠は言った。

 隣には仲の良さそうな兄弟が座る。兄は携帯電話を弄りながら「明日のレポートやってないなあ」と呟く。弟の身長の低さを比べると、五、六歳ほど離れた兄弟のようだ。共にホームチームの野球帽を被り、フラッグを手にしている。兄は背番号が十八のユニフォームを着ているが、弟の方は三十をつけていた。篤史の背番号だ。ちゃんと、ファンは見てくれているぞ。誠はベンチに引っ込んだ篤史に伝えたくなった。

 あの日。誠は帰り際に、あの糸電話を使った。ただ、まずは誠からスミ子の心の声を聞いたのではない。スミ子から、誠の心の声を聞いたのだ。

 誠は自分の胸に、紙コップを当てる。所詮はただの紙コップ。しかし、そこからはどこか不思議な力を感じた。トクン、トクン。一定のリズムでシンバルを鳴らす心臓から伝わる想い。身体中から、スミ子の耳へ繋がっていく。

「『おばあちゃんのこと……大好き』だってさ……小説家になりたいなら……もっと捻りが欲しいわねえ……」

 糸電話を誠に渡すと、スミ子は言った。病人の、それも、重病人のスミ子に、文才の方を心配され、誠は苦笑いを浮かべる。台詞や文章に捻りがないとは、昔から言われ続けて来たことだ。

「でも……心から好きだって、思えてるんだな」

「私も、安心したわ……今度は……マコちゃんの番よ」

 今度は、誠の番。恐る恐る、スミ子の心臓の上に、紙コップを被せる。今更ながら、心が心臓にあるというのは、嘘か本当かわからない。いっそ、スミ子の額にでも、と考えるが、そこまで変わったことは出来なかった。

「おでこに被せても……面白いんじゃなあい?」

 糸電話が無くても、スミ子は誠の心が読めた。誠は頭を掻く。

「じ、じゃあ……」

 言われるがままに、誠はスミ子の額に紙コップを当てる。篤史の時とは違う感覚。小川のせせらぎのようにそっと、耳に流れ込む。

「マコちゃんは……大切な孫……自分のこと……責めるんじゃないよ……私は……幸せものよ……」

 乾いた打球音が聞こえる中、誠は走馬灯のように蘇るスミ子の心の声を思い出す。最期まで自分のことを想ってくれていることを知り、燻ったままの人生でたまるものかと、熱意が湧き上がっている、とは、言えない。今はスミ子がこの世からいなくなってしまったということを実感することで精一杯だ、とも、言えない。こうして野球場で、試合を見ようとしている自分は、冷徹なのだろうか。少なくとも、誠は純粋に試合を楽しみたかった。

 練習が終わり、スターティングメンバーが発表される。相手チームの選手が淡々とコールされ、何の工夫もなくセンターにある電光掲示板に表示される。隣の兄弟はジュースを飲みながら間もなく発表されるホームチームのスターティングメンバーを予想し合っている。

 ドッと沸く、一塁側とライトスタンド。誠は自分のいる場所から左右に目線を動かす。水色のユニフォームに身を包むファンが立ち上がり、電光掲示板を注目する。選手の名前が大げさに呼ばれ、モニターには活躍している選手の映像が映し出される。一人、一人呼ばれる度に、歓声が沸く。今更気付いたことは、歓声の割にファンの数はそれほどいないことだ。

「今日センター嶋じゃないの?」

 隣の兄弟の、弟が呟く。確かに、このチームの三番はセンター嶋、というのがデフォルトだ。だが、今日は違っていた。

『八番、センター、藤本、篤史!』

 歓声とどよめきに包まれる球場。ただ、隣の兄弟と誠は違っていた。立ち上がって、「あっちゃんキター! 頑張れー!」と声高らかに叫んでいる。

 誠もだった。フラッグを持ち、八の字に振り回す。

「篤史! ホームラン打てよ!」

 隣の兄弟が、ホームランは無理だよ、と言った。誠は、今日は打ちそうな気がする、と言い返した。

 試合が始まると、一気に球場は変容する。先程まで沸いていた歓声は場所を移し、三塁線側とレフトスタンドの観客が声援を贈り始める。ちょうど真向いの世界では、自分の応援するチームが勝つようにと声援を贈る。

 すっかり静まり返った、一塁側とライトスタンド。隣の兄弟も小休止に入った。弟はセンターの方を眺めている。右足首を地面に捏ね回し、グラブを腰に当てている篤史の姿が見える。

「あっちゃんさ、もっと頑張ってほしいよなあ」

 自分の親しい友人を弟に紹介するかのような口調で、兄は言う。その隣で、本当に篤史の友人が応援に来ているとは思っていないだろうが、少なくとも兄の言うことには共感できる。打力重視のチームにおいて、打力がイマイチな選手は使われにくい。恋愛小説の需要がない時代に、時代遅れの恋愛小説を書き続けている誠は、自分の不甲斐なさを篤史の今の立ち位置に照らし合わせる。といっても、篤史はしっかりと舞台に立っている。誠は、まだ立てていない。

 試合の方は、投手戦になった。お互いに投手を打ちあぐねる展開になる。篤史はまず、三回裏に打順が回ってきたが、初球を簡単に打ち上げてしまった。結果、レフトフライ。反対の一塁側とライトスタンドから「やっぱりな」と言わんばかりの溜息が吐き出される。

 隣の兄弟も同じように溜息をつく。「恒例のポップフライいただきましたー」と兄が嘆く。自虐的だ。

 篤史はヘルメットを取り、電光掲示板のモニターに映る自分のバッティングシーンを眺めていた。真ん中高めの甘い球に見えたが、ボールの下を叩いていた。ヘルメットを取り、頭を掻く。個々で打てなければ、アピールすることは出来ない。八番打者というものは、試合の途中で簡単に後退させられることがある打順だ。少ないチャンスをものにしなければいけないのにと、篤史は唇を噛んだ。

 生暖かい風は観戦には不向きだ。じわじわと汗が噴き出る。六月の夜は、蒸し暑い。雨は降らない天気でありながら、藍色の空からは重たい雫が落ちて来る予感がする。乾いた打球音のように、空気も乾いていたらなあと、手元にある紙コップに入ったウーロン茶を飲む誠はセンターを守る篤史を見る。帽子を取り、額の汗をぬぐっている。打球が飛んできた時に汗が目にでも入ったら、大変だ。遠目では見えないが、黒いアンダーシャツはきっとより一層黒さを増しているに違いない。

 ホームチームの先発投手が、ズバズバとストレートを投げ込んでいる。ミットに届いた時の、スパーンという音。心臓を叩かれるような衝撃が、音として伝わる。その度に誠の感情は昂る。対戦相手にあたるビジターチームの打者のバットが空を切り、審判が戦隊ヒーローの決めポーズのように腕を突き出した瞬間に、観客席はドッと沸く。三振の合図に、ファンはより一層の声援を選手に贈る。今日の試合は、そのやりとりが続いている。

 次に篤史に打席が回ってきたのは五回裏。既にツーアウト。出来れば篤史が出塁し、九番投手の所でイニングを終えるのが理想的な展開だった。投手が打てないのは承知の上。次の回は一番打者から始まる好打順。

 ファンは篤史が出塁することを望んでいた。そもそも、ここまで両チームとも点が入っていないという状況。重苦しい雰囲気を打開する術が必要だった。

 ファンの悪い意味での予想に反し、篤史は粘った。二球簡単にストライクを入れられてファンの士気も下がってしまったが、そこから三つのボールと五球のファールで球数を費やす。相手投手は百五十キロに迫るストレートと落差の大きいフォークボールで篤史から空振りを取るのが狙いだったらしいが、執拗に粘る篤史の執念もあり、徐々にストレートのスピードが落ち始める。

 篤史は一度バッターボックスを外す。バットを短く持ち、コンパクトなスイングを見せる。

「打てよ! 絶対打てよ!」

 誠は叫ぶ。声は応援歌でかき消えるが、声が篤史には届いているように感じる。隣の兄弟もそれにつられてか、個別に声援を贈る。ファンの期待を背負った、十一球目。

 根負けした相手投手のストレートは、ど真ん中に吸い込まれる。篤史はしっかり、バットを振った。ファンの視線が、空に向く。

「ホームランか!」

 思わず誠が口に出す。しかし、弟が座るのがわかった。座る動作のように、ストン、落ちる白球は、センターがフェンス際で捕った。グラブに収まる音で、また溜息が溢れた。

「あとちょっとだったのに」

 弟が言う。確かに、もう少し落ちるのが遅ければ、値千金、バックスクリーンへのホームランであった。いくら打球が遠くまで飛んでも、スタンドに届かなければただのアウトだ。

 篤史はまた、モニターを見ていた。普通あの当たりなら入るだろと言わんばかりの顔で。上空は逆風だった。それが、篤史の打球を押し戻してしまったのだろう。

 六回以降も両チームの打線が全く繋がらない。もたもたした野手陣に、ファンは皆ヤキモキしている反面、投手の頑張りに何度もエールを贈り続ける。

 七回の裏の前に飛ばした水色のジェット風船の如く一瞬でしぼんだ打線に呆れ、八回表があっさりと終る。八回裏も、二アウトまでは簡単に奪われた。

 気怠い声で、「全力で走れ」と叫ぶロックバンドのボーカルの声が球場に響く。今更ながら、篤史の登場曲が誠の好きなロックバンドの曲と一緒であることに気付く。

「走れ! その足で、全力で駆け抜けろ!」

 誠は柄にもなく叫び続けていたが、試合を通じて一番大きな声で、声を吐く。ふと、篤史がヘルメットを脱いだ。誠の方に、バットを向ける。

「あっちゃんがバット向けた!」

「こっち向けたよな! ホームラン予告か!」

 隣の兄弟は自分に向けられたものだと勘違いしているが、実際は違うだろう。誠は胸に手を当てる。

 勝負はファーストストライクから。ファンの応援がしっかりと始まる前に、投じられた一球。篤史は左中間方向へと弾き返す。センターが俊足を生かして、打球に飛びつくも、ボールはグラブをすり抜けフェンスの方へと転がって行った。

「走れ! 走れ!」

 誠は早くも二塁ベースを蹴った篤史に言う。それこそ、チームのロゴの隆盛の如く。願い事を三回言う暇などない。大股の走り方は力強く、それでいてしなやかで、重たさを感じない。颯爽と、グラウンドをかけていく。篤史はそんな誠の走りに見とれ、声援を忘れていた。

篤史は打球を見ることなく、ただ前を向いている。三塁コーチが腕を回す。打球処理がもたついている。約束をしてくれた。今日はホームランを打つと。内野にボールが帰ってきた頃には、篤史は涼しい顔でホームベースに足をつけていた。

沸きあがる球場。まだ試合に勝ったわけではないのにもかかわらず、篤史を迎える一塁側のベンチからは選手が続々と身を乗り出してくる。

「おばあちゃん。打ったよ。あっちゃん。ホームラン」

 誠は、隣の兄弟が篤史の活躍に大騒ぎしている中、一人落ち着いていた。そして、この世界にはいないスミ子に、言った。



―――――――――――――――――――――――――――――



「骨は地面に埋めたんだし、ランニングホームランの方がしっかり見れたかもね」

 あれから二月が経った。身の周りが落ち着いてきた誠は、無事に一本小説を出版社に持ち込んだこと以外は、特に変わりがない。一方篤史は最近好調で、試合の出場機会も増えて来ている。

今日は墓参りに来た。今はスミ子の墓石の前に、誠と篤史はいる。二人とも半袖のTシャツに七分丈のパンツと、似たような服装で並ぶ。

「それにしても、あの日は面白かったなあ。勝ったと思ったけど、九回に二点入れられて負けるんだから」

 あの試合は面白かった。篤史のランニングホームランで球場が沸き、誰もがこの試合をものしたと思っていた。しかし、九回表にあっさりと二点を奪われ逆転負けを喫した。あの時のファンの顔と言ったらない。皆勝利を確信していたから、するりと逃げて行った白星の実感が、試合終了後も感じられなかった。

「ネクサスボールが落ちなかったんだよ」

「ただのフォークボールだろ」

 あの日投げていた、篤史のチームのエース。彼の決め球、フォークは本人が『ネクサスボール』と謎の名前を付け投げている。九回はそれがうまく落ちなかったらしい。試合に落ちはしっかりついてしまったが。

「なんか面白かったから、負けたけど良かった」

「俺たちは後で説教大会だったけどな」

 篤史は俺たちの苦労も知らないでと言わんばかりの表情を浮かべ、頭を掻く。

「まあ、篤史が活躍したから良かったよ」

「ありがと」

「あと、お前の言ってた蒼君から、手紙届いたよ」

「本当か? そりゃ嬉しい」

 蒼君とは、誠の隣にいた兄弟の、弟の方だ。歳の差はあれど篤史のファンということで意気投合し、試合終了後には名前まで教えてもらえた。ファンレターを送ると言っていたが、本当に送っていたようで、誠は嬉しくなる。

「知り合いか?」

「ちょっとしたね」

 蒼は試合中、ずっと篤史の方を見ていた。何気ない守備にも「あれはあっちゃんの守備が上手いから、何でもないプレーに見えるんだ。並みの選手なら、飛びついて取れるかどうか」と解説をしてくれた。あのランニングホームランですら「センターがあっちゃんだったら絶対センターライナーだよ。打った瞬間から全然守備が動いてないのはダメな証拠だよ。打者のスイングで、守備はどこにボールが飛んでくるか予測しないと」

 ざっくばらんで何を言いたいのかがさっぱりな解説者よりよっぽど解説が上手な少年は、今頃どうしているだろうか。少し気になった。



 墓参りは早々に終わる。手入れがきっちりとされていて、誠たちが手を施す必要はなかった。線香だけを新しくして、手を合わせ、すぐに帰ることとなった。

 その帰りに、二人は誠がバイトをしている飲食店に入る。昼間にもかかわらず、店内は閑散としている。「儲かってんのか」と、店内に入り早々、篤史が遠慮なく言った。

「いらっしゃい……誠さん! お、おはようございます!」

 誠たちを迎えにやって来た店員が、誠を見て、挨拶をする。名札には研修中の文字。

「一路、今日は僕、お客様だよ」

「あ、す、すみません」

 黒縁の眼鏡が気品を漂わせている。そして、すらっとした高い身長。猫背を無理に治そうとして、胸を張って見える立ち方に、篤史は思わず笑う。

「君、なんか可愛いね」

 そう言われ、恥ずかしがりながら、一路と呼ばれた店員は二人を禁煙席に案内する。店内の一番奥の一角にあり、二人は壁際の席に座った。

「ご注文をお伺い……」

「なあ、その前に、お前の話を親友にしてやりたいんだが……」

 仕事をしっかりとこなそうとする新米をいびる上司。篤史は「やめてやれよ」と言う。誠は悪い顔をした。

「こいつ、僕の糸電話級の出来事があるらしい」

「何何? 携帯電話からなんか出て来たとか?」

「や、やめてください! 早く注文を……」

「篤史、惜しい! 結構近い気もするけど……そうだ、ヒント」

 誠は篤史のスマートフォンを指す。

「今でもあのままなら、それがヒント」

 思わず篤史はスマートフォンを取り出し、画面に指を触れる。今は篤史の尊敬する野球選手が壁紙に設定されている。

「じゃあ、あれか」

「ちょっと、誠さん!」

「こいつの家には、ゲームのキャラが居候してるんだとさ」

 結局一路の了解も得ないまま秘密をばらしてしまった誠に、一路は「い、言わないでくださいと約束したのに!」と声を荒げた。しかし、篤史は驚かない。こちらにも、あの糸電話の存在があるせいで、非科学的なことを受け入れることが出来る耐性がついてしまったようだ。

「へええ! いいなあ、羨ましい」

 予想外の返事だったのか、一路は拍子抜けする。その様子を見て、二人はまだまだだなあと、未熟者を見る目で笑う。

「俺エスト君大好きだよ。可愛いよね。会ってみたいなあ」

「……はは……どうも……」

 篤史はスマートフォンを使って、あっさり壁紙を元に戻し、一路に見せる。一路はそろそろ耐えきれなくなったのか、「ご注文は」と問いただすように言った。

 二人は日替わりのランチセットを頼んだ。今日はエビフライとハンバーグのプレートに、コーンポタージュとマカロニサラダというセット内容だ。

「彼この前まで引きこもりだったんだとさ」

「へえ……その割にしっかりしてる感じだな。少なくともお前よりは」

 誠は腑に落ちない様子で、一路が後ですぐに持って来た水を飲む。氷で冷やされた水が、渇いた喉を潤おしていく。

「あと、篤史、ブログ始めたんだってな」

 篤史は言うの忘れてたな、という顔をする。

「ああ。始めた」

「今ネットでまた話題になってるぞ。絵が上手いって」

「え、マジ?」

 篤史は自分のブログを見る。始めたは良いが、始めてから一か月、三回の更新を経て、今は完全に放置されている。その、細心の記事に載せられた絵が、ネット上で話題になっている。

「これ、前に読ませてもらった小説の主人公だよな」

 誠が問うと、篤史は首肯した。

「ニルス君は、俺にとっちゃ初めて書いた小説の主人公だからなあ。思い入れがあって。なんか、夢の中に出て来て『頑張って』って言われたこともあってさ。彼じゃないけど、一緒に暮らしてる感じ」

 あのノートの保存状態を見れば、篤史がいかにあの作品を大切にしているかがよくわかる。他人には理解出来ない思い入れが確かにあって、それを原動力に篤史は今、野球選手として頑張っているのだなあと、誠はしみじみと感じる。

「……あのさ。二つ頼みがある」

 篤史は突然、真剣な顔をする。ファミレスの雰囲気には似合わず、畏まる。

「……何?」

「一つは、その、俺の小説を、お前が書いてほしい。あと、昔みたいに、あっちゃんって、呼んでほしい。それだけ」

 そういえば、誠は自分がいつの間にか、『あっちゃん』という愛称で篤史を呼ぶことをやめていた。理由はわからない。携帯電話にも、『あっちゃん』の名前で登録しているにもかかわらず。

 そして、前者の頼みは、青天の霹靂だった。小説を、小説をして書いてくれという依頼が初めてで、それに、手書きで何年も書き続けた、大切な文章を、自分が改めて書く。そんな気には、到底なれるはずもない。

「そんな、無茶言うなよ」

「でも、俺は、お前の書く小説が好きだ。だからこそ、お願いだ。誠の世界観で、あいつらの世界を、読んでみたいんだ」

 戸惑う誠に助け船を出したかのように、携帯電話が鳴いた。誠は慌てて、電話に出る。

 僅か、二、三分程の会話。しかし、誠の表情はみるみるうちに明るくなっていった。

「……いいことでもあったのか?」

 篤史が問うと、誠は折りたたまずに携帯をテーブルに置いた。

「落ち着いたら、書く…………その、あっちゃんの、小説」

 それは、きっと夢ではなかった。糸電話も、スミ子の死も、あのランニングホームランも。そう、全てが。

 その電話は、持ち込んだ小説が、最終選考まで残ったという連絡だった。今時、時代遅れかもしれない、大学生の恋愛小説。誠は悪いことでもないのに、溜息を吐く。そして、スミ子の笑顔が映った待ち受け画面を見て、呟いた。

「絵空事、じゃあ、ないよな」

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絵空事 神宮司亮介 @zweihander30

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