48 開かずの雨戸
日が西に傾くと、新小岩の小路には人の姿が現れるようになる。買い物に出る女性、自宅を目指す学生や生徒が、慣れた様子で入り組んだ複雑な道を特別な考えも無しに使いこなす。
見渡しの利きにくい親水公園の一角に勝利とライムを降ろし、ダブルワークはそのまま上空に留まった。
夏や花の季節なら散歩をする者も多いが、冬の備えを済ませた木々は見目が寒々しく、流水の音が地元の人間の足を自然と遠のかせる。十二月の親水公園は、人の姿が突然現れても何ら問題のない場所になっていた。
「わざわざ送ってくれて、ありがとうございます」勝利は、幾らか疲れた顔で無理に笑顔を拵える。「それから、これ、今夜から使わせてもらいますね」と小さな包みをライムの前に翳した。中には、昼間彼等の部屋で焚かれていた香と専用の香炉一式が入っている。
「ああ」と、ライムが頷いた。「使い方は教えた通りだ。疲れている時など、火の取り扱いには十分気をつけてくれ」
「はい」正に今夜、不注意なるものをしでかしてしまいそうなので、子供にするような注意にも勝利は素直に応じる。
「それでは明日の午前九時に、まんぼう亭で待っている」
最後に、ライムから湖守との約束について念を押された。
昨日も就活に失敗した自分が、今日は既にアルバイトの面接を決めているとは。しかも、神の一人である事を経営側に隠さず、時間給労働者として人間にできる作業をするという話だ。メリットも、おそらくは存在するであろうリスクも、時給の外に隠れている。
だが、勝利の中に揺らぎはなかった。
「必ず伺います。それでは、俺はこの辺で。ライムさんもダブルワークさんも、今日はありがとうございました!!」
軽く会釈し、勝利は親水公園を後にする。
垂直に機体を立てたまま、ダブルワークが片手を挙げた。別れの言葉はない。
機体近辺を離れた事で、勝利の耳に白い群星機の声を直接届ける事ができなくなったのだろう。至近の送話は、心話とは異なる技術のようだ。
勝利は、早足でアパートを目指す。コートの右ポケットには、湖守から貰った携帯端末が。左には、部屋の鍵とスマホが入っている。そして、帰り際に渡された別の土産は、右手の上だ。
これから、生活が、働き方が、そして時間の使い方が根本的に変わるのだ、と思った。勝負神である事と三日吸いの被害者である事は、今後の勝利について回る。好むと好まざるとに拘わらず。
考えの整理をするのは、明日以降にしよう。流石に頭の中は破裂寸前で、一日分の回想一つ満足に出来そうにもない。
日没を迎える頃、勝利は自室に戻った。
今朝の湯で暖を取ると、コートを着たまま香も焚かず、まず横になる。和室を明るく照らす照明を見上げ、そう悪くもない気分のまま目を瞑った。
どのくらい経った後だろうか、すっかり日も暮れているのだろうに、人のざわめきが起こっている。
口々に「良かった」、「良かった」を繰り返す。場所も近そうだ。
勝利にとって、心当たりはたった一つだった。脱兎の如く自室を飛び出し、隣家の前で人垣に加わる。
警察から両親に一報が入った時点で、百合音が保護された事は近所に知れ渡っていたのだろう。父親の運転する車が隣家の前に停車しており、後部座席に百合音がいた。喜々としてそれを囲むのは、十人以上の大人達だ。
皆、百合音の安否を気にかけていた者ばかりで、また、少女の失踪後に警察官の訪問を受けてもいる。近所の誰もが犯人にあたらない状況下で百合音が自宅に帰って来る瞬間。それは、互いを疑わなくて良かったと胸を撫で下ろす瞬間でもあった。
疑われたという点に於いて、勝利も該当する一人に含まれる。参加する権利なら十分だ。
後部座席のドアが開いて、父親が百合音を降ろす。
「検査の為とか言って、今日は入院かと思ってたわ」と中年女性が父親に話しかけると、「病院には行きました。明日、検査入院します。今までご心配をおかけしました」と簡単な説明に詫びを付け加える。
「まずは今日、一旦家族と過ごさせようって事ね」と誰かが言えば、「ほら、百合音ちゃんは未成年だから」と納得しやすい説明をつける者が現れる。
田辺という男性は、今夜病院で一夜を明かすのかもしれない。勝利も、警察の配慮と疑わずに飲み込んだ。
子供が自宅に帰り、両親が大事そうに家の中に招き入れようとする。たったそれだけの光景が、どうして人の胸を打つのだろう。
「良かった。本当に良かった…」
勝利の頬を、暖かな涙が伝った。
隣に立つ中年女性が、「あら、お兄ちゃん。ほらほら、涙を拭いて」と手に持っているタオルを差し出す。
台所にあった物と思しきタオルからは、タマネギとジャガイモの臭いがした。
夢の筈なのに、右手の掌にジャガイモを掴んで投げつけた時の感触が蘇ってくる。その後は、落涙を抑える事ができなかった。
「誰…?」と母親が訝しげに眉をひそめると、百合音が勝利の部屋を指し「お隣さんよ」と既知の顔をする。「私のお部屋に気を遣って、一度も雨戸を開けない人。きっと細やかな配慮をする優しい人なのね」
「あ…」その説明には両親共に共感をしたらしく、眼差しが突然柔和になった。
勝利の心遣いが隣家の人間に伝わっていたとは。それすら嬉しくて、いよいよ涙が止まらなくなる。
「大丈夫ですよ」と、勝利はしゃくり上げつつ応える。「南側の窓だけで十分に明かり取りができますし。俺も実家に妹がいるから、女の子の部屋とは距離を置く事に慣れてるんです」
「まぁ、妹さんが」
「同じ物使うなとか、音が漏れるとか、色々怒られてました」
音の言葉が出た直後、母親と父親が顔を見合わせる。そして、空き室となっている一階と二階の部屋に視線を流した。
「あの、ちょっと待ってて」
言うなり、娘を残して母親が一旦家の中に入る。出てきた時には、小さなタッパーを六個も抱えており、勝利にそれを押しつけた。
「これ、食べて。冷凍しておいた、娘の分のおかずなの」
勝利は、しまったと思った。気が緩みすぎた果てに、それとなく漏れ聞こえた嗚咽の批判をしてしまった気がする。
ところが、「貰っておきなさいよ」と近所の人達から肩を叩かれた。「もう、おかずの冷凍なんてしなくて済むのよ。五月雨さんのところは」
ああ、辛い過去に繋がる物を消去する為の手伝いなのだ、と理解する。一人分のおかずは、もう残っていてはいけないのだ。
「ありがとうございます。」とタッパー群を抱え首だけを下げた。「明日、面接なんです。このおかずを食べて頑張ってきます」
五月雨一家が、皆に頭を下げる。
そして、人垣を成す全員が自宅へと戻った。
勝利は器用にドアを開け、一つを除いておかずを一旦冷凍する。空腹を満たす為にレンジで暖め箸をつけると、醤油味の強い家庭の味がした。
隣家の鍋に残った物が、今、自分の口に入るなど、誰に予想できるだろう。
勝利の失った三日間によって、勝利は池袋の会社に入社した事実を無くした。昨夜は腹立たしくさえあったが、その一枠を別の人間が獲得し、会社倒産の日まで頑張って働いたのかもしれない。失ったまま縫修されるという事は、その事実が固定する事でもあるのだ。
今、こうして終えようとしている自分の一日が、誰かの事情による変更の結果なのだと、また決してそうではないと証明する術はこの世に存在しない。それでも人は足掻いて生き、自身の力で掴んだり誰かの代わりに手に入れたりもする。
全ては、神の采配か。いや。偶発的なものは沢山存在する。神々も全能ではないのだから。
勝利は、より深く知りたくなった。
縫修師誕生に至る経緯を。そして、そもそも三日吸いとは何なのか、を。
明日、突き止める為の挑戦が始まる。
※ ※ ※
部屋の東側から、少女の声がする。異様に切実さを含んだ喚き声だ。百合音は帰宅し、隣家には平穏が戻ったというのに。
布団の中でまどろみ、音のない睡眠の世界と布団の外にある現実の間を億劫そうに転がりながら何度も行き来する。
「一周さん!! 面接、何時ですか? もう八時四六分ですよ!!」
その瞬間、勝利は掛け布団を放り投げた。
髪が乱れているのも構わず、勝利は東側の雨戸を慌てて開ける。この部屋に引っ越して以来、一度も開けた事のない雨戸を。
向かいの窓が開いていた。長髪の高校生が「おはようございます」と、笑顔で挨拶をする。腰まで延びている黒髪を束ねる事なく後ろに流し、淡いピンクのブラウスの上に白のセーターを合わせている。血色の良い肌と唇が、少女の健康状態を表していた。
ただ、親近感と共に勝利を直視する双眸が、勝利を耳まで赤く染める。突然縮まっている距離に、どう対処していいのかわからないのが現状だ。
「お…、おはよう、百合音ちゃん。起こしてくれて、ありがとう」
肩で息をしている勝利に、百合音はくすくすと軽やかに笑う。
「それで、その…。面接は何時からなんですか?」
「午前九時から…」気まずそうに答えると、隣家の一階から誰かの転ぶ音がした。「と、とにかくすぐに出るよ。昨日のおかずのお礼は、戻って来てから必ずするってお母さんに伝えてくれるかな?」
「はい」と答えた後、百合音は横を向いた。爆笑を堪えるのに必死で、正面を向いていられないらしい。
「君も、今日は病院なんだろう? 気をつけて」
「はい。それから…、昨日は気を遣ってくれて、ありがとうございます」
続けて、百合音が一音づつ区切って無音のまま口の形を作り始めた。それは内々に伝えたい彼女のメッセージを成しており、意味を理解した途端、勝利の内に驚きが走る。
ホ・ウ・シュ・ウ・ノ・ト・キ・ニ、イ・マ・シ・タ・ネ。
「百合音ちゃん…」
どう返したらよいのか迷う勝利に、百合音はかわいらしい唇の前に右手の人差し指を立てる。
勝利も、了解して頷いた。
それぞれが自分の部屋の窓を閉め、行くべき場所の事を思う。
自分のスマホと携帯端末、財布、部屋の鍵、そして書き換わった履歴書を大判の封筒に入れ、勝利は楽な服装で部屋を飛び出した。目指すは、新小岩駅だ。
晴天の朝。今日は無風に近く、走っていても寒さが身にしみるという感じがしない。飛び起きた割に体力は回復しており、気分も爽快だった。
駅のホームが見えるところまで来た時、下りの総武線各駅停車が入線した。勝利は携帯端末を取り出し、まんぼう亭に遅刻する旨を伝える。
無情にも、乗り損ねた下り列車が出発した。沢山のサラリーマンや学生、家族連れを乗せて。
銀色の車体に黄色いラインを施された各駅停車が、陽光の下に滑り出す。
-- 第2話に続く --
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