アズライト

アズライト (1)

 少年は、いわば小さな暴君だった。

 青服たちの沈黙はいかにも不承不承といった様子で、ゼロも無邪気な傲慢さに顔を歪めはしたものの、彼の態度を咎めなかった。


「お父様に頼むんだな」


 嫌みな口調に、少年はべえと舌を出した。


「あいつに頭を下げろって? 冗談だろ」

「口が過ぎるぞ、アズ」


 苦言を意に介したふうもなく、少年はシャイネの周囲をぐるぐる歩き回った。検分されている。

 ため息か失笑か、吐息とともに口角が上がる。幼い外見がちぐはぐに引きつるさまは、見ていて気持ちの良いものではなかった。そっぽを向くが、髪を掴まれて引き戻される。


「半精霊、名は?」


 答えずにいると、包帯を巻いた指先をしたたかに殴られた。割れるほどに奥歯を噛んで悲鳴を飲み込むが、脂汗までは隠しようがない。


「ぼくはアズライト。お前のあるじの名だ。よく覚えておけ」


 少年は小鼻を膨らませ、手を腰に当ててつんと顎を上げた。いつ、誰が誰の主になったって? 悪態は激痛とともに飲み込むしかなかった。

 ゼロは我関せずといった態度でいたが、少年が満足した一瞬を見逃さずに細縄を引いた。のろのろと隊列が動き出す。

 先頭を進むのは物言わぬ青服たち。次にゼロ、深夜にもかかわらず高い声ではしゃぐアズライトが続き、繋がれたシャイネが歩く。最後尾は拒絶の意を沈黙に込めた青服が固め、威圧的に長靴を鳴らした。

 少年の存在は異質な光を放っていた。青服たちもゼロもどこかやりにくそうだ。殴って従わせることはできないにせよ、子ども相手なのだからもう少し強く諫め、道理を説く者がいても良さそうなものなのに。

 もらう、と言われたからには、身柄はこの少年の下に置かれるのだろうか。温室育ちの王子様であれば、隙を見てゼロを連れて逃げることもできるはず。いま騒ぎを起こすのは得策ではない。

 そのゼロはといえば、レイノルドとの一件を忘れ去ったかのような無表情で、時折短くアズライトを嗜めるほかはむっつりと口を閉ざしており、こちらには視線も寄越さない。

 大騒ぎの夜だったが、結局、なにも解決していないのではないか。あまりの無力感に寝込みたくなる。

 結果だけを見れば、ゼロが勝利したと言える。しかし伸ばした手で何かを掴むことも、その手を戻すこともできず、宙ぶらりんになっているのは、むしろ彼の方だろう。

 レイノルドにはユーレカがいる。彼女はきっと道を見誤らず、上官の独走を止めてくれる。いま成し遂げるべきはク・メルドルの報復ではないと言い聞かせ、目を覚まさせてくれるだろう。だから大丈夫だ。

 大丈夫ではないのはゼロだ。もちろん、シャイネも。アズライトという新たな厄介ごとまでも加わった。

 アズライトがアンバーの息子なら、うまくすれば内部事情を聞きだせるかもしれない。おべっかを使い、おだてて媚びへつらうくらい何でもない。少なくとも、無表情の黒ずくめ男よりはましだ。はいはいと言いなりになっていれば、事態をひっくり返す機会も見つかるかもしれない。

 隊列は街を抜け、神殿に入った。篝火が焚かれ、青服たちがめいめいに武器を構える前を通り過ぎ、先頭を行くゼロが足を止めた。両手を縛めている縄が不意に引かれ、つんのめる。


「さあ、アズ。もう遅いから部屋へ戻れ」

「やだ」

「やだじゃない」


 えー、とアズライトは不満げに口を尖らせ、シャイネの袖を引いた。すかさずゼロが縄を引き戻すので、ぐらぐらと左右に揺さぶられる。気分が悪い。


「なんで。ぼくに頂戴って言ったじゃないか。また牢に入れちゃうなんてつまんないよ」

「危険だ」

「どこが? 半精霊ったって、ここでは精霊をべないし、ぼくたちには精霊の力だって効かないんだろ。余裕余裕」


 少年は口を尖らせて食い下がった。


「半精霊が無力だからって地下牢から塔に移したんだろ? それで逃げられちゃったんだから、常時見張ってるほうがいいに決まってるよ。大丈夫、ぼくがちゃあんとついてるから。ちょっと突っつくくらいはするけど、可愛がるって!」


 蝶の羽や蜻蛉の脚をもぐように、アズライトはシャイネを傷つけることに抵抗を覚えないようだった。青服はもちろん、ゼロでさえ彼の道徳観を正さない。増長するわけだ。

 折れたのはゼロだった。わざとらしく肩を揺らし、長く大きなため息をつく。漆黒の視線は遠くを見ている。


「殺すなよ。アンバーにどやされるぞ」

「わかってるよ!」


 縄はアズライトの手にわたった。うきうきと跳ねる彼に引きずられ、神殿の西側に向かう。背後を見遣ると、苦労して外壁を伝い下りた塔が頼りない月光に浮かび上がっている。

 自然と足が重くなった。ぐず、のろま、と廊下に響く罵声も憂鬱の壁に阻まれて耳に入らない。



 バスカーの邸宅を思わせる、重厚な扉が閉まった。つまり希望が閉ざされたのだ、とシャイネは詩的なことを考える。

 アズライトの私室は走り回れるほどの広さがあり、彼の年齢には不釣り合いな執務机と本棚、衣装掛けが置かれていた。右手と左手奥にひとつずつ扉があり、執務机の奥、正面の壁に窓が切られている。

 調度品の数は少ないながら、どれも手入れが行き届いており、表面の艶はこっくりと深い。代々使われてきたものなのだろう。壁紙や吊り布、絨毯も上品な柄と緻密な織りで、良い品であることはすぐにわかった。

 一通り室内を見回して思うのは、脱出経路の確保だ。やはり窓か。神都の王子の居室に、まさか鉄格子はなかろう。

 それに、ここは二階だ。簡単に飛び降りることができる。何なら壁を伝い下りてもいいし、と皮肉な笑みが浮かんだ。

 アズライトは不躾にこちらを眺め回している。蒼穹の眼は灯りを映して、橙色に揺れていた。


「まずは、お風呂かな。うん、それがいい」


 無抵抗なのをいいことに髪を引っ張り、頬やら腰やらを撫でさする少年に、盛大なため息をお見舞いする。そういうことか、と納得しかけたところを、疑問符が遮った。

 この子は、僕を男だと思っているのだろうか。そのはずだ。では、彼は。僕は。

 ええと、まあ、そういうこともあるだろう。無理ではない。何なら絶好の機会じゃないか!

 あっち、と袖を引かれるままに奥の扉を抜ける。鏡台と大小さまざまの化粧品が並ぶ小部屋を通り過ぎ、さらに扉を開けると、夜の風がすうと頬を撫でた。

「階段、暗いから気をつけて」と言いつつ歩みは止まらない。石段を下りたそこは、中空に浮かぶ浴場だった。見上げる高さの透かし塀と生け垣に囲われており、頭上は半円形の石天井、湯に浸かりながら空を楽しめる趣向らしかった。

 こんな大がかりなことをせずとも、北ではあちこちに温泉が湧き、野の獣たちが集まるのにと教えてやろうかと思ったが、どう考えても馬鹿にしているようにしか聞こえない。

 夜明けも近い時間だというのに、注ぎ口からは湯がどうどうとこぼれている。いい香りの湯気が風に乗って漂い、床石は滑り止めのためにわざと荒く加工がなされていた。あふれた湯がランプの灯りになまめかしく照り映える。

 アズライトの手が衣服にかかり、シャイネは何も考えぬままに身体をよじった。下品な笑顔がすぐそばにある。


「アーレクスじゃないと嫌なんだ?」


 違う、と言うべきだったのだろうか。反論より先に頭に血が上り、熱された頭は的確な言葉を失って、苦しげに空気を求めて喘ぐのみだった。

 どうすればいいのか、何が最善なのか、ちっともわからなかった。女だと彼に知られればどうなる? なりふり構わず抵抗すれば無用の疑いを招きかねず、かといって抵抗しなければすぐに女だとばれる。

 同じところをぐるぐると回り続ける思考は、当然ながら解決策には至らなかった。


「あ」


 ぐいと上衣を引かれ、よろめく。後ろ手に縛られたままでは抵抗もできない。何とか倒れずに踏みとどまったが、ナイフの刃が上衣を引っかける。び、と重い音とともに布地が裂け、胸を押さえる晒し布が露わになった。


「ひゃっ」


 息をのむ音がやけに大きく聞こえる。

 しかし、アズライトは無反応だった。手際よく、とは決して言えない手つきでナイフを操り、買い求めたばかりの上衣を取り去ると、断りもせずにぽいと捨ててしまった。


「何するんだよ!」


 ようやっと言葉が出るが、何とも間の抜けた抗議でしかない。少年の暴虐を止められようはずがない。


「何って、服を脱がせてるんじゃないか。わかりきったことを訊くなよ。新しい服はすぐに用意させるさ。何色が好き? 黒? 紺? 茶色? 緑や赤っていうのもいいかもね。そうだ、白とか斬新で良くない?」


 アズライトはまったく的外れなことではしゃいでいる。晒し布を解き、シャイネの胸を一瞥するなりヒュウ、と口笛を吹く。お育ちのよろしいお坊ちゃまにはそぐわない仕草だったが、男装については何も言わなかった。


「……どうして」


 衣服をすべて取り去ってから、彼は両腕を縛める縄を切ってくれた。いまさら胸を隠すのも気恥ずかしく、苛立ちと怒りと羞恥を込めて睨んだ。眼が爛々と燃えさかっているのが自分でもわかる。


「そんなに睨まないで、先に入ってて。ぼくは服を用意してくる。それとも、その格好で逃げる?」

「まさか」


 ひひ、と少年は喉を鳴らして笑い、扉の向こうに消えた。空はまだ暗いが、明るくなってからこの露天の浴場を使うのは心許ない。意を決して湯船に身体を沈める。

 鼻の下まで湯に浸かり、傷の癒えぬ手先を頭上に挙げてぶくぶくと泡を吐き出した。わけがわからない。わからないことだらけだった。

 なぜ僕はいま、お風呂に放り出されているんだろうか?

 彼が半精霊を欲したのはなぜだ。興味。好奇心。嗜虐心。このあと何が待ち構えている? 興味本位に犯されるくらいなら何ともないが、生きながら四肢をちょん切られるとか、腑分けされるとかは御免被りたい。切実に。

 先の予想が立たないことが何よりも恐ろしい。かといって、こんな格好では逃げ出すこともできない。

 いい香りの湯気を胸いっぱいに吸って、どうにか気持ちを落ち着けた。動揺は隙だ。わざと捕まった目的を忘れてはならない――すべてはゼロのため。

 ナイフの扱い方を見る限り、アズライトの腕っ節は大したことはなさそうだ。両手が自由ないま、彼が武器を持っていたとしても後れを取ることはあるまい。子どもだからと侮るのは危険だが、神都神殿という庭でぬくぬくと育てられた王子様に、格闘戦で負ける気はしなかった。

 大丈夫。きっと大丈夫。

 精霊が使えなくとも、シャイネには丈夫で柔軟な体と、旅暮らしの経験がある。命の危険を乗り越えたのも一度や二度ではない。昨日だって!

 深呼吸を繰り返して、鼓動を鎮める。呼吸を整え、いつでも飛び出せるように身体をほぐす。気持ちを落ち着かせてから改めて、豪華な浴場をぐるりと見回した。

 これが、神都二家と崇められる者の暮らしか。街の外には魔物が押し寄せているのに。魔物の狙いもわからぬままなのに。

 王たちがあんなにも憂いているのに、嵐のただ中で贅沢三昧とは。目の前が滲んだことに驚き、慌てて顔を洗う。

 脚を伸ばしたり膝を抱えたり、あちらこちらを揉みほぐしているうちに、背後から濡れた軽い足音が近づいてきた。


「ねえ」


 湯気にくるまれた声は甘くて柔らかい。隣に現れたアズライトの脚はいやになまめかしく、優しげな曲線は少年ののびやかさとは違った。むしろ。

 湯に身を沈めたアズライトは、悪巧みをするときの笑みを浮かべている。片手で掴めそうな細い首の下の華奢な鎖骨。そのさらに下は、どう見ても胸板ではなくて、乳房だった。シャイネの方がよほど板に近い。谷間を洗う湯に合わせて、紛うことなきふくらみが、やわやわと揺れていた。

 揺れるとかちょっとありえない。いやそうじゃなくて。たわわに実る。これも違う。


「ぼくたち、お揃いだね、半精霊?」


 お揃い、って。

 声を忘れた口をぱくぱくと開け閉めする。少年――少女が、してやったりと大笑した。

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