第3章 離陸、接敵

(3)サイト


 試験飛行の当日は、静かな朝だった。

 頭上には澄んだ青空と、軽そうなちぎれ雲が浮かんでいる。

 時刻は午前6時。今日の鶴牧空軍基地には、サイトの乗る獄風の暖機運転のプロペラ音だけが響いていた。他の戦闘機はその翼を休め、うつろなコックピットだけを晒している。

 獄風のコックピット内にいるサイトは計器盤に目を降ろし、問題がないことを確かめると準備完了のしるしに首をこくりと振った。高木が獄風の傍らで親指を立てる。

 高木には感謝しかない。

 寝ずにギリギリまでエンジンの調整をしてくれていたのだろう、高木の目の下には隈ができていた。


 滑走路には、空軍のお偉いさん方が視察に来ていた。サイトはそちらに敬礼をする。彼らも事務的に敬礼を返してきた。その隣にいる同僚の飛行士たちにも敬礼を送る。同僚たちは熱っぽく敬礼を返してくる。声は聞こえないが、頑張ってこい、と口が動くのは見えた。

「では、離陸します」

 無線で管制官に伝える。

「了解。お気をつけて」

「行って帰ってくるだけだよ」

 試験飛行なのになぜだかやたら心配をされるな、と思いサイトは苦笑した。一応、自分では一級飛行士のつもりなのだが。


 サイトはスロットルをゆっくりと上げた。プロペラの音が高くなる。獄風が少しずつ前に進みゆき、地上から早く解き放たれたいとでもいうように身体を震わせた。

 速度が上がり、基地の兵舎が背後へと流れゆく。

 サイトは頭の中で、今日の経路を改めて組み立てる。

 ――ローホル島も見たいが、それは無理かな。

 かつて高校時代を過ごした場所を目にしたい気持ちもあったが、ローホルは今やソル連邦の制空圏内だ。

 グラデス島を見られるだけでも良しとしよう。

 そんなことを考えつつサイトは操縦桿を引く。機体がふわり、と浮かび上がった。

 獄風の速度とサイトの身体にかかるGが増していく。

 充分な高度を得ると、サイトは機体を水平飛行にした。

「ただいま」

 そう、一面の空に語りかける。


 午前7時、サイトの乗った獄風は鶴牧空軍基地をあとにし、一路グラデス島へと向かった。



(4)エセル


 同時刻。

 エセルの乗ったコーパーも空母ケンドルをあとにし、グラデス島へと向かっていた。

 このペースだと3時間もしないうちに折り返し地点に到着するだろう。

 エセルはそう予測した。


 エセルのコーパーを頂点にして、三角形をつくるように海軍航空隊の直掩編隊が飛ぶ。

 4機はコーパーの速度に追いつくのに必死なようで、エンジンが息切れしているさまが見て取れた。

「お手柔らかに頼みますよ、ヒロイズ飛行士」

 編隊機のうちの一機から苦笑まじりの通信がはいる。


 そうしているうちに、ローホル島の上空に差し掛かった。見下ろすと、豆粒のような家が並んだ高級住宅地があった。

 レティアは、まだあそこに住んでいるのだろうか。それとも、貴志国が制空圏を突破してくることを恐れて疎開しているか。

 彼女は上空を飛ぶ戦闘機に、かつて自分と同じ高校に通っていた女の子が乗っているなんて想像だにしないだろう。

 そんなことを考えた。


「エセル、我々は離脱する。幸運を」

 直掩の編隊長機から通信が入った。

「了解」

 短く答え、後ろにいた戦闘機編隊が旋回して離れていくのを見送った。

 幸運が果たして必要になるだろうか。エセルは不思議に思った。

 編隊長が自身でも気づかないうちに、何気なく口走った一言。

 それでも、彼は何かを感じ取ってその言葉を使ったのだろう。

 ――グラデス島付近では気を抜かないようにしよう。

 だけど、それまでは安全なはずだ。


「ふーっ」

 ひとつ息をつく。

 グラデス島付近では接敵する可能性も多少あるが、今しばらくはソル空軍の制空域だ。何かあっても、すぐに援護を受けられる。

 しばらくは戦闘もなく、ただフライトを楽しめばいいだけだ。

 エセルは肩の力を抜いた。

 眼下にはくしゃくしゃにしたアルミホイルを敷いたみたいな海が広がって、朝の清潔な光をその表面に反射していた。時折、はたして誰か住んでいる人がいるのだろうかと思うような小さな島々が通り過ぎていく。


 ――もし、この戦争が終わって無事に生きていたら。

 また、ソル連邦と貴志国が仲良くできる時代が来たら。

 そしたら今日みたいな天気の日に、おんぼろでもいいから小さな二人乗りの飛行機を買って、サイトと一緒に島めぐりなんかをしてみたい。

 サイトはきっと、私が飛行機を操縦できるなんて知ったら驚くよね。

 エセルの操縦ってちょっと怖いなぁ、なんてことを言うあの人の前で綺麗に離陸してみせたら、私のことを見直してくれるかな。

 操縦席に私、後部座席にはサイトを乗せて。

 ふたりで、誰にも邪魔されずに、どこまでも。

 たまに島に着陸して散歩したり、海辺で釣りをしたりして。

 もし……。もし、そんな日が来たら。

 私は幸せすぎて、どうにかなってしまうに違いない。


 ――ただ、その前にはカモメを墜とす必要がある。

 カモメには何の恨みもないが、倒さなければこの戦争の決着はない。

 エセルは自然とほころんでいた顔を引き締める。

 もう一段、ぐんとスロットルをあげ、コーパーを加速させた。



(4)サイト


 陽は高くなり、風防の中に優しい温もりを届けている。

 時刻は午前11時。

 まだ基地を飛び立ってから四時間ほどしか経っていないが、すでに貴志国制空圏の端にまで来ていた。


 ――獄風の加速力と最高時速に関しては事前に知っていたが、これほどまでとは。

 サイトはひとり、コックピットの中で驚く。

 この調子では昼にはグラデス島を折り返せるだろう。


 今回の任務では、折り返しの前が一番危険となる。

 折り返しのグラデス島上空は中立特区に含まれるため、そこで戦闘が起きることはないだろう。戦争にも一応、ルールというものがある。もしそこで戦闘など行えば、9カ国連盟で議題にのぼり、ソル連邦と貴志国に相応の罰が与えられるだろう。国際平和規定に則り、エンガルド合衆国などが介入してくる恐れもある。貴志国、ソル連邦双方ともに、余計な口出しは避けたいところだろう。

 従って、戦闘が起こりうるグラデス島上空に入らない地点、折り返しの直前が最も危険が伴うものと予想されていた。


 ――折り返し前に、腹ごしらえをしておこう。

 少し早いが、サイトは昼食をとることにした。

 狭いコックピット内の足元から、おにぎりと水筒を取り出す。戦闘時には飲まず食わずで飛び続けることもあるので、今回は食べられる余裕があるだけありがたかった。

 海と空の境目を眺めながら、もしゃもしゃとおにぎりを食べる。


 ――エセルの作ってくれたご飯が食べたい。

 ふと、そう思った。

 エセルの作る料理は、いつでも美味しかった。

 ローホル島の高校に通っていた頃、昼はいつも同級生と外に食べに行っていたのだが、ある日、サイトは自分の財布を家に忘れてきてしまった。

 高校に行くためにグラデス島の船着き場まで行く道すがら、隣を歩くエセルにそのことを話すと、自分のお弁当を食べていいと言ってくれた。

「え? それは悪いからいいよ」

 一旦は断った。

「でも、私も今朝は作りすぎちゃったから……。ひとりじゃ食べきれないし、サイトも食べてください」

 そんなことを言われた。

 確か、あれはサイトが三年生、エセルが一年生の春だった。

 ……そう。

 道端には、貴志国からグラデス島に贈られた桜が咲いていた。風は柔らかいが、まだほんのりと涼しさを宿していた。

 作りすぎた、というのは嘘だろうと思った。でも、優しさからそんなことを言ってくれているのが分かり、サイトは温かい気持ちになったことを覚えている。

「わかった。じゃあ、校庭の端っこで一緒にお昼にしよう」

 約束を取り付ける。

「うん」

 エセルはそう言って控え目に頷いたが、なんだか嬉しそうに見えた。

 ひらり一枚、桜の花びらが舞い、エセルの髪の上に落ちた。

 淡い銀色の髪と、薄紅色の桜が目に眩しかった。

 ――綺麗だな。

 そう思った。

 どうやら、エセル本人は花びらが髪に付いていることに気づいていないようだった。

 なので、サイトはそれを指摘せずにしばらく歩くことにした。

 静かな朝を、ふたりぶんの足音が彩る。


 ローホル島。お昼を告げる鐘が鳴り、サイトが校庭に行くと既にエセルがいた。木陰に佇み、手にはお弁当箱を持っている。

「あれ、早いね」

「え。う、うん」

 サイトが近づいていくと、エセルはもじもじとしながら頷いた。ふたりはそのまま木陰に座り込む。サイトはエセルのお尻の下に自分のハンカチを敷いた。芝生の青い匂いが、春の訪れを改めて感じさせた。

 ぱか、とエセルが箱を開けると、白米とソーセージと卵焼きとサラダが添えられた綺麗なお弁当が出てきた。明らかにひとりぶんの量だった。

「僕もお腹すいてないから、うん。少しでいいよ」

 サイトはあらかじめ断っておく。

「……わかった」

 エセルはそう言うと、まず卵焼きをぱくっと食べた。

「うん。味は大丈夫……なはず」

「え、いま味見したの」

「いや! あの、作る時もちゃんとしたけど……一応、確認で」

「あ、そう……」

 そういえば、エセルの料理を食べるのははじめてだな、と思った。大丈夫だろうか。

 なんだかこっちまで緊張してしまう。

「じゃあ、いただきます」

 食べようとしたが、そういえば箸もなかった。ぴたりとサイトの動きが止まる。

「あ」

 エセルもそれに気づいたらしい。自分がいま使ったばかりの箸をじっと見つめている。少し頬が赤くなり、見ると目がぐるぐるとしている。エセルの頭の中でいろいろな考えが廻っているのが傍目からもわかって、少し面白かった。

「あ、あの、もし、これでよければ!」

 エセルはぐるぐるした目のまま、お箸を差し出してくる。

「え。いや、いいよ。手で食べるから」

 まさかの提案だった。うわずった声が出てしまう。

「そ、そうだよね、汚いですよね?!」

 ぐるぐるエセルが今度は悲しそうな声を出す。

「ち、違う。汚くなんてないよ、エセルのなんだから! じゃあ、ありがたく使わせて頂きます!」

 なにを言っているんだ、僕は。

 そう思ったが、言ってしまった手前、使わないわけにもいかない。エセルと同じく卵焼きをつまむと、そのまま口に運び、食べる。その様子を見ていたエセルはお箸がサイトの口に入った瞬間、完全に真っ赤になってしまう。

「あ、すごい美味しい」

 サイトは、ぱちくりとエセルの方を見る。

「そ、そう……?」

 エセルが上目遣いで不安そうに見てくる。

「甘くてふわふわして、ケーキみたい」

 率直な感想を述べると、えへっ、とエセルが笑った。

「よかった、です。またお昼を忘れたときは、言ってくださいね」

 それ以来、たびたびサイトは昼食代を“忘れる”ことが多くなった。

 そして、エセルもまた、お昼を作りすぎることが増えたのだった。


 ――いま、ここでこうして昼食をとるよりも。

 エセルの作ってくれたごはんが食べたいと思う。

 もし、この戦争が終わって僕が無事だったら……。あの日のように、木陰に座ってエセルの作ってくれたお弁当をふたりで食べたいと願うのは、贅沢なことだろうか?

 ……贅沢、だろう。

 戦争がそれを贅沢なことにしてしまったのだ。

 でも、この戦争さえ終われば。

 僕があの蛇さえ墜とせれば。

 そしたら、エセルと、またふたりで……。


 気を引き締め、サイトはゴーグルの位置を直す。

 いつの間にか、グラデス島はもう目前だった。

 ――なんだ?

 飛行士として培ってきた第六感とでも言うべき何かが、空の異変を伝える。風が、太陽が、海の照り返しが、雲が、空の王であるサイトに闖入者の存在を伝えてくる。

 感覚を研ぎ澄まし、目を凝らす。

 そして、水平距離2万キロメートルを飛ぶ何かが見えた。その翼に、陽の光を弾いている。

 並みの、いや、ベテランの飛行士ですら見落とすほどの距離を飛ぶ何か。

 豆粒にも満たない大きさの何か。

 敵機。

 刹那、サイトは向こうも自分の存在を感じ取ったことを肌で知覚した。一級飛行士のみが持ちうる感覚。そして、向こうもそれを持っているということは。

 自分と肩を並べる、空の王。戦争の、王。

 もしかして、お前か。

 ――蛇。



(5)エセル


 ――カモメ。

 グラデス島の上空、高度4000メートルほどの位置に、空の王がいる。

 向こうも私に気づいているはずだ。

 何もこんなところで、と思う。


 私があの人と暮らした島。その上に、アイツもいる。恐らく、爆弾や機銃弾をたんまりと積んで。何をしに一機で飛んでいるのか。

 ぐんぐんと相対距離が縮まる中で考える。そして、距離が1万キロメートルに迫り、機影が見えたとき、理由がわかった。

 その貴志空軍の機影は、今までどんな空戦場でも見たことがないものだった。

 百戦錬磨のエセルでさえ見たことがないということは。

 私と、同じ。ソル空軍と、同じ。

 新型機の、隠密性能テスト。

 あぁ、どんな確率だろうか。一日、数時間、数分でも時間がずれていれば。

 私とカモメは出会うことなく、グラデス島を折り返していたはずだ。

 基地へと帰り、接敵もなく首尾よくテスト飛行を終えたと報告していただろう。

 だが、何の因果か、神は私たちを出合わせた。


 グラデス島の真上。互いの距離は5000メートルほど、すれ違うときに相手のノーズアートが見えた。

 やはり、カモメが描かれていた。

 この、千載一遇の機会。

 逃すわけにはいかない。

 ここでカモメを倒し、貴志空軍の新型機もろとも海の藻屑にすれば。

 相手は空戦場の大黒柱と、新型機の実地試験データを失う。

 私たちが、勝つ。

 サイトに、また会える。


 コーパーと獄風が、グラデス島の上空で静かに旋回しはじめる。

 その様子は空戦というよりも、ダンスのようだった。

 相手の後ろをとり、機銃弾を浴びせた方が勝つ。

 単純な、一対一の戦闘。

 そして、その勝者がすなわち、西海戦争を勝利に導く者だった。

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