『天使』(2007年01月06日)

矢口晃

第1話


 道は左右に分かれていた。私は大きな分かれ道に立たされていた。右へ行く道と左へ行く道と、どちらの方が正しいのか私には判断がつかなかった。

 大地はどこまでも平坦だった。乾燥して歩くと砂埃が舞い上がる地面の上に道はあった。土の中には握りこぶし大の石がごろごろと転がっていた。草らしいものは一本として生えている訳ではなかった。広大無辺な涸れ果てた大地の上を、私はたった一人、当てもなくさまよっていた。

 そして目の前に突如として現れた分かれ道に、私は立ち往生を余儀なくされた。左右どちらの道も、その先に何があるのかはわからないのに違いなかった。そもそも私自身がどこへ向かっているのかさえ、確かにはわからないのだった。私は疲れきった体を照りつける太陽にさらしながら、しばらく分かれ道の上で思案していた。

 とそこへ、どこからともなく一匹の羽を持った蝶のようなものが、私の目の前に現れた。その生物は私の目の前に来て空中に留まると、じっと私の方を見ているように動かなくなった。怪しく思い私がそれを仔細に眺めてみると、それは確かに蝶のような生きものでありながら、胴体はむしろ人間のような形をしているのだった。蝶ほどの大きさのその人間には、二本ずつの手足と頭とがついているのだった。顔の中には小さいながら目や鼻もきちんと備わっているようだった。そして背中に生えた大きな羽を動かしながら、絶えず一つところに留まって、私のことを窺っているらしかった。

「お困りですか」

 と、いきなりその生物が人語を弄したので、私は虚をつかれた。

「何だ、お前は一体?」

「私は天使です」

 私の頭上に羽ばたきながら、訝しむ私に生物は少年のような声でそう教えた。私はもちろんその言葉を疑った。しかし二枚の羽からまばゆい光彩を放ちながら、天使を名乗る生物はなお言葉を続けるのだった。

「あなたのお困りのご様子を見て、駆けつけて参りました。あなたはこの道をどちらに進むべきかで大変お迷いのようですね」

 天使の言うことに間違いがなかったので、私はおとなしく聞いていた。

「もしよろしければ、わたくしがどちらへ進んだらよいかお教えいたしましょう」

 そういうと天使は羽を二、三度羽ばたかせ、私の左前方へ伸びる道の上に移動した。

「こちらをお進みなさい。さもないと、あなたは大変不幸なつらい目に遭うでしょう」

 私はその言葉を聞くと、急に右側の道を選ぶのが恐ろしくなった。もともとどちらへゆく当てもなかったのだから、天使の言うとおりに進んだ方が私には無難なように思えた。

「よしわかった。そちらの道を行こう」

 私は一言そう言い切ると、頭上にたゆたう天使の下を通って、左へ伸びる道を歩み出した。通り過ぎてから振り返ると、そこに天使の姿はもうなかった。

 道は途切れることなくどこまでも続いた。空腹と渇きとが私を苦しめた。しかしさっきまで五体にへばりつくようにたまっていた疲労感は、不思議なことにすこしずつ回復しているようだった。

 分かれ道から歩いて三十分ばかりも経ったかと思われる頃、それまで何も見えなかった視界の中に、遠くうっすらと森林のようなものが見え始めた。それは疑いもなく、オアシスなのに違いなかった。まだ距離は大分あった。しかし休まず歩いて行けば確実にそこに辿りつけるだろうという希望が、私を励ました。そう思うと、引き摺るように運んでいた足どりも、若干力強さを取り戻したようだった。生き延びることができる歓喜に、私の心は充たされた。

 天使の言うことに、やはり間違いはなかったのだ。私は突然目の前に現れて進むべき道を示してくれた天使に、感謝さえしようとしていた。

 その時である。

 私が踏みしめて歩いていた大地が、突如として緩み始めた。磐石の土の上を歩いていた私は、急に水の上に立っているような不安定感を足元に覚えた。ゆらゆらとして、体の平衡を保ちながら立っているのさえやっとだった。と、次の瞬間、前方の大地に俄かに巨大な窪みが出現したかと思うと、瞬くうちにその窪みの周辺が大きく陥落し始めた。栓を抜かれた水槽の水のように、周りの地面はその穴めがけて一斉に雪崩れ込んだ。もちろん私の立っている大地も同様に引き摺りこまれるのだった。私は逃げ出そうにも、両方の足が硬直したまま動かすことができず、みるみる内に巨大になっていくその穴を、ただ呆然と見詰めていることしかできなかった。

 やがて渦のように広がって行くその大きな穴は、地面の上に立っている私もろとも、真っ暗な地中奥深くへ大地を飲み込んでしまった。

 

 気が付くと、私は暗い岩の洞窟の中で、両膝を抱えるようにして座っていた。目を開けると洞窟の中は薄日が差し込んだようにほのかに明るく、岩肌は人の体温のように心地よく温かかった。

 私のほかに、人は誰もいなかった。私は今いるところがどこなのかわからないにも関わらず、心細さや不安感は少しも感じなかった。むしろやっと我が家に帰り着いたような安らかな安心感に包まれているのだった。

 そこへ、松明の光のようなまぶしい物体が目の前に現れた。それは紛れもなく、しばらく前に見たあの天使なのに違いなかった。天使はひらひらと空中に浮遊しながら私の顔を見つめると、また少年のような声で私に言った。

「あなたは死んでしまいました」

「死んだ? 嘘でしょう」

「嘘ではありません。あなたは死んでしまったのです」

 私には自分が死んだという実感は全くなかった。ただ、先ほど大地の大きな渦の底に飲み込まれた事実を思い出すと、自分が死んでしまっていてもおかしくはないと思っていた。いやむしろ、あの事故に遭って生きていられる方が不思議だとさえ考えていた。

 私は天使に向かって言った。

「私があなたに言われた道をしばらく歩いていると、突然目の前に大きな窪みが現れて、私はその中へ巻き込まれた」

「そうです。その時に、あなたは死んでしまったのです」

「では、私が今いるのは」

「あの世です」

 天使は私の問いに間をおかずに、はっきりと答えた。私の心に、悔しさが込み上げてきた。

「ならあなたが天子だというのは、嘘だったのですか」

「嘘ではありません」

 天使の言葉は淡々としていた。

「ではどうして私を騙したりなどしたんだ」

「あなたを騙してなどおりません。あなたは正しい方向へ進んだのです」

「でも結果的に私は死んでしまってではないか。私はあなたに騙されて死んだのだ。あなたに殺されたも同然だ」

 天使は私の罵倒を聞いても、全く心に響いていないようだった。やはり大きな羽をひらひらと羽ばたかせながら、私に対して泰然と言った。

「私はあなたを騙してなどいません。第一私はあの時、左の道を進めばあなたが死なないなどとは、一言も言わなかったはずです」

 私は奥歯を噛み締めて怒りをこらえていた。

「あなたはやはり正しい道を選んだのです。あなたはあの道を進んで、よかったのです」

「どういうことだ」

 溜まってきた怒りが噴出し、私は怒鳴り声を上げた。胴屈中にその声が反響した。

 洞窟の中からその響きが遠くなると、それを待っていた天使は私に静かにこう言った。

「もしあの時、右の道を選んでいてご覧なさい。あなたの運命は、どうなっていたとお思いますか?」

 私は無言のまま天使を睨みつけた。薄暗い洞窟の中で、天使の羽は眩い明るさを放っていた。

「あの時右の道を歩いていたら、あなたはその後、飢え死にをする運命だったのですよ。飢え死にをすることが、どれほど苦しいことかあなたはご存知ないでしょう? 人として、飢えて死ぬと言うほどつらいことはないのです。恐らくあなたは、空腹を充たしたさに、地面の上の土くれにさえ齧りつきかねなかったでしょう。それを思ったら、ほとんど恐怖も苦しみも感じないまま死ねた方が、あなたにとってどれほど幸福だったと思いますか?」

 天使の言葉が鳴り終わっても、私はしばし何も考えることができなかった。頭の中が真っ白になっていた。

 それから間もなく、天使は蝋燭の火が消えるように、ぱっと私の前から姿を消してしまった。するとそれまで薄明に浮き上がっていた洞窟の中は、一気に真夜中の暗さに包まれてしまった。

 そして何も見えなくなった。



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『天使』(2007年01月06日) 矢口晃 @yaguti

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