昨日と明日の境界線上
みら
昨日と明日の境界線上
拳銃というのは、こんなに重たかっただろうか。
俺は懐のホルスターにしまった拳銃を上着の上から撫でた。上着越しだというのに、妙に冷たく感じた。少なくとも、いつも携帯しているテーザーガンでこんな風に思ったことはない。
おかしなものだ。実銃を握るのは初めてではないというのに。
パワードスーツを着ていた状態であるとはいえ、かつてはこれの数倍は重たいであろう銃器を持って、地獄のような戦場を駆けまわっていたというのに。
これまで人外の宇宙人ども――『
英雄様がこのざまか。俺は自身の不甲斐なさを鼻で笑った。
しょせん、たまたま祭り上げられた英雄などこの程度というわけだ。
たまたま先の最終戦争、最後の作戦『オペレーション・ラグナロク』に参加に参加して、侵攻者のコロニーの最奥への突撃を行う部隊に入れられて、運よく五体満足のままたどり着いただけの人間だ。
終わってみれば、人類を救う任務を成功させた勇敢なラスト・アロウズの一人などという、大層な肩書がついていたが、根っこの方は『怖がりのレイモンド』のままだった。
弾を込めた拳銃一丁持ち歩くのさえ怖いのだ。寒空の下、彼女たちのもとへ向かいながら、視線が勝手に明後日の遠くを見つめる。
――思えば、最初に彼女、アスカと言葉をかわしたのは、このあたりだったか。
ジャンクメイド・マーケット。戦後の焼け野原にできた、クズで組み上げられた屋台が立ち並ぶこの市場を、治安維持隊の一人として見回っていたときのことだ。
食料品や日用品、嗜好品、挙句の果てには軍から横流しされた医療用ナノマシンまで並ぶ市場を見ながら、多少の不法行為は見て見ぬふりをし、ケンカを仲裁し、顔なじみの屋台の店主に変わったことはなかったかと声をかけて歩いていて、ふと余所見をしたときに、彼女がぶつかってきたのだ。
何やら柔らかいものがぶつかったなと思いながら前を見直すと、人形と見間違うような美少女が尻もちをついているのだから、正直慌てた。
「すまない、大丈夫か?」
そう言いながら、手を差し出したのが、彼女とのファーストコンタクトだ。
「すみません。余所見をしていたもので……」
「いや、こちらも不注意だった。申し訳ない」
そういえばこの時、俺は不思議なことを考えたんだった。
この、見知らぬ少女のことを、知っている気がすると。
こんなきれいな女の子が傍にいるような記憶があればすぐ気づくはずなのにとか、アホなことを考えたっけか。
「――あの、すみません」
「ああ、すまない。じろじろと見続けられて気分がいいわけがないな」
「あの、いえ、そういうわけではなくて、少しお聞きしたいことがあるのです」
彼女は困ったような顔をしながら、一枚のメモを俺に見せてきた。
「これ、どこで買えるかわかりますか? おつかいを頼まれていているのですが、見つからなくて」
「エタノール、銅線、壊れたポータブル・コンピュータ・デバイスに――見つかればでいいから小型原子時計?」
一体こんなもの、何に使うというのかと疑問符を浮かべる俺に、苦笑いで返されたのを覚えている。
「わたしの父、科学者なんです。実験に使う器具の材料が欲しいらしくて」
「……ついてきてくれ」
ほとんど毎日のように見回りをしているのだ。彼女が欲しがっているものがどこで手に入るかの見当はついていた。ぶつかってしまった罪悪感もあって、俺は彼女の案内をすることにした。
それに、不思議な既視感の正体が知りたかったのだ。
もしかして、どこかで会ったことがあるのではないか。俺が忘れているだけなのではないかという、もやもやした気持ちをどうにかしたかったのだ。
それで、ジャンクメイド・マーケットを周りながら、名前はなんというのか、どこから来たのか、どういうことをしているのか、ここは初めてかと聞いたのだ。安酒を売っている屋台で混ぜ物用のエタノールをわけてもらったり、軍からの横流しの品をさばいている頭のイカれたバカにポータブル・コンピュータ・デバイスと、奇跡的に見つかった小型原子時計を譲ってもらったりしながら、アスカのことを聞いていたのだ。――スクラップ屋のヤンが「カタブツのレイモンドに春がきたのか、オイ?」とからってきたっけか。
結局、彼女との会話から既視感の理由にたどり着くことはできなかった。
しかし、彼女の口からトキトウ博士などという名前が出てきたのは驚いた。
それは、俺なんかとは違う、本物の英雄の名前だ。
対侵攻者用の化学兵装を作り上げたり、俺も着ていた歩兵用パワードスーツの開発に携わったり、不幸にも手足が吹き飛んでしまった戦友たちの身体を再生させる技術を開発したり――挙げればきりがないが、そんな風に『人類に侵攻者と戦う術』をもたらした偉大な英雄だ。
まさか、それが彼女の父だなんて思いもしなかった。
しかもなりゆきで彼女を家まで送って行って、そんな有名人に挨拶することになるなんて、世の中分からないものだ。
「こんなところでトキトウ博士と出会えるなんて思ってもいませんでした」
ジャンクメイド・マーケットから少し離れた場所、人気のない裏通りの一角のボロ屋の中に、英雄がいるとは誰も思うまい。
「大きな研究所は、なんだか肌が合わなかったんだ。好きな研究もできなくてね。それでここに移ってきたんだ」
彼はそう言って、肩をすくめた。誰にも邪魔されないように、ここで研究をしているらしかった。人の世界を、一刻も早く侵攻者が壊してしまう前の平和な世界に戻すために、そのキーパーツとなるものを探しているのだと。
そして、その一つがアスカだと、彼は言った。
彼女は、博士の研究成果の戦後第一号らしかった。確か、半人造人間と言っていたか。
「しかし僕も、こんなところでラスト・アロウズのレイモンド・クラウド二等兵に出会えるとは思わなかったよ」
「このあたりの生まれなもので。せっかくの縁ですし、もし、何か困ったことがあったら声をかけてください」
「では、君のお仕事が暇なときでいいから、アスカの話し相手になっては頂けないかな。僕がこんなものだから、この子には話し相手がいないんだ」
じっと見られている視線に気づいて振り返ったのを覚えている。
俺という人間に興味があるが、どうしたらいいのか分からないといったような、そんなことを考えてそうな視線だった。
仕方ないと声に出す代わりに、口元で笑いながら息をついたっけか。その後、彼女が俺に見せた笑顔は、本当に可愛らしかった。
それからはほとんど毎日、ジャンクメイド・マーケットでアスカと顔を合わせるようになった。
博士のおつかいといって、期限切れのナノマシンといった無茶ぶりのような品から、植物性固形食糧といった日常の品まで、うろうろと探す彼女に、俺は見回りのついでだと言いながら付き合った。そして毎回、行きつけの屋台で安い培養肉バーガーを二人分買って、あまり味のよろしくないそれを二人で頬張りながら雑談をして歩いて回った。ちなみにヤンが「こいつ……本当に春が来やがった!」とうろたえていたので軽くシバきもした。
正直、彼女と話をするのは楽しかった。
昨日はあんなことがあった、今日はこんなことがあったと、笑いながら何気ない日常のことを話せるなんて夢みたいだったのだ。
彼女と話しながらこの市場を歩いていると、戦争は終わったんだと実感できたのだ。
俺たちが戦ったのは無駄じゃなかったと思えたのだ。
――しかし。
それは幻想だと、ある日唐突に突き付けられた。
きっかけは、治安維持隊員の定期検診だった。
血を抜かれたり、試薬を飲まされたり、様々な値を測定されたりして疲れ切った後に、俺は突然、別室に呼び出された。「レイモンドお前、どれだけ値が悪かったんだよ」と同僚たちにからかわれながら向かった先には、白衣姿の医師が居た。
そして医師が、冷たい声色で、俺にこう言ったのだ。
「貴方から、ほとんど異常値に近い『侵攻者反応』が検知されました」
侵攻者反応。
戦時中にはいやというほど耳にした言葉だ。
しかし、久しく聞いていない言葉でもあった。少なくとも、市街地で見回りをしている俺には程遠い言葉になったはずだった。
「どこかで侵攻者に接触していると思われますので、貴方の記憶を再生して接触の有無を確認します」
言うやいなや、手に、足に、頭に端子をつけられ、鎮静剤を打たれ、無機質なベッドに寝かされた。
「できるだけ期間を限って貴方の記憶を再生するつもりですが、中には貴方が本能的に蓋をした記憶や、科学的に忘却処理された記憶もあるかもしれません。その時は精神安定剤を処方しますので、即座に申告してください」
医師の言葉が俺の耳を過ぎ去った次の瞬間、俺の脳裏に鮮明な映像が映し出された。
それは、記憶の奔流だった。
アスカと何気なしに話した記憶。トキトウ博士の話を、背筋を正して聞いた記憶。同僚どもにからかわれた記憶。ジャンクメイド・マーケットの店主たちと笑い合った記憶。
それらに混ざって、戦場での記憶も流れてきた。
目の前で戦友がはじけ飛んだ記憶。泣きわめいていた新兵がただ一撃食らっただけで泣きも笑いもしなくなった記憶。朝にエロ本を見せてきたバカがその日の晩には冷たくなっていた記憶。
そして、オペレーション・ラグナロクの記憶が、脳裏に再生され始めた。
爆音が鳴り響き、血と鉄と油と臓腑が混ざった悪臭がたちこめる中、一人、また一人と倒れる戦友を見捨てながら、その骸を踏み越えて、コロニーの最奥まで辿り着いて――。
そこで、俺の意識は記憶の海から帰ってきた。
俺は、アスカと初めて会話したときに感じた既視感の正体を理解した。
俺は、アスカと同じ顔をしたモノを、見ていたのだ。
最悪の地獄のど真ん中で、それと出会っていたのだ。
侵攻者どもが生まれ出るコロニーの最奥、少女の姿をした何かが、侵攻者どもを従えていて、俺はそれに引き金を引いていたのだ。
綺麗な顔で醜悪な笑みを浮かべながら、こちらに殺意を向けていたのを、俺は思い出したのだ。
そして直感した。少女の姿をした何かは、紛れもなくアスカであると。感情はその事実を拒絶したが、本能的な何かが肯定した。可愛らしく俺に笑いかけて、人懐っこく俺に話しかけてきたアスカが、戦友たちの仇だと、理解してしまった。
つまり俺は、アスカのことを知っていたのだ。
「……先生」
「記憶の再生は終了しました。すぐに結果は分かりますので、もう少し――」
「……侵攻者って、何者なんですか?」
「どうしたのですか。やはり、嫌なことを思い出してしまいましたか。精神安定剤を処方しましょうか?」
俺は、静かに首を横に振りながら続けた。
「……侵攻者って、本当に宇宙人なんですか?」
「何を言っているんですか? そんなこと、常識ではないですか」
「じゃあ、何で、女の子があいつらを従えているんですか」
「――。申し訳ありません。貴方がラスト・アロウズということを失念していました。No.0の記憶は、忘却処理を施してあったというのに」
こちらのミスですと医師はため息をつき、一つ間をおいて、俺の疑問の答えを語り始めた。
侵攻者は宇宙人ではなく、未来から来た存在であり、宇宙人であるというのは、未来に絶望させないための情報操作であると。
侵攻者は、地球で生まれた生命体であると。
炭素生物であり、有機物の分解によってエネルギーを生成する、人類と八十パーセント以上遺伝子配列が一致する存在であると。
侵攻者どもの母であり指揮官であるのが、未来人によって造られた生物兵器、No.0という個体であると。
コロニーがあった場所は隕石が堕ちた場所ではなく、タイムトラベルしてきたNo.0の着地点であると。
「アスカがNo.0だと……侵攻者だと、言うんですか」
「それは、貴方自身が一番理解しているはずです」
否定したいほどの確信が、俺の中にあった。
見間違えるはずがなかった。
たとえ記憶の中のNo.0がどれだけ醜悪な表情をしていようと、それがアスカの明るい笑顔と全く似つかなくても。
あれはアスカで、アスカは侵攻者だ。
俺の直感がそう結論づけ、俺の理性がその事実を受け入れていた。
「一般に公開されてはいませんが、治安維持隊は、No.0の発見と、No.0の過去への移動の阻止という使命を持っています。存在が判明した以上、近いうちにそれに関する指示が出されると思います。もしかしたら、貴方に指示がいくかもしれません」
医師の言葉通り、程なくして俺に『
――博士を止める。
それが、今の俺の使命だった。
そのために俺は、懐に命を奪う冷たさを忍ばせながら博士の家の前まで来たのだ。
俺は、博士とアスカの二人を殺してでも止めなければならないのだ。
ドアをノックしようと上げた手が、空中で止まった。
ため息が自然とこぼれる。
怖かった。
二人に銃を向けてしまう未来が、たまらなく怖かった。十分に覚悟してきたはずなのに、躊躇ってしまうほど怖かったのだ。
だが、立ち止まってはいけないのだ。それでは戦火の悲劇に巻き込まれた人々に、倒れた戦友たちに、戦争を終わらせるために地獄を駆け抜けたあの日々に申し訳が立たないのだ。
俺は、怖がりだ。しかし、卑怯な臆病者ではないのだ。
拳に力を込めて、俺はあらためてドアをノック――しようとして、先にドアが開いた。
「あれ、レイモンドさん?」
「……やあ、アスカ」
一瞬、返答までに間が空いてしまった。
「どうかしました?」
「博士は居るか?」
「ああ、今日はお父さんに用があるんですね。どうぞ」
さあ、入ってと言う彼女の明るい声は、俺の心をちくちくと刺激した。
何度となくアスカに連れられてここには来たが、こんなに冷たく重たい心持ちで、この家のドアをくぐるのは、これが最初で最後だろう。
軽く跳ねるように奥へ進むアスカに先導されながら、俺は重たい足取りで、博士の前までたどり着いた。
じゃあ、また後で。
そう言いながら微笑むアスカの後ろ姿に、俺は手を振る。
「本当に、いい子ですよね。アスカは」
「僕の自慢の娘だからね。それで、話って?」
「……実は、アスカのことで話があるんです」
「何やら真剣な様子だね」
博士は穏やかに笑いながら、優しい目で俺を見た。
「もしかして、アスカをくれとか、そういった話かい? いくら君にだって、あの子はやらないぞ?」
「可愛らしい子だとは思いますが、俺では釣り合いません」
そういう未来も、ほんの僅かだが思い描いたことがあった。
胸がまた、ちくりと痛んだ。
「博士」
俺は、真剣な眼差しで、博士の目を見る。
「博士は、タイムマシンを作っていますよね」
「どこでそれを……いや、そうか。アスカの買い物に付き合ってくれているんだから、それなりの教養があって勘がよければ気付きはするか。ああ、そうだとも。その通りだ」
「……それは、何のためにですか」
「……他ならぬ君には、全てを正直に言おう。いずれは君には言うべきことだ」
博士は一つ、息をついた。
「僕はあの子を過去へ送るつもりだ」
アスカを作ったのはそのためだと言い、さらに続けた。
「具体的には、侵攻者が出現する少し前かな。そして、この時代の僕達が持っている侵攻者に対抗する術のすべてを、あの時代の人類に伝えるんだ。アスカには、僕のすべてを持たせている。本当は僕が行きたいところなんだけどね、あいにくと僕は年を取りすぎている。ああ、そうだ、レイモンド君。よければアスカに付き合ってくれないか? それならきっと、アスカも喜ぶ」
そう言って、博士は俺に笑いかけた。
自分のすることに何一つ迷っていない、純粋な笑顔だった。
俺への冗談じみた提案だって、おそらくほとんど、自信と善意でできている。もしも俺が本気でアスカを気に入っているのであれば、時代を超えてまでアスカの傍に居たいのであれば、もう一度人類を救う手助けをしてくれないかと。そしてその後で、アスカを幸せにしてはくれないか、と。
この人は。
やはり、本物の英雄なのだ。
人類を救う、その目的一つのために、自分自身にできることすべてをささげている。
――止めようとしている自分のことが、ひどい極悪人のように思えるほどに。
「博士」
だが、だめなのだ。
俺は、たとえ極悪人になろうとも、博士の考えを止めなければならない。
俺の脳裏に、死んでいった戦友たちの顔が浮かぶ。そいつらの死に様が浮かぶ。生きていた時に、バカを言い合っていた記憶が浮かぶ。
あいつらの中に死んでいいやつなんて、一人も居なかった。
「もしも――」
俺は、博士の目をまっすぐに見た。
「もしも俺が、過去へ彼女を送るのを邪魔するといったら、どうします?」
「それは何故だい?」
博士の、俺を見る目が鋭くなる。
「実は俺はアスカに会っているんです。博士と初めて話をしたあの日よりも前に。そして俺はその時に、アスカに引き金を引いてしまっているんです」
「どういう意味だね。それは」
「俺は、No.0に、会っています」
沈黙が一瞬、二人の間に流れた。
俺の視線と、博士の視線が交錯する。
互いの思いが、目と目でぶつかり合う。
「そうか」
博士のため息が、静寂を破った。
「君は僕がNo.0の生みの親だと、そう言うんだね。アスカがそうであると」
「今日ここへ来た理由は、貴方と、アスカの身柄の拘束です、博士」
「――信じない」
博士は静かに、目を閉じた。
「僕は君の言葉を、信じない。僕には人類を救うという使命がある。そのために過去を救って、より多くの人に明日を見せてあげなければならない」
博士の目が、静かに開く。
その視線には、俺に対する明確な敵意があった。
「だから、たとえ君であっても、その邪魔はさせない」
博士は近くにあった引き出しを開け、そこから取り出した拳銃を、俺につきつけた。
やはり、こうなってしまうのか。
実はほんの少しだけ、奇跡が起きないかと期待していた。
例えば、アスカを過去に送る予定はないだとか、例えば、俺がアスカとNo.0は同じだと告白することで博士が思いとどまるだとか。
心のどこかで、そうなってくれと願っていた。
「君が、いや、君たちが人類の未来をつぶそうというのなら、私には未来を守る義務がある」
銃声が一つ鳴った。
銃弾が俺の顔の横をかすめ、壁に一つ穴が開く。
「今のは威嚇だ。もしも君がこれ以上世迷言を吐くというのならば、次は当てる」
博士の眼差しには、固い決意が映って見えた。
博士は、どこまでもまっすぐだった。
そして、俺は気づいた。博士の中であの戦争は終わっていないのだと。この人はまだ、人類の未来をつかむために戦い続けているのだと。
ならば――オペレーション・ラグナロクは、終わっていない。
とうに過ぎ去った昨日は、まだ続いている。
俺は懐から、拳銃を取り出した。撃鉄を起こし、博士へ向ける。
「君とは、良い酒が飲めると思っていたんだがね」
俺も、そんな明日を思い描いていた。
アスカの面倒を見ながら、博士と語らう、そんな幻想を夢に見ていた。
しかし、幻想は、実現し得ないのだ。
俺は引き金に指をかけた。照準器を博士の胸元へ向けて――。
その瞬間、一つの人影が、俺の横を歩いて抜けた。
アスカであった。
「――っ!?」
俺は思わず、引き金から指を離し、銃口を明後日の方向へ向ける。
「アスカ、危ないからあっちへ行きなさい」
「そうだ。今この場は、君がいていい場所じゃな――」
ふ、と。
アスカがこっちを振り返り、小さく笑った。
そして、俺に背を向けるようにして、博士の方を向き直った。
「言うことを聞きなさい、アスカ」
「だめだよ、お父さん」
アスカは首を横に振った。
「だって、わたしたちの方が間違っているんだから」
「一体何を言って――」
「ごめんね」
小さく、そうつぶやくのが聞こえた。
そして、アスカの右手が、博士の胸元を貫いた。
何が起きたのか、一瞬、頭が追いつかなかった。
アスカが博士を攻撃したと理解した時には、既に彼女の右手は博士の身体から引き抜かれていて、そこから明らかに致死量と分かる血液を流しながら、博士の身体が崩れ落ちていた。
「アスカ、どうして……」
混乱がそのまま、俺の口から言葉となって漏れ出た。
アスカは寂しげに笑って返した。
「だって、こうでもしないとお父さんは止まらないって、分かっていましたから。……なんとなく、分かっていたんです、わたし」
右手から血を滴らせながら、アスカは俺に歩み寄る。
「ねえ、レイモンドさん」
アスカはゆっくりと、俺の顔を見上げた。
「わたしを殺してください」
「……どうして、そんなことを言うんだ」
「過去に送られなくても、近い将来、私の脳は不具合を起こします。どう計算しても、自我が崩壊しちゃうんです。そして私は自我の崩壊後、生物兵器を量産し始めます。お父さんは信じてくれませんでしたけど」
アスカも、分かっていたのだ。
自分がNo.0であると、気づいていたのだ。
「だから、レイモンドさん。わたしを人の心のまま死なせてください。ほんのちょっぴり、かっこいいなって思ったお兄さんに看取られながら死なせてください」
「……助かりたいとは、思わないのか」
俺の問いに、アスカは首を横に振った。
「……生きたいとは、思わないのか」
「そうですね。またあの屋台で、レイモンドさんとハンバーガーを食べたいなって思います」
アスカは、にっこりと微笑んだ。
「でもそれは、だめなんです」
微笑みながら、まっすぐに俺を見つめていた。
その瞳の奥には、彼女の父親とそっくりな決意の色があった。
だから俺の言葉は、もう、彼女には届かない。
「ああ、でも、そうだ。わがままをもう一つ、聞いてはくれませんか」
「……何だ?」
「最後に、抱きしめてください。ぎゅうって」
そう言いながら、アスカは俺にもたれかかってきた。
柔らかく、温かかった。
アスカは俺の背中に腕を回して力を込め、さらに体を密着させる。
「運命だと思ったんです。この人は私を止めてくれる人だって、一目見てそう思ったんです」
俺は――自分の腕を、彼女の背中に回した。
「ありがとう、ございます」
俺の胸に顔をうずめながら、アスカは満面の笑顔で俺を見上げた。
「短い間だったけど、楽しかったです。レイモンドお兄さん」
「……っ!」
――覚悟は、していたのだ。
俺は、彼女を抱きしめたまま、引き金を引いた。
俺の体を抱きしめていた彼女の腕から力が抜ける。
アスカの身体が、力なく、ずり落ちるように俺にもたれかかる。
俺は、アスカの身体が倒れないように、自分の腕に更に力を込めた。彼女の温かさを、彼女の身体につなぎとめるかのように、力強く抱きしめた。
「……ちくしょう」
拳銃が俺の手から滑り落ち、乾いた音を立てた。
俺の頬に一筋、涙が流れた。
口から、声無き慟哭が溢れ出た。
過ぎ去った昨日、その続きが、今、終わりを告げた。
そしてこれから来る明日に、彼女は居ない。
昨日と明日の境界線上 みら @mira_mamy
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