第5話 ルームメイト
リンは医務室のベッドの上で目を覚ました。香薬の香りと優しい光でリンは自分がどこにいるのか分からなかった。
「あら、もう起きたの」
白衣に眼鏡をかけた女性が傍から顔をのぞかせる。
「ここは……」
「医務室よ。やっぱり若いと回復が早くていいわね」
回復と聞いてリンは自分が猛獣と戦って意識を失ったことを思い出した。
「あの……、僕はどのくらいここで寝てたんですか」
くりぬきの窓を見るとすでに夜の帳が下りていた。塔についた時は夕暮れだったはずだ。
「小一時間程度よ。吐き気とか痛いところはない?」
女性はリンの脈拍を測りながら尋ねる。
「いいえ。大丈夫です」
「そう。では退院ね」
そう言うと女性は机に向かい何か書き始める。
「もう、行ってもいいわよ。外で寮長が待ってるわ。寝床まで案内してもらいなさい」
もうリンに興味はないという態度で書類から目を離さず女性は言った。
リンが部屋から出て行く際には「もしまた気分が悪くなったらここへ来てね」と声をかけてくれた。
寮長はがっしりした体つきの背の高い中年女性だった。
「初めまして。寮長のクノールです。主に見習い魔導師の居住を世話しています。もう体は大丈夫なの?」
「はい、大丈夫です」
「そう。ではまずは今日の寝床を決めなくてはね。あなた両親からの仕送りはあるの?」
「……いえ、ありません」
「推薦してくれた師匠からは? 何か資金面で援助してくれるとか聞いてない?」
リンはユインが何か言っていただろうかと思い出してみた。特に何も言っていなかった気がするし、ユインが自分のためにわざわざ身銭を切ってくれるとは思えなかった。
「特に何も聞いてないですね」
「そう。では自分で宿代を稼ぐ必要があるわね」
「宿代が必要なんですか?」
リンはてっきり試験に合格さえすれば塔に無料で住みこめると思っていたのだ。
「必要よ。当たり前じゃない。世の中何をするにもお金が必要だわ。あなた手持ちのお金は無いの?」
「全く無いですね」
「そう。では貸出制度を利用しなさい。見習い魔導師のために低金利で貸し付けてくれる制度があるの。それで当面の生活費は賄えるわ」
リンは不安になってきた。お金を借りてもそのお金が尽きたらどうすればいいのだろうか。
「大丈夫よ。貴方と同じで仕送りが無く学費を自分で稼いでいる見習い魔導師は大勢いるわ。この塔には魔導師の仕事が有り余るほどあるからね。来たばかりでもすぐ仕事をもらえるわ。ただし無駄遣いはしちゃダメよ。毎年首が回らなくなって売り飛ばされる人がいるから」
クノールはリンの表情から不安を読み取ったのか励ますように言った。
「貸出制度の手続きはこちらの方でしておきます。とりあえず仕送りがない魔術師用の一番家賃が安い部屋で登録しておくわ。それで良いわね?」
リンに選択の余地はなかった。
「はい。お願いします」
「では早速案内するわ。イレギュラーな時期の入寮だから心配だったけれど、幸いにも安い部屋であれば空いているわ。ルームシェアすることになるけれど。まあ貴方は居住環境に文句を言える立場でもないし。いいわよね」
後付けでどんどん条件が付け足されている気がするが、リンにはどうしようもない。何だかサバサバした人だなとリンは思った。何でもかんでもさっさと決めていく。こちらが口を挟む隙もないくらいに。
クノールは医務室の控え室から出て行こうとする。
リンも付いて行こうとした。
「ああ、そうそう言い忘れていたけれど……」
クノールは何か思い出したように立ち止まって振り返り、言った。
「試験合格おめでとう。塔へようこそ」
リンはクノールに少しだけ好感を持った。
リンはクノールに連れられ居住区に案内された。
医務室のある区画から居住区画に行くにはまたエレベーターに乗る必要があった。
クノールは居住区画に行くにはどのエレベーターに乗ればいいのか教えてくれた。
「魔法文字は読める?まあ読めないわよね。この文字。この文字が書いてあるエレベーターに乗ればどれでも見習い魔導師の居住区、つまりこれからあなたが住み込むことになる場所に行けるわ」
クノールは自分のメモ帳を一枚ちぎってリンに渡してくれた。クノールが呪文を唱えると白紙の紙に文字が浮かび上がってくる。
「文字は数日経つと消えるから。後で他の紙にでも控えておくようにね。もっともこれくらい読めるようにならないとここでは生活できないわよ。いずれはメモなんて無くてもどのエレベーターに乗ればいいか見分けられるようにならないとね」
「この文字は何て読むんですか?」
「『ドブネズミの巣』よ」
ひどい名前だな、とリンは思った。
「居住区に行くにはこう唱えるのよ。『ドブネズミの巣、30階へ』。試しに唱えてみる?」
「僕にできるんですか?」
「出来るはずよ。魔法語は理解できるんでしょう? 指輪を使った時の感覚を思い出しながらやってみなさい」
リンはドキドキした。こんなに早く魔法が使えるとは。リンはクノールの真似をして唱えてみた。しかしうまく発音することができなかった。
「練習が必要ね。まあたくさん練習しなさい」
結局呪文はクノールが唱えてエレベーターは動き出す。
「魔法文字は大切よ。これがないとここでは何一つできやしないわ。早く覚えるようにね。学院の入学試験にも受からないわ」
「入学試験?まだ試験があるんですか?」
てっきり先ほどの試験が学院の入学試験も兼ねていると思っていたのだ。
「そりゃそうよ。学院の授業はすべて魔法語で行われるのよ。あなたのようにいくら資質があっても魔法語を解さない者を学院に入れるわけにはいかないわ。あなたが合格したのは実技試験よ。学院に入るには実技試験の他に筆記試験にも合格しなきゃいけないわ。本来は同時に受けるはずなんだけれどね。あなたの師匠か、あるいは試験官があなたはどうせ受からないと踏んで実技試験だけにしたのね」
「……筆記試験」
「一部の貴族の子達はね。この塔に来る前にある程度魔法語を勉強してるから入学試験も同時にパスするんだけれど。あなたのような子は独学で試験に合格するしかないわね。しかもあなたは遅れてるからね。たくさん勉強しなくちゃダメよ」
リンはげんなりした。自国語でさえ少ししか読み書きできないというのに。新しい言語なんて覚えることができるのだろうか
「入学試験だからと言ってバカにしないことね。結構な難関よ。一生受からない人もいるくらいだから。それに学費。学費も自分で稼がなくてはいけないわ。ある程度は補助金が出るけどそれも成績優秀者だけね」
30階・ドブネズミの巣はその名の通り薄暗い場所だった。
リンはクノールの後について暗く細長い廊下を歩いていく。
一定の間隔で扉が配置されている。この部屋一つ一つに魔導師見習いが住んでいるということだ。リンは少しホッとした。いったいどんなニワトリ小屋に寝かされるのかと心配していたがこれなら以前自分が住んでいた奴隷用の小屋よりよっぽど良さそうだった。リンの寝ていた場所にはまともな扉すらなかったのだから。
「ここね」
クノールはとある一室の前で立ち止まった。ドアをノックする。しかし反応はない。クノールはすごい勢いでドアをガンガン叩きだした。リンはギョッとする。
「テオ! もう寝たの? ちょっと起きてくれる? テオ!」
少ししてドアが勢いよく開き、ツンツン髪のヤンチャそうな少年が出てきた。
「うっせーな。何時だと思ってんだよ」
どうやら眠っていたようだ。テオと呼ばれた少年は目をこすっている。
「クノールかよ。なんなんだよこんな時間に。……そいつは?」
テオはリンに気づいて寝惚けまなこを向ける。
「新しく魔導師見習いになったリンよ。突然だけどこの部屋に住むことになったから。まだ来たばかりで何も知らないから色々教えてあげてね。」
「新しい魔導師見習い? こんな時期に?」
テオは胡散臭そうにリンのことをジロジロ見る。
「まあ時々あることね。同年代で同じトリアリア語圏だから仲良できるでしょ。ついでに言うとあなたと同じで親からの仕送りもない子よ。じゃあ後はよろしく」
それだけ言うとクノールはさっさと立ち去ってしまう。
「ったくあのババア。面倒ごと押し付けやがって。こっちは明日の朝早いってのに」
テオはブツブツ言いながらリンを部屋に招き入れる。
(ずいぶん口の悪い子だな)
部屋の中にはベッドが二つ、それに本棚とクローゼットが一つずつあるだけだった。
「こっちは俺のベッド。お前のベッドはそっちな」
リンは自分のベッドと言われた方を見てみる。そこには本やら服、紙、インクやらが雑然と積みあげられていた。
片付けるのは少し手間がかかりそうだった。
「お前、リンって言ったっけ?どっから来たの?」
「ケアレ」
「ケアレ? 聞いたことねーな。待ってな。すぐベッドの上片付けるから」
「いいよ。明日の朝早いんだろ。僕は別に床でも寝れるし」
「魔法を使えば一瞬さ」
テオは壁に立てかけられた杖を手に取ると呪文を唱えながら一振りする。
「戻れ!」
するとベッドの上の物はひとりでに動き出す。ふわりと浮き上がったかと思うとゆっくりと空中を漂い、本は本棚に、服はクローゼットに、と本来あるべき場所へと戻って行った。
目を丸くしているリンに対してテオは不敵にニヤッと笑みを見せる。
「お前もこのくらいすぐできるさ。魔法語理解できるんだろ?」
「うん」
「テオ・ガルフィルドだ。これからよろしくな」
手を差し出してくる。
リンは遠慮がちにテオと握手した。
次回、第6話「見習い魔導師の街」
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