6.暴露

告白

 日光のささない薄暗いダイニングに綾女が立っていた。感情の読めない瞳で隼人をじっと見据えている。


「それ、見たんやね」


 綾女が低い声でそう言ったのを聞いて我に返った。とっさにノートを閉じて、次に言うべき言葉を必死で考える。


「これ……おまえが書いたんだな」


 喉元をしばりつけるような震えをこらえながら声を絞り出す。返ってくる言葉に覚悟をして身構えたが、驚いたことに綾女は微笑んでいた。


「そうや、うちが書いたんや。こんな簡単に人が消せるんやったら、もっとはよ書いといたらよかったわ。なんでか大輔だけ元に戻ってしもたけど、また消せばええことやし」


 不気味な笑みを浮かべる綾女を、隼人は呆然と見つめる。くつくつと喉を鳴らして笑う母親の姿におびえたのか、彼女の背後にいる真夕がびくりとも動かない。開き直った彼女の姿を見ながら、再びノートに手をかける。


「全部……おまえがやったことなんだな。大輔が消えたのも、斉藤の親父が戻らないのも……牧が消えたままなのも」


 異様な余裕を見せる綾女に怯みながらも、きつく睨みつける。

 すると綾女は笑うのをやめた。全身が凍りつきそうな冷たい目をして隼人に言う。


「なんで消えたこと覚えてるんや。ほかの誰の記憶にも残ってへんのに」


 別人のような冷めた声に、悪寒が走る。乾いた喉に無理やり唾を送って、隼人は口を開く。


「なぜかなんて……俺は知らない。けど大輔の名前が消えたときも、斉藤家の表札が消えたときも、俺は過去に戻ることができた。牧のときだってそうだ……俺にはあいつらを助けるチャンスが与えられたんだ」

「過去に……戻る?」


 綾女は目を丸くする。そのすきに隼人は綾女の手にあった携帯電話を奪った。すばやく指で操作してアドレス帳を開く。


「昨日、おまえは牧が小学生のときに事故死したと言ってた。俺は昨夜から今朝がたにかけて過去に戻って牧を助けた。だからここに……」


 そう言って画面の一点を指さした。そこにははっきりと「牧琴菜」の名と番号が表示されている。安堵を悟られないように、携帯電話をかざして言う。


「牧の存在がちゃんと戻ってる。おまえは牧が事故死したんじゃなくて、自分が消したんだって、認識した上で俺にあんなことを言ったんだな」

「なんやあ……おかしいと思たら、大輔も隼人が助けたんやねぇ……」


 薄く目を開いたまま、ひとり言のようにつぶやく。「余計なことしてくれたやん……」と漏らしながらにじりよってくる姿に、隼人は飲みこまれそうになる。


「おまえ……なんでこんなこと。斉藤の親父はともかく、あいつらとはうまくやってたんじゃないのか」


 綾女の迫力に押されながら、居酒屋で大輔たちと鉢合わせたことを思い出す。あのとき彼らは同窓会の話をしていた。聞く限りでは、地元に住んでいる綾女と大輔は何度か参加しているようだった。実家で綾女が持ってきた焼き鳥を食べたときも、彼らのあいだには幼友達らしい親しさがあるように感じた。隼人がいなかった彼らの中学時代に、嫉妬を覚えたくらいだった。


「あいつらと……うまくやれるわけないやろ」


 凄みのある声で綾女が言った。彼女の口から「あいつら」なんて言葉を聞いたのは初めてだった。にじりよる綾女から目を離せず、隼人はいとも簡単にノートを抜き取られてしまった。

 綾女は「桐生大輔」と書かれたページをめくり、指先でゆっくりと「×」を描く。


「大輔はなぁ……うちの父親が自己破産したこと、同窓会の席で言いよったんや。昔っから貧乏やったし自己破産なんて時間の問題やと思てたけど、その手続きをしに来たんがよりによって大輔やった。中学のときにはとっくに成績は抜かされてたし、弁護士になったんもあいつの努力の結果やってことはわかってる。けど、自分の父親の汚点を同級生がすすぎにくるなんて、こんな情けないことある? しかもあいつはみんなの前で、俺が綾女を救ったるとか、酔った勢いで叫びよったんや。うちはそんなこといっこも頼んでない!」


 綾女が放った叫び声の中に、ある言葉がよみがえる。


 ――そんなん、うちは頼んでないのに。


 それは今朝、真夕が口にした言葉だった。話の前後から、「峰くん」という男の子が真夕の気を引きたくてやっているのだと気づいた。

 今まで考えたことがなかったが、もしかすると大輔は綾女に思いを寄せていた――?


 綾女の視線に気づいて、ぶんと首をふる。綾女の父が自己破産したことは母から聞いていた。けれどその手続きに大輔が関わったことは知らなかった。どうやって仕事を引き受けたのか知らないが、クライアントの氏名と住所を見れば綾女の父とわかったはずだ。わかった上で宮原家に来たのなら、意図してその案件を引き受けたと考えるのが自然だった。


 綾女が次のページをめくるのを見て、隼人はごくりと唾を飲みこんだ。


「その自己破産の原因を作ったんが、この斉藤の親父や。うちがちっちゃい頃から儲け話を持ち込んでは、有り金を全部つぎこませてたんや。おかげでうちにはいっつもお金がなかった。中学に上がるときは制服を買うお金もなかった。そのときも高校に上がるときも、おばさんが何とか工面してくれて、うちは学校に通うことができた。あの父親はいつまでも斉藤の親父と縁切ることをせんと、しまいには借金まみれや。真夕がおじいちゃんに会いたいて言うからたまに行ったるけど、うちはとっくに縁切ってる。それやのに斉藤の親父はいまだに『ええ働き口があるで』とか気色の悪いことを言うてくるんや。消えて当然や」


 そう言って綾女はすっと視線を上げた。熱のない瞳で隼人を見つめる。


「斉藤家の表札が戻らんかったってことは、隼人も見捨てたんやろ? あんな親父、救う価値もないもんなあ」


 薄ら笑いで言う綾女に、返す言葉がなかった。あれが救うチャンスだと気づいていなかったとしても、放置すれば危ないとわかって見ないふりをしたのも事実だった。


「……俺の親父は、あんな偏屈親父でも米粒一つ分くらいはいいところがあるって言ってた。自分の浅い判断で見捨てていい人間なんていないんだ、本当は」


 隼人はそう言いながら頭を抱えた。もし父が元気で生きていたなら、何と言われただろうと考えてしまう。


「過去の世界で……おじさんに会うたの?」

「……最後に会ったときは余命半年くらいだった。それから小学生の俺自身と、もちろん綾女にも。おまえは何か覚えてないか?」


 綾女はゆっくりと首を横に振る。


「牧は、小学生のときに今の俺そっくりの人間に事故から助けてもらったと言ってた。過去に戻ったとき、俺はその現場に遭遇した。小学生の牧の腕を引いた。この傷も、この痣も、そのときに出来たものだ。牧を救ったのは俺に似た誰かではなくて、今の俺自身だった」


 そう言って額の傷を指さすと、綾女もそっと手を伸ばした。真夏だというのに、彼女の指は氷のように凍てついていた。


「……どうして牧まで」


 隼人がそう口にすると、綾女の目の色が変わった。事実を吐露して少しゆるんだはずの瞳に、再び憎悪の炎が揺らめきだす。


「……おばさんと一緒に隼人の子供を堕ろしに行ったとき、偶然、琴菜も産婦人科に来てたんや。琴菜は生理不順で診察に来たけど、うちとおばさんの会話をこっそり盗み聞きしてたらしいわ。そらまあ、婦人科やなくて産科から出てきたんやから、ある程度のことは察しはついてたやろ。中学のときから大人しいタイプやったし、高校も違うかったから、あんまり気にはしてなかった。けど……こないだ同窓会に行ったときに子供の話になって、同級生らみんなが、うちが隼人の子供を堕ろしたことを知ってたんや。誰に聞いたんかって尋ねたら、誰もが琴菜て言うんや。あの女は……うちの知らんところで誰かれかまわず言いふらしてたんや……」


 憎しみと悲しみの入り混じる彼女の瞳を見つめながら、心臓がじくじくと痛み出すのを感じていた。二人のあいだで避けては通れない話がついに来たと覚悟するしかなかった。


「綾女……俺、本当におまえには悪いことしたと思って……」


 隼人がそっと手を取ろうとしたが、綾女はそれを拒絶した。どこか悟りきった表情で隼人に視線を送りかえす。


「……中絶したのは事実やし、今のうちには真夕がおるし、そのことはもうええんや。無理して生んだところで、おばさんに迷惑かけるのはわかってたから。おばさんも、ゆっくり時間をかけて気持ちを整理したらええって言うてくれた。だからうちもそう務めてきた。それやのにあの女は……」


 そこでまた綾女の顔に怒りの色がさしこむ。うしろに真夕がいるのも気に留めず、握りこぶしを震わせている。


「せっかく丹羽君が戻ってきても、もう一緒にはなられへんよねえって言いよったんや。大事な子供堕ろして、別の男と子供作って別れた女なんかと、丹羽君がより戻すはずがないよねって……わざわざ高いタルト持ってうちに言いにきたんや。隼人とよりが戻せんことくらい、うちが一番わかってるのに、なんであんな女にそんなこと言われなあかんのや」


 それから綾女は口から吐き出た怒りを巻き取るようにため息をついた。


「あの女、隼人と一緒に東京に戻るって言うてた……琴菜はずっと隼人のことが好きやったんや。小学校の時からずっと。おばさんが死んで隼人が戻ってきたのは、自分にとってはラッキーやったって嬉々として言うんや……だから消したったんや……」


 最後の方は落ち着いた口調だった。涙もこぼざず子供のことを語る綾女は、隼人が知らない大人の綾女だった。あきらめと憎しみと悲しみを胸の中に同居させることのできる、三十二歳の女性だった。


「お母さん……」


 彼女のうしろで怯えていた真夕が声を漏らした。すると綾女は途端に母親の顔になって、真夕に微笑みかけた。

 怒りで張りつめていた肩から力が抜けたのがわかって、隼人は抱きとめようと腕をひいた。


 その時、彼女の手からノートが落ちた。その拍子に、まだ見ぬページがパラリとめくられた。


 ページいっぱいに書き記された名前に、隼人の胸は射貫かれたように激痛を感じた。


「丹羽……直人?」


 記憶にない名前に、全身の毛が逆立つようにざわめき始める。脳の奥の方が疼き始め、思わず頭を抱えこむ。髪の生え際から気持ちの悪い汗が噴き出してくる。


「お兄ちゃん……どうしたん?」


 そっとのぞきこんできた真夕の言葉に、心臓が跳ね上がった。記憶の奥底に眠る映像が、眼前に押し迫ってくる。強烈な吐き気をこらえながら、火花のむこうに立つ人物に目をこらす。


 隼人と六つ違いの兄――丹羽直人。

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