暴露
「俺……なんで兄貴のこと忘れてたんだ……?」
そうつぶやきながら、無数の「×」に覆われた「丹羽直人」の文字を見つめる。目にした瞬間はただの記号にしか過ぎなかった字が、記憶と意味を持って迫ってくる。隼人が小学生の頃に全寮制の高校に進学し、その後地元に戻って母を手伝っていたはずの兄――
強烈に押し迫ってくる記憶の波に悶えていると、綾女の手がノートに伸びた。拾い上げるのを見ながら、隼人はくちびるの震えをこらえて言った。
「おまえ……兄貴も消したのか」
「あーあ……隼人が忘れてるからうまくいったと思たんやけどなあ。そうや……最初に消したんは直人さんや……」
無表情でそう言った綾女からノートをもぎ取った。「丹羽直人」の文字は「桐生大輔」よりも前のページにあった。
「いつから……兄貴は消えたままなんだ」
「……おばさんが死ぬちょっと前……かな」
「どうして兄貴を消したんだ」
怒りに震える腕をこらえながら、隼人は綾女につめよる。彼女は隼人の怒りなど物ともせず、平然と言い放つ。
「だって直人さんがおったら、おばさんが死んだときの喪主は長男の直人さんやろ? そしたら隼人、帰ってこんかもしれん。だから消したんや」
「そんなくだらない理由で? それじゃ牧と一緒じゃないか」
耐えきれなくなって隼人が声を上げると、綾女は鋭い目で睨みつけてきた。
「あんな女と一緒にせんといてや」
凄みのある声でそう言ったかと思うと、綾女は不意に涙をこぼし始めた。その涙の意図が分からず隼人が立ち尽くしていると、綾女は手の甲で涙をぬぐい取った。
「隼人がおらんようなってからも、直人さんはうちのこと気にかけてくれてた。丹羽の家が自分の家やと思て、いつでも帰ってきいやって言ってくれてた。けどいつの間にか結婚して子供もできて、お嫁さんを連れて丹羽の実家に戻ってきたんや。いつか実家に戻って農業を再開させるのが直人さんの夢やったし、おばさんも喜んでた。うちもよかったなあって思ってた。でも直人さんのお嫁さんが嫉妬深い人で、うちが直人さんに言い寄ってるんちゃうかて言い出したんや。うちにはもう真夕がおったし、そんなん違いますていうても、聞く耳持たずや。うちはただおばさんと話がしたくてあの家に行ってるのに、直人さん目当てやろてしつこく言うて……しまいに直人さんが音を上げてしもて、もうこの家には来んといてくれって言われたんや。おばさんはうちにとってはお母さん同然の人やのに……もう会えへんなんて……そんなん……」
途切れながらそう言って、また涙をこぼす。幼い頃に母親を亡くした綾女にとって、隼人の母は親代わりだったに違いない。母の最期を看取ってくれたことも、彼女の思いが途切れることなく続いていた証だと感じていた。
「だから直人さんごと消したんや。うちはおばさんと最期まで一緒におれて、隼人も帰ってくる。こんなええことないやん?」
綾女が無理やり笑ったのがわかった。彼女の足にしがみつく真夕も泣き出しそうな顔をしている。ふと、同じ年頃だった兄の子供たちの顔が思い浮かぶ。
「……兄貴には子供が二人いたはずなんだ。男の子と女の子。その子たちはどうしたんだ」
まだ涙を落としている綾女につかみかかってそう言ったが、彼女は視線をそらした。
「そんなん、うちがわかるわけないやん」
「兄貴を消したら子供たちがどうなるのか、考えなかったのか。おまえにだって真夕ちゃんがいるのに」
綾女の服をつかんだまま揺さぶったが、彼女の反応は悪かった。
「……また真夕や」
「……え?」
かろうじて聞き取れるほどの声で綾女は言った。そらしたままの瞳が、遠いどこかを見つめている。
「なんかいうたら子供のこと考えんのかって……考えてるに決まってるやろ。自分の娘なんや。真夕のためやったら何でもやるわ。やってやってやり尽くしたわ。けど何にもようならん……」
遠い目をしたまま、綾女は鏡台に歩みよった。再び隼人の手からノートを取って、例の真っ赤な口紅のキャップを開ける。嫌な予感を抱きながら、隼人は記憶の底に手を伸ばす。
「俺……その口紅、どこかで見たことがあるんだけど……」
「忘れてしもたん? 高校入って最初の夏に、隼人がくれたやんか。東京で流行ってる口紅やて言うて、うちにプレゼントしてくれたんや。でもこんな真っ赤な口紅、恥ずかしくてようつけんし、『大人になるの待ってくれる?』って聞いたら、隼人は待ってくれるって言うた。結局いまだにつけれんで、こんなことに使うてしもたけど……」
そう言って綾女はノートのページを繰った。「丹羽直人」「桐生大輔」「斉藤吉正」「牧琴菜」と続き、またその次のページをめくる。
そこには「宮原綾女・丹羽隼人」と二人の名がぎっしりと刻まれていた。心臓が飛び出しそうになるのをこらえながら、その文字を凝視する。なぜか綾女の名にだけ「×」が書かれていて、隼人の名はそのまま残っていた。
「これでしまいや……」
虚ろな目をしてそうつぶやいたが、その視線の先には真夕がいた。小さな肩が震えていることに気づいて、隼人は真夕の肩を抱きよせた。
「おまえまさか……消えるつもりなんじゃ……」
「うちみたいな女、生きててもしゃあないやろ?」
そう言って寂しげに笑う女性は、隼人の知らない綾女だった。いつでも明るく笑って隼人を支えてくれた、あの綾女の姿はどこにもなかった。
震える真夕の顔を見て隼人は笑顔をむける。真夕は不安そうに身を縮めている。
隼人はそっと真夕から離れると、口紅を持つ綾女ににじり寄っていった。
「……俺の名前を書いてるってことは、俺も一緒に消すつもりだったんだろ? おまえの体を傷つけて平気で逃げたんだ。消されたって仕方ないと思ってる。でも綾女は消えちゃだめだ。おまえが消えたら真夕ちゃんまで……」
用心深く近づいて、すばやく綾女の手首を握る。どういう理屈かわからないが、この口紅には人の影さえ消してしまう効力がある。最後にひとつ塗りつぶされずに残っている「宮原綾女」の文字に「×」を描かれたらおしまいだ、とノートを見ながら手に力をこめる。
けれど綾女はゆっくりと首を横にふって、つぶやいた。
「うちはもう疲れてしもうた……。真夕、こんなお母さんでごめんなぁ。次生まれてくるときは、もっとええお母さんのところに生まれてくるんやで……」
真夕にむかって力なく微笑んだかと思うと、綾女は突然、女性とは思えない腕力で隼人を突き飛ばした。彼女の微笑みに一瞬気を許してしまった隼人は、あっけなくうしろに転倒する。
「やめろ……綾女……」
とっさに体を跳ね起こしたが、恐ろしいほど俊敏な動きで綾女が口紅をノートに近づけた。みじめにつぶれた口紅の先端が綾女の名の上を走っていく。
「やめろーっ!」
そう叫んで綾女に飛びかかった。眼前にはノートがある。「宮原綾女」の最後の文字に、くっきりと赤い「×」が刻まれている。が、今破ってしまえば消えずにすむかもしれない――
その時、何かが一枚ノートのあいだからこぼれ落ちた。
それは父が生きていた最後の年の、神宮祭で撮った写真だった。十歳の隼人と綾女が照れくさそうに笑っている。
ノートを手に逃げようとした綾女ともみあいになり、ノートを奪うより先に、隼人は脳に衝撃を受けた。真後ろにあった鏡台に頭をぶつけたようだった。
薄れゆく意識の中で、綾女が「ちゃんとうちのこと忘れるんやで」とつぶやいた。子供の頃と変わらない、いつも隼人を気づかってくれていた微笑みだった。
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