05 階上を窺う男
不変、不可侵の代表格と信じていた過去なるものに手を加える。
現在という永遠の川上に立つ者なら、川下の流れを変える技術や能力の存在に誰もが強い疑念を抱くだろう。
ましてや、不気味な黒い獣にそれが可能だと考えるのは、無理を通り越し愚行の域に到達している。勝利の思考と感情を飲み込んだのは、周囲の景色から色を奪う深く出口のない失望だった。
モノトーンに見える自室の内部は、実際に色を失っているのではない。勝利が自分を取り戻せば済むだけの一時的な喪失だ。
しかし、色彩が蘇る時は即ち、過去を書き換えられたという俄には信じ難い事実を思考と感情の両面で受容する時でもある。感情の反発が酷く、勝利は何度も畳を叩いた。
(何故、自分に起きた? そして、誰が信じてくれるんだ…?)
食欲も睡眠願望も消し飛んだ深夜、勝利は自室で無性に絶叫したくなった。
忍耐も世間体も足枷になるものは全て破棄し、幼児のように憤懣やるかたない思いを声によって迸らせる。
やれば、楽にはなるだろう。尤も、実際に行ってしまえばどうなるか。結果は想像するまでもない。
(頭は、まだまともなのか…。いっそ、おかしくなってもいいのに…)
正常な判断をする自分に胸を撫で下ろしつつ、一線を越えさせない理性の働きが疎ましくもある。この先、人が決して信じる筈のない話を肯定する理性が、折々に自分を苦しめる事になる。
ふうと息をつき、両手で自分の両頬をはたく。
「よせよせ。…しっかりしろ」と、敢えて声に出した。
全身のあちこちから突き上げてくる感情の波や衝動を集めて腹の底に圧縮し、理性と意志の力で唾を飲み込むに留める。いつも、そのようにして蓋を被せてきた。
常識の外にある怪奇現象が元で忍耐を強いられる。幼い頃から、既に生活の一部と化しているではないか。
(やっぱり少し口に入れるか…)
鈍い動作で立ち上がり、魔法瓶の湯でコーヒーを作る。砂糖とミルクを多めにしたのは、飲み物の中に癒しの成分を加えている気分になったからだ。
座卓に置いて深く香りを吸い込んだ後、高すぎる温度を堪え何度か啜る。
甘味とまろやかさ、熱気が相まって、五臓六腑に染み渡る。僅かだが、我慢ではなく、前向きに思考しようという意欲も戻ってきた。
「考えろ、俺…」
勝利の中に、膨張してゆく不安がある。失ったのは、池袋の会社に入社した事実だけなのか…?
違う、と勘の隣人が勝利の中で即答した。
ゆるゆると体を傾け、座卓の横に積んである本の山をほぼ横臥した姿勢から眺め回す。買った時期がまちまちな本の中に、池袋勤めの頃に立ち寄って買ったものが含まれている筈だった。
確か、生き物の写真集だったと覚えている。表紙のかわいらしさから手元に置きたくなった気がする一方、犬だったのかハムスターだったのか肝心な部分でさっぱり記憶が定まらない。
二つの山の中には、墨田区の特集雑誌やスマホのカメラ術を纏めた雑誌、マンガに料理本も数冊混じっていた。
しかし、件の動物写真集がやはり見当たらない。手放した記憶については残滓さえないので、普通に考えればまだ室内に転がっている事になる。
察するに、池袋勤めの事実が失われた事によって、その延長上で行動していた結果の全ても失われてしまったのだ。
特に、出会い頭とも言うべき衝動買いには、より大きく影響が及ぶ可能性が高い。
(ちょっと待て…。それならそれで墨田区勤めが長くなっている分、増えているものもあるんじゃないか?)
改めて本の山に取りつき、今度は二つの山を全て崩して一冊一冊を吟味し直す。
なるほど。思った通りだ。
勤務期間は墨田区の会社よりも池袋の会社のほうが長かったというのに、過去が変わってしまった事で墨田区絡みの雑誌が増えている。勤務地を生活の中に取り込もうとする姿勢が、より鮮明になっているのだ。
毎年出版されているレストランやパン屋の地図本は二年連続で購入している。
何の為に。勿論、期間限定部の活動用に写真を撮影する為だ。
勤め始めれば、少額なりにも小遣いの増額が叶う。勝利は、パンやパスタなど提供時期が限られているものを探しに出るのが好きだった。
ネット上で互いにコメントを付け合う仲が生まれれば、オフ会的な食事会にも積極的に参加し始める。
「期間限定部か…」
勝利は、矢庭にスマホの写真共有アプリを起動させた。
期間限定部には、どのような変化が起きているのだろう。
勝利自身は望んでなどいないが、過去改変による変化は期間限定部にも及んでいる筈だ。その変化は、オフ会だけを避けて通りはしない。
勝利は自分のアカウントで、アップしている写真群を過去へ過去へと遡り始めた。
羅列されている写真は、地元江戸川区の店のものが圧倒的な割合を占めている。菓子パン、総菜パン、スーパーで売られている総菜、時にはパスタ、そして尚も菓子パンと、最近はとにかくパンの比率が異様に高い。
無職の時期なのだ。投資額が下がるのはやむを得ない。小遣いどころか食費自体を削らねばならないのだから。
(違う。オフ会の写真なら、『お気に入り』だろ)
別の一覧を開き、スワイプを繰り返す。
今年の十月中旬まで遡ったところ、ようやく一枚の集合写真を発見した。
この集まりの記憶ならば、鮮明に残っている。
中央に映っているシマの音頭取りで、新宿まで秋期限定パフェを食べに行ったオフ会だ。
八人の男女が、シマのスマホに向かって笑いかけている。この回は全員が二〇代前半で占められ、日曜日の企画だった事もありその足で飲み会になだれ込んでいた。
前列左から、momoと名乗る女性、シマ、ちーと名乗る女性、三センチと名乗る男性、後列の左から安ドーと名乗る女性、しょうきちと名乗る男性、半riceと名乗る女性、そして「亀やん」なるHNを持つ勝利が並んでいた。
オフ会の写真は、発起人のスマホで一度きりの撮影と暗黙の了解が徹底されている。その写真を企画主自らがアップし、毎回皆でグループ内共有しているのだ。
写真には、参加できなかったと惜しむコメントが何件か寄せられていた。「休日出勤で参加できず。次回は是非俺も!!」と獅子頭なる人物も書き込んでいる。
獅子頭…。
その名前を見つけた時に、勝利の心が小さく弾む。獅子頭は、アプリの中で幾度も馴染んできた名前だ。
互いの写真にコメントを付けあい、既に何年が経つだろう。一人称が「俺」の獅子頭による投稿は、彼が期間限定部に加わった頃から練りきりなど和菓子に偏っていた。
そうでもしなければ、地元からアピールできるものがないのだそうだ。話の流れから察するに、地方在住の食べ物好きらしい。
もしや女性ではないか、と思った事が一度ならずもある。
「獅子頭さんか…」
突如、酌み交わした記憶が脳の片隅を撫でていった。勝利が忘れているだけで、もしかしたら実際に会い話をした過去がある、という可能性は捨てきれない。
良い雰囲気の中で会話が進んでいる。そんな楽しい記憶の欠片を、獅子頭の名に感じてしまうのだ。
しかし勝利は、それがいつに行われたものなのかをとうとう思い出す事ができなかった。
それどころか、話の内容以前に性別の記憶すらない。
お気に入り一覧だけでなく、自分がアップした写真全てをチェックする。真っ青になって辻褄の合う集合写真の発見に努めたが、遂に獅子頭の映っている写真は表示する事ができなかった。
最も可能性の高い原因は、一つ。
他ならぬ勝利が発起人だったオフ会故、過去改変によってオフ会そのものが消滅。当時の獅子頭の中で上京する切っ掛けが失われてしまった、というものだ。
背を冷たいものが流れ、何度めかの戦慄を味わって打ちのめされる。勝利に起こった過去改変は、やはり池袋の会社の経歴消失に留まっていなかった。
獅子頭とは、今もアプリ経由で話をする事ができるのだろうが、おそらく関係の進展は全くないものとされているに違いない。
この影響が、明日以降どのように期間限定部に、そして人間関係に現れるのか。勝利は考えるのが怖くなって、スマホを座卓に置いて首を振る。
「あーっ!! やめやめ!! …寝よう」
歯だけを磨いて布団に潜った。
マグカップを洗うのも履歴書に日付を入れるのも明日の朝に回し、少々自棄気味になったまま目を閉じる。
室内が明るい。和室の照明をつけたままにしているが為に。
とうとう朝まで消される事のなかった照明が、帰宅直後から勝利の何を照らしているのか。説明する者は室内に誰もいなかった。
※ ※ ※
登校する小学生の声で目を覚ます。
嫌な夢ばかりを見た気がするものの、具体的に内容を覚えていない事をこれ幸いと何もなかった事にした。遮光カーテンを端に寄せれば、朝の日差しが部屋に入り込んで日の低さを実感する。
窓の下を、またも小学生が通っていった。昨日から今日、今日から明日への連なりに何一つ疑問を感じていない、明るく元気な声がする。
「いいなぁ、子供は…」
過去は全て残っているだろうし、毎朝出掛ける先もある。
と。
勝利は階下からの視線を感じ、慌てて窓から一歩退いた。見間違いでなければ、路上にこのアパートを窺う若い男がいる。
しかも、興味があるのは二階らしい。
警察か。隣家で起きた失踪事件絡みならば、迷惑な話だ。自分は無実だというのに。
むしろ被害者の方だ、と勝利は不平を並べたくなった。
そう。言うに言えない凶悪事件の。
-- 06 「謎の事情通」に続く --
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