星の落ちる海

 ひゅっ、耳のすぐそばで風を切る音がする。すこん、軽い音だ。転がるかすかな音。眼をこらすが見えない。すっかり暗くなっている。周りを見渡すが、人影は見えない。夜闇にまぎれているのか。

「ほら、始まった」

 しゅん、しゅん。かすっ、こすっ。こつ。こつん。ぱらぱら、にわか雨のような、あられのような音だ。

 流風が顎をしゃくってくわえたキャンディーの棒で示す先、町の向こうに広がる海はほのかに明るい。ぼんやり、町の影が浮かび上がって見えた。

 見る間に影は濃くなる。海の方が明るいらしいことはわかるが、それがなになのかは理解できない。水平線の向こうが明るいわけではない。まくろい空に星が光っているのは見える。普段眼にすることのない、小さな星までもが空一面に広がっている。

 海に光るものがある。日中、陽を反射して光る波に似ている。それは海のそこかしこで出ては消え、出ては消える。はじめは一つだったそれが同時に二つ光り、三つになる。光に照らされて、海から直上へあがる湯気のようなものが見えた。クジラの潮吹きだ。それならあれは、波ということになる。海自体が、夜空と同じくかすかな、小さな光の点があまたと広がっている。

「海が光っているのか」

 流風はうなずくが、まだしたり顔だ。少し気に障る。

 こつ、頭頂にあられの当たる感触があった。ぽつぽつ、小さなあられはじんと熱い。肌に触れても溶けず、後ろ襟に貯まる感覚がこそばゆい。触ってみれば、砂粒ほどの大きさだ。穴の多い表面、かすかすとして軽く、押すと簡単に崩れぼろぼろになった。

 しゅん、ぽす、しゃららら、急に大降りになってやっと見ることができた。小さな、かすかな光の粒だ。

 『落ち星祭り』。これは、星か。

 ありえない。だが今ここで起こっている。これは現実で、あられのごとく降る星も光る海もあり得ているのだ。この町は地図に載っていないだけではない。この町は。

「この町は、なんだ」

「さあ? でもこれで信じられるだろ、あるんだよ。こことは違う世界が、この町からなら」

 根拠の乏しい論証だ。だが信じられる。この町は違う。違うこの町は、どこかにつながっているかもしれない。

 ああ、いや、聞きたかったのは異世界の根拠ではない。聞いてから自覚するのはいつもなぜなのか。また質問を間違えた。聞き出したかったのは、

「なぜ、そんなものに」

「あーっ!!!! 見っけ!!!!」

 なぜ異世界なんてものにすがるのか。

 大声を上げた流風の指さす先は港から少し離れた海沿いだ。クジラが泳いでいるところと同じように一際光っている。海沿いではそこだけだ。

 とたんに駆けだした流風を追う。下り坂は上っていたときには気にしていなかったが急勾配で、転がり落ちるように港まで駆け抜けた。息が上がり苦しく足ももつれたが、足を止めようものなら本当に転がり落ちてしまいそうで、港に着いたときには汗だくだった。うすぼんやりと霞がかって見え、むわりとする潮のにおいに鼻が詰まった。大きく開けた口の中も喉まで、潮でべたつき気持ちが悪い。まだ走ったら吐きそうだ。膝ががくついて太股が震え、もう走りたくはないが。

 座りたかったが、流風はあたりを見回して走っていく。追うべきだろう。人気がぱったり失せた町は波と星の落ちる音だけが支配している。街灯がいつの間にか消えていた。空を埋め尽くす星と海の明かりだけがほのかに町の隙間を照らしていた。影さえぼんやりした夜道はふわふわとした心地がする。現実と幻の狭間。眼を覚ました自分が、なにもない荒野で行き場を失っている想像をしてしまう。現実離れして、いつの間にか夢を見ている感覚になる。

「前に来たときの隠れ家があの近くで」

 流風の声も毛布一枚隔てたようにぼんやりして聞こえた。そもそも、距離が開いていたのではなかったか。

「いいよ、一人で大丈夫だ。あんたはそこで一息ついてな」

 背中を叩いて、流風が遠のいていく。なんだ、歩調を合わせていたのか。よくわからないところで親身な男だ。

 どこだかはわからないが、道の端で背を付け腰を落ち着けた。足を投げ出す。遠く、一、二ブロック先から少女たちの甲高い声が漏れ聞こえる。

 無事のようだ。全く、二時間説教する位では足りそうにない脳天気さだった。

 ポケットを探り煙草に火を点けた。走っただけだというのに、腕までもが重だるく火を点けるだけで四苦八苦だ。

 やっとの思いで吸い込んだ煙が肺を満たす。やっと力が抜けた。うまいビールを樽で浴びたいところだ。

 流風と環は追っ手の来ない異なる世界へ逃げる。それは、自分が、自らの仇であって敵討ちを宿願としているにも関わらずその追っ手を殺しきれないからだ。

 確かに、自分たちの関係は守る側と守られる側といったものではない。ただ同じ相手から逃げ、追っているという利害が一致しただけの、期間限定の関係だった。

 期間が過ぎただけ、満了しただけのこと。それでも無力感はある。もっと信じることはできなかったのか。できないのか。そんな、信じることさえ難しいものにすがってまでして、なお一緒に来いと言うのはどういった根拠からきているのだ。

 明らかにしておくべきだ。そもそも自分も桜花も、榊 麻耶を探しているのだ。あの女の追って来ない場所に行くなどと、そんなことはできない。

 できない。できないと思う。そうでなければ。桜花が環に見せる顔、その無表情な横顔が頭にちらつく。年頃らしい話をする少女たち。

 ぽつりぽつり、水の滴る音がしている。すぐ近く。眼を開けるとーーいつの間にか閉じていたらしいーーこちらを見下ろす少女がひとり。帽子はどこかにやったようだ。後頭部の高い位置でひとつにまとめた長いくろ髪、細くちいさな身体に張り付いたセーラー服。影になって表情は見えない。ただ、そのシルエットで桜花とわかる。

 ぽつぽつ、指先、毛先、服の裾から垂れる水滴が、くらく海水に見えない。

 そうだ、これは、少女のかたちをしているだけの、空虚な暗殺者に過ぎないではないか。

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