流風の事情

***

 朱伊 皐月は、流風の記憶と寸分違わぬ姿かたちのまま異世界の飲み屋で座っていた。

 黒縁の野暮ったい眼鏡にかかる前髪、猫背。背はそんなに高くない。暗くて地味な男だ。彼は隅のテーブルで本を読んでいた。テーブルには中身が半分減ったグラスがひとつ。昼間から酔っ払いで騒がしい店内で目立ちそうなものを、壁と一体化したように周りに沈み込んでいる。探さなければ見つからない。その場に存在するだけで目を引いてしまう颯とは正反対だった。

 流風がテーブル向かいのイスを引くと、彼はやっと顔を上げた。

「ああ、良かった。来てくれないんじゃないかと思った」

 白々しい。どうせこちらが店に入ってきたときからいることはわかっていたくせに。

 皐月がほっとして頬を緩ませる。無害な純朴な男に見えた。

「そうだな、まずは颯の件から聞こうか」

 流風はテーブルに片肘をついた。事情があって置いてきた女に手を出した男だ。しかもずっと憎んできた、敵陣の男ときている。相応の説明を求めることは当然だろう。

 皐月が眼を泳がせる。

「ずっと目をつけてた。誰だってそうだろう。君がひどい男でなければこうなることもなかった」

 そうかい。流風は鼻で笑った。

 実のところ、颯との付き合いは幼なじみの延長だった。名家の姫である彼女と、その教育係を務める使用人。世間知らずの颯を騙して好きに仕込むのはたまらなく楽しかった。彼女はこっちに惚れていただろうが、こちらもそうだったかというと未だによく分からない。

 だから、この一見温厚な医者が娘の母親にどうして手を出したのかなんてことに興味はない。颯は美人だし、あらゆる意味でなんでも出来るように教育したから欲しい男はいくらでもいるだろう。手に入れた男がこいつだっただけの話だ。

 気になっているのは、

「お前が颯のためにここまで来たのは、一体どういったわけだ?」

 皐月は白伊家の重鎮だ。あの家の中ならなんでも許される立場にいる。颯が欲しければそこで飼えばいいのだ。こいつが彼女に尽くすのは不自然だった。

「君の言った通りだよ。彼女のためだ。彼女が、ここに来て娘と会うことを望んだから」

 また随分と正しい答えだ。惚れた女のために立場を捨て、これまでの悪行を改めて、何度も陥れてやろうとした男を頼って頭まで下げる。流風はテーブルを跳ね返して殴りかかるのを、拳を握ってじっとこらえた。

「整理しようか。君は俺を恨んでる。俺が白伊で交配計画を作っていたからだ。でも俺だって君を恨んでる。君がいなければ彼女の教育係は俺になるはずだったから」

「少し違うな。僕があんたを八つ裂きにしたくてうずうずしているのは、あんたが白伊の重鎮だからだ。あんたにはあの家の連中がしてきたことと、瑠璃にやらせてきたことの責任がある」

 白伊。自らの先祖が竜だと信じて疑わず、崇拝し続けている一族。先祖返りを叶えるための近親交配。それを隠すため、その資金を調達するため、この一族を存続させ続けるため。白伊家に昔から仕えてきた瑠璃家は何でもやらされてきた。商売敵の暗殺、資金調達、護衛。なんでも、命令されるままに。瑠璃家の者がいくら死のうが顧みられることもない。

 瑠璃家に生まれた流風が白伊の交配計画の結晶たる颯の教育係に抜擢されたこと、子をもうけたことに、瑠璃家が反逆の望みを見いだすのも無理はない。そのために一族が流風派と白伊派に分裂し殺し合い、滅びる結果を招いたとしても。

 流風の腹違いの妹である夏子葉も死んだらしい。颯が殺したと手紙で聞いた。生き残っているのはもう、流風と弟の翼、娘の環だけだ。

「なるほど。君の新しい仲間は、榊 麻耶を恨んでいるんだっけ。義憤にかられているわけだ。でもよく考えたら、直接手を下したのは瑠璃だろう。君かもしれない。麻耶よりもよっぽど、君を恨むと思ったのに。・・・・・・そうか、彼らは知らないのか。君は本当にずる賢い」

 そんなことは自分が一番わかっている。それをわざわざ、言って聞かせるこの男こそ本当にゲスだ。

 メイズと出会ったとき、麻耶が始末すべきものを取り逃がしていたことを初めて知った。麻耶を追っているくせに動向を掴めもせず、瑠璃さえ知らないメイズをせいぜい利用するつもりだった。自分たちを、娘まで知っている人間を生かしておくわけにはいかない。だが情はうつるもので、殺してしまうのが惜しくなった。メイズはただ麻耶の仕事に巻き込まれただけの、殺される理由のない人間だ。だからこちらの世界に連れてきた。白伊にメイズから情報が渡らなければいいのだから、追っ手の届かないこの世界にいる限り、生かしておくことができる。

 今や彼とは仲間だ。麻耶の被害者たちが集まって、いつの間にか作り上がっていた輪の中に入っている。今更瑠璃や白伊の事情を、メイズに話すことはできない。話せば麻耶へはたどり着けるだろう。だが流風も環も、恐らくは桜花も仲間の手によって死ななければならない。

 彼らの復讐を遂げさせる鍵を、流風は持っている。流風自身がそうだ。これは裏切りで、これからもずっと続く。

「あんたらの嫌がらせほど卑劣じゃない」

 これも出来れば話したくない話題だが、とにかく話題を変えたい。今もひそひそ、こちらをちらちら見ながら話されている噂のことだ。

「颯にも理由があるはずだよ。ただの嫌がらせってことはない。君の友達が寝取ったって推測通りなんじゃないかな」

 今朝方、異人管理局から盗人が逃げた。その盗人は昨日から滞在していたとびきりの美女で、支部長のメイズは一晩中一緒だったという。だがこの女、メイズの友人である流風の女だったらしい。

 飲み屋でたむろしている酔っ払いはほとんどが傭兵崩れで、ここに住んでいれば流風のこともメイズのことも知っている。この手の話がこの二人の間で上がることが珍しく、一味分裂の危機とまではやし立てているようだった。有り得なくはない。ここまで謀ってメイズと寝たのだとすれば、颯も相当にゲスだ。

「別に、今更颯が誰となにをしようが驚かない。敵の男を懇ろになる女だ。のこのこと連れてきてまでして」

 当てこすったが、皐月には堪えた様子がない。相手をするのが馬鹿らしくなってきた。

「じゃあ無駄話はこれまでだ。仕事の話をしようか」

 颯と手紙を通して決めた手はずだ。颯と皐月は別々に入国し、第三首都エイローテで合流する。そこでこの男は、偽造した書類通り環の父親におさまるのだ。

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