第35話『獅子の瞳 1』

 シャール北部の緩い街道の起伏の上を馬で進んでいくと、固く踏みしめられた白い道が幅広く整備されてくる。虎口丘を越えてしばらく、クライフたちが獅子の瞳に到着したのは昼を少し回ったあたりの時分だった。


「着いたな」


 馬から下りたクライフが物々しい門を見上げながら首を巡らす。物々しいといっていいだろう。南に面する門扉は国内へのものとはいえ、戦火の折には固く閉じられるのだろう。だがしかし、ここしばらくは閉じられた形跡はない。鉄鎖の留めのそこかしこには埃と錆が見受けられた。

 しかし大きい。

 城塞都市の外壁は街道を進む折にも見えていたが、距離感を見誤りそうなほどのシロモノだった。鉄門は十人やそこらで動かせる重さではないだろう。

 同じように見上げるレーアをシズカの馬から下ろしてやりながら、往来を往く旅商人や近隣の住人の流れに乗るように、徒歩で門へと向かう。

 旅の疲れがどっと出るひとときに、思わず深いため息が出るレーア。


「私たち近衛は執務宮へと向かいます。クライフさんたちは宮殿近くの宿に馬をお願いします。街の規模は見ての通り、ガランより二回りは広いです。けどこのまま北に向かう分にはガラン北門から燐灰石の尖塔までいくのと大差ありません。途中までご一緒しますが、ここからは基本、別行動で。殿下には近衛ふたりが招喚に応じた形を取らせて頂きます。なので護衛役は取り急ぎお役御免となります」


 言うやシズカはレーアにいくばくかの金員を手渡す。目を丸くする額だが、それには構わず懐にしまわせると彼女は少女に頷く。その頷きをどう受けたかは分からないが、返すようにかすかに頷くと馬の手綱を取る。


「さすがに騒がしいですね。ガランとはまた別の騒々しさですが。賑やか、なんでしょうねえ」

「こうなると匂いも相当なものだニャ。……というか、旅に鼻が慣れすぎてきついこときついこと」


 歩きながらそういうふたりだが、街の様子を南北の目抜き通りを歩きながら進むクライフたちに言葉は少なかった。緊張はあるだろう。なにせこの街には楽団の少年少女たちが入り込んでいるのだろうから。


「では、私たちはここで。どうせ同じ宿になるでしょうから。この先の『たてがみ亭』です。どうかと思う名前ですが屈指の宿ですよ。宿と言うより、離宮のようなものです。厩も広いので、私たちの馬も留めておいてください。話は通っていると思います」

「ああなるほど、そのお金だったのか」


 宿泊費は馬の面倒代も含めて前払いらしい。

 本決まりの滞在費は近衛ふたり分。レーアとクライフのものは、まずは別という意味合いなのだろう。


「それでは、先に体を休めていてください。レーアさん、クライフさんの湿布を替えてあげてください。軟膏は馬の荷の中に入れてあります。赤い箱のヤツです。青い箱のものは塗ったら死にますから触ったらだめですよ」

「なんてもの持ってきてるんだ」

「大丈夫です、間違えませんからッ」


 手綱をひとつ預かるレーアの意気込みに、馬もブルリと息を吐く。同調してるわけではないだろうが、背中の火傷が表情同様、少し引きつった気がした。

 アカネの馬の手綱を預かったクライフは、自分の馬と併せ二頭を引き連れ、「じゃあ向かうか」と先を歩く。慣れているのか、しつけられたアカネの馬は二頭の後を大人しくついていく。馬の手綱取りでレーアが困ることはないだろう。


「しかし、本当に着いたんですね。獅子の瞳に」

「ああ、そうだね」


 レーアの言葉に肩越しに振り返ると、クライフはそう頷いてあたりを見上げる。

 見上げる――三階建ての建物が通りの左右南北に伸びている。商店もあれば、商館も多い。街の中で南側はいちばん前線から遠い安全な場所という認識があるのだろうか、空気も柔らかく、構えこそ重厚だが人の循環も物の遣り取りも盛んな様子だった。


「さすがにどのように作っているのか分からない建物が多いな。石なのかな」

「木造の骨組みに、乾燥すると固くなる土壁を使っているのかもしれません。おそらく、酒蔵と同じくらいの強度があるはずです」

「レーア、知ってるのかい?」

「ああ、ええと……。ええ、たぶんのだと思います」

「なるほどな」


 すん――とクライフは鼻を鳴らす。

 火に強く、厚さもあって強靱。建築については門外漢だが、彼の目には砦に使われる様式が民間に流用されているようにも見て取れた。ただ、外柱や外壁、軒、庇、そのデザインの数々はさすがに古色蒼然としたシャール独特の匂いがあった。そこまで手を加えられると言うことは、豊かさの表れのひとつなのだろう。


「建物も高いが、外壁はそれ以上だったな。それが周囲をぐるりと囲んでいるのか。……さすがに前線。魔獣魔物と戦うシャールの獅子王子か」


 虎口丘から獅子の瞳までの道中、魔物魔獣の類いとの戦いこそなかったものの、国内での衛士と獣の戦いの報告は商人たちの口から聞こえてきている。北に近づくと増えていると言うことは、いかな獅子王子の布陣でも討ち漏らしなどは致し方がないのだろう。国境線すべてを人で埋め武器を手に目を光らせているような運用も、すべてを厚壁で隔てることも、常識的なものではないだろう。

 やはりシャールは、魔獣魔物の流れ着く土地なのだ。

 その通り道のいちばん太いところにいるのが、獅子王子なのだ。皇帝の信頼厚く力持つ者でなければ外敵に向かう辺境は務まらない。

 質実剛健であったろう街の空気は、それでも華やかさと活気に満ちている。獅子王子だけではない。歴々と続くこの地を守ってきた領主と、生活を重ねてきた領民の織りなす強さと余裕の表れなのだろうか。


「こんな世界も、あるんだ」


 思わず漏れた呟きを自分で耳にし、レーアは口元を塞ぎ仰ぎ見る。クライフは聞こえていたのだろうか、ガランと同じくらいの人混みを見回し、「こういう生き方もあるんだろうな」と、小さく呟いた。


と、思った。それがきっかけで、戦う力を身につけた。護れる力だと信じた。剣で解決できることはあまりにも少なすぎて、いまは故郷は遠く放浪の身。それでも剣でしか解決できないこともあると信じ、こうしてここにいる」

「今も故郷に帰りたいと?」

「それは――」


 この若者にしては珍しく口ごもるので、少女は気を遣うように黙る。しかしクライフはすぐに「ほら」とレーアを周囲の様子へと促す。


「こうしていろいろなものを目にする機会に恵まれた。故郷の国でさえ俺が知らないことに溢れていたけど、知らないことが分かっていくのは楽しいことだと思ってる。帰りたくないといえば嘘になるけれど――」


 この地でやらなければいけないこともできたからね――と、その言葉は飲み込んだ。五つほど年下の少女はそれをキョトンと聞いていたが、もう一度周囲を見、ふと胸に手を当てて数回頷いている。


と思った……でしたっけ」


 馬の首を撫でながら、少女は呟く。クライフがかすかに頷いたのを感じ言葉を続けようとしたが、それでも出てきた言葉は意図したものではないものだった。


「私には無理かもしれないですね」


 私にもできるでしょうかと、そう聞きたかった。しかし諦めの言葉が漏れた。その事実に、彼女自身「やっぱりね」と内心呟く。


「どう生きたいか、それを探すのもいいと思うよ。……この一件が片付いたら奉公に出ることを考えてもいいし、ガランで過ごすのもいいかもしれない。なんなら、海を渡って俺の故郷に行くのもいいかもな」

「手紙でも持って行けばいいのですか? 待っている誰かのために」

「そうだなあ。いや、やめとこう。もう、故郷では死人扱いだからね」


 待っている誰か。

 その言葉に彼の脳裏に誰が浮かび上がったのかは知らない。しかし少女はそんな人がこの剣士にもちゃんといるのだということが嬉しいと感じ、そしてもう会えない事情が根深いのだろうなとも悲しく感じた。

 ふと、手綱を取っている左手でそっと脇腹を撫でる剣士。撫でたことに気がつくと、鞘に手を乗せて苦笑する。


「何か考えておくといいよ。流されてばかりいるとつまらないからね。ああ、そうだ、もっとまわりにわがままをいってもいいと思うよ」

「わがままですか?」

「そう、あの虎口丘のときのように。なんどもなんども飲み込んでるとお腹を壊すんだ、文句ってヤツは」

「文句ですか。……そうですね。っと、クライフさん、あれを」

「ああ、たてがみ亭だな。ということは、あれが宮殿か」


 砦だな、とクライフは足を止めて唸った。

 シズカとアカネが向かった先だ。あの宮殿に、ゴルド獅子王子がいる。建物が開けてやっと拝めた宮殿だが、内堀の先に見えるそれは勇壮可憐な建築、決してこぢんまりとしたものではない。立てこもることもできる、巨大な――。


「いや、城だな」


 クライフは思い直した。これは城だと。なるほど、堂に入った佇まいだと口元が緩む。遠目でもこの大きさ、小さい街なら入るほどだろう。その城も、堀の先に見える城壁で堅牢強固に守られているのが見える。もしこの街を落とそうとしたのならば、外壁、堀、城壁を落とさねばならない。


「いやはや、規模が違うな。とてもじゃないが想像が追いつかない」

「私にはとても。あの、クライフさん。それはそうと、ここ、宿ですよね」


 そう促されて視線を向けると、なるほどレーアがためらうのも頷ける。シズカらが離宮と呼んだのも得心がいった。それだけの規模の一画だった。いかに大きい宿であっても、ここまで大きい一区画をまるごと囲っている物はそうとないだろう。

 看板でそうと気がついたからいいものの、見落としていたら単なる壁の連なりだ。そしてそれを思い至って改めてふたりは見るが、入り口らしき物は見当たらない。


「こっちは、裏手になるのか?」


 そう思ってしばらく歩き水路に行き当たる幅広の通りに出ると、角を曲がった先には数台の馬車が止まるエントランスと、立哨するシャール衛士、そして出迎え係とでもいうのだろうか、数人の臙脂色の服を着た男女が見える。


「なんたる大きさだ。これは離宮というのも納得だな」

「ここに泊まるんですか?」


 レーアはその偉容に我が身を省みる。傭兵然としたクライフはまだしも、ただの町娘が入って良い雰囲気ではなかったからだ。良くも悪くも、敷居は高い。


「エレア殿下が持たせてくれた親書があるから大丈夫だろう」


 この剣士はそれでものほほんとしたものだった。物怖じしないのではなく、勝算があっての落ち着きだろう。


「行こうか」

「あ、ちょっと」


 剣士と二匹に着いていく馬に促されるように、レーアも小走りに追いつく。

 彼らに気がついたのは衛士のひとりだった。馬を曳くクライフが傭兵と見ると、それでも礼に適った手振りで制止する。


「あなたたちは?」


 年若い衛士だったが、その所作に隙はない。クライフは右手で二本の手綱を持つと、左手で腰の荷物入れからエレアの親書を取り出した。「エレア殿下からです」と差し出すと、衛士は少しためらったあとにそれを開く。封書だが、蝋封はされていない。中には滞在中の便宜を図るようにという文言がサインと共に記されているはずだった。

 書面とクライフ、書面とレーアを交互に見ると、衛士は臙脂色の使用人を呼び寄せる。


寄ってきたふたりのひとりに「厩に繋いで世話を頼む」と言伝て、もうひとりにクライフとレーアを案内するように書状と共に促した。

 ふたりは手綱を手渡すと、案内されるままにエントランスをくぐる。レーアはビクビクだったが、ホール内に入るや「わぁ……」と文字通り天井を仰いだ。


「これは」


 クライフも唸った。

 高い天井、貴賓を持て成す離宮というのも頷ける豪華さだった。


「すごく、高そうですよ」

「ん~、まあそうだね。でもよく分からないからなあこういうのは」


 豪華なのは分かる。庶民ゆえレーアにはそれだけしか分からず、クライフには馴染み薄い外国の文化ゆえそれだけしか分からなかった。


「それではこちらに」


 使用人はカウンター越しに、同じ臙脂だがやや位の高そうな制服に身を包む女性に親書を手渡すと、ふたりをそこへと促す。


「ようこそ、たてがみ亭へ」


 一礼して書状に目を落とした女性が、ピクリとその端正な眉を揺らす。その些細な変化にクライフがふと視線を向けると、「失礼しました」と咳払い。そのまとめ上げた髪を撫で落ち着くと、ふたりに「承っております」と金属製の鍵を二本、そして宿帳を差し出す。


「お名前をこちらに――」


 そうペンを差し出す彼女に引き気味なレーアだが、文字が書けないというわけではないだろう。クライフはそれでも自分から筆を執ってふたり分の名前を書き記す。


「クライフ=バンディエールさま、それにレーアさまですね」

「ええ。それで、承っていたとは?」

「殿下――ゴルド殿下より、エレアさまの近衛おふたりと、護衛の傭兵がいらっしゃるということは承っていました」


 ちらりと伺うレーアは使用人と見たのだろう。使用人は人数に数えないこともある。だが親書があれば使用人とて無碍にしないのは格式の裏付けが伺える。


「それで二部屋か。……近衛はそれぞれ別の個室で?」

「左様にございます」


 受付の女性はそう頷いた。


「となると各自個室、か」


 自分はともかく、レーアが個室となると、監視の名目が立たない。さてどうするかと思いあぐねていると、ひとつの手が鍵を掴む。


「レーア?」

「あ、あの。その、わがままを言ってもいいでしょうか」


 彼女はもじもじとしながら、荷物を抱く。


「あの、その……。旅の道中はみなさん一緒でしたし、その……」


 どうしたものかと首をひねるクライフだが、見かねた受付嬢がコホンとひとつ咳払い。


「お客さま、使用人といえども他人であるなら男女同室は厳禁でございます」

「ああ、なるほど」


 そこでようやく思い至った。

 男女が同じ部屋で過ごすのは道中ならば仕方がないが、こと滞在となれば、そうはいくまいということだった。

 考えてみれば、確かに当然の配慮だろう。

 洗濯もあれば着替えも入浴の問題もある。


「お願いします」


 レーアに懇願されれば、わがままをもっと言えと言った手前、頷かざるを得ない。彼女とて、自分の立場は分かっている。それでもなお、男と切り離された空間は欲しいらしい。

 その事情を知らぬ受付嬢も、視線が厳しくなってくる。


「仕方がないな。とりあえず、部屋に行って休もう。あとのことは、シズカたちに聞こう」


 嬉しそうなレーアの表情を見れば、まあこれでもいいかとクライフも苦笑する。彼はもうひとつの鍵を掴むと、頷く。


「では部屋にご案内いたします。こちらへ――」


 受付嬢が出てくると、荷運びの部下をふたり呼んでクライフらの手荷物を運ばせる。こういう場所では、運ばせるものだということまではふたりとも知っていた。


「さて、まずは一息つこうか」

「はいッ」

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