恋と出版不況からのボードゲーム

若狭屋 真夏(九代目)

 伝統

株式会社青海書店は明治期に開店した出版業界でも老舗の出版社である。多くの学生や作家に愛用されてきた国語辞書「青海」の編纂を行ったのもこの出版社である。

「青海」は現在23版だが、いまだに改版が行われていて、主任の田所は毎日のように大学を巡りいそがしい。

正直、今青海書店はこの「青海」のおかげで「何とかなっている」というのが本音だ。

その主力製品である国語辞書「青海」も最近売れなくなってきている。

「出版不況」「活字離れ」等々挙げれば悩みの種は尽きない。

田所が忙しく国語学者たちを訪れるのは「青海」の電子化のためだ。

今まで青海書店は印刷までを行ってきた。それは一般の学術書だけである。

国語辞典には特別な紙を使わないといけない。厚さ10センチほどの本に20万から30万語を収めるには普通の紙ではできない事であり、それでいて破れない丈夫な紙というのはなかなかの至難の業である。


「いやね。。。私は「青海」の電子化には反対なんですよ」というのは立花大学の高橋至(いたる)教授だ。高橋教授は「青海」の改版に協力してくれている、いわば「青海の屋台骨」といえる人物だ。

「どうしてなんですか? 先生。たとえ紙の媒体でなくなっても電子化すればより多くの人達に使っていただけると自負しております」

こういったのは青海書店の田所主任である。

40を超えているが髪は黒々しく、声にも「張り」がある。若々しい人物である。

青海書店に入社以来「辞書畑」を歩いてきた。

「こういわれると笑われるかもしれませんが、辞書は少し「不便」なほうがいい。というのが私の考えです。」と言って教授は煙草を手に取った。

「ふー」と白い煙が部屋に満ちた。


「私もそうだが、田所さん、あなたも学生時代「分厚い辞書」と格闘したでしょ?」

「。。。ええ。。」

「情けない話なのですが」と高橋は前置きをした。

「長年教員として若者に接してきていますが、、、、、。今そんな学生はいませんよ。。。なんでも「インターネット」だ」


「確かに青海を電子化すれば使える人も多くなる。それはいいことだ。

しかしなんでもかんでも「便利になればいい」というのは間違っている、と私は思います。

かつて「解体新書」を翻訳された杉田玄白先生は「鼻」を意味する単語をみつけるのに「顔」という単語をみつけ「山」という単語をみつけ「顔の中の山」という事で「鼻」という言葉にたどり着いた。そういった努力をすることが「学問」にとって大切なことだと私は考えます。」

  

「はい」田所の返事は重い。


「確かに田所さんのおっしゃるように得るものも少なくない。しかし失ってしまう事も多いと。。。。」


「私は。思います」高橋は灰皿に煙草の灰を落とした。




とんとんと社長室のドアを叩いたのは田所であった。その足はまるで「枷(かせ)」を付けているように重い。

「どうぞ」と中から聞こえる。

「失礼します」といってなかに入る田所を社長の大原新(おおはらあらた)は出迎えた。新はまだ33歳の若い経営者だ。青海書店創業者「大原源卜(おおはらげんぼく)」の曾孫にあたる。いわば「創業家」からの社長就任であったが、彼が社長になったのは創業者の曾孫という事からではない。新進気鋭の「国語学者」として新の実績を買い、これからの青海書店を支えてくれるように先代の進藤現会長が決めたものだ。進藤洋(よう)会長は生え抜きの青海書店の社員である。大学を卒業して営業畑で会社を支えてきたが、近年の「出版不況」と戦う「闘志」が自分には無いと感じていた。それはいわば「老い」である。

経営者として「自らの老い」と会社とを心中させる事などできるわけがない。


そして創業家出身の大原新が次期社長に推薦され、自らは会長職に退いた。

新はその時東都大学で助教授として働いていて国語学者として期待されていたが、進藤の度重なる説得に負けた。


次の取締役会で新の社長就任と進藤の会長職就任が可決された。


社長室で新は進藤からの引継ぎ事項をいろいろとおこなわれた。。一通り終わると進藤は「老兵はただ、、消え去るのみ、、だな。あとのことは頼む。。」

と頭を下げた。

「わかりました」と新も頭を下げた。


それから一年ほど経つが「経営者が若返る」というのはまるで「雪原の中から真っ赤な梅の華をみつける」ような温かいものであった。


話を戻そう。

田所の報告に大原社長はうなずいた。

「さすがに高橋先生だ」と新はいった。

「社長。感心しているときではありません。青海の電子化が出来なくなったら我々は、この会社はどうやって食っていくんですか?」

「でも、田所さん。。。長年青海の改版に携わってきた人間として、悔しくありませんか?」

「う、、」と田所はうなずいた。


「田所さんだけじゃない。よく使われている文句ですが多くの人達の「血や涙」がこの青海を作ったのです」

社長室の本棚には長年改版を行ってきた青海が並べてある。

その一冊を新は取った。

それをペラペラとめくりながら田所にいった。

「田所さん。。。この青海に収められている約30万語の中で不要な言葉はありますか?」


「ありません」

「そうでしょう」新は微笑んだ。

「この会社は確かに大原源卜が作った会社です。しかしこの青海は、あなた方が大切に紡ぎ、編んでくれてものなんですよ。」



「次の取締役会で電子化の話は無しとします。いいですね?」

「はい」と田所は答えるしかなかった。


田所が退室した後、新は頭を抱えた。

田所に「ああ」は言ったものの、青海の電子化が白紙になることは経営者として「痛い」事だった。

しかし、国語学者の端くれである自分の矜持としてこの話は受けるわけにはいかなかった。

とりあえず、次の「飯のタネ」を経営者として探さないといけない。

なんだかんだで経営者は社員を食わせていかなければいけない。そのために「社長」はいるのである。

しかし、出版不況の現状の中「辞書と学術書」しか出版してこなかった青海書店が新たな出版分野に進出しても「敗北的」な結果しかもたらされないだろう。

まさしく「背水の陣」にある。再びに新は頭を抱える。







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