06 謎の事情通

 警察が失踪事件の捜査に行き詰まり、被害者宅周辺の洗い直しでもしているのだろうか。勝利は最初、そう勘ぐった。

 確かに、隣家で失踪事件が起きた後、十一月という時期にしては珍しくばたばたと二部屋が突然空いた。このアパートは、現在六部屋が入居中。二部屋が空き部屋として次なる入居者を待っている。

 空いたのはいずれも勝利の部屋に接している場所ばかりで、二階の隣の部屋が一つ、一階は勝利の部屋の真下が空いた。

 だから、という訳でもないが、昨夜何の躊躇いもなく幾度も畳を叩いてしまった。もし、下が入居中なら、八つ当たりされた畳の代わりに階下の人間が勝利を怒鳴りつけていただろう。

 転出した人間も疑われているのかもしれないが、窪地に入居を続けている勝利にも、当然疑惑の目は向けられるように思う。

 さも憂鬱そうに左手で頭を掻いた。

 警察の監視付きというだけで、履歴書に日付を入れる気が失せる。二社分のメールを用意する前から、応募先にまで押しかけてゆく私服捜査官の姿が目に浮かんだ。

(前にも言っただろ。俺は何もしてないって…)

 昨夜路上で獣に襲われた傷心の被害者に、何と無体な加害者扱い。当然、怒りは五割増となって監視者に向けられる。

 子供のような衝動から、勝利はわざと窓ガラスに貼りついた。「部屋の中からお前を見ているぞ」、そう伝えたいばかりに。

 外にいる男と、目が合った。

 直後、警察という二文字の上に脳が赤い横線を引いて否定しにかかる。

 違う。

 あの男が警察官である訳がない。容姿は明らかに白人系の外国人のもので、公務員特有の臭気も醸し出していないのだ。登校中の女子児童などは、しきりと振り返っては男の姿を目に焼きつける有様だ。

 同じ遭遇者として、少女の気持ちもわからなくはない。卵焼きと味噌汁の香る朝の下町に、雑誌の表紙を飾るクラスのモデルが迷い込んだも同然なのだから。

 ならば、何者なのか、という疑問が湧く。そもそも男は、監視を悟られる事に何の不利益も感じていない様子だった。敷地と道路の境界に植えられている生け垣で身を隠す事もせず、勝利が気づいた時から体の姿勢と向きをずっと同じにしている。

 立ち位置は、角部屋に最も近い路上。つまり、勝利の部屋の真下だ。

 こういう至近の張りつきを「張り込み」には括れまい。発見される事まで折り込み済みの行動だ。

 彼は一体誰なのか。勝利の何に興味があるのか。そこに考えが及んだところで、突然悪寒と共に総毛立った。

 よもや、まさかとは思うが。あの黒い獣の関係者、という可能性がありはしないか。

 自分など所詮、無職のまま一人暮らしを続けている地方出身者だ。期間限定部の仲間達の他、都内で勝利と繋がりを持つ人間はいない。

 黒い獣に襲われた昨夜、周囲に目をやる余裕などなかったのだが。或いは、背後に人がいて襲撃の一切を見届けていたという事もあり得る。

 口封じ。そんな物騒な単語が勝利の思考に悪意の染みを拵えた。声に出すまいと飲み込めば、単語は途端に胃の下で重量を増す。

 目を背けたくない。勝利の中で、闘志に火が点った。

 それは、「死にたくない」と同列の全身を業火で焦がす決意でもある。勝利は、改めて男の観察に集中した。

 すらりとした立ち姿だけでも、十分に人目を引く。身だしなみを整えた上に姿勢が良い為だ。

 連れはいないのか、それとも別行動なのか。勝利が発見した時から、男はずっと一人でアパートを窺っている。

 背は高く、幾分痩せ気味。今時珍しいトレンチコートを着こなし、コートの着膨れによる加算分でようやく中肉に辿り着いている感がある。

 肩まで伸びた茶髪はウェーブがかかっており、簡単にまとめて左に流すだけ。ボリュームの所為で頭がやや大きく見える。

 しかも、眼鏡をかけていた。レンズの形はありふれたもので、朝日を反射している今は、二枚のレンズが白く顔の上半分を覆っている。

 眼光鋭く見えるその反射が、男の印象をとても冷たいものに仕上げていた。しかし、紳士に見える理由がこの眼鏡にあるのも確かだ。

 推定で二〇代後半。やや厳しい表情が、本来の年齢より幾つか大きく見せているかもしれない。

 そして、気になる事がもう一つだけ。

 男はどれだけの時間、不動の姿勢のままアパートの下に立ち続けているのだろう。始めた直後でないとするなら、静止画のように姿勢を保持し続けるあの足腰は、鍛えられた結果と考えた方がよい気がする。

 何の為にある体なのか。勝利には、男の職業が想像できなかった。

(いっそ、本人に直接訊いてみるか…?)

 外の男以上に大胆な発想をしてから、実行すべきか否か、躊躇った。

 まず写真を撮るのはどうだ。直接声をかけるのは、その後でもいい。勝利は、座卓の上から愛用のスマホを取り上げ、窓に背を向けつつ後ろ歩きで近づいた。

 不意を突く形でチャイムが鳴ったのは、その時だ。

 咄嗟の連想で、仲間の存在を思い描く。実に妥当な推理だ、と勝利自身は内容を肯定する事にした。

 敢えて返事をせず、訪問者の次なる行動を待つ。

 今度は、ドアをノックし始めた。

 繰り返す音を怯えて聞きながら勝利が背中越しに小路を窺うと、立っていた男の姿がない。

 まさか。連れと合流し、今、玄関の外にいるのか。

 心臓の拍動が早いリズムを刻む。

 何一つ反応せずにいると、とうとう低い男の声が聞こえてきた。

「あんた、昨日の夜に何か見ただろ? そいつについて訊きてぇんだ」男は更に続ける。「俺達は、別に怪しい者じゃないぞ」

 嘘をつけ、と勝利は心中で毒づいた。音を発さず臭いも放たない黒い獣は、決して人間の味方でも人間に無関心でもない。その獣に通じている人間が勝利を助ける事もせず、夜が明けてから「敵ではない」と迂遠な説明をする。

 プツンと何かが切れた。握り潰してしまいそうな握力でスマホを掴んだまま、ドスドスと音を立て勝利はドアの前に立つ。

 尚も開ける事はせず、「怪しさ爆発だろ!?」とドア越しに目一杯の声量で訪問者を怒鳴りつけた。

「ふざけるな!! あれは、あんた達のペットなのか? どうしてくれるんだ!! おかげで、俺の…俺の…」過去が書き換えられた、と吐き出す事は寸でのところで躊躇する。

 別の声がしたからだ。

 穏やかな物言いをする男の声が、ドアの外にぶつけるしかない被害者の慟哭を柔らかく受け止める。

「悪かった。昨夜の襲撃に間に合わなくて…」

 それを聞いた途端、勝利の感情が全て反転した。

 怒りは悲しみに、八つ当たりは後悔に、被害者意識は無力感へと裏返って、同じ量のエネルギーが勝利から体中の力を奪ってゆく。

 立ち続ける事さえ困難になって、勝利は玄関に座り込んだ。両手を突き、俯いた姿勢で嗚咽を漏らす。

 ドアの外にいる男達は、その間ずっと黙したままだった。

 おそらくは知っているのだ。獣によって奪い去られたものが、勝利を勝利たらしめている過去である事を。



          -- 「07 ライムとダブルワーク  その1」に続く --

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