復讐 (4)
路地の入り口に立つアンリは、ぬらぬらと眼を輝かせていた。獲物を前にした獰猛さと残虐な歓喜、害虫や害獣を目にした嫌悪が入り混じり、血色のよい頬が引きつっている。
蔑みに満ちた眼差し、ひそめられた眉。カヴェ神殿で出会ったときは、再会の驚きが憎しみを薄めていたのだろうか。いま、再び目にするゼロに似た面差しは激情に歪んでいた。
ゼロが彼に何をしたのだろう。幾度めか知れない疑問が、ぽかりと浮かび上がる。
実の弟にこれほどまで憎まれるようなこととは、何なのだろう。きょうだいのいないシャイネには想像もできない。父がハリスに向けた、静かな、根雪のごとく芯から凍てつかせる冷ややかさとは真逆の、燃え盛る炎に似た嫌悪だった。
たとえば消えない傷を負ったとか、大切なひとを……恋人を傷つけられたとか、奪われたとか。痴情のもつれというのはありえそうだが、どうもしっくりこない。
ゼロとて失敗したり、過ちを犯したりすることもあるだろうし、誰からも好かれるわけでもなかろう。けれども、アンリの見ているゼロと、シャイネの見ているゼロは本当に同じ人物なのだろうかと、違和感を抱かずにはいられなかった。
口数は少なめだし、無表情でとらえどころのない一面はあるが、ゼロは決して悪人ではない。それとも、合理的な判断を下し、実行に移せる冷静さが恨みをかったのだろうか。
どれほど公平に考えようとしても、彼を庇うようなことしか思いつかなかった。それは、彼の性質に由来するのか、シャイネ自身の気持ちが揺らいでいるからなのか、偏見なく見つめることができない。
なぜなら、シャイネは知ってしまったからだ。彼の優しさ、思いやりや気配りや、たぶんその根底にあるのだろう、熱くうねる衝動を。
街中を走り回って居所を探してくれた。呼吸もできないほど強く抱きしめてくれた。いまも前に立っている。両腕はだらりと垂らしたまま、剣を抜く素振りさえ見せず。
嵐の海のごとく胸中穏やかではないだろうに、黒い背中は何も語らなかった。しんと凪いで緊張もなく、自然に呼吸している。
一方のアンリは、荒れ狂う感情を隠そうともしない。唾を吐くように言葉を浴びせた。
「なんだその髪は? 変装のつもりか? 盛りのついた獣並みだな、人目も憚らずに……こんなところで」
ゼロは噴き出した。はらはらしているシャイネとは違い、心底面白かったようだ。髪のことは衝撃を受けているに違いないが、おくびにも出さない。
「人間も盛ってる獣だ。おまえは違うのか?」
「貴様と同列に語るな!」
ふと、もしかすると僕は男だと思われているんじゃないか、と思い至った。半精霊相手というだけでなく、男同士でいちゃついているとアンリが勘違いしているのだとしたら。ゼロがシャイネに覆いかぶさっていたのだから、どう見ても彼の方が「その気」だろう。
勘違いを訂正する機も利もないが、笑いがこみ上げてきて、慌てて奥歯を噛んでやりすごした。
もとより、和やかに挨拶して終わろうはずもない。アンリの表情がさらに険しくなった。
彼は腰の剣に手を置いており、鋼のきらめきを解き放たんとしている。背後に控える、短剣を腰から下げた
「突破する」
囁くゼロは剣を抜く気すらないようだ。あるいは、エニィと名付けた新しい剣を汚すまでもないと思ったのか。無防備にも見える無造作な足取りで、まっすぐアンリらに近づいてゆく。
「任せて」
切り捨てること、傷つけることは簡単だが、それをしない彼の理性と忍耐に応えねばならなかった。幸いにもいまは夜、シャイネの時間だ。
闇は、影は、周囲に満ちている。エニィは喜びに震え、闇たちが親愛の情にさんざめく。
「やれ!」
アンリが剣を抜いた。ローブの男たちは武器を構えて、一気に距離を詰めてきた。待ちの姿勢で構えていればいいものを、わざわざ彼の間合いに踏み込んでくるとは。功を焦っているのか、それとも愚かなのか。
暗い夜道、道を塞ぐように迫る男たちに対し、とるべき行動はひとつだった。呆れながらもエニィに命じる。
『あいつらに』
短く示すと、闇は従順にシャイネの意に添った。光を通さない真の暗闇に包まれ、取り巻きたちはたちまち恐慌に陥った。
怯えてむやみに手足を振り回すだけの男たちは、盾代わりにもならない。ゼロが二人を叩き伏せたところへ、影を固定して動きを封じた。
突然動かなくなった男たちと迫るゼロを交互に見やり、アンリが息を呑む。進歩のない、稚拙極まりない動きで抜き身の剣を振りかざすと、悲鳴じみた声をあげて大きく踏み出した。
「うわああああああっ!」
腰は引け、腕が震えているために剣先はぐらぐらとぶれた。薄紙一枚も切れないであろう剣筋など恐れるまでもない。そしてカヴェのときとは違い、ゼロの体調は万全だった。
大きく踏み込みざま、右腕が素早くエニィを抜き放った。夜明け前の透明な藍が月夜の薄闇を切り裂き、アンリの腕から剣を弾き飛ばす。
振り抜いた右腕、エニィの輝きがすぐに舞い戻る。驚愕に目を見開くアンリが、無様にも両腕で頭を覆った。
流麗な動きでゼロが刃を走らせる。表情は見えない。
(だめだ……!)
思っただけなのか、声に出していたのだろうか。ゼロの動きが止まった。意味を質すより早く、彼は剣に添えていた左腕でアンリを突き飛ばし、よろめいたところに足払いをかけた。
尻をついて転がるアンリの影を縛り、闇を被せていると、剣を収めたゼロが右腕だけで行くぞ、と合図した。地面に伸びる男たちを飛び越えて路地を駆け抜けた。
「贄の分際で……! 逃げられると思うな!」
にえ、という言葉だけがいやに耳に残った。
日の出前、シャイネとゼロは港にいた。街を背にして立つミルとイーラ、ダグラス、マックスと順に握手を交わす。
工房の寮に戻ったときはすでに真夜中近くで、それにも関わらずマックスとダグラスは起きて待っていてくれた。目を赤くした彼らに荷物をまとめるよう言われ、夜陰に紛れて街を駆けてきたのだ。
ろくに眠っていなかったが、不思議と疲れや眠気は感じない。ゼロはと見れば、神妙な顔つきでダグラスと固く手を握り合っている。
「まあ、頑張れ。急くと逆効果だと思う」
「……おれもそう思う」
何の話をしているのだか、いつの間にかずいぶん親しくなったようだ。互いの健闘を讃えるとでもいうように肩を叩き合っている。
「仲良しになってる」
ミルの呟きに曖昧に頷く。マックスだけが、苦笑にも見えるかすかな笑みを浮かべていた。
まだ夜も明けぬうちから、こうして大所帯で港にいるのにはわけがある。街道へ抜ける門はすでに封鎖され、アンリの監視下にあった。街を出るには海からしかない。漁船に同乗して南へ抜けるのである。
ハリスと会っている頃、ミルが街道の封鎖を知り、ダグラスとマックスが船の手配のために街を駆け回ってくれた。
シャイネらの脱出に手を貸したことをアンリに知られれば、きっと迷惑をかけてしまう。その厚意に、シャイネは返すものを持たない。深く頭を下げることくらいしかできなかった。
「本当にありがとう。ここまでしてもらって」
「気にするな」
マックスは短く言ったが、寝不足と疲労で目が落ちくぼんでいる。いちばん元気なのはミルだ。
「シャイネがあたしたちの立場でも、同じ事をするでしょ? だからいいの」
「でも、アンリが工房に何かしたら……」
「ここでは、神殿の権力なんてたかが知れてる。これだけ派手に事を起こせば、今日にでも王が騎士や衛兵を送り込んで、丁重にお帰り願うだろう」
マックスの言葉は確信に満ちていた。そういうものなのだろうかと傍らのゼロを見上げると、同意を示す小さな頷きが返ってきた。
「俺たちは多くの税を払ってるし、国王も精霊封じの剣を持ってる。王にも面子があるだろうから、そう簡単に女神教の独断を許すはずがないさ」
「そうよ。心配しないで。あたしたち、ずっとこの街でやってきたんだもの。武力でだって負けないわ」
半精霊が三人と、炎の精霊。生半な兵力に屈することはないとわかっていても、心が痛んだ。
そんなことになれば、街の人は彼らをどんな目で見るだろうか。アンリの到着を待ちわびる人の渦とその熱狂、喧騒を思い返すだけで、肌が粟立つ。もし人々が、あのときの勢いで半精霊の排斥を叫んだら?
悪い想像を打ち切るように、ミルがぎゅっとシャイネに抱きついた。柔らかな少女の肢体と甘い香りにどぎまぎする。
「困ったらいつでも訪ねてきて。あたしたち、シャイネの味方よ」
「ありがとう。たくさん、助けてもらったね」
いいのよ、と少女は朗らかに笑った。
「あたし、シャイネのこと大好きよ。いつかまた必ず寄ってね。それで、旅の話をいっぱい聞かせて」
「うん」
「ゼロと仲良くね。身体に気をつけてね。変な人についていっちゃだめよ。それから……」
「大丈夫だよ、ミル」
細い背中を抱きしめる。自分より小さく柔らかいものを抱きしめるのは、不思議な気分だった。
「シャイネ」
呼ばれて顔を上げると、神妙な顔をしたイーラがすぐそばにいた。眉を下げて首を傾げるさまは、無垢な少年そのものだ。
「オレ……一緒には行けないけど、いつでも召んで。シャイネの力になりたい。その気持ちには変わりはないから。……オレが気持ちって言うの、変かな?」
「ちっとも」
「あんたねー、あんまりしつこくすると、父さんに言いつけるわよ」
ミルが睨むと、イーラは肩をすくめて笑った。シャイネも頬を緩める。
彼の内面は、人に添って変化するのだろうか。それとも、精霊優位の考え方のままなのだろうか。どちらが正しいというのではない。押しつけることもできない。
空がゆっくりと色を変えてゆく。朝の光を孕んだ空が水平線から顔を出す頃、街の方から数人の漁師が現れた。無言で頷き交わし、桟橋に向かう。
「どうか、無事で」
「ありがとう。この恩は一生忘れない」
桟橋にずらりと並ぶ輝く眼は、どれも美しく燃えていた。
四対のきらめきが見えなくなるまで船べりで手を振り続け、船が沖に出てからは漁の準備を手伝った。
岸をはるかに望みながら、波の具合も海の色も、カヴェ近郊の西の海とは違うことに改めて驚く。獲れる魚の種類も違うのだろう。遠くに来たな、と今更ながらの感慨が胸を衝いた。
船は南に向かい、モルドヴァまでシャイネとゼロを送ってくれる予定だった。
モルドヴァは、マジェスタットからの街道が南の自治領ワンダルジェと、内陸方面の二方向に分岐するところに位置する宿場町だ。西と南、どちらへ向かうのかはまだ決めていない。
漁の方は期待してねえよ、と豪快に笑う漁師たちは、それでも網を投げ、魚影がないか目を凝らしている。
ふと見れば、ゼロが真っ青な顔をして膝を抱えていた。それに気づいた漁師の一人が笑いながら彼を船尾に引っ張ってゆく。付き添いを代わった。
「海ははじめて?」
答えはない。口を開くのも、首を動かすのも危険な状態らしい。
「我慢せずに吐いたら? 誰も気にしてない」
ものすごい目で睨まれたが、シャイネが背を向けて漁の手伝いにかかると、大人しく海面に胃の中身をぶちまけることにしたようだった。
「兄ちゃん、もうすぐ日の出だぞ。あっち、見てみな」
真っ黒に日灼けした男の言葉にシャイネは頷き、絡まった網をほぐし、錘の位置を確かめながら東の空を見る。
「わぁ……」
夜が押しやられてゆく。空が暁の朱に染まり、雲が陰影を伴ってたゆたう。視界を遮るものは何もなく、波に揺られるまま、生まれゆく光を見つめた。
ナイフで切れ目を入れたように、空と海の狭間から輝きがあふれ、朝もやに包まれた太陽がゆっくりと姿を現すと、桃色に染まっていた空が一気に光を帯び、夜空を塗り替えた。空の色が変わると同時に海の色までが変わって、まるで手品を見ているように心が震える。
圧倒的な美しさと大きさに、網を繰る手が止まっていることにも気づかず、シャイネは雄大な光景を眺めていた。
太陽の生まれる空と海の境界は、どれほど美しいところなのだろう。きっと目を開けていられないほど眩しくて、涙が止まらなくなってしまうに違いない。
「空と海は、どこまで続いてるんですか」
そばにいた漁師に尋ねると、彼は一瞬きょとんとし、次いでがははと大声で笑った。分厚い手がシャイネの肩を遠慮なしに叩く。
「面白ぇ兄ちゃんだな。ずっとだよずっと。ずーっと向こうまで、続いてるのさ。どこまで、なんてねえよ。どこまでも、だ」
「どこまでも」
男の言葉を繰り返しながら、黄金に輝く太陽と、眩しく透き通った空を見上げた。
きれい、と心の底からこぼれた言葉は、波の音に紛れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます