環の母親-3

「どこへ行くの」

 桜花は颯の背へ声を投げた。早朝だ。陽はまだ見えないが、空は明るい。異人管理局から離れた林の中では空はあまり見えない。明るみ始めた林の中はまだ暗い。じっとりと湿っぽい空気が冷たくて重い。

 颯が立ち止まった。背中の真ん中、いや少し左。刺し貫く狙いを定める。

「町だ。出て行く」

 ゆっくり両手が上がる。

「どうして?」

 こちらを振り向かないのが怪しい。袖口になにか隠している。どこかに銃も持っているだろう。この距離では見えても斬れない。

 動くな。このまま、このままだ。

「目的を達した。私には時間がないんでね。のうのうと仇を待ってるだけの奴と違って」

「盗ったものを出して」

 到着して一晩。達することのできる目的はそう多くない。なにせこの世界には電話もインターネットもないから。最も考えられるのは盗みだった。こちらに来たばかりで、管理局ではよくあることだった。面倒事を避けて面倒なことになる。

「早く。さもなければ殺す」

 出すだろう。出さなければいいのに。この女がいなければ、メイズも流風も環も仲間たちも、今の生活から変わらなくて済む。いや、そもそもこちらへ来なければ良かったのに。彼女を追って、やつらが入ってくるじゃないか。そうしたらこれまでとなにも変わらない。追って、追われて、殺すか殺されるか。

 颯は右手に手紙を挟んで立てた。封が切れていない。茶色い封筒はグラウからの手紙だ。どうしてこんなものを。

「皐月には会ったか?」

 手紙を取り上げようとして、伸ばした手が届きそうになったときに颯は手首を返して手紙をひらつかせる。腕を伸ばされて、つま先立ちになっても届かない。にやついて見下ろしてくる顔を斬りつけてやりたい。

「知らないのはあいつばかりってわけだ」

 ほのかにメイズの煙草のにおいがする。この女から。知ったふうな口をきいて。たかだが一晩を過ごしただけでなにが知れたっていうんだ。

「別に、これは無視してていらないんだろう。聞いた。もらっていいかは聞かなかったが」

 手紙がまた遠のく。この腕を斬り落としたらこんなことをしなくてもいいのではないか? でも近づきすぎて刀では無理だ。ナイフでは足りない。

「この世界には魔法があるんだろう? 竜を見たことは?」

「竜? なんで」

 思わず聞き返してしまった。手紙を奪い取れず焦っていてつい。この女はなぜこんなことをするのだ? さっさと逃げてしまえばいい、さっさと殺し合えばいい。だがひらひらと、こちらの手をかわすばかりで立っているだけだ。

「竜だよ。白伊がありがたがって崇拝してる。実存するとは思わなかった」

 この女はなにを言いたいのだ。わからない。言われてみれば確かに、白伊という一族は竜を崇拝している。こそこそと近親交配を続けているのは、先祖である竜に返るためだ。すっかり忘れていた。

「・・・・・・毎日このあたりを飛ぶ。島の魔導師へ荷物を届けに」

 それは環の師匠だ。桜花がここでのんびりしているうちに、たった一人の友達は魔導師に弟子入りし、魔術学校を主席で卒業し、今やすっかり魔術師になった。外からこちらの世界へ来た人間の、異邦人の中では飛び抜けて珍しいことだ。

 それをこの女に教えてやる義理はない。

「そうか。見てみたかったな。私達をこんなふうにした元凶だ」

 こんなふう。それは、どういう意味だ? 竜を逆恨みするほうが、榊 麻耶を逆恨みするよりずっとまともじゃない。

「悪いが相手はできない。私をここで殺したら、悲しむのは環だぞ?」

 颯が身を翻す。振り返りざまに後ろへ跳んで、距離を取られた。手紙に気をとられて反応が遅れる。彼女が手紙を胸元へしまう。その手に銃が握られて、再び出る。銃口がこちらを向いて止まった。

「そのまま。手は見える位置にな。良い子だ」

 颯はじりじりと後ずさりして、ぱっと駆けていく。しばらく追いかけだが、見失ってしまった。

 事務室に戻る頃にはすっかり明るくなっていて、職員が起き出している時間だった。住み込みの上、外の世界から人が来ることなど滅多にないから、職員は皆早起きではない。メイズぐらいが、朝のトレーニングに付き合ってくれるだけだった。

 事務室はそわそわしている。人が行ったり来たりして、ひとところに集まっていた。真ん中にメイズがいる。ああ、颯がいなくなったことを騒ぎ立てているのか。でも彼女は、メイズの客という扱いだったはずで、個人の客がいつ来て帰ろうと、他の人間が口を出すことはなかったはずだ。

「昨晩は一緒にいた。長くは物色できなかっただろう」

 言わなければ良かったのに。あの女の思うつぼだ。嫌がらせの。


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