44 吸魔の決断

『人、ゲンに、戻ス…』期待と不安が交錯し、高ぶった感情が尚一層不明瞭な発音へと誘導する。百合音と呼ばれて否定をせず話を進めたがる辺り、声の主は、確かに彼女本人であるようだ。『戻レ、るノ…? ワタし』

 ライムが、小さく首を横に振る。

「残念な事だが、君に成功を約束できない。希に消滅してしまう者がいる」

 吸魔の後ろ足が、ダブルワークを蹴りつけようとして外す。その間も、人間の言葉を操る声はライムの呼びかけに応え続けていた。

『そレで、モ、いい…。お父サ、んとオ母、さんのト、こロニ、カえリたイの、カ、食べタイのカ、ワカラな、く、ナッテ、きタかラ』

「百合音ちゃん…」

 勝利の中で、昨夜の悪夢が別の意味という新たな色彩を帯びる。吸魔に対する怒りどころか、許しさえ最早何処にもない。

 本気で考えた。襲われたのが自分で良かった、と。

 自宅に帰りたい。ただそれだけを願っている子供が、慕っている親の姿を見た途端、底なしの乾きに耐えかね、つい食らいついてしまう。そんな悲劇があっていいものか。

 あの吸魔の縫修が終わったら、五月雨家は全員揃うべきなのだ。吸魔化した親が不在なら、今度は彼女が自室で泣く事になる。

 ましてや、親を手にかけた子供が、人間に戻りたいなどと望む筈がない。百合音の中にある一縷の希望は、彼女の乾きを勝利が受け止めた事で成立している微かな光の道なのだ。

「君は、人間に戻る事を望んでいいんだよ」両手を組み、勝利は祈った。息ばかりの声は微かで、誰に届く事もない。「ライムさんの縫修は、俺が必ず成功させる。ライムさんとミカギさんの縫修は、これから全て成功するんだ」

 吸魔の気持ちを汲み取り、ライムが頷く。

「この後、君の時間に干渉する資格を得てから、私は君に縫修を行う。縫修とは、三日吸いによって断線を起こした君の時間を、君自身の時間で修復する行為だ。吸魔に襲われ三日分の時間を失った君の過去から、私は、更に二日分を摘出する」

(え………)

 縫修の成功を願う真摯な祈りが、勝利の意に反し、中断して消えた。祈りに向かって流れ込んでいたエネルギーは行く場を失い、俄勝負神のいい加減さを責める。

 一方、勝利の変化に気づいていないライムは、吸魔となった少女に説明を続けている。

「対象とする時期は、私でも選ぶ事ができない。ただ、連続した二日間にするか、ばらばらの二日間にするかは、私の自由にできる。百合音君、私が決めてもいいか?」

 応答は、すぐには返って来なかった。

 勿論、勝利も理解する。縫修師なる神々が、勝利のような勝率操作を行う神に更なる底上げを望む理由はここにあったのだ、と。

 縫修師と縫修機達の苦悩、「人殺しライム」の異名など、不吉な印象の全てに合点がゆく。縫修の説明を求める勝利に、彼等の口が揃って重くなる訳だ。

 彼等は、勝利の悪影響から逃れるだけでは、問題が完全に解決しない事を承知していた。「勝利さえ良ければ」、更に良好な結果がもたらされる事を言うに言えない思いの中で密かに望んでいたのだ。

 小さく舌打ちする。それは勝利自身の浅慮を嫌悪するものだった。

 ライムとダブルワークには届いていただろう。突然翻した態度について、申し訳ないとは思う。

 理屈だけは理解しているのだ。彼女の過去を必要とするのは、彼女自身の皮膚を摘出し患部に縫合するのと同じ事なのだ、と。

 縫修にしても、ライム達が作り上げた技術ではなかろう。厳しい条件の下で毎回ベストを尽くそうとする彼等が神に祈る事それ自体を責めるのもお門違いだ。

 しかし。百合音もマスの吸魔も、既に三日を失っている。吸魔に堕ちただけではなく、既に過去も変えられてしまった。その貴重な残りの歴史から、誕生や生命の存続にかかわる重要な日が摘出されてしまったら、彼女達は今日存在する事を完全に否定されてしまうのだ。

 縫修こそが、彼らを殺す。

 勿論、たとえ命を繋いだとしても、楽観はできない。失う二日で、彼女の、そして縁があった誰か、何かに影響が出る。他人の巡り合わせまで変わってしまうのだ。

 吸魔を人間に戻す唯一の手段、縫修。何と不完全な技術なのだろう。

 ライムは、全てを正しく理解した上で足を止めた勝利に、何一つ声をかけようとしない。ダブルワークもだ。

 心中に大波が立つ。

「いい加減にしろよ、俺…」

 自分の矮小加減に呆れ、勝利は自身の両頬を何度も叩いた。結局、ライム達が見透かした通り、縫修の批判を始めているではないか。

 勝利が、百合音の過去にある風邪で寝込んだ日などを選択させれば、それで済む事なのに。命を脅かす心配はなく、他の誰にも影響が及ばない日は、年若い高校生の人生にも一日や二日は確実に存在するのだから。

 それでも、頭を擡げてくる。「まだむしり取るのか」という憤りが。

 何を願ったらいいのか。次第に、理想像なる代物があやふやになってゆく。

 吸魔の思いも未だ固まらない。

 迷いもしよう。百合音にとっては、自分自身の問題なのだ。

 球状モニター内の動きが激しいので、勝利は百合音の心が決まるまでダブルワークと吸魔の駆け引きに目を移す事にした。戦闘中、よく口の回っていた快活な男が、今は黙々と吸魔と相対している。

 吸魔は、動きのきれが変わらないなりにも、全身から噴き出す殺意が削がれ、荒ぶる魔物から暴れる獣へと変貌しつつあった。攻撃や防御の為の反撃は激減し、ダブルワークをかわして逃げる事の方が増えている。

 原因は、人間の意識が戻った事による影響だろう。怨嗟を手放した事で多少なりとも思考を働かせるようになったのか、背後に回りたがるダブルワークから、三つめの標的を体の前半分と推理したらしい。

 ヴァイエルの機体は、あくまで囮だ。青盾を対ダブルワークに使わせる事で、前半分にビーム兵器を使用する。それが縫修機の狙いなのだ、と薄々気づいているのだ。

 青盾は、頭部から背を守る形で二つが不規則に運動をしていた。

 吸魔の気を散らしてやろうと、ダブルワークが黒い炎の尻を追い立てるも、なかなか上手くゆかない。

 空間の亀裂が塞がるまで、残りは十分少々だと思う。

『みドリ、の縫、しュウ師さ、ンニ、お任セ、シまス』

 決断を渋っていた人の意識が、遂に自分なりの答えを出した。

 だが、それによって、ライムの心に大きく命と責任の両方が乗ってしまった事になる。

 吸魔が暴れた。人間の決断に全身で不服を唱えているつもりなのか、青盾が無駄な舞いを絡め、前半分を無防備にする。

 白い涙型のビーム兵器が、赤い閃光を左前足の先端部分を貫く。

 鈍く輝くピンが、自ら位置を固定した。

「あ…」

 勝利の口が、大きく開く。

 吸魔は、炎の燃料でも尽きたのか、まるで動かなくなった。全身を守る筈の青い炎も盾として中空に浮いたまま、敵たるダブルワークを前にしても一切仕事をしようとしない。

 ライムが、ちらりと球状モニターに目をやった。自身で吸魔の状態を確認した後、おもむろにトレンチコートを脱いで、座っていたシートにかける。

 そして、目線を合わせず静かに呟いた。

「勝利君。これから縫修を始める。たとえ君の気持ちが変わったとしても、彼女の為に…、吸魔にされてしまった人間の為に。縫修の成功を望んで欲しい」



          -- 「45 縫修」に続く --

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