夢の汀で (3)

 新しきいとし子、アズライト・メイヒェムの就任に伴う、先代アンバー・メイヒェムの退任劇は、少しの笑いと、醜悪な思惑が入り乱れた混沌と混乱を神都にもたらした。いや、以前から渦巻いていたものが表面化したと言うべきか。

 交代劇の舞台に放り出されたアンリは、災禍の中心で様々な役を演じる羽目になり、疲れ果てて夢も見ず、泥のように眠りに沈む日が続いていた。

 冬の大祭以降、神都は真っ二つに割れていた。神職と青服とにである。

 職務が違う両者は、もとよりぶつかりがちであった。魔物の討伐に参加した青服は、勝利に大きく貢献した精霊の力をまんざらでもないと言い、後方に控えていた神官を腰抜けだと嘲笑した。一方で神官は、精霊の術に誑かされているのだと青服を非難した。

 青服たちは精霊、半精霊との融和を掲げるアズライトがいとし子の座に就くことを歓迎したし、神官たちはまだ若すぎると就任を先延ばしにしようとした。平行線である。

 たいへん面倒なことに、大祭で若き王を庇ったことが盛大な尾鰭背鰭、余計な手足までつけて吹聴されており、アンリはアズライトの腹心と呼ばれるようになっていた。お陰で、西へ東へと吹き流しのごとく奔走させられている。

 大司教の地位と親精霊の立場から、両者の調停と利害の調整、揉め事の仲裁から雑用まで、ありとあらゆる用件を消化するために、朝から晩まで神殿中を走り回り、アスタナ叔父からは裏切り者と罵られる。かと思えば、名前も知らぬ青服からさすがウォレンハイドだと尊敬の眼差しを向けられ、気の休まる暇がない。

 アンリは神都神殿を支える多くの者と言葉を交わし、時には茶を浴びせ合い、皮肉と嫌味とお愛想の応酬に明け暮れた。剣を抜く寸前までこじれることもしばしばだ。

 僕は何のために、誰のためにこんな苦労をしているのだろうか、と茶卓を投げ飛ばしたくなる。

 この奔走をどこ吹く風と、アズライトが傍若無人な振る舞いで反感を買い、無茶な要求を述べて、せっかく支持を得た大人たちを怒らせるのは日常茶飯事だったのである。その後、詫びに向かうのが誰かは言うまでもなかろう。


「いい加減にしろ! どうして僕がお前なんかの代わりに!」

「はあ? お前なんかってどういうことだよ!」


 ひとたび声を荒らげると売り言葉に買い言葉、殴り合いにまで発展しかけるのだが、ふと思い立って、アンリたち姉弟が世話になった家庭教師をアズライトにつけると、これが存外効いた。よく躾けられた猟犬のごとき老教師は彼のお気に召したらしく、態度が目に見えて改まったのである。

 性格が改まったわけではないので、苛烈さや直情径行は健在だが、彼が癇癪を起こすまでにほんの一拍でも考える素振りを挟むようになったことは、動向を見守る者たちにもよい心証を与えた。

 物事の中心に立つ機会のなかったアンリは、客観的で冷めた視点をいつの間にか身につけていた。意見の異なる両者の言わんとすることは何か、互いが求めていることは何か、その障害となっているのは何か、話を聞けば漠然と掴めるのだ。それが調停に立つ者にとってどれだけ有利か、身をもって知った。

 現在、神都で大きな問題とされていることは三つある。

 ひとつ、いとし子はアンバーなのか、それともアズライトなのか。

 ひとつ、アーレクス・ウォレンハイドの扱い。

 ひとつ、精霊への対処。

 他にも細々とした問題が山と積まれているのだが、今後の神都の在り方を左右する大問題はこの三つに要約される。

 ひとつめ、アンバーとアズライトのいとし子問題については、当人たちで解決すればいい話である。アンバーが頷きさえすれば、長老達は従うだろう。

 冬の大祭以降、アンバーが息子を見る目はすっかり変わった。以前の、書き損じの紙屑を見る視線ではなく、自らを脅かす者として対抗意識を燃やしている。アズライトからすれば、ようやく同じ舞台に上がれたというところだろう。誰が何と言おうと親子喧嘩に違いないのだから、最終的に落としどころを見つけるのは当人たちでなくてはならない。

 正直なところ、アンバーがいとし子であろうとも、アズライトがいとし子になろうとも、どちらでも構わなかった。アンバーがどれほど巧みに人心を掌握していたかはアンリ自身よく知っているし、実質、彼を裏切った身からすれば、色違いの視線がちくちく痛みもする。

 けれど世代は交代するものだとも思うし、アズライトの溌剌とした物言いは小気味良く、神都という魔物をすっぱり切り裂く潔さと真っ直ぐさがあった。それが若さゆえであるのは誰もが承知していたが。

 ふたつめ、アーレクスの扱いに関しては宙に浮いている。いとし子を巡っての混乱で、それどころではないのだ。

 鳥型の魔物に腹を食い千切られた兄はあの光の中、半精霊の力でメリアに脱出を果たし、民家に身を寄せているらしい。メリア神殿とは連絡を絶やさぬようにしているが、良い報せはまだ来ない。

 兄はいったい何を望むのか。改革か、それとも流浪か。予想がつかないうえ、神都が何を言おうとも、受け入れがたいことであるならば彼はそれを拒否し、あるいは無視し、振り切ってどこへでも行ってしまうだろうし、必要だと感じれば何も言われずとも戻ってくるだろう。アンバーの暴走を止めに来たように。

 神都に戻った彼は、ほぼ二十年にわたる不在にも拘わらず、鮮やかな手際で皆の信頼を勝ち取った。あの手腕と剣の実力をもってすれば、十分に青服たちを、女神教を率いていけるだろう。指導者たるいとし子を野放しにするのも体面が悪い。

 けれども、なぜ神都に戻って大祭で軍を率いたかを考えるに、その理由である半精霊を切り捨てて、単独で神都に戻ってくるとは思えなかった。

 もし仮に、ふたりの間に子どもができていれば? マジェスタットの路地で抱き合っていたふたりを思い出すだけで赤面する。あいつは半精霊が女だと知ってあんなことをしていたのか。

 半精霊の子は精霊を招くのだろうか。兄も精霊に関わる力を持つわけだから、半精霊よりも強力な精霊の加護を得る? 女神の子なのに?

 しかし、兄の子は自分から見れば甥、あるいは姪だ。この自分が、叔父と呼ばれる日が来るのだ。僕が、叔父さん? 何だって? 疑問符が踊り狂い、アンリはうんざりして髪をかき回した。きっと疲れているから、こんなどうでもいいことを考えてしまうのだ。僕には関係ない。断じて。

 何にせよ、みっつめ、精霊の扱いに関してはいとし子の考えに依存する。アンバーが今しばらくいとし子の座に在るなら現状のままだし、アズライトが椅子を奪うのなら方針は一変する。

 こちらも、アンリにとってはどちらでもよかった。精霊や魔物は神都に立ち入ることができないし、魔物はともかくとして、絶対数の少ない半精霊との遭遇に備える意味がどれほどあるだろう。

 つまり、アンリにできるのはメイヒェム父子の利害調整のみであり、突き詰めて言うならば、いかに穏便にアンバーに退位を迫るかであった。


「何でこの人たちは、自分が優れてるって思ってるわけ? 二家だなんだって威張り散らしてるけど、みんなと同じじゃないか。何が違うのさ。そうか、馬鹿なの? 馬鹿なんだね?」

「馬鹿馬鹿言うな、馬鹿」


 幼さに由来する潔癖さで、アズライトは様々なことに怒りを爆発させた。日和見する長老たち、二家の形骸化したしきたり、慣習、強固な優越感。

 かつての自分をすべて否定され、貶されたようで苦く思うこともあれど、大方において少年の怒りは正当なものだった。が、正論をぶつだけでは為政者にはなれない。

 為政者として必要な素質、求められる要素とは何だ。自分ならばどんな人間に従いたいだろうか。誰が王であれば心安く暮らせるだろうか。

 いくつかの顔を思い浮かべる。ク・メルドルの国王やカヴェの街長、レイノルド、アンバー、姉、そして兄。

 どれもぴんと来なかった。そもそもアンリは暮らしに不自由や不満を覚えたことがなく、政治に望みを抱いたこともなかった。

 この豊かさの所以を考えると、神都二家に生まれついたためであり、それははるか祖先のアースラ・ウォレンハイドの神都建造にまで行き着く。更には女神がこの世界を創造したからということになり、論点はずれ、焦点はぼやける。

 今更ながらに己の無知を思い知った。いとし子の座を巡って争うアンバーとアズライトの調整を行っている身でありながら、他地域の政治の仕組みを何も知らないなんて。

 自分が目まぐるしく立ち回っているのは、立ち回れるのは、ここが神都だからだ。

 神都が特殊であるからと甘えていては、じきに人々は神都を見限り、女神教からも目を背けるだろう。神都二家が偽った歴史ではなく、真実を女神教は語り継がねばならない。現状の混乱も含めて。

 このままではいけない。神都はもっと開かれるべきだ。魔を払い、女神の末裔を抱く街として精霊を受け入れ、正しく歩むために。

 貿易で富むカヴェ、優秀な職人たちが腕を競うマジェスタット、世界中の知識が集う学問の都。大都市はそれぞれ他にはない特色を持ち、栄えている。神都は各都市に劣らぬよう、女神が為したことや過去の歩みも過ちも伝えてゆかねばならない。神都が生き残るには、それしかなかった。

 人を招き、あるいは留学させる。人が動けば金が動く。経済が回れば神都は豊かになる。学術交流や青服たちの選抜試合もいいかもしれない。

 素人の考えることだから穴は多くあるに違いない。そもそも考えが大雑把で楽天的に過ぎるだろう。けれど。

 神都には人が足りない。中枢に近づくほど家名や権力に寄りかかる者ばかりで、神都の外を知らないときている。致命的ではないか。

 不意の焦りが動悸を速めた。自分ひとりが考えを改めたところで到底追いつかないことではあるが、何もしないよりはましだ。


「落ち着いたらでいい。学問の都に行きたい。勉強しに」


 アズライトに申し出ると、彼は眉を上げ、そっぽを向いた。


「あんたが行く必要はないじゃないか」


 声は明らかに拗ねている。こちらの言い分と必要性、正当性を認めてくれたがゆえだろう。しかし、あまり気分を害されても困る。


「今すぐってわけじゃない。あんたがいとし子になって、ちょっと状況が落ち着いてからだ」

「わかってるよ。このままじゃいけないって、あんたも思うんだろ?」


 まあね、と肩を竦めると、椅子に腰かけている少年も弱々しく笑った。十分にわかっている、という表情だった。

 彼なりに気を張っているのだろう、大祭のあとぐっと痩せた。アンリも決して筋骨隆々の体格ではないが、彼は華奢で肩幅も狭く、腰など折れそうに細い。まるであの半精霊のようだ。夜に見た裸身は、日々の雑事に追いやられて遠い。


「わかったよ。ぼくは別に、あんたのご主人ってわけじゃないし。好きにしなよ」

「……すまない」

「いいって」


 気まずい沈黙が落ち、それを振り切るようにアズライトは蒼い眼を細めて笑った。


「頑張らないとなぁ、ぼくも」


 いかなる手段を用いたか、その明くる日にアンバーはいとし子の座を退くことに同意した。

 新しき神都の王、アズライト・メイヒェムの誕生である。




 アズライトのいとし子就任に、神都は沸き返った。人々は新しく服を誂え、紙吹雪を散らして食料庫を開け放った。朗らかに活気を増した街は、春を迎えたかのように陽気だ。

 その賑わいも神殿までは届かない。少年王を取り巻く有象無象が一様に愛想笑いを浮かべ、お世辞を絶やさぬさまを見ていると、この椅子に座るのは誰でもいいのだなと呆れるばかりだ。

 一気に老け込み、覇気を失いながらも、アンバーは神都を陰から支えた。神都を開き、正しい歴史を伝えていくと宣言したアズライトの方針には頑として反対を貫いているが、今までろくな会話も交わさなかった父子なのだ。十分に意見を戦わせればよかろう。新たな良案が生まれ出るかもしれない。

 着任の行事が滞りなく終わるや、アズライトに婚姻の話が持ち上がった。神都二家に連なる者を妻として迎えよというのである。

 この手の話になればもちろん、誰もが親族の娘を推挙する。場は紛糾し、いとし子云々で揉めた時よりも白熱した。

 この情熱をどうして神都を良くする事柄に注げないのか。アンリが怒りの拳を握ったとき、朗らかな笑い声があがった。


「あははははは!」


 アズライトだ。腹を抱え、涙を浮かべ、椅子からずり落ちながら笑っている。

 水を打ったように会議室が静まり、誰もが頬を引きつらせた。ひとしきりひいひいと笑った新王は、澄み切った空色の眼に清冽な光を浮かべて宣った。


「お前たち、何を考えているんだ? 妻を娶るって、いったい誰の話? わたしに必要なのは、よき夫となる男性だぞ?」


 呼吸する音さえ聞こえない。時間までもが凍てついた閣議の間で、王者のまなざしが一同を睥睨する。


「なあ、アンリ?」


 どうして僕を呼ぶ。僕だって初耳だぞ!

 問い質せぬままにぎこちなく頷くと、してやったりと笑っている彼―彼女の肩越しに、アンバーが見えた。神都を閉ざし、君臨せんと企てた男が、顎が外れんばかりにぽかんと口を開けている。

 こみ上げてくる衝動をこらえきれずに、アンリもまた、声をあげて笑った。

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