第4話 二つの別れ

 村に戻ると、孫一と太助が一平を待っていた。今日は弓術の稽古けいこの日であるからだ。

 彼らは身体が戻った一平から武術を教わろうと、こうしてたびたび集まっているのだ。戦は嫌いだと豪語していたあの太助も、今では半弓を携えると一平が来るのを首を長くして待っている。

 いつの間にか孫一達以外にも一平を慕う村の若者達も集まっていた。


 「相馬様、遅かろう。早く教えてくれろ」

 孫一は今にも矢を射らんと、その弦に矢をたがえている。

 一平はこれが何を意味するのか、そして今の自分が何をすべきなのかを常に心の中で葛藤かっとうしていた。しかし、ほんの束の間でも、戦とは無縁のようなこの山間やまあいで、自分の存在というものをこの若者達と関わることで見つけようとしていたのかもしれないのだ。

 そしてそれは、けっして一平だけのものではない。この村にいる新吾や孫一、太助や多くの若者も、やがては訪れるであろう大きな恐怖という波の前に、少しでも自分というあかしを探していたのかも知れないのだ。

 それは香もまた同じである。香はあの日、切り株の穴の中で傷ついた一平の姿を見つけたとき、彼の中に傷ついた心を持つ自分を重ね合わせていたのか知れない。


 一平は弓をたずさえると、木の切り株をまととした。

 「弓は自分の顔の前で引き分けるのじゃ。引き手だけに力を入れてもならん。狙いを付けるときは、左手の掌がものを言うのじゃ」

 一平は語りながら、足踏みから胴造り、弓構え、打ち起こし、そして引分けからかい、離れに至まで、ひとつひとつの所作しょさを何度も繰り返した。そして、最後にぽーんとひとつ、的の真ん中に矢を射ってみせたのである。

 これには孫一達も大きな歓声をあげた。

 早速孫一達もおのおの矢を射っては、悲鳴とも歓声ともつかぬ声をあげている。一平はそんな彼らを複雑な表情で眺めていた。


 帰り際、一平は太助に新吾のことを尋ねた。

 「新吾は如何いたした」

 「新吾兄いは用事があるとかで、昨日から松任まっとうに出かけているだ」

 「松任に?・・・」

 一平は何やら胸騒ぎのようなものを感じた。 

 しかしそれからも、一平と村の若者達との稽古は続いた。もちろん武芸の稽古だけではない。

 一平は稽古の合間に時間を作っては、村人たちと一緒に田んぼや畑の作業に汗を流した。

 その甲斐あってか、秋の終わり頃には、一平が一人で育てた牛蒡ごぼうが収穫できるようにもなっていた。


 一方、若者達の稽古の方も次第に熱がこもってきた。

 今では新吾や孫一をはじめ、村のほとんどの若者が弓や槍を使いこなせるようになっている。また一平は、背の小さい太助には大弓ではなく半弓の扱いを教えた。

 「良いか太助、半弓は距離こそ出ないが、手返しはこちらが勝る。ましてや、木々の多い山の中では、おまえの半弓が役に立つのだ」

 一平の言葉に、太助はにっこりと微笑む。

 「相馬様も、以前は越後の柿崎様に弓や槍術そうじゅつを習ったのでございますか?」

 汗を拭いながら、新吾が一平に尋ねる。

 一平は答える代わりに、もう一度切り株の真ん中に矢を射ってみせると、孫一と太助はまた一段と大きな歓声をあげた。


 一平がこの村に来てから、まもなく一年が経つ。

 この頃、村では妙な噂が立ち始めていた。もちろん、噂の主は相馬一平のことである。

 誰が言ったのかは分からないが、彼の出身に関すことには違いなかった。つまりは、彼が上杉ではなく織田方の侍ではないかということが、まことしやかにささやかれていたのである。

 そんな中、新吾達三人も、皆それぞれの思いを巡らせていた。


 「相馬様が織田方の侍であるという噂は、本当なのかのう?」

 太助が尋ねる。

 「嘘に決まっておろうが、お香さまだってあのように怪我をされた相馬様を看病してなさっていたではないか」

 孫一は、太助の頭をひとつ小突いた。

 「新吾兄いは、どう思うんじゃ」

 孫一の問いかけに、新吾はゆっくりと重い口を開いた。

 「わからん。あるいわ織田の者かもしれん」

 「新吾兄いまで何てこと言うんだ」

 孫一は壁に掛けてある槍を手に取ると、二人の前でひと振りしごいでみせる。

 「相馬様はおら達に槍や弓の使い方を教えてくれたでねえか」

 「それに、おら達と同じように土いじりまでしなさる」

 太助は自分の掌を広げて真似る。

 「しかし、相馬様にはなまりがないのじゃ。越中や越後のな」

 新吾は二人を悲しそうな目で見回した。

 「それに、相馬様が仕えていたという柿崎様じゃが・・・、確か柿崎様は槍衆ではなく騎馬武者であったはずじゃ・・・」


 いつの間にか三人は、触れてはならないものに触ってしまったかのように、お互いの顔を見合わせていた。

 太助は半弓を胸に半べそをかいている。

 「それにしても、何故お香様はそれを隠しておいでなのか・・・」

 新吾はひとり、首を傾けた。



 その夜、この村の村主でもあり香の父親でもある日向徳兵衛ひゅうがとくべえは、相馬一平と娘の香を彼の部屋へと呼んだ。

 徳兵衛はすでに剃髪ていはつをし、日頃より衣服には輪袈裟わげさをまとっている。そして首の周りを覆うように紫色のたすきを巻いている。

 表向きには常に笑みを絶やさぬおだやかな表情ではあるが、心の内には一向衆徒としての強い信念を持ち合わせていた。

 その徳兵衛が、今日は珍しく眉間に皺をよせ二人を見つめる。


 「相馬殿、回りくどくは聞かん。おぬしは上杉の武者か、それとも織田の手の者なのか?」  徳兵衛の語気ごきは、いつもに比べると少し荒いようにも感じられる。

 「お父様・・・」

 香が間に割って入ろうとしたが、徳兵衛は許さなかった。

 相馬一平は徳兵衛の目から視線を下げると、深々と彼に一礼する。


 「拙者せっしゃは織田家前田利家様が家臣、奥村永福殿の家来にございまする」

 「織田の家来・・・」


 徳兵衛は湯を一口すすった。

 「おぬしはここが何処かと言うことも心得ておろうな」

 「いかにも、一向衆徒の里にございまする」 

 一平は徳兵衛の目を見つめ、なおも淡々と答える。

 「お父様、私が相馬様にご身分をいつわるようにと申したのでございます」

 たまりかねた香が、徳兵衛の前で両手を合わせる。

 「馬鹿な、何故じゃ。何故織田の者と分かっていて・・・」

 徳兵衛は畳をひとつ、右の掌で叩いた。その音は夜のとばりの中、以外にも大きく響き、いつまでも耳の中に残った。


 しかし、これは香の小さな胸の肝を冷やすことにはなっても、彼女の気持ちまで変化させることはできなかった。

 香はすっくと背筋を伸ばしその大きな瞳で父徳兵衛を見つめ直すと、改めて静かに語り始めた。

 「人助けをすることに織田も上杉も関係ございません。人の命は、その尽きるまで生かすものと、私は教わって参りました。それが一向衆の教えだと・・・」

 香の真剣な眼差しが、徳兵衛を見据える。

 「しかし・・・」

 「それに、上杉は七年前、今は亡き母を殺した家でございます。私は今でも上杉を許すことは出来ません」

 香は初めて声を荒げ、その傷ついた心の内をさらした。


 「徳兵衛殿、拙者がお香様、いえ、お嬢様に命乞いのちごいを致したのでございます」

 「一平様!」

 香は一平の横顔を見つめる。

 一平は徳兵衛を真っ直ぐに見据えると、もう一度深々と頭を垂れた。

 「徳兵衛殿、偽りを申していたは拙者の不徳ふとくの致すところ。また、これまで御恩の数々、けっして忘れるものではございません。この期に及んで、再び命乞いなどは致しませぬゆえ、どうかご存分に・・・」

 彼はそう言うと、横に並ぶように座る香へも深々と一礼をした。

 香は何も言わない変わりに、静かに泣いた。声もたてずに静かに泣き崩れた。

 徳兵衛は再び目を閉じると、しばらくの間黙って空を仰いでいた。


 沈黙の後、徳兵衛は一枚の紙を一平の前に差し出した。紙には何やら文字が記されている。

 徳兵衛はゆっくりとすずりりながら、重い口を開く。

 「相馬殿、おぬし一向衆徒になる気はござらんか。織田を捨て、侍を捨ててこの里で一向衆徒として新たに生きていく気はござらんか?」


 香はすがるような目で、一平を見つめている。

 「お心遣い、まことにありがたいと思いまする。しかし、拙者も侍の端くれ、命欲しさのあまり、己の信ずる方を裏切ることは出来ませぬ」

 一平はまぶたの奥に、あの奥村永福の姿を思い出していた。

 「一平様・・・」

 「お香様、申し訳ござらぬ」

 徳兵衛はひとつ頷くと、硯を磨る手を止めた。

 そして、寂しげな目で香の姿を見ると、残りの湯をもう一度すすった。



 次の朝早く、日向徳兵衛は新吾達三人を屋敷へと呼んだ。

 中庭には徳兵衛が一人立っている。そのかたわらには相馬一平が、後ろ手に縄を付けられ座らされている。


 「徳兵衛様、これは?・・・」

 新吾は挨拶あいさつも忘れるほどに尋ねる。

 徳兵衛は答える代わりに、一平を厳しい表情で見据みすえた。

 「新吾、この者の処分、お前達に任せる。なるべく村からは遠くまで連れていくのだ。よいな」

 「お香様は、このことをご存じなので?」

 孫一が屋敷の方に目を移す。

 徳兵衛は弱々しく首を振った。

 「相馬様は、おら達にも槍の使い方や弓の使い方を教えてくれたのに・・・」

 年若の太助は、一番一平に懐いている。それだけに、これから起こりうる状況を誰よりも心配しているようであった。

 太助は徳兵衛の足下で、声も出さずに頭を地面に擦り付けた。しかし、徳兵衛はそんな太助の願いを聞き入れることはなかった。

 新吾は跪く一平に軽く頭を下げると、その縄を孫一に手渡す。

 一平はいま一度徳兵衛に深々と一礼するや、屋敷に向かっても深く首を垂れた。


 誰にも知れることなく村を出た一平と新吾達は、火燈山ひともしやまから梅ノ木山へと抜けた。

 途中、彼らは何も語らずにただ黙々と歩く。どちらかが喋りかけてしまえば、これからの先の別れがそれだけつらくなるものだと知っていたからかも知れない。

 北西に見晴らしが開けた台地に出たところで、新吾は一平をその場に座らせた。

 彼はあらがうこともなく、静かにそこに跪くひざまづ

 ここからは、能美のみの平野がよく見える。一平はその景色を何処か懐かしそうに眺めた。


 「新吾、孫一、太助、ここまで世話をかけたな。今度合うときは、戦など無い平和な世で会おうぞ」

 一平は軽く目を閉じると、その首を前へと差し出す。

 新吾は音も立てずに刀を抜くと、彼の後ろへと立った。

 孫一と太助は、一言も声を発することなく、ただ二人を見ているだけである。自分たちがこの間に入ってはいけないものだと無意識のうちにも感じているからである。


 新吾はなおも近付く。

 「ここから織田の陣までは、山伝いに一日も下れば着くはずだ。今度会う時は、お互いかたき同士だ・・・」

 そう言うと、新吾は一平の縄を斬った。

 「何故、わしを助けるのか?・・・」

 一平はゆっくりと目を開け、新吾を見上げる。

 「これ以上、おぬしのことでお香様の悲しい顔を見たくはないだけだ・・・」

 そう言うと、新吾達は今来た道を風のようにと走り去っていった。


 一平は尾根おね伝いに山を下った。

 半日もすると、麓の村が見下ろせる小高い丘の上に出た。彼はそこから、梯川かけはしがわ伝いに織田の陣を目指そうと思ったのである。

 彼が再び、その丘を下ろうとした時のことである。眼下に見える村の外れで、突然鉄砲の音と供にときの声が上がった。

 戦の様子からすると、織田方による一向衆徒狩りのようである。

 弓衆が火矢で、ところかまわず民家の屋根に火を点けている。その後ろを騎馬武者が長槍をもって押し進む。

 その光景たるや、まるできつねししでも追い立てる狩りをしているかのようである。

 村の中央では、兵達の間を女や子供、老人が泣き叫びながら逃げまどう姿があった。

 織田軍は老若男女の区別無く、次から次へと無抵抗の村人達に刃を突き立てた。まさにそれは、殺戮さつりくである。


 「や、やめろ・・・、やめるんだ・・・」

 相馬一平は、そう叫びながら丘を転がるように駆け下りた。


 彼は織田方の兵と村人らが入り乱れる中に身を投じると、さらに大きな声で叫んだ、叫び続けた。

 不意に彼の後ろから、織田方の兵が襲いかかる。一平はすかさずその兵の槍を掴むと、反転してその槍の石突きで、兵の腹をひと突きした。


 「やめろ! わしは織田の兵じゃ、相馬一平じゃー」

 しかし、戦乱の中では彼の声など無に等しい、瞬く間に彼は織田方の兵達に囲まれた。

 いくら槍上手とは言え、そこは多勢に無勢である。一平はすぐに力尽きた。


 「こやつもきっと、一向衆の門徒もんとぞ、殺してしまえ」

 兵達は、一平に向かって口々にののしる。

 「何故じゃ・・・、何故、わしらは殺し合うのじゃ・・・」

 一平は槍を放り捨て、その場に座り込んだ。

 「こやつ、何をぶつぶつと・・・」

 織田方の兵の一人が刀を振りかぶった。とその時、その場の空気を切り裂くようなひと際大きな声が 

 「待てーっ、しばし待つのだ」

 振り向くと、そこには黒塗りの鎧を付けた武将が馬にまたがっている。

 奥村永福おくむらながとみである。

 永福は一平の姿を覚えていたのである。


 「おぬしは確か、相馬一平と申したな」

 一平はゆっくりと、その顔を見上げる。

 「殿、何故っ、何故罪も無き女子供まで殺すのですか?」

 永福は馬から下りると、一平の肩を優しく掴んだ。

 「よくぞ生きていた、よくぞ生きていたのう」


 「殿、戦とは関係ない者まで、何故あやめなければならないのですか?」

 一平は改めて永福の前に両手をついて懇願こんがんする。

 「殿、何卒なにとぞ無益な殺生せっしょうはおやめ下さいませ」

 「一平、あやつらは人ではない。女子供まで念仏を唱えては竹槍を向けてくる。それどころか、斬られても斬られても笑っておるのじゃ」

 永福は、傍らに横たわる一向衆徒のむくろを脚でひとつ仰向けにした。それは乳飲み子を抱いた母親のものである。

 「こやつらを根絶ねだやしにしなければ、またわしらが殺られるまでじゃ」

 それは、相馬一平が初めて見る奥村永福の別の顔でもあった。


 彼はさらに続ける。

 「それに実は先日、越後ではあの謙信公が身まかわれたというのだ」

 「上杉謙信公が・・・」

 「さよう、これで我が織田軍は、一気に越中まで攻め上がることができると言うものじゃ」

 奥村永福は、彼に織田の陣営に戻ることを勧めた。それは先の戦で散った、望月三郎太の敵を討つためだとも言っていた。

 しかし、この時一平の耳には、永福の言葉がすでに冬を前にした北風の音に掻き消されていくばかりであった。


 織田軍が去った後の村に、一平はひとり立っていた。

 足を一歩踏み出してみる。ところが彼の目には、自分の足以外何も動くものを見つけることができなかった。

 ただ低い空を渡る雲の流れだけが、異様なほど早く思える。そこには怖いほどの静寂さがあり、この世のすべてを絶望感へと支配しているようにも感じられた。


 「何故じゃ、何故わしらは殺し合わなければならないんじゃ」

 一平は傍らに横たわる村人の胸ぐらを掴みあげる。

 男の首は不自然な曲がり方をしたままで、その開いた口は何も語ろうとはしなかった。


 一平はその村を後にした。もちろん行く当てなど無かったが、織田の陣に戻ることなど、この時の彼にはついに考えも着かなかった。

 彼は山を彷徨さまよい歩いた。


 「わしらは何のために戦うのじゃ・・・、わしは何のために生きるのじゃ・・・」

 一平は何度も何度も呟きながら、なお山を彷徨う。何日も、何日も・・・


 気が付くと、彼は白山はくさんの谷の麓、願慶寺がんけいじの山門の前に立っていた。

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