邪悪の花園
22
…………
「離してよ!しつこいわね!何度聞かれても知らないものは知らないったら!」
「おいおい、そんなはずねぇだろうよ。こっちはお前が知ってるって聞いて、わざわざお前を探してたってのによ」
「へへ…身体に聞いた方が早いんじゃねぇ?
どうせ有名私立の生徒なんていったって、ここら辺の女みたいに金握らせりゃ、平気でオヤジ共に股開くんだろ?」
「嫌…いやぁっ!」
「よぉ、沢木じゃん。そんなトコで何してんだよ?…ナンパされてんの?」
「な、成瀬…!?」
「何だ、テメェ…この女の知り合いか?」
「ただのクラスメートですよ。ねぇお兄さん達、そいつを離してやってくんないかな。もう遅い時間だし、終電も行っちゃうしさ。
…ね? ほら、路地裏とはいえ街中でやっぱこういうのってマズいしさ…」
「うるせぇ! ケガしねぇうちにとっとと失せろ!」
「へへ、お前も俺らと混ざりてぇのか?」
「はぁ…。バカに何言っても無駄か。言っとくけど女を力ずくで、なんて奴らに手加減しないから」
………
「つ、強ぇ…」
「マジかよ…」
「チキショウ…。何なんだ、テメェ…」
「だから、ただのクラスメートだっての。
根性が腐ると人間、拳も軽くなるんだな。僕も気をつけなきゃ」
「テメェ…殺してやる!」
「あらら、そんな物騒なモノ持ってたんだ…」
「…お巡りさん! こっち!こっちです! 早く!早く来て!」
「ゆ、由紀子…!?」
「チキショウ! 仲間がいやがったのか!
…おい、お前ら、立て!
サツだ! すぐにずらかるぞ!」
………
「ナイスアシスト。警察なんていやしないのに。川島はきっといい女優になれるな」
「馬鹿言ってないで早く起こすの手伝ってよ、勇樹。…奈美、大丈夫? どこにも怪我してない?」
「何で…アタシなんか助けたのよ? 放っておいたらいいじゃない…」
「何でって…黙って見過ごせる訳ないでしょ!…ほら、立てる?…あっ! 膝を擦りむいてるわ。すぐ手当てしないと…」
「余計なことしないで!知らないふりして通り過ぎればいいじゃない!
あいつら…暴力団ともつるんでるのよ。
きっと…きっと仕返しに来るわ…」
「川島、これだけ喋れるなら大丈夫だよ。それより奈美、お前…その分じゃ何度も絡まれてるみたいだな」
「…あんたにアタシの何がわかるのよ…」
「いいよ。理由なんか別に聞きたくもないし。川島も多分、聞かないだろうからさ」
「ちょっ…ちょっと勇樹!どこに行くのよ!?」
「用事を思い出したんだよ。もう遅いし早く帰れよ。じゃあな!」
………
「アンタでしょ?」
「…何が?」
「これ。今朝の朝刊。『大量の刀剣コレクションで20代の男を逮捕』。
アイツらの一人がパクられたの。ひょっとして…アンタの仕業なんじゃないの?」
「何の話だよ」
「しらばっくれて…。あのナイフはね、和彦が滅多に人に見せたりしない、マニア達の間じゃプレミアがつくほどの値打ち物だったのよ。ネットオークションで高く売りさばくつもりだったんでしょうね。
…聞いたわ。アンタ警察に知り合いがいるらしいじゃない?
今時の高校生の言うコトを真に受け止めて動いてくれるような奴が警察なんかにいる訳ないでしょ。知り合いでもいない限りはね。
アンタ以外に警察にタレ込む奴…誰がいるのよ?」
「和彦? ああ、アイツが捕まったの? ふうん…。ま、お互い叩けば埃の出る身体にはなりたくないよな」
「それ、嫌味のつもり?」
「駅前にある、神戸亭のお好み焼きが物凄く食べたくなったなぁ。誰か奢ってくれないかなぁ」
「馬鹿みたい」
「さ、次は物理か…。花田先生だし、教室で寝よ。部活もあるし…」
「な、成瀬!」
「何だよ。早く行かないと昼休み終わるぞ。それから僕を呼ぶ時は名字で呼ぶなよな」
「あ、あのさ…。行くなら由紀子も呼んでよね、一応…。そ、その…今日の放課後に二人にさ、その…奢ってあげても…いいから…」
………
「危なかったぁ…。五限目の体育、あまりにダルいから中庭でサボってたらさ、植田に捕まりそうになっちゃったよ」
「馬鹿だなぁ…。そういう時はこうやって屋上を使わなきゃ。僕なんか一度も捕まったことないぞ」
「そんなの、何の自慢にもなんないでしょ。
それでね、貴子もなんか具合が悪いみたい…。由紀子が保健室に連れてくトコ見たんだ。植田に足止めくらってたけど…。二人には悪いけど、おかげで助かっちゃった」
「生理かな。…お前も?」
「バーカ。あのコは元から身体が弱いのよ。
…でもさ、由紀子と貴子って本当に仲いいよねぇ」
「そうだなぁ…。学校じゃ大抵一緒だもんな」
「ふふっ…なんか最近のアタシ達と似てるよね」
「そうかぁ? 僕らは部活で一緒なだけだろ? 全然違うと思うけど…」
「似てるよ。うまく言えないんだけどさ…。
…うん、やっぱ似てると思う」
「なんだそりゃ」
………
「あ、見て! 子猫!」
「本当だ。なんか元気がないな、コイツ…。
…お~よしよし。おーい、どうしたんだ、お前?捨てられちゃったのか?
お前のママはどこだ?」
「わぁ…。ちっちゃくって可愛い! ねぇねぇ勇樹、アタシにも抱かせて!
うわぁ…毛並みとか綺麗!ふわふわしてる。
よしよし…こんな段ボール箱に入れられちゃって…。かわいそうに…」
「本当だよな。せめて毛布とか餌くらい入れてあげればいいのに…。手紙すら入ってないや。増えれば黙って捨てるだなんて無責任な飼い主もいるよな」
「このコ…連れて帰ったらダメかな?」
「お前の家は、お母さんが厳しいから無理だろ」
「そりゃそうだけど…。
でもこのコ…このまま雨に打たれてたら、凍えて死んじゃうよ…」
「父さんに相談してみるよ。
…これでよし、と。
一応、携帯のデジカメでコイツの写真、撮っておこう。父さん、仕事柄いろんな人に会うからさ。ひょっとしたらコイツの写真を見て引き取ってくれる人がいるかもしれない」
「本当に!? ナイスアイディア! 早速、写真屋さんに現像しに行こうよ!
…ありがとね、勇樹!
よしよし…本当によかったね。一人ぼっちで寂しかったよね。しばらくは私がお前のママになったげるからね」
………
「勇樹の胸…ドクっドクって動いてる…」
「そりゃそうだろ。生きてるんだから…」
「勇樹の身体…凄くあったかい。気持ちいい…」
「お前だって…」
「ずっと…こうしていたくなっちゃうね…」
「うん…」
「ねぇ、勇樹…」
「ん…?」
「生まれ変わってもさ、勇樹に巡り会えるかな…。こんな風にして一緒に肌と肌を合わせて…、お互いの存在を感じていられるのかな…?」
「どうしたんだよ?いきなり…」
「ううん…何でもない…。勇樹の胸、あんまり気持ちいいから…」
「ふふっ。変なヤツ…」
…………
………
……
…
その時、けたたましく鳴らされていた鐘の音がいきなりピタリと止まった。
最初に学園の異常に気付いた勇樹は、思わず足を止めて上を見上げた。
しかし、時計塔の鐘がある塔屋はさらにもっと上。この一号棟のほぼ真上にある。
この位置からでは校舎の全景に隠れ、全く見えなかった。時計塔のある屋上は雨のせいか霧が立ち込め、乳白色の靄がかかっていた。
ふと校舎の方を見ると、見慣れた人影が慌ただしく西側廊下を駆け抜けていくのがわかった。その人影は立ち止まって窓から顔を出し、雨に霞む屋上の方向を見上げている。
灰色のスーツにやや長い髪型。遠目に見てもわかった。あれは担任の山内に違いない。
運がいい。山内なら事情を説明すれば、分かってもらえるかもしれない。勇樹は即座に山内の方へと駆け寄った。
「先生! 山内先生!」
山内は勇樹の姿を見るなり、ギョッとしたように目を丸くした。
「お、お前…成瀬か!?お母さんと一緒に家に帰ったんじゃなかったのか?」
「話せば長いんです!今はゆっくりと説明してる暇はありません!
…それより先生、さっきの音は一体…?」
「お前も聞いたのか?」
あんな滅茶苦茶な音が聞こえないはずがない。
時計塔の鐘が鳴る時刻は放課後の17時30分。その頃には二号棟にある大図書館や学園の購買部といった、学園施設の一部は完全に出入りすることができなくなる。
こんな時間帯に鳴ること自体ありえない。
いや、鳴らされている音が明らかに人為的なもので、尋常ではない旋律だからこそ異常なのだ。
「今日はもう終わったんじゃないんですか? 学校の中には誰がいるんです?」
「部活も禁止している今は生徒達はもう帰った!職員だって殆どいない…。生徒の誰かが学園に残ってるはずがないんだ!」
雨音がうるさく、半ば叫ぶような調子で山内は勇樹にそう言った。
「じゃあ残った先生方のうちの誰かが、あそこにいるって事なんですか!?
中には一体、誰が?」
「教頭先生と花田先生、それに事務の桂木さんだ。中の事は愛子…間宮先生に任せてある。巡回してる植田先生だっている。もしかしたら既に向かっているかもしれない…。
そうだ! こうしちゃいられん! 植田先生がどこにいるか確かめないと…」
「先生、時計塔に急ぎましょう! 一緒に行きます!」
「な…!お前…一体何を言ってるんだ!?」
山内は問題生徒のいきなりの申し出にひたすら混乱したようだ。
「行かせて下さい!何か…凄く嫌な胸騒ぎがするんです…。
だって…だって、あの場所は川島が…」
川島の名前を出した瞬間、山内の表情が変わった。
「あ、ああ。そうだな。…よし、わかった。
ただし植田先生と合流して何もなければお前はすぐに帰るんだ! いいな?」
「はい!」
二人は土砂降りで霞んだ上空を見上げると、即座に西側階段の方へと向け、再び駆け出した。
暗い廊下から階段へ。
階段から階段の踊場へ。
見慣れた多重構造の建物は闇の中では別世界だった。足を踏み出せば、そのまま奈落に呑まれそうな闇の回廊を、勇樹と山内は駆け上がっていった。
駆ける脚を無機質な階段は、ひたすらにカツンカツンと跳ね返す。
悪い噂。狂気へ誘う忌まわしい場所。呪われた校舎。そうした負の感情の諸々が残滓のように染みついた鉄筋校舎の階段は、執拗に勇樹達を拒んでいるように思えた。
こんな場所のどこが清浄だというのだろう。
神が絶対的な光としてあり続ける限り、同時に闇の黒もまた濃密なものとして存在していなければならないとでもいうのだろうか。
屋上へと続くドアノブを開け放った途端、どしゃ降りの雨と冷たい夜気が一気に勇樹に襲いかかってきた。
夜の闇をたっぷりと吸い込んだ堅牢な建物は、荒れ狂う風すら跳ね返し、床や壁の堅い表面を滑るようにして、いずれどこかへ抜けていくに違いない。
…チクショウ!
勇樹は無性に腹が立ってきた。
屋上には巨大な闇が待ち構えていた。時計塔だ。そもそも生を持たない鉱物の塔は、巨大な蛇が鎌首をもたげたようにコンクリートの絶壁に悠然と立ちつくし、矮小な勇樹を見下ろしている。
黒く。長く。巨大な塊。
塔の中ほどの入口からは蔦のように外壁に絡まり、上空へと伸びた螺旋階段が続いている。頂上付近には相変わらず白い霧が立ち込めており、ここからも頂上を窺い知ることは出来なかった。
昏い雲に覆われた黒い空の向こう側で雷光が時折、周囲の闇を照らし出す。
夜陰の死角から一斉に降り注いでくる大粒の雨と吹き荒れる強風がひたすらに鬱陶しかった。まともに目を開けていられないほどだった。
暗闇に聳え立つ時計塔の巨大さと異様さに勇樹は思わず息を飲み込んだ。
非常識な構造をした建物は非常識なほどの濃密な闇を纏いながら、勇樹の前に立ち塞がっている。
強風を掻き分けるようにして勇樹と山内は黒々とした鋼鉄製の扉の前へ至った。
あまりの強風に飛ばされまいと身体は無意識に何かに捕まろうと反応した。勇樹は塔の扉に触れた。
巨大な螺旋の蛇。
その胎内へと続く入口に思えた。
勇樹は観音開きの扉についた青銅製の輪っかを思いきり引いた。だが、薄いとはいえ頑丈な鋼鉄の扉は僅かに前後に揺れ、軋み音を上げるだけで開かなかった。
「開かない!? 先生、鍵が掛かってますよ!」
勇樹は責めるような口調で山内に叫んだ。
「何だと!? そんな馬鹿な! ここは警察以外は立ち入り禁止だったんだ!
鍵だって職員室の保管箱に入れてある。ここには誰も入れなかったはずだぞ!」
山内はそう叫ぶと勇樹を押しのけ、引ったくるようにしてガチャガチャと扉についた鉄の輪っかを力一杯両手で引いた。しかし、見た目以上に重厚な鉄製扉は今や完全に密閉されており、押しても引いてもびくともしなかった。扉のあちこちを見渡してみたが、この扉には紙一枚通れる隙間すらなかった。
勇樹はねじ込み式の大きな鍵穴を覗いてみた。しかし、その先も果てしない暗黒の暗闇が広がっているだけだった。黒々とした周囲との対比で中の様子を窺い知ることはできなかった。
「クソっ! 開かない!一体どうなってるんだ!? まさか、中で誰かが…。…おい! 誰かいるのか!今すぐここを開けろ!」
雨の飛沫と共に襲いかかってくる強風の中、山内は必死でドンドンと扉を叩きながら、あらん限りの声で叫んだ。しかし、呼べど叫べど中からは全く応答はない。
「くそっ! 駄目だ。鍵が掛かってる。中で閂を掛けられているのかも…。すぐに職員室に戻って鍵を取ってこないと…!」
「壊しましょう!」
「な、何だって!? 成瀬お前、正気か! この頑丈そうな扉を破るだなんて…」
「扉じゃありません!中の閂を支えている棒です。入った事があるから分かるんです。扉は観音開きですが、遊びがあるんです!
鍵ごと壊すんです。閂を支える錆びた鉄の棒をへし折れば中に入れるはずです。
…どいて下さい、先生!このぐらいの厚さなら、どうにか壊せるかも…!」
「ま、待て、成瀬! そこまでしなくても…」
山内の制止も構わず、勇樹はその場から僅かに助走をつけ、思い切り得意の回し蹴りを扉の鍵穴付近へと見舞った。
ガチッと音がして古い扉が微かに内側へ沈んだ。さすがに映画のように一撃でとはいかない。だが、壊せそうだ。扉自体は揺らせるし、手応えがある。
勇樹は歯を食いしばり、今度は肩から、蹴りで沈んだ部分に向けて思いきり体当たりした。
「クソッ! もうどうにでもなれだ!」
山内が勇樹に加勢した。
二人はせーので息を合わせ、幾度か扉に体当たりを見舞った。
二回、三回。扉が内側へと沈んでゆく。開きやすいように予め下の部分に僅かに遊びの部分があるのか、二人がぶつかる度に観音開きの扉は内へ内へと沈みながら厭な音を立てて揺れた。
扉にぶち当たる瞬間、肩が痺れるように痛んだ。錆ついた雨水が勇樹と山内に飛び散ってくる。だが、そんなものに構っていられない。二人が体当たりを続けるうちに扉の歪みは徐々に大きくなり、扉が内へと沈む範囲も徐々に大きくなっていた。
七度めの体当たりで、バキッと音がして何か硬い金属のようなものが中の方で落ちる音が聞こえた。鍵を支える閂が壊れたか、あるいは扉の内側にある蝶番の方が外れたのだろう。完全に鍵は壊れた。
勇樹は壊れていない方の輪っかを引いてみた。案の定、開けた途端に派手な音をたてて鍵を支えていた棒状の金属が硬い地面へと転がり落ちた。何度もぶつかった衝撃で錆びついたバーはねじ切れていた。
ギィッ、と軋むような尾を引く音をたてて、扉の片側がゆっくりと開け放たれてゆく。
二人は暗闇へと踏み出した。
ひんやりとした空気。乾いた闇が質量を持っているかのような濃密な闇。
なんだ、これ…?
勇樹は入った瞬間に妙な事に気付いた。その異変は匂いだった。部屋全体にカスタードプリンと花の香りが混ざり合ったような、何だかやたらと甘ったるい匂いが漂っていたのだ。
そして、その匂いの中でもはっきりと嗅ぎ取れる、この錆臭いような金臭いような、独特の臭気。その匂いの正体を身体が敏感に察知した瞬間、勇樹の身体は凍りついた。
知っている…。
この臭いを僕は知っている…。
その時、いきなりピシャリと周囲が光った。
一瞬、目が眩むような雷光が辺りの闇を真っ白に照らし出した。
そこに勇樹は信じられないものを見た。
「な…!」
「こ、校長ぉ!」
暗闇の奥。そこには裸に倒れた校長がいた。
別の生き物のように生えた黒い矢が校長の胸を深々と貫いている。
すっぱりと斜めに切り裂かれた首筋。ぱっくりとした赤い傷口を晒し、夥しい血を流して、虚ろな目をして。
完全に死んでいた。
ぼんやりと照らされたその異様な光景に勇樹は思わず息を呑み込んだ。
黒いマントを羽織って折り重なるように倒れ伏した三人の少女達がいる。
その中央には首から血を流し、うずくまったまま動かない全裸の校長の死体。
部屋の隅に掲げられた十字架から逆さまに伸びた影が、血のような緋色の絨毯に影を落としている。
天井のステンドグラスに描かれた黒山羊の悪魔が冷ややかに愚かな人間達を見下ろし、嘲笑ってでもいるかのようだ。
それにしても何という奇怪な光景だろうか。
忌まわしくも凶々しい黒魔術の儀式に立ち会っているかのようだった。
この圧倒的なまでに生々しい死体の存在感。
勇樹は人間の他殺死体を見るのは、もちろん初めてのことだ。動揺は隠せなかった。勇樹は微かに自分の身体が細かく震えているのを今さらのように感じた。
しかし、吐き気をこらえながらも勇樹は校長の死体をなるべく詳しく観察してみようと思った。警察の事情聴取のしつこさは既に経験済みだ。
ここで見聞きしたことは後々、かなり重要になる。勇樹はそれを本能的に悟った。
それに、この惨状を目に焼き付けておくことは、あの偏屈な男の役に立てるかもしれないと思ったからだ。
勇樹は改めて現場の惨状を、今度は意識的に観察してみることにした。
校長の死体は正に凄惨の極みといった姿だった。物言わぬ人間の屍というものが本来的に放つ、その圧倒的な生々しさに改めて足が竦みそうになる。
村岡は胎児のように、くの字形に体を折り曲げて倒れていた。
カッと目を見開いたまま壁の方向を向いて死んでいる村岡の歪んだ表情は、びっくりした時のような驚愕の表情のまま固まっているようだった。
普段はオールバックに撫でつけられた、白髪混じりの前髪が哀れなほど額にうちかかっている。
トレードマークともいうべき黒い眼鏡をかけていないせいもあるが、こうして裸のまま倒れているとまるで別人のようだった。
もはや、この世の何も映していないその目。完全に瞳孔が開ききっているのがわかる。
暗がりにぼんやりと、黄色いランタン型の照明が不気味に灯っている。
騒々しい雨の音。皮膚に直接伝わってくる冷たい空気と咽せ返るような血の臭い。
これが悪い夢などではないことを明瞭に物語っていた。不気味な空間に倒れた異様な死体を囲む黒マントの女達。
さながら時計塔の魔術師に生贄にされたようなものだろうか。
校長の裸の背中には蚯蚓がのたくったような腫れ跡が幾つもついていた。
推理小説や映画でよく異常な殺害現場が登場するとよくこう言われる。
犯罪小説たるミステリーにおいては何者かのいびつな悪意によって装飾された異常な舞台装置や過剰な演出は必要不可欠なのだ、と。
…だが、それは嘘だ。
この殺害現場は異常を通り越して、むしろ不条理だ。教会の聖堂にも似た場所で大の大人が、よりにもよって裸で殺されているというその胡散臭さと非日常さは、酸鼻を極めた場であるはずの殺害現場に、ある種の滑稽さを与えているように思えたのだ。
この異常な演出。
もしもこれが人間の手による犯罪の一端ならば、あまりにも冒涜的だった。
胸には黒い矢を突き立てられ、首筋を鋭利な刃物ですっぱりと切り裂かれた校長の姿は無惨というよりもむしろ、ひたすら哀れというよりなかった。
冷淡な事務屋というイメージの強い校長はあまり好きなタイプの人間ではなかったが、勇樹はここにきて初めて、校長のこの姿を哀れに思った。
学園の校長という社会的な地位や村岡義郎という人間が今まで生きて培ってきた尊厳や威厳だのといった、そうした装飾された人間性や人格が、この滑稽な姿の為に一つ残らず剥奪され、貶められたように思えてくるから尚更哀れだった。
おそらく傍らに倒れている少女達の仕業なのだろう。校長は首輪で拘束までされていたようだ。
蛇がのたくったように、銀色の鎖と黒皮の鞭が少女達の傍らに落ちている。
虐待される禽獣でさえ鎖に繋がれたまま鞭で打たれ、ボーガンで撃たれて死んでしまうなど、そうそうないことだろう。
勇樹は改めて周囲の闇を見渡してみた。入口の扉には鍵がかけられ、閉まっていた。
単純に考えれば、ここで校長を殺害したのは彼女達のようにしか思えない。
しかし、凶器がこの場のどこにもない上に加害者であるはずの彼女達まで倒れているというのは一体どういう事なのだろうか?
彼女達は気絶している以外は特に衣服の乱れもなく、異状もないようだ。
トラブルの末に彼女達が凶行に及んだのだとしても、殺してしまったのなら真っ先に現場から逃げようとするのが普通ではないのだろうか?
誰かに襲われたのか?しかし、一見して争ったような形跡も見られない。
何なんだろう…?
この違和感。
それにしても校長のこの姿は何か変だった。
勇樹は異常な光景と錆び臭く鉄臭いような有機的な血の匂いの臭気に、むせ返りそうになりながら、頭の中では妙な感覚を覚え始めていた。
いや、変というなら何から何まで変なのだが、この違和感は本当に何だろう。
正面から真っ直ぐ心臓に向けて、ボーガンを一発。洋弓部で使われているボーガンの矢と同じもののようだ。おそらくはこの凶器も部室から持ち出したか、盗まれたものなのかもしれない。
この物騒な武器の威力はアーチェリー部にいるクラスメートに実際に見せてもらったことがある。深々と一瞬で人間の身体を貫けるという意味では、ナイフのような近接武器よりも確実に人を殺せるかもしれない。
何せ飛び道具なのだ。急所を外さなければ抵抗される恐れもないのだから。二の矢三の矢が飛んでくるのなら尚更だ。空手部の勇樹のように拳や蹴りの間合いで戦える得物ですらない。
あからさまに剥き出しな殺人者の悪意を垣間見たようで、勇樹は背筋がザワリと薄ら寒くなった。
至近距離から撃たれたものか、心臓を貫いた矢は背中側まで達していた。
周囲の暗がりとの対比で見えにくかったことが却って幸いしたといえるだろう。
ペンキを地面にぶちまけたように首から迸った血が周囲に飛び散っているのがわかった。夥しいほど流れ出した首筋からの出血のせいで、床に接した方の校長の半身はどす黒い血に染まり、今も尚、緋色の絨毯を浸し続けている。
矢の刺さった心臓部位からの出血は、逆に殆どといっていいほど見られない。矢を誰かが引き抜いた形跡がないことも、それを裏付けている。ほぼ即死の状態だったはずだ。
そこまではいい。
しかし、なぜ首の頸動脈だけを狙ってピンポイントに切り裂く必要まであったのだろうか?犯人は絶命した校長の首の頸動脈をわざわざ切り裂いたということか。この分では犯人も相当の返り血を浴びているはず。
念には念を入れて、という事だろうか?
絶命を待って血流が完全に止まった状態だったなら、少なくともここまでひどい出血には至らなかったはずだ。
…だとすれば、それはなぜだ?
この場所で校長にこんな格好までさせ、この少女達は何がしたかったのか?
奈美は一体どこだ?
様々な疑問が次々と湧いてきては勇樹の頭をひたすら混乱させた。山内はまだ入口付近で放心したように立ちつくしている。
その時だった。
傍らに倒れていた少女の黒い背中がピクリと微かに動いた。勇樹はすぐさま駆け寄ってその少女を抱き起こした。
黄色い照明が僅かにそばかすの目立つショートヘアの、まだあどけない顔立ちをしたその少女の顔を照らし出した。
その少女の顔は間違いなくあのサイトの写真で見たうちの一人だった。
「先生!この三人、生きてます!何かで気絶させられてるだけですよ!」
「なに!?本当か!」
山内は勇樹の声に始めて現実に引き戻されたのか、はじかれたように勇樹を押しのけ、倒れた少女達に駆け寄った。
その時になって勇樹は初めて彼女達が制服の上から黒いマントを羽織っていることがわかった。
「お前…杉本!3年C組の杉本真奈美じゃないか!?それにそっちは一年生の阿部優奈に五十嵐恭子だ!…クソッ!一体、何がどうなっているんだ!?」
山内は半ばヤケクソ気味にそう叫んだ。
売春の事実の経緯は今は伏せておいた方がいいかもしれない。
勇樹はそう思った。いずれ判ることだが、勇樹とて今この場で山内に説明できるほどの詳しい情報を持っている訳ではない。何よりも勇樹自身、混乱していた。
噂こそあったが、彼女達はいきなり降って湧いたような存在だったからだ。
「…おい!大丈夫か!しっかりするんだ!」
呼びかける山内。勇樹も傍に倒れている二人を仰向けに抱き起こした。
勇樹は失神している目の前の少女の体を大きく揺すり、頬を幾度か叩いた。
「う…うぅ…」
思ったよりも、か細い声だった。こっちの二人は一年生の生徒だろうか?
少なくとも、同じ学年にはいない顔だ。暗がりの中、顔色が紙のように真っ白だった。
勇樹が幾度か揺すると、意識がはっきりしてきたのか僅かに頬に赤みがさしてきたように見える。
少女は朦朧としながらブルブルと細かく震えている。うっすらと見開いた目は勇樹の姿を捉えてこそいたが、恐怖に怯えきったその目は既に尋常ではない光を湛えていた。自分の身に何が起こったのかも、全くわかっていないようだ。
「おい、ここで一体何があったっていうんだ!?
…誰にやられたんだ!」
「赤い…マント…」
「え…」
何だろう。ひどくぞっとした。
「赤いマント…着てた…。
う、上で変な笑い声がしたと思ったら…め、目の前にいきなり…そ、そいつが…いた…。
どこから現れたのか、ぜ、全然わかんなかった…。いきなりそいつ…校長先生をけ、蹴り上げて…む、胸に…ボボ、ボーガンの矢を、つ、つがえて…」
ガタガタと歯の根が合っていない。段々と自分の発する声が高くはっきりとなるにつれて意識がはっきりしてきたのか、そんな自分の口調にも怯えてしまっている。これではまるで要領を得ない。
だが、少なくともこの姿を見る限り、校長を殺害したのは彼女達ではなさそうに思えた。
「私ら…怖くて扉から逃げようとしたの…。けど、扉は奈美先輩が外側から閉めちゃってたから…出るに出られなくて…。
そしたらそいつ…懐から白いハンカチみたいなのを取り出して…。近くにいた真奈美先輩の顔にそれを…。先輩がいきなりバッタリ倒れたの…」
山内に抱えられた少女が険しい顔で幾度か頷いた。
「そしたらそいつ…今度は私の顔にそれを押しつけてきて…。変な匂いの…。そう…薬。
なんかの薬…嗅がされた気がする…。後はもう何がなんだか…」
「奈美は!?お前らと一緒だったんじゃないのか!?アイツはどこに行った、おい!」
勇樹はつい乱暴気味にその女の肩を揺すった。
「答えろよ!」
ヒッとひきつけでも起こしたように、その少女は肩をビクッと一瞬震わせた。怯えきっている。わからないというように、少女は勇樹の顔色を窺い、ブルブルと激しく首を振った。
「二年の鈴木貴子ってコをここに閉じ込めようって誘い出したのは奈美よ…。後はあの方がなんとかしてくれるからって…」
真奈美と呼ばれた少女がそう言った。山内に支えられた彼女は自分の肩を抱きながら震えていた。こちらはまだ幾分か落ち着いている。カトレアという名前だったか。
勇樹は写真で見た杉本真奈美の顔を思い出した。まさか、三年生の生徒まで関わっているとは思わなかった。
「最初はあのコに…事件に関わるなって脅すだけのつもりだった…。校長先生のこの姿を見たら誰だってビビるに決まってるってあの方が…」
リリーと呼ばれた別の生徒…阿部優奈が急にしゃくりあげ、両手で自分の顔を覆った。指の隙間から覗く怯えきったその目は、僅かに血走っていた。
「私らだって最初は薬なんてやりたくなかったわ!けどアレが…ダチュラがあれば嫌なコトなんて全て忘れられたのよ…。
何も覚えてないのに、目が覚めた時には、私達が見たくもない嫌な現実の方が変わってた…。あの方が変えてくれた…」
「ヤバいからやめようって抜け出そうとしたコもいたわ…。けど…」
「お前たちの言うあのお方…一条先輩が許さなかった訳だな?」
勇樹の問いかけに真奈美はひどく顔をしかめた。一条先輩という名前に、残りの後輩二人があからさまな恐怖の反応を示した。さりげなく鎌を掛けてはみたが、これでは認めたも同然である。
観念したのか真奈美は肩を抱いて震えながら、訥々と語り始めた。
由紀子の事件の直後、怯えきった残りの同士達を前にして彼女はこう言ったのだという。
『掟を破った魔女がどうなることか、聡明なあなた方なら、もうわかったことでしょう?
…抜けたいのならお好きになさいな。けれど裏切った時点であなた方は、この神の教えを守る静謐な学舎の生徒という後ろ盾すら失ってしまうのだということを、お忘れなく…。
世間的にはネットアイドルだの芸能人の卵などと呼ばれていても、所詮私達は神の教えに背いた魔女…哀れな犯罪者の集団にしか過ぎないのですわ。
…考えてもごらんなさい。インターネットで顔まで晒しているアイドル達の卵。
有名高校に通っている女生徒達が、まさかの薬物に売春行為…。
彼女達をお金で抱いた獣のような男達は、地位も名誉もある欲に飢えた大人達…。
三面記事どころか、全国ニュースでもトップクラスの一大不祥事。素敵!実に面白いわ!
実に背徳的!これぞ神への冒涜ですわね!
とても…とてもよろしくてよ!』
勇樹は胸の奥を爪で引っ掻き回されたように気分が悪くなった。真奈美の声を介して聞こえてくる一条明日香の言葉はひどく邪悪なノイズとなって勇樹を責め苛んだ。
耳を塞ぎたくなるような邪悪なノイズを優奈は再び続けた。いずれ気の狂れた話になるのだろう。
『いいですか、この世界は最初から狂気に蝕まれ、歪んだ世界なのです。
表面的には見ぬ振り気づかぬ振りを装っていようとも、人は生まれつき背負った原罪から目を背けて生きていくことなど出来はしないのです。
人間という種は生物学的にはただの動物…。子孫を残せば、あとは死ぬように出来ているのです。なまじ心があるからこそ死ぬ恐怖に怯え、悶え苦しみ、震えながら生きるのが人の定め…。ふん、笑ってしまいますわ!
世界を壊す為に存在しているような、そんな人間達に最初から種としての未来など存在してなどいないというのに…』
何なんだ、これは。
これが本当にあの優美で可憐な一条明日香が言った言葉なのだろうか?
俄かには信じられない話だった。優奈の声…一条明日香の言葉はやはり恐ろしいほどに歪んでいた。何だかひどく邪悪だ。勇樹は思わず天井を仰いだ。そこにも悪魔がいた。
『…では、その救い難い種の中にある私達、女とは一体何なのですか?
…生まれ来る命を大切に守り、人としての在り方を教え、育ててゆく母性愛に満ちた存在?厳しさと優しさを兼ね備えた母性愛こそが我々女の本質?
…いいえ。母性など、全て生理学的に説明のつくもの。女としての究極の目的が母親になることだというのなら、それはただそうした役割を振られ、こなしているだけの存在でしかない。いい加減に気付くべきです。
時代や世の中の考え方がいくら変わろうとも女とは所詮、女。子宮という命の入れ物としての器。生物としてのただの雌にしか過ぎないのだと。
…想像してご覧なさい。
何年後かには結婚するかしないかの選択肢しか残されておらず、しなければ負け犬と呼ばれ、結婚しても待っているのは夫と子供、これから死んでゆく老いた者達に振り回され、従属し、自らも醜く衰え、老いて死んでいくだけの存在になる姿を。
女子高生…女として特別扱いされた属性の持つ魔力は所詮、今だけの話です。
今という時がたった一瞬しかないのは誰しもが同じ。普通に生きているだけでは、誰も道など用意してはくれません。
ならば混沌という名の自由を受け入れ、生きていくことに今さら何を躊躇する必要があるのです?法や道徳、倫理観と呼ばれるものは所詮は時代に左右されるもの。
するすると姿形を変え、一向に落ち着かないそうした脆い概念によって、いかに人が何年何十年も抑えつけられ、卑しめられ、駄目になっていくことか…。
…だらしのない、救いがたい世の中の男達、大人達を見てきたあなた方ならば、わかるでしょう?』
気分が悪くなってきた。邪悪な言葉と血の臭いにあてられ、勇樹は吐き気を催しそうだった。
『…さぁ、どうします?
生きるも煉獄…。死ぬのも地獄の世界です。
金に男…。快楽と肉欲に溺れたセックス…。人を貶め、手に入れる地位と名誉…。大いに結構なことではないのですか?
何人もの人間が自分達を美しいと褒め讃え、認め、羨む名声と美貌は必ず、この血塗られた道のりの先にあるのです。
刹那的な快楽を受け入れなさい。男を狂わせ、世界を変える…貴女方は完全なる女へと生まれ変わるのです。
その栄光こそ偽善を捨て、純粋な自由を謳歌した勝利者達に与えられる特権なのです。
それとも、貴女方はこれからも罪悪感と己の在り方に生涯悩み、苦しみ続ける弱い女でいますか?
…今までどおり、自分の欲しいもの、望むままの未来がこの先も手に入りますのよ?
何を迷う必要があるのです?』
勇樹は顔をしかめた。
聖女と悪魔の素顔を巧みに使い分けるカリスマのごとき彼女の声は、マーラーの誘惑のように彼女達の人間としての、女としての土台を揺さぶったという事だろうか?
勇樹は気付いた。
この得体の知れない邪悪の根幹に、いつしかあの男…来栖要が語ったダチュラの存在が色濃く存在していることに。
妄想と現実の区別がつかなくなる譫妄状態。
わかっていたんだ…。
あの人には最初から…。
「こんな事になるなんて…」
堅い床の傍らで。
校長は死んでいる。
じっと押し黙っていた勇樹は彼女達を問い詰めた。
「自分達が何をしたか本当にわかってるのか?こんなコトが許されると、まさか本気で思ってた訳じゃないだろうな!」
勇樹は恫喝した。奈美に裏切られていたという腹いせの方がまず先に立った。
信じたくない現実とありえない現実が今、なぜか勇樹の目の前にある。
それを認めたくなかった。
「最初は本当に遊びのつもりだったわ!
私達だって最初は先輩の取り巻きでいられればそれだけで幸せだった。
あの人は欲しいものは全て手に入れるきっかけを作ってくれたわ。お金だって彼氏だって自由だって…。そのうち自分達でそれをやってみないかって言われたわ。
自分の力で自分の欲しいものを手に入れて何が悪いっていうの!」
傍らにいたガーベラ…三年生の五十嵐恭子が言った。
「ここにはいつだって同じ仲間がいたわ!
家でも学校でも冴えなくて居場所なんかなかったのに、ここで仲間と一緒なら何でも変えられたの!家でまで親にシカトされて、この上、学校でまで一人ぼっちになるのなんて嫌だったのよ!」
それに、と恭子は再び恐怖に顔を歪ませた。
「ローズは…ゆ、由紀子は…し、死んじゃったのよ!逆らえる訳がないじゃない!
あ、あんな風にグシャグシャになって死にたくない!狂って飛び降りたくなんかない!」
「仕方なかった…。仕方なかったのよ…」
「嫌…もう嫌ぁ…。捕まりたくないよ…」
背徳の少女達は糸が切れたように、それぞれに顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、しまいには泣き崩れた。
暗がりの中、黄色い照明がぼんやりと異常な時計塔の内部を照らしている。
闇。
暗闇。
真っ暗な闇。
この闇は人の悪意が生んだ暗黒の色だ。狂った世界にあてられ、勇樹は目眩がしてきた。
やまない雨の音がひたすらうるさかった。血の匂いと邪悪な場に五感の隅々が麻痺してしまったようだ。
何なんだよ。このおかしな光景は。
笑いだしてしまいそうな壊れた世界だった。勇樹は壊れてしまった現実の中にいた。
完全に放心した教師。己の罪に泣き崩れる少女達。校長は裸で、おまけに首から血を流して死んでいる。
それを見ている自分もきっと何かが壊れている。日常が。自分達自身の在り方が。命が。信じていた絆が壊れてしまった者達。
だが冷ややかに状況を見つめる一方で、勇樹は恐怖に怯え、取り乱した少女達の身勝手な言い方には心底腹が立ってきていた。こんなイカレた連中の為に由紀子や校長が死んだのかと思うとやりきれなくなった。
事件が始まってから胸の奥底でくすぶっていた怒りと憎しみ。驚きと裏切られた悲しみ。
勇樹は限りなく色温度の低い冷たい暗闇の中で、ありとあらゆる負の感情がない交ぜになり、冷たく燃え上がっていくのを感じた。
臨界点にまで達した勇樹の胸の奥に湧いた怒りと憎悪は、まるで冷たい炎にも似ていた。
赤ではなく青。青白く燃え上がる炎にも似た、冷たく狂おしい色をした、猛々しくも静かな炎のゆらめき。
暴力的な感情は、時に一瞬で人の人生を一変させる。それは、ほんの些細なきっかけさえあればいいのだ。
勇樹は改めて実感した。純粋なる怒りの前には、もはや義憤も私憤も関係ない。
人が滅多に人を殺さないのは同じ人だからだ。だが、人が人を殺したくなる瞬間に明確な理由など存在しないのではないだろうか?
腹が立つ。
死ねばいいのに。
消してやりたい。
今の勇樹のように後先のことなど何も考えられなくなるが故に人は人を殺すし、殺したくなるに違いない。
勇樹は汚物でも見るような眼差しで傍らの少女の一人を睨みつけて言った。
「お前らのせいだ」
「え…!?」
「ち、違う!違うよ!私達じゃない!」
そんな声など届かない。勇樹はもう自分でも止められない。爆発するまで理性を保っていられたのが信じられないぐらいだった。
「言えよ。お前らが校長を殺したんだろ?」
「違うったら!」
「だったら答えろ!ここにいた貴子をどこにやった! お前達を閉じ込めた奈美はどこに行った!一条先輩はどこだ!」
「知らない! 本当にそれは知らないよ!」
「現に人が一人殺されてここで死んでる!
きっかけを作ったのはお前らだ! お前らが校長を殺したも同然じゃないか!」
「うぅ…」
「違う…。違う…」
一端言葉についた悪意は己の内側で膨れ上がり、もはや歯止めなど利かない。自分はここまで残酷になれるんだと気付いた瞬間、勇樹はやり場のない怒りの矛先を完全に彼女達に向けていた。
「自分と同じことをしてる仲間と一緒なら、危ない橋も平気だったのか?
…私達に不可能はない!あの人は魔女!
何だって出来る!何にだってなれる!
…本気でそんな馬鹿なことを考えてたつもりなのかよ?」
「やめて…。やめてよ…。もうやめてぇ…」
「うぅっ…グスッ…」
見苦しい!見ているだけで苛々する。だが、もう止められない。
「ネットアイドルだって?
じゃあインタビューにも答えてくれよ!
売春の真似事をするのは楽しかったですか?大人達をペットにして見下ろすのは、どんな気持ちでしたか!」
「あぁぅっ!」
勇樹は真奈美と呼ばれた少女の髪をむんずと鷲掴みにすると、思いきり眼前で睨めつけた。
「痛っ!痛いっ!痛いよぉ…放して!放してぇ…!」
「いやぁああぁあ!」
「おい、成瀬!よせ!」
間に入った山内が必死の形相で勇樹を止めに入った。間近で化け物でも見たかのように、勇樹を見て怯えている女生徒の肩を、勇樹は隅で震えている二人の方へ向けてぞんざいに突き飛ばした。
三人は隅で一塊になって勇樹の豹変ぶりにひたすら怯えている。勇樹は構わずに逃げ場のなくなった彼女達を睨みつけた。
「今しか言えないから言っておいてやる。もし、貴子の身に何かあってみろ。お前らの行き先が、この先たとえ少年院だろうと鑑別所だろうと…。安全な塀の内側で何年経とうが何を考えてようが、その間に誰に守られてようが…。その間に僕がどんな場所にいたって。お前らのせいで苦しむ家族や友達が、たとえ何人いたって…」
歩み寄る。
女達は声にならない悲鳴をあげた。
「どこまでも追い詰めて…。
僕が…。僕がお前らを…」
つかつかと歩み寄る。女達は悲鳴をあげ、再びの恐怖に顔を歪ませた。
「一人残らず殺してやる!」
「ひっ!」
よほど勇樹が怖かったのだろう。一人は頭を抱えてうずくまり、もう一人はその少女にすがりついていた。あとの一人は完全に失禁していた。スカートの裾が滲み、石の床に黒い染みが出来ていた。
「もういい、成瀬。大体の事情は俺でもわかった…。これは殺人事件なんだ。後はもう警察に任せるんだ…」
山内は勇樹の肩をそっと叩いた。その瞬間、敗北感にも似たやりきれない思いが勇樹を包み込んだ。
正にその時だった。
「あははははははは!
アハッ!あはっ…アハッ!
…アハハハ!
ははははハハハ!
…あっはっはっはっ!」
「な…!」
全員が上を見上げた。
全身を突き刺すような、その狂った声を聞いた瞬間、勇樹の身体はもう敏感に反応していた。
気がついた時には、制止する山内を振り切り、入口と反対側にある部屋の隅にあった吹き抜けの螺旋階段を駆け上がっていた。
一条明日香。
…許さない。
狂った笑い声は頭上からやむことなく、果てしない暗黒の闇を震わせていた。
徐々にその声が近付いてくるようだった。
どしゃ降りの雨に打たれながら勇樹は螺旋の闇を再び駆けた。駆け続けた。
その先に待つ結末の行く末など、もはやどうでもよくなっていた。
胸の内に宿った感情が思わず言葉に出た。
「殺してやる…!」
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