それぞれの理由 (4)

 アンリ・ウォレンハイドは困惑の只中にあった。

 かつては、自分はどう生き、何をなすべきかなどと悩み迷うことはなかった。道は常に目前にあり、道がなければ誰かが切り拓き、均し、馬車を用意してくれたからだ。

 しかし今、どこもかしこも見渡す限りの霧だ。まっすぐな道なのか曲がっているのか、ぬかるんでいるのか、険しいのか易いのか、そもそも道があるのかすらわからない。

 叔父のアスタナから、大司教への昇格を打診されたのは夏を迎える頃だった。

 試験とは名ばかりの質疑応答があるが、ウォレンハイド本家に連なるアンリは合格したも同然である。長姉のアレクシアに比べると遅い昇格だが、遂に大司教の長衣を身に纏う日が来たと、舞い上がる心地だった。

 大司教になれば、レイノルドと並ぶ権力が手に入る。これ以上、あいつに勝手はさせない。

 レイノルドは副官のユーレカを抱き込んで、何かを企んでいる。石卵への異常な興味と執着からするに、およそろくでもないことを考えているのに違いなかった。恐らくは、ク・メルドルの復讐。

 不愉快極まりないが、その企みをもってして、女神教への翻意ありと訴え出るにはあまりに証拠が少なすぎた。

 独断の一方で、彼がカヴェの治安維持と改善に貢献しているのは確かなので、罷免するとなれば青服をはじめ街中から顰蹙を買い、これまでに築いた均衡がたちまちにして崩れ去るだろう。商人たちが幅を利かせ、手形や金貨が飛び交う港湾都市において、女神教の力は決して強くない。

 では、他に何を望む? 何を選ぶ?

 幼い頃からずっと目を逸らし続けてきた問いは今も、胸中深くに沈んでいる。僕は何をしたいのだろうか。何になりたいのだろうか。

 歳の離れた姉に可愛がられていた頃は、大神殿を治める姉の補佐をするのだと無邪気に考えていた。人の上に立って指揮を執るより、支配者の影に寄り添うほうが性に合っていると自覚はあったのだ。

 誰よりも努力家で、優秀な姉。

 本家を背負って立つ使命を放棄し、騎士道やら剣術やら、下らぬものに入れ込んだ挙げ句、半精霊に誑かされ、ク・メルドルを滅ぼすに至った兄。

 良くも悪くも神都中枢の目を引いた姉と兄に比べ、アンリはあまりに平凡で、取り柄がなかった。

 アーレクスがどれだけ傍若無人な振る舞いに及ぼうと、女神の子としての素質を見せたために勘当される事態にならなかったのは、皆にとって不幸なことだった。いちばんの不幸は、出来の良い姉が命を落とし、取り柄のないアンリと奔放なアーレクスが生き延びたことだろう。

 ク・メルドルを壊滅させたのが石卵であることは、神都の中枢に座する者からすれば自明であるが、その存在を知らぬ者がどれほど調査を重ねても、大都市を一夜にして廃墟に変えた原因を突き止めることはかなうまい。

 アーレクスは世を儚み、半精霊と共に命を絶ったとばかり思っていたのに、何もかも忘れたなどとぬかし、のうのうと姿を現した図太さに、怒りで目が眩む。

 あらゆるしがらみを消し去り、自由を得たつもりか。所詮は、女神に飼われた犬に過ぎぬくせに。なぜ信心深い姉が死に、あいつだけが生き延びたのだ。

 アンリは幼い頃から、自由奔放でわがままな兄を嫌っていたが、カヴェでの再会以降はますますその思いを強めた。手放した石卵だけでなく、贄たる半精霊まで手に入れた兄。世界が彼を卵の行使者たれとお膳立てする、それこそが女神の力を受け継ぐ者の器量なのか。

 神都二家に縁ある者としては型破り、かつ常識外れだった男はしかし、生命を賭せるものを持ち、愛を捧げる相手も、心を許せる仲間もいた。剣に秀で、人目をひく華やかさを備え、激しく、鮮やかな火花のごとき存在。

 それに比べ、アンリときたら!

 何も持たず、誰からも期待されず、勧められるがままに神職を得てレイノルドの監視役となり、また神都に戻されて大司教の位を与えられる。敷かれた道こそが進むべき道だった。犬はどちらだ?

 大司教に昇格すれば、こんな悩みも迷いもすべて、夢であったかのように消え失せるのか。

 まさか、と冷笑する自分を否定できないまま久しぶりに訪れた神都は、ずいぶん様子が変わっていた。

 傲然と横たわる白亜の神殿はひっそりと静まり、息を潜めている。

 街の周辺に魔物が集まっているのだ、と案内役の神官は言った。神都を包囲するのみで動きはないが、続々と増え、その目的はいまだ不明らしい。

 青服たちはどうした、討伐隊は出ないのかと尋ねたアンリは、笑顔で放たれた「否」に絶句する。


「アンバー様には、きっと深い考えがおありなのですよ」


 神官はうっとりと答えたが、同調する気にはなれなかった。レイノルドならば直ちに討伐隊を編成し、むしろ自らが先頭に立って魔物を狩りに行くだろう。

 魔物は人の街を襲わない、というのが通説だが、カヴェは過去に魔物の襲撃によって大きな被害を受けている。また、魔物の横行は流通に悪影響を及ぼすとして、何をおいても排除するのが常だった。

 魔物との間にあるのは壁一枚きり。それでもアンバーの全てを信じ、楽観できる暢気さが信じられなかった。もしかすると明日、いや、今すぐにも襲ってくるかもしれないのに。

 誰もが彼を神都の王と褒め称え、全幅の信頼を寄せる。魔物など恐るるに足らぬ、と。磐石の支持を彼が望んでいるのは知っている。だが、皆が寄せる期待と信頼の重みに神都の王は耐えられるのだろうか。

 言葉にできぬ危機感と不安を抱えたままアンバーと再会したアンリは、またしても驚愕することになる。


「久しぶりだね、アンリ。実はもうすぐ、ここにアーレクスが戻ってくるんだ。うまく記憶が戻ったようだ」

「ア……兄が、神都に」


 あいつがここに向かっているとは、どういう心境の変化だ。罠か。あの半精霊に唆されて、良からぬことを企んでいるのでは?

 滅びの日以降、アンバーが兄の生存を信じて、秘密裏に捜索を進めていたことは知っている。だからこそカヴェ神殿に石卵が預けられたのだし、こそこそと嗅ぎ回るレイノルドを出し抜いてアーレクスは卵を手にした。神都の思惑通りに。


「そうなればアーレクスもいとし子の名乗りを上げることになる。きみも励みたまえ。もうすぐ冬が来る」

「大祭、ですか」


 一年で最も夜が長い日、女神の力が最大になる冬の入日に、女神教の祭りが行われる。

 入日の大祭、もしくは冬の大祭と呼ばれるその祭りでは、翌年の恵みを祈り、今年の平穏を感謝し、日の出から日の入りまで火を絶やさず、楽曲が奉じられ、酒が振る舞われる。


「そうだ。それに、アズライトも今年で十五だから、そろそろ公の場に出てもらわねばならん。祭りは盛大なものになるだろう。魔物のことで不安もあるだろうが、気を強く持て。魔物は私がいれば抑えられる」


 身を翻したアンバーを見送った。これまで呼吸するように口にしていた追従がひとつも浮かばない。

 アンバーも勉学を重んじる神職である。武芸に秀でているとは言えない。それなのにこの自信は何だ。年に一度の祭事だとはいえ、魔物に囲まれている状況で大祭を催すなんて、正気とは思えない。アズライトのお披露目も兼ねてと言うが、祭りの最中に魔物が襲ってきたらひとたまりもなかろう。

 自分が臆病で内向的な自覚はあるが、それでも人々の落ち着きようは異常だと思えた。

 生まれ故郷である神都で寝起きすることに抵抗はなく、不便もなかったが、ここは自分の知る神都ではないと少なからず戸惑いを覚える。あるいは、変わったのは自分自身なのだろうか。

 アンバーは、政敵として水面下でぶつかりあってきた二家を和解させ、神都の繁栄のための協調を説いた。以降、対立は鳴りを潜めている。

 ウォレンハイドは一族内の不和も抱えており、これ以上の弱体化を防ぐためにと渋々申し出を呑んだ。二家の距離が縮まったことによる安穏は、確実に雰囲気を変えたはずだ。以前はもっとぎくしゃくしていたし、メイヒェムの者に挨拶をされるなど考えられなかった。

 そして夏の終わりの日、アーレクス帰還の報はすぐさま神都じゅうに広まり、人々を沸かせた。心をどこかに置き忘れてきたかのように茫と空を見つめる半精霊は地下牢に閉じ込められ、その存在はすぐに忘れられた。

 荒れていた幼少期、神都を去ってからの年月、ク・メルドルでの惨劇。そんな過去を感じさせず、兄はごく自然に神都の日常に溶け込み、大祭前に神殿長の位を得るべく図書室に籠もり、猛烈な勢いで知識を吸収しはじめた。

 アーレクスはすぐにアンバーの補佐役として長老たちからの指名を受け、神都神殿になくてはならぬ人材と重宝されるようになった。そんな輝かしい兄の姿を、アンリは呆然と見つめることしかできない。

 ク・メルドルにいた頃から半精霊と親しみ、身を投げ出して連中を庇う姿しか見てこなかったから、同じ口で女神を讃え、精霊を貶める兄が信じられなかった。信じろというほうが無理だ。

 半精霊に人生と剣を捧げると豪語し、伴侶に迎えた過去を、どうしてなかったことにできよう。マジェスタットの暗がりで、半精霊と口づけを交わさんばかりにひしと抱き合っていた姿、熱っぽい眼差しを忘れられるものではない。

 しかし、騙されるな、過去を思い出せ、これは芝居に決まっていると声を上げたアンリにもたらされたのは、僻んでいるのかと言わんばかりの冷笑のみ。

 なんだ、これは。一体どうなっているんだ。皆どうして戻ったばかりのあいつを信用できるんだ。半精霊を愛し伴侶とし、ク・メルドルを滅ぼした男を、どうして。


「皆がお前を許しても、僕はク・メルドルを忘れないからな。姉さんを殺し、国を滅ぼしたのはお前だ!」


 アーレクスは氷のような無表情のまま、眉ひとつ動かさない。記憶にあるのは家を嫌い、女神教を憎む炎のごとき眼差しだが、今の彼は見たこともない虚無を浮かべていた。その得体の知れなさに、背筋が粟立つ。


「信じられるものがあるのはいいことだな、アンリ」


 答えはまったく要領を得ない。かといって馬鹿にされたのでもないらしいのが不気味だった。

 かくして、困惑は続いた。

 霧の晴れる気配はなく、不安と違和感の中でアンリは立ち尽くす。

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