ガスマスク

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ガスマスク

 微かだが、足音が聞こえる。暗い夜道。電灯が照らす間隔は頼りない。時折聞こえる押し殺したような息づかいは、付かず離れずして耳の中へと忍び込んでくる。若い女は恐怖に怯えながら歩いていた。周りに人気はない。それどころか人の温もりを感じる人工物ですら影を潜める心細い田舎道。都会とは思えないほど静かだった。

 段々と歩くスピードを速めているのに、後ろから聞こえてくる音は、振り切れない。女は無我夢中で駆け出した。後ろからは激しい靴音と荒い息づかいが追いかけてくる。疑いは確信へと変わった。女が後ろを振り向くと、顔面にガスマスクを着けた恐ろしい男が追いかけてくるのが見えた。その異常な光景は、女の顔を恐怖でひきつらせるのには十分過ぎるほどだった。

 柔らかそうな太股が時折電灯の下に怪しく照らされる。女はミニスカートの丈も気にせず、細い足を露にして逃げた。全力で走る。だがしかし、ヒールでは勝ち目がなかった。女は哀れにも後ろから来た何者かによって、肩に掛けられたハンドバッグを乱暴に絡め取られる。

 女は悲鳴を上げた。だが、その悲痛な叫び声は誰にも届かない。くぐもった荒い息づかいが女の耳元でする。女は激しく抵抗して身をくねらせた。その拍子に衣服が乱れ、女の肌が露になる。

 「いや、やめて! 離して!」

 女の目から涙がこぼれ落ちた。

 「ハ…ハン…」

 ガスマスクから異様な声が漏れる出る。

 「いや、いやぁぁああ!」

 女は尚も激しく抵抗を続ける。だが、ガスマスクの男が女の両肩を掴んで真正面を向かせると、あまりの恐怖で、女は両の目を見開いて固まってしまった。そして、ガスマスクの男は突然、懐から布切れを取り出して言った。

 「ハンカチ落としましたよ…」

 「いやぁぁぁぁぁぁぁあああああ!」



ちょうどヒールが脱げた女は、恥じらいを捨てた猛烈なダッシュで駆け抜けていった。女はいつだって本気では走らない。だが、本気で走れば男だって振り切れるときは振り切れる。ただ、そんな本気ダッシュする女の姿は出来れば見たくないものだ。ちょっと引く。どんなに可愛くてもちょっと引く。男とはそう言うものだ。

 しかし、この男にはそんなことはどうでもよかった。現にそんな女の本気ダッシュ、風に逆らう逞しい走り方なんか見てもいなかった。

 「なんで、なんで…いつもこうなるんだ…」

 ガスマスクからは情けなさ半分、悔しさ半分と言った惨めな声が漏れていた。彼のこの声。この情けない声には、表層から見て判断したのとは、また違った別の意味がある。

 傍目から見ると、マヌケな犯罪者が獲物である女性を逃がしてしまって悔しい。そう見えるはずだ。そう見えないと言う読者諸氏、自分は奇抜な考えの持ち主なのだと自負してもらいたい。

 実はこの男、可哀想な男なのである。だが、この男の話を読む上で、読者諸氏には心得てもらいたいことが一つある。

 この話をあまり深く考えないでいただきたいのである。だから、あえて言わせてもらう。細かいことは考えないに尽きる。その方が人生楽しめるし、私も安心して筆を走らせることが出来る。双方良いことずくめだ。なので、その件、平にご容赦願いたい。と言うことで、続きを書く。

 この男はなぜ可哀想なのか。それは簡単だ。ガスマスクが取れないのだ。文字通り取れない。いつからだったか忘れたし、理由も忘れた。とにかくある日この男はガスマスクを装着したのだ。そして、その日からリアルダースベイダーな日々が続いている。ずっと続いている。

 それだけなら何だか楽しく、オリジナルティーに溢れた素晴らしい人生のように思えるかもしれない。だが、想像して欲しい。ずっと取れないのだ。ずっと着けっぱなし。アホだ。

 投げっぱなしジャーマンと言う投げやりな名前のプロレス技があるが、そっちはまだ、技の危険度が凄いから何だか危なっかしい。だから格好良く聞こえる。響きがだ。男とは危ないものに格好良さを多々見出だす生き物だ。だからこのプロレス技は格好良い。少なくとも着けっぱなしガスマスクなんかよりは数倍、いや数十倍、いや、数百倍かもしれない。比較するものが、ものだけに、どこまでいけばいいのか判断に困った。

 だが、言ってみれば、この着けっぱなしガスマスクだって危険度で言えば中々のものだ。

 朝、目を覚ます。どんなに疲れていても自分の寝息で熟睡できない。これは危険だ。睡眠障害と言っても過言ではない。原因は精神的なものでも、肉体的なものでも何でもない。ただ、ガスマスクが取れないからだ。医者はこう言うだろう。


 「取れ」


 シュコー。シュコー。

 しかし、いかんせん彼の顔はガスマスクに大層気に入られているので取れないのだ。もし筆者がそんな状況に追いやられたら、絶対に長生きは出来ないだろう。だから危険だ。

 しかし、何よりも危険なのは、寝れないことでも、固形物を摂取出来ないことでも、誰にでもニコヤカに挨拶する近所のおばあちゃんから、一人だけ冷めた目で見られることでも何でもない。

 真に危険なのは、この見た目故、人から危険人物だと誤解されることなのだ。

 読者諸氏は、そんなことどうでもよい、と言うかもしれない。ぶっちゃけ、地味におばあちゃんからの冷めた目が一番キツいと思うかもしれない。

 だがしかし、この男にとっては、おばあちゃんの視線よりも何よりも、こっちの方が一大事なのである。なぜなら、彼は人一倍、病的なまでに、神懸かってるレベルで、人に対して親切な人間だったからなのだ。

 「あぁ、…このハンカチどうしよう」

 ガスマスクの男は懐から取り出したハンカチを手に、途方に暮れていた。

 「結局、渡せなかった。しかし、結構遠くまで来ちゃったな」

 ガスマスクは人通りの多い駅前で拾ったハンカチを中々タイミングが合わず、落とし主の女性に渡せないでいた。だから、ついつい後を付けて歩き過ぎてしまったのだ。女の人からしたら本当にいい迷惑だったろう。この男の悪い癖で親切なくせに、極度の恥ずかしがり屋なので一々行動が面倒くさくなる。

 「ちょっと怖いけど、早く帰りたいしな…」

 薄暗がりの中で呟いた。

 この男の家には鏡がないわけではない。むしろ、毎日出掛けには身だしなみチェックは欠かさない方だ。

 「ふぅ、こんな夜中に神社の中なんか歩くもんじゃないや。怖すぎるよ」

 もう一度言う。この男の家には鏡がないわけではないのだ。毎日身だしなみチェックも欠かさずしている。

 男は身体を小さくして、境内の中を歩いていた。中々に大きな神社だ。夜風に大木がこそばゆい音を立てる。男は何度か石畳に足を取られそうになった。その度に恥ずかしがり屋の習性で、なぜか周りを見渡す。謎な習性だ。ポケモン図鑑に登録されたら説明文に利用できそうだ。秀逸なものになるだろう。そんなことはさておき。

 ガスマスクの男が耳を赤くしながら歩を進めていると、急に石灯籠の陰から声がした。

 「もしもし」

 変に間延びした声だ。老人のような嗄れた声がガスマスクの男に声を掛けている。

 「だ、誰ですか!?」

 ガスマスクの男は恐怖に身を縮めた。

 「ワシはこの神社の神主」

 「す、すいません。ここ近道になるんで、つい…」

 ガスマスクの男は石灯籠の陰の方へ頭を下げた。

 「いや、いや、別に咎めるつもりはない」

 石灯籠から出てきたのは、狩衣を着た背の曲がった小柄な老人だった。こんな夜中だと言うのに律儀に烏帽子を被っている。

 「ワシはここにずっといるんでな、お前さんのような奴は初めてで、つい話しかけてしまった」

 「そうですよね、こんな夜中にこんな格好で、ほっつき歩いてたら…」

 「なぜそんな格好をしているのだ?」

 老神主は面倒くさかったのか、大分省略してガスマスクの男に尋ねた。だが、嫌味に聞こえなかった。さすが神主。あんまり関係ないかもしれないが、さすが神主。

 「いや、これはその…」

 この答えようのない質問に対して、ガスマスクの男が、人生の中で幾度となく繰り返してきた無駄な言葉の推敲作業に着手していた頃だった。近くの茂みが突然揺れた。

 「やい、やい、お前! そこのお前だよ!」

 そこのお前が気付いているのか、いないのか。そんなことはお構いなしに、確認もしないで言葉が投げつけられてきた。

 「え、誰ですか!? 私のことですか!?」

 ガスマスクの男が怯えた声を上げた。縮こまって自分の両手を握りながら、老神主を見つめている。若干だ。ほんの若干だが、老神主が吹き出しそうになっていた。やはり神主は凄い。

 「どうやら違うようだぞ」

 笑いを堪えたような老神主の声が、ガスマスクの男の耳に入った。

 「おい、あり金全部出しやがれ!」

 茂みから出てきたのはガスマスクを被った男だった。紛らわしいが、別のガスマスクを被った男だ。今、老神主の前で縮こまっている方のガスマスクではない。

 「流行ってるんか?」

 素っ頓狂な言葉が老神主の口からこぼれ出た。きっと烏帽子を被りすぎているからだ。きっとそうだ。だが、素っ頓狂なのは老神主だけではなかった。両手を握りながら目を瞑ったガスマスクが呟いた。

 「何のこれしき…」

 わけがわからない。これは完全にガスマスクを着けすぎているせいだ。これは疑いようがない。

 ガスマスクの男のちょうど真後ろに、新手のガスマスクの男が陣取っている。よって、初代ガスマスクは未だ、真後ろの男が何者なのかわかっていない。ただ、身の危険が迫っていることだけは気付いていた。

 「おい、こんだけデカい神社なんだ。ため込んでんだろ? さっさと出しやがれ!」

 神社に強盗に入るとは、新手のガスマスクも中々のクレイジーだ。ガスマスクとはそう言う効果があるのだろうか。だがやはり、着けている年季が違う。まだ、ほんの一、二分しか着けてない者には出せない狂気がそこには待っていた。

 「落としたハンカチ断られたことあんのかぁぁぁぁぁあああああぁ!」

 絶叫だった。振り返りざまの絶叫だった。意味がわからない言葉と、思いも寄らぬバッティングの協奏曲。新手のヒヨッコでは太刀打ちできるはずもなかった。

 「おぅ…」

 新手のガスマスクから気の抜けた声が漏れた。目の前に自分以外のガスマスクがいたのだ。仕方がない。だが、それは初代も一緒だった。

 「お、おぅ…」

 お互いの驚愕がぶつかり合って、萎むと言う現象に見舞われた。変な間が空く。

 「あれ…、あんたもですか?」

 新手が恐る恐るベテランガスマスクに尋ねた。

 「え、あなたも!?」

 ベテランガスマスクは、百年来の知己に巡り会ったかのように晴れやかな顔になった。残念ながらマスクの上からでは、その雲間が晴れていく神秘的な瞬間は見ることが出来なかったが。

 「え、まぁ…」

 ベテランのあまりの反応の良さに、新手の方は首をかしげていた。マスク越しのくぐもった声からでも、ベテランガスマスクの喜びようが伝わってきていたからだ。

 「そっか、私以外にもいたんですね。感激だ」

 ベテランガスマスクは、マスクを押さえながら下を向いた。恐らく目頭を押さえるジェスチャーた。無駄に芸が細かい。

 だが、その感情に嘘はないのだ。この男はずっと孤独だった。馬鹿らしい見た目に反して、辛い過去がいくつもある。

 同じ境遇の仲間がいた。それだけで過去の苦労が飽和していくほど嬉しかったのだ。

 「いや、でも獲物が被っちゃったら嫌じゃないですか。一緒だと折半になるし」

 「獲物?」

 新手の冷静な返しだった。明らかに噛み合っていない。ベテランガスマスクは腕を組んで片手だけマスクの吸収缶に手を当てていた。考えるときのジェスチャーだ。あえてもう一度書きたい。無駄に芸が細かい。

 「もしもし?」

 またも間延びした声で、老神主が割って入ってきた。

 「はい?」

 ベテランガスマスクが聞き返した。

 「お前さんは強盗かい?」

 「何言ってるんですか? 強盗なんかしませんよ。強盗はこっちのお兄さんですよ」

 ベテランガスマスクが新手の方を指さした。

 「え、あれ?」

 新手が混乱していた。

 「え、どう言うこと、あれ?」

 かなり狼狽している。ガスマスク着用者二名は、二人ともお互いに狼狽していた。左右をチラ見してキョドっている。それを老神主が冷静に刮目している。深夜の境内。かなりシュールだ。

 「え? あなたもガスマスク外せなくなった…感じ、ですよね?」

 「いや、外せますけど」

 さも当然と新手の言葉が口からこぼれた瞬間だった。

 「この嘘つきが!」

 ベテランガスマスクが、いきなり手刀で新手の吸収缶を叩き折った。

 「これで息できないからね! 本来なら毒ガス吸ってるところだからね!」

 ちょっと得意げだった。長年装着したことによりガスマスクにおける無駄な雑学が増えたようだ。本当に無駄だと思う。だが、このときだけは役に立った。

 「ち、ちくしょう!」

 新手のガスマスクは、なぜか退散した。なぜかはわからなかった。だが、もし筆者も同じ立場に置かれることがあったら絶対退散しただろうと思う。とにかく、帰ったら彼は眠れるのか、それだけが心配だ。

 そんなことは置いておくとして、とにかく深夜の神社に訪れた危機は虎口を脱したのだった。


 ベテランガスマスクは、境内の外れの茂みをしばらく眺めていた。その背中は妙に悲しげだった。

 「お前さん、それ外せないって、どう言うことだ?」

 老神主が曲がった背中をさらに前のめりにさせて、ガスマスクに尋ねた。

 「いや…」

 ガスマスクの男は、またも無駄な推敲を重ねようとしたが、折角見つけた同志が、一瞬で消えてなくなったことによる心のショックは予想以上に大きかった。

 「そんなわけないじゃないですか。冗談ですよ。ハハ…」

 ガスマスクから力の抜けた声がした。

 「若者よ。そう肩を落としなさんな」

 老神主はガスマスクの肩に手を置いて言った。

 「ワシも、かれこれ三十年」

 老神主は烏帽子を指して笑っていた。



                 END

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