奈落の花園
23
午後6時27分。
夕刻になって再び強くなってきた雨音にいきなり紛れ込むようにして、その不気味な鐘の音は辺り一帯に響き渡った。
学生達や学園の近郊に住む住民達にとって、放課後の代名詞ともいうべき聖真学園屋上の鐘の音が、突然ありえない時間、調子が狂ったような、くぐもった旋律でひっきりなしに鳴らされたのである。
さながら火災発生を告げる火の見櫓の警鐘がいきなり鳴り出したようなものだった。
暴風雨の中、降って湧いたようなその異変は近在に住む住民達や商店街を行き交う買い物客。ひいては近在の中学生達や通りすがりの車のドライバーでさえ、思わず目を向けてしまうほどの逼迫した特殊効果となって鳴り響いた。
「お、おい! ありゃあ一体何なんだ!」
「な、何よ…あれ!」
「何だ、ありゃあ!?」
そんな素っ頓狂な声が辺りから聞こえてきた。祥子は慌てて自分の制服のスカートに手をあてた。風と雨がひどく強くて傘までさしていたから、自分が人通りの多い商店街の中を、まさかパンチラ全開で歩いていたのかもしれないと思ったのだ。
だが、違った。
周囲のざわめき方がどうも普通ではない。
夕方の商店街は大抵がざわついているものだが、そんな普段の喧騒とは明らかに違う。あちこちを見渡してみても、どう見ても祥子一人のパンチラ程度で騒いでいる様子ではない。
近くのスーパーマーケットの店員や、エプロン姿に花の鉢植えを手にした生花店の店員、買い物客の主婦や総菜屋のおばちゃん、遊んでいた子供達まで。辺りの人々が何やら口々に噂したり、何か叫んだりしながら遠くの上の方を指差していた。
今まさに自分が歩いてきた学園の方角だった。祥子は自然とそちらの方を振り返った。距離にして三百メートルほどだろうか。
それ(!)を見た瞬間、祥子の視線は完全に凍りついた。
あれは…何!?
赤く、ヒラヒラした何かがくるくると時計塔の頂上を舞っている。
最初はそう見えた。
…違う!
祥子は目を凝らした。
人間のようだった。ただ、それ(!)は真っ赤だった。いや、真っ赤に見えた。
影でもなかった。明瞭ではないが、質感や凹凸が僅かに認められたからだ。例えば周囲がいくら薄暗く、大雨で霧が出ていようとも逆光や光彩の加減で黒く見えていたのなら、そうした細部は潰れてしまうか、判ったとしても別の見え方になっていただろう。
薄暗いせいなのか?
周囲の灰色との対比でそう見えるのかもしれない。いや、きっとそのはずだ。
でなければ、あんなふしだらな色をした真っ赤なモノが舞っているはずがない。
頭からペンキを被りでもしない限り、あんな頭から足の先まで真っ赤でペラペラした人間などいる訳がない。ないのだが、祥子にはそう見えた。もちろん見えたには見えたなりの理由がある。
変だった。動き方が。
尋常な人間の運動ではない。
足を引き摺りながら身体全体を揺らしているような。時によろけるような。時に痙攣するような。何ともぎくしゃくした危なっかしい動きで、その小さな人影は移動していた。
不自然だった。
まるで、くるくると踊っているような動きだった。
「何なのよ…あれ…」
祥子は気付いた。
先ほど聞いたあのおかしな鐘の音はきっと、あの赤くて不気味な怪人物が鳴らしていたに他ならないという事を。
いつもなら五時三十分に鳴るはずの鐘の音がそういえば鳴らなかった(!)のも考えてみればおかしい。
だが、それは後に冷静になってから祥子が気付いた事だった。
どよめきがあちらこちらから聞こえた。これだけ大荒れの天気にも関わらず、祥子の周りにもいつの間にか人集りが出来ている。周囲はもう既に大騒ぎになっていた。
「きゅ、救急車を!」
「いや、警察だ!すぐに警察を呼べ!」
「また飛び降りか!?」
そんな声が聞こえた。
俄かに自分の動悸が激しくなって、体がふるふると震え始めていることに気付き、祥子は今さらのように慄然とした。
ガンガンと鳴り響いてきた先ほどの鐘の音が、いつまでも耳の奥にこびりついて離れようとしない。その狂おしい調べは学校生活の一日の終わりではなく、自分が通っている学園そのものに終末が近付いていることを予感させるものだった。
すげえマジかよ、とか近くまで見に行こうよ、といった言葉まで耳に入ってきた。
祥子は走り出したい衝動に駆られた。すぐにでもこの異変を誰かに知らせないと。
探偵さん…。そうだ、あのイケメンの探偵さんを呼ばなくちゃ!
なぜ、祥子がそう思ったのかはわからない。
あの赤い色が、いつか見たあの変わった探偵の不思議な瞳の色を連想させただけだったのかもしれない。祥子の胸は、まさに早鐘を打ったようにバクバクと、ひたすら不安に駆り立てられていた。
気が付けば祥子は携帯電話を取り出していた。
「もしもし…警察ですか?
あ、あの…人が…。
真っ赤な…女の人が…私の学校の屋上から…飛び降りようと…してます…」
※※※
笑い声がやんだ。
強烈な風と叩きつけるような雨音が、逆に勇樹の心を不気味な沈黙へと誘った。
行くな、この先に行くなと勇樹の脳には、ひっきりなしに警戒信号が発せられていた。
それでも駆けた。
雨に煙る灰色の螺旋階段。
その向こう側へ。
吹き曝しの階段が雨で滑る。
うっかりすると登ってきた道を転げ落ちてしまいそうだ。
広い屋根。高く長い塔の頂き。白い手すりと二対の大きな鐘が見えてくる。
…いた!
闇の向こう側にぼんやりと立っていた赤いモノを捉えた瞬間、勇樹は内で燃えたぎっていた殺意を瞬時に押し殺した。
真っ赤なローブで全身を纏い、バタバタと薄布をはためかせた。
女。
バルコニーに手を掛けていた一条明日香は、勇樹の方をゆっくりと振り向いた。
右手には凶器のボーガンが握られている。
こいつが…校長を。
二つの影が闇の中で対峙した。
一条明日香はフードですっぽりと頭を覆い隠し、顔を伏せていた。
どうする…?
余計な間合や隙はこちらにとって命取りだ。
少しでも妙な素振りを見せたなら、勇樹は即座に飛びかかるつもりだった。
距離を潰して組み付いてしまえば致命傷だけは避けられる。相手は勇樹よりも小柄で非力な女だ。接近戦に持ち込めれば勇樹の方に圧倒的に分がある。
この大雨と風、何より闇の中では、あんな得物は却って邪魔になるはず。
狩られるのは。
お前だ。
「一条先輩…」
勇樹は静かに近づいた。
「貴子と奈美をどこにやったんですか?」
女は俯いている。
「そのボーガンで校長を殺したんですか?」
女は何も言わない。
「答えてください。あなたが犯人なんですね?」
来るな、というように一条明日香は勇樹にその黒い矢の切っ先を向けた。
早い。
左手で湾曲した弓を支え、引き金に既に指がかかっている。
動けない。
かわすのは簡単だった。
だが…。
貴子がどこにもいない。
状況が全く分からない。これでは人質を取られているのも同然だった。
貴子はどこだ…?まさか奈美が…。
何としても取り押さえて、貴子の居場所を吐かせないと。
勇樹の思考は完全に臨戦態勢に入っていた。
相手の一瞬の動きで運命が決まる。自分か相手か人質か、いずれ誰かはただでは済まないだろう。
動けない。クソっ…!
その刹那。
一際強い一陣の風が塔の上を吹き抜けた。吹き飛ばされるような突風に勇樹は俯いて思わず顔をしかめた。
しまった…!
それは一瞬の出来事だった。
女は勇樹を狙いながら、バルコニーの手すりの…。なんと外側にいた!
バサリ、と真っ赤なフードが風に煽られ、背中側に落ちた。艶めいた長い黒髪がバサリと闇の中に舞った。
雨に濡れた、透き通るような白い肌。長い睫毛と切れ長の目。血のように真っ赤で小振りな唇。思わず見蕩とれてしまいそうなほどの。美少女。
風を孕んだ赤いマントとチェックのスカートが別の生き物のようにはためいていた。
濡れた白いブラウスがぴったりと肌に張りつき、闇の中でも透けるような少女の白い肌が浮かびあがった。
赤い魔女は奈落を真下に望んでも尚、悠然としていた。
バルコニーの外側で両手を広げると、少女は再び振り返って勇樹を見ながら。
ニタリ、と笑った。
その微笑みは一瞬で周囲の時間を凍てつかせた。勇樹の憎しみなど一瞬で引き裂くほどの静かな、そして狂気の表情だった。
ぞっとするほど怖く…。
美しかった。
「やめろおぉっ!」
絶叫する勇樹など目に入っていないかのように、彼女は張り付いたような微笑みを崩さなかった。
そして、彼女は。
一条明日香は。
飛んだ。
何の躊躇いもなく。
一際甲高い笑い声が下から聞こえた。
勇樹は思わず顔を背け、耳を塞いでいた。狂った笑い声が風と共に奈落の闇へと落ちていく。
勇樹の耳には、いつまでもいつまでも女の狂った笑い声が聞こえていた。
気がついた時には勇樹はその場に跪いていた。
雨の音が。
聞こえる。
何でだよ、と勇樹は奈落の闇に問い掛けた。
「何で死ななきゃいけないんだよ…!」
その時だった。
勇樹は見た。
ぼんやりと。下の方で何かが光っている。
中庭の方向だった。
噴水が…!?
赤から黄色、白から青へと。
中庭の噴水の色が次々に変わっている!
誰かが明かりのついた噴水に凭れかかっている。
切り取られたような風景の中に黒い塊。
あぁ、あれは…。
何てことだ!
さっき先輩が見ていたのは…!
「奈美ィっ!」
※※※
正体を失した少女達を何とか落ち着かせ、まずは誰かに知らせようと山内が校舎へ入った正にその時、狂ったような笑い声が再び聞こえてきた。
その声は奇妙な事に、凄まじいスピードで流れるように聞こえ、そのままフェードアウトするように消えていった。
上から、下へと。
誰かが。
飛び降りたのか…!?
その時、カツンカツンと早足で白衣を着た間宮愛子が階段を駆け上がってきた。やや遅れて後ろには老教師の花田の姿も見えた。
あぁ隆、と愛子は人目を気にせず山内にすがりついてきた。体の震えが伝わってくる。よほど不安だったのだろう。
「戻って来ないから心配したわ。それに今、あなたのクラスの生徒とすれ違ったけど…。まさか…。また何か…あったのね?」
成瀬だ。いきなり時計塔の上から戻ってきた成瀬は、何だかひどく慌てていた。
血の気の失せた表情で、山内達の前を猛然と走り去っていった。あまりの速さに山内は止める間もなかった。
まさか、成瀬が一条明日香を突き落としたのだろうか?
いや、では、先ほど聞いた、狂ったようなあの笑い声はどう説明をつければいい?
「物凄い声が上から聞こえてきたけど…。ね、ねぇ隆…時計塔で一体何が…?」
愛子は時計塔の中の方へ行こうと体を向けた。
「駄目だ!愛子…。
この奥に行くな。君は…見ちゃいけない」
「ど、どうして…?」
「校長が…死んだ。
時計塔の中で…殺されてる」
「なんですって!?」
「な、何という事を…」
二人は息を呑んで呆然と立ちつくした。
「花田先生、すぐに警察を呼んで下さい。残っている先生達をまとめて、できれば職員室の方に…。保健室にいる理事長にも知らせておいた方がいいでしょう。詳しい話はそこで…。植田先生は見ましたか?」
「そ、それが…何があったのか、あの鐘が鳴って職員室に戻ってきたかと思えば、ずっと放心したようになってしまって…」
「植田先生が…?」
何があった?
「桂木君が付き添っています。しかし、学園の中で殺人事件だなんて。何という事だ…」
花田は片手で顔を覆ってあぁ、ともう一度ため息をついた。
「山内先生。その、つまり現場保存をしろ…という事なのですな?とにかく行きましょう。警察に連絡しなければ。どの道、ここにいる訳にもいきますまい…」
さすがに熟練した老教師だけあって対応が早い。心強かった。
「そ、そのコ達は…?」
愛子が山内の後ろで悄然と佇む三人の方に気付いた。少女達は今もそれぞれに泣いていた。
苦しいか。
だが、本当に辛いのはこれからだ。
黒いマントは現場に脱ぎ捨てている。悪い夢から覚めた彼女達を、現実は決して許さないだろう。もう彼女達も、その家族も…。普通には生きられない。
最悪だった。
この学園はもう終わりだ。
「彼女達は…。そう、魔女の…。魔女の下僕だよ」
山内は暗然たる思いで呟いた。二人に山内の意図が明確に伝わったとは思えない。
だが、まさに魔女の仕業とでも思わないと、こんな非常識な事件はありえなかった。
そして、その魔女とやらは、おそらくこの下で死んでいるのだ。ここにいる全員が発見者になる。
誰かの死体なんてもう見たくなかった。悪い夢なら、もう早く覚めてくれ…。
山内は決して逃れられない、その重い一言を告げなくてはならなかった。それが長い呪いの一言になるとわかっていながら。
「彼女達を操っていた魔女は多分…この下で死んでるよ。三年生の一条明日香が飛び降りた…。自殺だよ」
二人が息を飲むのが分かった。
※※※
「奈美ィっ!」
奈美ッ奈美ぃッ…勇樹は何度もそう叫びながら、ようやく噴水に辿り着くと縁に寄りかかった奈美に取り付いた。
胸に。
矢が刺さっていた。
すぐに引き起こす。
急所は僅かに逸れている。
だが出血がひどい。
制服の胸から下が真っ赤だ。
胸の矢に手を掛けようとすると抜かないで、と奈美は強く言った。
「な、奈美…!」
「抜くと…血が出るからさ。
こうしてた方が…もう少し長く…喋れるから…」
「ば、馬鹿なこと言うな!
待ってろ! すぐに誰かを呼んで来る!」
勇樹がそう叫んで腰を上げようとすると、奈美はぎゅっと痛いほどの力で支えた勇樹の腕を掴んだ。
行かないで。
もう助からないから。
その力は、はっきりと勇樹にそう伝えていた。
勇樹は動けなかった。
「ごめんね…。もう…助けてあげられなく…て…」
奈美は振り絞るようにして、ようやくそれだけを言った。
「明日香先輩は…かわいそうな人なの…。
ずっとずっと…家でも一人ぼっちだった…。芸能界に入っても…。学校でも…。
子供の頃から…近所だから…知ってるの…。私には…わかるの…。私も…そうだったから…。
アタシ…止めたかったけど…出来なかった…。
ごめんね…いろんな人を…騙してきたから…。きっとバチがあたったんだね…」
瞳の奥が暈けて見えなかった。
自分の頬を伝うのが雨なのか、何なのかそれすらも。
何もかもグシャグシャに歪んでしまった曖昧な世界に勇樹はいた。唯一確かに分かったものは、自分の腕から急速に失われていく奈美の温もりだけだった。
降りしきる雨。漆黒の闇。
誰かの叫び声にも似た風の音。横殴りの豪雨に晒された哀れな花々と鬱蒼とした木々が一斉に、ザワザワとどよめいている。
噴水から溢れ出した夥しいほどの雨水は、ずぶ濡れの奈美の身体にまで流れ出してきていた。
「…ゆ、勇…樹…」
うるさい雨にかき消されそうな弱々しい声。これが本当にあの奈美の声なのか。
眩しい真夏の朝日にも似た溌剌としたその声が、今はまるで別人のように低く、そして次第に弱々しくなっていく。
奈美はブルブルと震える手を何もない虚空へ伸ばし、勇樹を探すように手探りをした。ぼんやりとした視線があちこちに飛んで視点が定まっていない。
「奈美…お前、目が…」
「うん…。もう…ほとんど…見えない…」
勇樹は奈美の震える手をしっかりと両手で包み込むと、必死で自分の胸にあてがった。
「ここにいるぞ!奈美!
もういい! もうわかったから!ここにいるから!お願いだから何も喋るな!」
奈美は青紫色に震える唇でガクガクと震えながら目を細め、うっすらと勇樹に微笑んだ。
「ゴ…メンね。わた…し…何もで、でで、でき…なく…て…。貴子のコト…ま、守って…あ…あげられ…なく…て…」
「貴子はきっと無事だ!
僕に任せろ! だから…だから、お前も…!」
勇樹は愕然とした。
『死ぬな!』
たったその一言が言えなかった。言えばその瞬間に認めてしまう。勇樹は初めてその絶望的な事実を目の当たりにしていた。
奈美が…。
奈美が…死ぬ…!?
そんな…そんな、馬鹿な事があるもんか!
『ふふっ…なんか最近のアタシ達と似てるね』
何を言っても気休めにしかならないのか?
『よしよし…本当によかったね。一人ぼっちで寂しかったよね…』
チクショウ!
奈美がこんなになってるのに、なんで誰も来てくれないんだ!なんで絶望的なコトばかり頭に浮かぶんだ!
なんで…なんで…。
『生まれ変わってもさ…、あたし…勇樹に巡り会えるかな…』
なんで…昔の事ばっかり頭に浮かぶんだよ!
…チクショウ…!
勇樹は金臭い唇を噛み締め、今にも消えてしまいそうな奈美の身体を思いきり抱きしめた。
血の匂いがした。
『…楽園の庭からお迎えが来たらしい』
『死よ。あなたの最も身近で大切な人が…』
うるさい!
うるさいうるさいうるさいうるさい!
ふざけるな!
何が魔女だ!
何が魔術師だ!
奈美は…。奈美はどこにも行かせない!
行かせてたまるもんか!
ぎゅっと目を閉じ、勇樹は奈美を抱きしめた。
「泣か…ないで…。泣かないでよぉ…勇樹…」
弱々しく震える指先。
泣き出しそうな声で奈美は勇樹の頬を撫でた。
血の跡が一筋。勇樹の頬を赤く染めた。血に染まった奈美の手は冷たく、それでも優しく勇樹を包み込んでくる。
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ! こんなの嘘だ!
「奈美! 奈美ぃっ…!
しっかりしろよ…!
こんなの…こんなの嫌だ…。
イヤだよぉっ…」
「勇…樹…。あな…たが…あ…かし。
ずっと…。何もなかった私が…。生きた…証…」
「な、何をバカな事言ってんだ!これからも一緒だろ!貴子も一緒にさ!
悪い冗談やめろよ!…なぁ!? 奈美ぃっ!」
勇樹は奈美の存在を確かめるように、激しく激しく揺さぶった。そうしなければ奈美がすぐに消えてしまいそうな気がした。
奈美は震える唇で弱々しく微笑み、ゆっくりと力なく首を振った。
奈美はしっかりと繋いだ勇樹の手を震えながら、それでも力強くぎゅっと握り返してきた。
何か硬く小さなモノが勇樹の手に触れた。
「勇樹といら…れて…本当に楽し…か…た…。勇樹と…会…て…本…によ…った…」
奈美の声が次第にひくひくと、息苦しく喘ぐ声に変わっていった。
「嘘だ! 嘘だ嘘だっ!
奈美ぃっ! こんなの嘘なんだろ!? 頼むよ…僕を…僕を置いていかないで…。
僕を一人ぼっちに…」
『ありがとう…』
声にならない声で奈美の唇が、はっきりとそう言った気がした。
うっすらと奈美は微笑んでさえいた。
涙が一筋。つうっと潤んだ奈美の瞳から伝い、勇樹の手に零れ落ちた。
ガクリと糸の切れた人形のように、奈美は勇樹の腕の中で…ついにその支えを失った。
「な、奈美…?」
音もなく。
世界が止まった。
「うわぁああああああああああああぁぁあ!」
一瞬の閃光。
ビシリ、と悪意に満ちた黒い空に亀裂が走った。
降りしきる雨と雷鳴轟く闇の中、魂を吐き出すような勇樹のその悲痛な絶叫は、いつまでもいつまでも冷たい夜の学園に響き渡っていった。
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