第34話『落葉劈靂』

 肌にひりひりと泡立つ緊張の中、頤をやや上げ細く開いた両の眼でしっかりと敵を捉えながら踏み込むや、背後で扉の閉まる音が聞こえた。アンゼルマが闇も厭わず後ろ手に閉めたのだろう。通路のクライフも退路を断たれたわけだが、挟撃の危険性はなくなる。とりあえずは。

 頭の片隅に去来する状況も、ふと脳裏から消え去っていく。

 目の前の魔獣は、ただただひと太刀でこちらの命も吹き飛ばす獰猛さを持ち合わせた危険な獣。人間としてのタガを自由に外したその体術技術は常人の認識を容易く超えてくる。恐怖や個々の状況に囚われず全体を見ていなければ勝ち目はない。

 対決の応えから二歩ほど歩んだときだ。


「そうら」


 だらりと垂らされていた骨の左腕が跳ね上がるや、踏み込み躱したクライフの左頬の皮が弾けた。想定よりもはるかに長い間合い。しかし観て取った剣士の踏み込みがこれを凌ぎ、彼は突き出すように刃厚な短刀を一閃させる。

 骨の左腕は纏った肉を存分に削ぎ飛ばされたが、硬い骨が、骨の肉がこれを弾く。撓った腕がクライフを壁際に押しつけ潰さんとうねるが、さらに低く踏み込み肉薄するが、まだ間合いには遠い。

 ――早い。いや、速い。

 骨はクライフの速度のさそのものに舌を巻く。距離的なさも含めれば人間の動きの域を逸脱はしていないが、人外の動きをそれでも凌いでいるのに瞠目する。

 さらに二歩、クライフは滑り往くように間合いを詰めると骨の顔面を掬い削ぐように一撃を見舞う。

 ――上手い。

 骨はその斬撃を脛骨を外し仰ぐように回避すると彼の体を肩の一撃で弾き飛ばした。


「挨拶は済んだな」


 骨がそう呟く。

 クライフとの間合いは、もとの間合いにまで戻っている。

 左腕の肉を脱ぎ捨てながら、彼は落葉の剣士の持つ凪いだ心持ちにふと疑問が湧く。剣を振るうにあたっての機械的な動きというものに関しては理解できる。あらゆる状況に術を反応させ技を出すのは戦う者の常識だ。だがしかし、目の前の剣士はそんな自分に向けてさえ……いや、そんな自分にのみ疑念という雑味を抱えている様子だった。


「なるほど」


 骨は納得した。そしてさらに疑問に思った。


「落葉を使わぬのも、剣を振るう理由が分からぬからか。貴様ほんとうにあのレーアを斬った男か?」

「――……」

「申し分ない動きだが、木偶を相手にしているようだ。中身はどうであれ、女子供を斬り殺すほど命に真摯な貴様なら、いまさらなぜ迷う。俺だって命は喰らう。命を頂戴することへの感謝を欠かしたことはない。女も子供も男も、老若男女分け隔てなく喰うのは難しい。だが俺は、俺たちは、頂戴した命には真摯に向き合うぞ。なのに貴様、レーアを丁寧に殺しておいて向き合っておらんのか」


 クライフの脳裏に、四肢に、体幹に、国境川辺で斬った少女の――歌の暗殺者の記憶がよみがえる。


「心を突いても、隙はなし。そこまでに技術を練っておきながら、なぜ貴様、落葉の剣士よ、刀刃を振るうことに迷いを見せている」

「迷いだと?」


 闘争の最中に言葉を返してしまう。

 クライフの中で、骨の言葉は刀刃の鋭さを伴っていたのか、攻め手もあぐねて半歩引いて応えてしまう。


「喰わなんだか」

「なに?」

「レーアの肉、喰わなんだな。だからそこまで腑抜けなのだ。落葉の剣士、クライフ=バンディエール、貴様命をなんだと思っておるのだ!」


 漆黒の魔獣が吠える。

 その真摯な混沌に撃たれ、クライフは自分の中の乱麻が如き思考の獄鎖にヒビが入るのを感じていた。


「喰わぬのに殺したか、この外道が。貴様、我らの敵にするにはあまりにも府抜けておる。しょせん女王の傀儡よ。……首を刎ね、その剣もらい受ける。俺の魔性を試すには、それが必要なのだ」

「喰わぬのに、殺した……か」


 ふふ。

 骨はふと、闘争と説教の空気にそぐわぬ笑いを聞き、剣士の顔を見返す。その軽い笑気とは裏腹に、観よ、その闘志が驚くほど膨れ上がり澄み渡っていくではないか。


「人から外れるが人外と聞く。骨、あなたは人外になりたいと願い、命を喰い、その技術を磨くか」

「応えよう。そのために、俺は導師につき幾年も研鑽を積んできたのだ」

「合点がいった。……今の今まで、自分が漆黒の魔獣を相手に剣を振るう理由などというものに囚われていた。案外単純なものだったよ。そも、理解の外にあったのではない。君らの尊大な倫理観と目的のための求道は、確かに、人から外れている。人の延長から、ほんの僅かに、少しだけ逸脱しているからこその魔性だ」


 クライフの言葉に骨の腹が歓喜に満たされていく。分かるのか、俺たちが、そのような歓喜に踊り、ぶわりと血流に圧力が増していく。


「悪魔と会話をしてはならぬとは、十の風の物語にあったな。はは、なるほど。……骨、あなたは間違いなく魔性のものだ。俺が斬るべき対手だ」

「おお」


 クライフの背後で、重い物が壁に当たる響きが轟く。

 アンゼルマらの対決だろう。

 しかしそんなものも気に留めず、クライフは短刀を腰に差し戻し、ス――と落葉を音も無く抜き放った。襲いかかれぬほど隙のない抜刀だった。遠くなだらかな山の稜線を思わせる刃紋がちらりと見え、すぐに垂直に構えられる。

 まるで祈るようなクライフのやや腰を落とした低い構え。頤に添えられた柄本から垂直に伸びた切っ先はピタリとぶれず――そしてやや左に開いた。である。


「おお」


 もういちど、骨は嘆息した。

 落葉から放たれる退魔の力を皮膚で、脱ぎ捨てた肉の隙間から感じる左腕で感じたからだ。おお、確かに俺は魔性に変生しつつある。その喜びが新たにわき上がる。

 さほど広くない通路の真ん中で、やや右足を引いてはいるが完全に正対するクライフ。骨から観て、的は大きく感じる。その的の遊びが大きい故に、狙い撃ちが躱されたときの有利さも比べものにならない。

 撃つか。撃たれるか。

 斬撃の機微に脳が支配されかけたとき、お互いが静かに間合いを詰め始める。先に骨の間合い。剣士の目に点状の付きを見舞う。開いた刀身の隙間から左目を穿たれる直前、骨の右腕が鈍く打ち落とされた。

 鈍く――いや、鋭い斬撃で切り落とされた右腕が中空で踊る気配だ。

 痛烈な衝撃が骨の髄まで奔った瞬間、下段から跳ね上がった刀身が顎と頭蓋を断ち割っていた。

 ――馬鹿な。

 間合いに優れているとはいえ、不用意な突き技であったとはいえ、骨の攻撃に油断はなかった。かつて落葉の斬撃でさえおいそれと徹さぬ自分の肉体に自信ありという部分を差し引いても、ここまで後れを取るとは思えなかった。

 頭蓋を両断された骨は、だがしかし死んではいなかった。常なら勝負有りの瞬間、残心を取るとはいえ剣士の心に隙が生まれるはず。その過信が甘えとなったことを、直後に彼は理解した。


「えいやぁ!」


 裂帛が迸り、大上段から振り落とされた落葉の刀身が、肉の胸元に埋まっていた骨のほんとうの頭蓋を断ち割り、圧縮された筋繊維と骨組織を容易く両断しつつ臍まで切り落として抜ける。


「なぜ俺の脳が腹にあると知った」


 ばくりと切り拓かれた肉体から、赤黒くしなびた頭蓋が左右に揺れつつ、そんな言葉を紡ぐ。骨の末期の問いだった。


「見えているものがすべてではない。虚構と虚構は、常に隣り合いながら背中を合わせ実を結び合う。――……」


 クライフの右目が茫洋とした魔の気配を捉えていなければ、勝負の行方は知れなかっただろう。彼の言葉の意味を理解できぬまま、骨の意識と魂はかき消えていく。

 黒き煙滓となる彼の肉体が焼け残ったかのように倒れ伏す。纏っていた犠牲者の肉がぐちゃりと折り崩れ、残心を解いたクライフは背後の部屋へと振り返る。

 アンゼルマの戦いは、あの轟音以来聞こえてはこない。

 安否が気になった彼は、注意深く扉へと向かい――。


「なんじゃ、せがれは死んだか」


 ふと扉を開けて出てくる蜘蛛がニヤリと笑い、クライフは足を止める。


「アンゼルマはどうした」

「逃げられたわい」


 肩をすくめる蜘蛛。クライフは落葉を入り身青眼に構える。


「信ずるかノ?」


 試すかのような老爺の言葉に、クライフは跳ね上がる心拍を抑えるかのように深く静かに息を吐く。


「さあ、どうかな」


 瞬間、頬を撫でる糸の気配を感じたとき、灯りという灯りがふとかき消えてしまう。


「よお見える。……焦り。ほほう、あとは喜びか。剣者め、業の深い」


 クライフは答えない。

 ただ闘争の気配に応じ、前へと進むのみだった。

 

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