鳴動する闇

19


『ねぇ、貴子…』


『なぁに、由紀子?』


『この世に地獄ってさ…。あるのかな?』


『え~!? なにそれ。…どうしたのよ、いきなり変なコト言って』


『あ、ううん…大丈夫。あ、あの…ゴメンね。別に何でもないの…』


『どうしたの? なんかいつもより少し元気ないよ?』


『ねぇ、貴子…。私思うんだけどさ、監獄や牢獄ってさ…。もしかしたら、この学園と似てるのかもしれないね…』


『何、言ってんのよ。囚人は悪いコトした人が入る場所でしょ? 囚人は監獄からは絶対に出られないけど、私達が悪いコトしたら学校から追い出されちゃうじゃない』


『そうだよね…。悪いコトしたら地獄どころか、牢獄行きだよね。学校にもいられなくなるよね…』


『…? 変な由紀子。…ねぇねぇ、元気ないみたいだし今日の放課後、一緒にどこか行かない? 今日は部活の練習ないからさ、気晴らしにマックにでも寄って行こうよ!』


………


あれは二ヶ月ほど前の昼休み。

中庭に咲いていた桜が軒並み葉桜に変わってしまった頃。二人で白いベンチの近くでお弁当を広げていた時の事だった。


貴子は噴水の近くで交わした由紀子との会話を、なぜかその時思い出していた。


時刻は夕方の5時に差し掛かろうとしている。貴子は奈美と共に薄暗い学園の廊下を慎重に歩きながら、雨の飛沫でひっきりなしに歪んでいく窓の外の景色を見つめた。


叩きつけるような始めの豪雨から一転して霧雨となった外の雨脚は、収まるどころか再び強くなってきている。


中庭に鬱蒼と生い茂る木々や草花が異形の生物のごとく、薄気味悪い影となってザワザワと黒く蠢いていた。


あの噴水が見える。

ほんの数分前には何でもなかった美しい庭園の光景が、今や全く異なった様相を呈していた。決壊する前のダムのように、赤レンガの噴水の縁に溜まった水が今にも溢れ出しそうな勢いだった。


問題の矢の刺さった白いベンチは、こちらの渡り廊下からでは死角になっていて全く見えなかった。今度は反対側の窓の方へと目を転じてみる。


道路を一つ挟んだグラウンドの方ではあちこちがぬかるみ、大きな水溜まりが幾つも出来ている。しとどに濡れたアスファルトの轍にも水が溜まっている。


この道路に…。由紀子は落ちてきたんだ…。


網膜に焼き付いた悪夢のような光景が再び貴子の脳裏に蘇りそうになる。

忌まわしい記憶が脳内で再生される前に、貴子は意識的に現実の光景へと視線を逸らし、フラッシュバックを拒否した。


横殴りの雨に打たれ、ポツンと置き去りにされたサッカーのゴールポストが何だか哀れに思えた。


親友が最後にいた道路。

白木の献花台にたくさん供えられていた色とりどりの花は、今や元の花がなんだったのか分からないほどにぼろぼろに形が崩れ、花びらは周囲のあちこちに散り、滅茶苦茶に吹き飛ばされている。直視できないような痛々しいその光景に、貴子は再び視線を逸らした。


大粒の雨がアスファルトの地面を叩く度に白い靄がかかり、スプレーを吹き付けたように校舎の周囲が霞んでゆく。風が強く吹く度に景色は白く歪み、滲んだ視界はますます曖昧なものになっていた。


時折、真っ暗な空が不穏な唸りを上げ、強風が獣の遠吠えのような音で吹き荒ぶ度に貴子の焦燥感も次第に募ってゆく。自然と自分の少し前を歩く奈美に身を寄せるようにして歩いた。


…この雨の中、勇樹は本当に大丈夫だろうか?


前を歩く頼もしい奈美の後ろ姿を見つめながら、改めて貴子は心の底から安堵すると同時に、もう一人の大事な仲間の身を案じた。


荒れ狂う表の風は予想以上に激しい。この分では歩く事さえ困難だろう。

華奢な貴子の身体など、この凶暴で無慈悲な風の前では一瞬で吹き飛ばされてしまうかもしれない。


勇樹…大丈夫だよね?

来てくれるよね…。


貴子は祈るような思いで暗い空を見つめた。


狂おしく吹き続ける風。いつ止むとも知れぬ断続的で容赦のない大雨。みるみるうちに視野狭窄になっていく景色の全てが、まるであらゆる場所から隔絶された世界であるかのように貴子には感じられた。


廊下に目を戻す。

放課後の学園をうろついているという後ろめたさも手伝い、殊更に二人は慎重に歩みを進めていた。


目的地である時計塔が建っている屋上。そこへ通じる階段は三階の中央に位置している。


聖真学園のどの場所にいても屋上へ上がろうとするなら、この一号棟と呼ばれる校舎の中央階段を登っていくのが一番の最短ルートだった。


東側と西側にも階段はあるが、そちらからでは屋上へ上がる階段へはどうしても遠回りになってしまう。


誰かに見つかる可能性はあるが、未だ外にいるであろう襲撃者に襲われる事を考えれば人目につく中央階段から向かう方がまだ安全だと奈美が提案したのだ。


貴子もこれには賛成だった。学園の中に入ったからといって安全だなどという保証はどこにもない。貴子達は閉じ込められたも同然(!?)なのだ。貴子とて、あんな怖い思いは二度としたくなかった。


問題の中央階段に差し掛かったところで二人は即座に足を止めた。

やはりというべきか、真っ暗な廊下の一部にだけ明かりが見える。職員室の辺りだ。


貴子は息を飲み込んだ。

仄暗い暗闇の中、二人は互いに目配せすると、すぐさま傍にあった緑色の電話機の影に滑り込み、そして息を潜めた。


一瞬だったが人影が見えた。先生か生徒かはわからないが、誰か男の人がまだ残っているのだ。


チラリと見えたあの人影。アレは…。


奈美が貴子の肩を小さく突いて小声で言った。


「マズいわね…」


「うん…。由紀子の事件以来、警備員みたいに先生が遅くまで学園に残って見回ってるとは聞いてたけど…」


「…どうすんのよ?」


奈美が細い眉をひそめた。貴子は向こうの人影にこちら側を気取られないようにして慎重に答えた。


「うん…。誰かしら先生が学園に残ってるうちは玄関に鍵を掛けられる心配もないから、手早く確認さえ出来れば私達も堂々と出られると思う。最悪、見つかっちゃったら、この雨を言い訳にするしかないんじゃないかな。

『雨が収まるまで学園で待つつもりでした』とか適当に言って…」


「ある程度はそちらの方も覚悟しとかなきゃね…。…それより見た?当直の先生、植田だよ。見つかったらただじゃ済まないかも…。

それに残ってるのが植田だけとは限んないよ?」


「けど今さら後には引けないよ。逆に今しかチャンスはないかもしれない…。

警察が詳しく調べる前に、どうしても由紀子が時計塔にいたっていう痕跡だけは探してみたいの。例のコトを先生に知らせるのは、その後だって出来るよ」


いつになく強気な貴子に向け、暗がりの中で奈美が小さくため息をついたのがわかった。


「そう言うと思った。普段おとなしいコに限っていざとなると、やる事が大胆なのよね」


「ごめんね…。奈美を巻き込んじゃって…」


「だから、それはもういいんだってば」


「ううん、よくないよ。

なんていうか…こういうコト、やっぱり普通じゃないと思うし…」


目的を同じくしているとはいえ、やはり奈美へ申し訳ないと思う気持ちは消えなかった。

誰かの為ならこんな風に強気にもなれる癖に肝心な所で謝ってしまうのだから、我ながらいい加減な女だと思う。


自覚してるじゃない、と奈美は呆れたような声で微笑んだ。


「ねぇ、貴子…一つだけ聞いてもいい?

普段おとなしいアンタがそこまでしちゃうのって、やっぱり勇樹の為なの?」


思いがけない直接的な質問に貴子はドキリとした。


「そ、それは! 私は勇樹とは別に何も…。

由紀子の事をちゃんと知りたいから、こうやってお互い調べあってた訳で…。別にそ、そういう…。…んむっ!?」


奈美が突然、貴子の口を塞いだ。


「しっ! 誰か来た」


廊下の通路。職員室の辺りから足音がする。話し声が聞こえた。一人は植田のようだ。

もう一人の、この聞き覚えのある甲高い特徴的な声は…。


「それでは、何もないとは思いますが巡回の方はお願いします。先生方に警備員の真似事をさせるみたいで何ともおかしな状況ではあるんですがね…」


「なぁに、これも指導部の仕事の一環ですから気にせんで下さい。表がこの有り様ですから、どうせ誰も残っちゃいないでしょう。

…ところで教頭、二号棟の方は施錠の確認だけで本当に平気なんですか?」


「既に司書の吉田さんが施錠したそうですから、残っているのは我々と山内先生に間宮先生、それに花田先生と桂木君だけです。二号棟は見回らなくとも誰もいやしませんよ」


「わかりました。当直室の懐中電灯と傘、お借りしていきます。…それにしても校長はどこに行ったんでしょう?

自宅の方にもまだ帰っていないとなると…」


「ええ…やはり少し心配ですな。私は教育委員会の支部に電話で確認してくるとしましょう。巡回して何もなければ植田先生も真っ直ぐ帰って頂いて結構です。鍵はいつもの場所ですね?」


「ええ、それでは後の始末をお願いします」


「そちらも。暗いので、くれぐれも気をつけて下さい」


二つの足音が遠ざかっていった。植田は貴子達の通ってきた方とは反対側の、東側の渡り廊下を通っていくようだ。


「行ったみたい…だよ?」


貴子はまだ自分の口元にあてられていた奈美の手をやんわりと返すと、奈美は再びため息をついた。


「ウッチーも残ってるんだね…。見つかったらますますヤバいよ。担任の生徒がまた問題起こしたなんて知れたら、今度こそ先生のクビ、飛んじゃうよ…」


ウッチーというのが担任の山内のあだ名だった。親しみやすい名前だし、本人も気にしていないようなので他のクラスでもそう呼んでいる生徒達は多い。

『カッコイイけど暗い』と言う生徒も中にはいるが、なんだかんだで面倒見のいい教師だし、貴子もあの先生が担任でよかったと思う事は多かった。


「そういえばこの間の小テストの答案まだ返ってきてなかったね。いつもの先生なら採点けっこう早いのに。やっぱり由紀子の事で先生も大変なのかな…。それで残業でもしてるのかな?」


「さぁね、ウッチーには悪いけど、あんたの言うとおり侵入するには今が好都合みたいだし、とりあえず先を急ご。こんな所にいつまでも長居は無用だわ」


「うん…。けど勇樹に電話しなくて平気?」


「大丈夫よ。アイツならあたし達より上手くやるわ。ああ見えてすばしっこい奴だしね」


「ふふっ…そだね」


困ったような表情で奈美は微笑んだ。つられて貴子も頷きを返す。昼休みに奈美や由紀子をからかっては逃げる勇樹の姿は何度も見ている。あの逃げ足の速さは天性のものだろうから奈美の言う通り、余計な心配はいらないのかもしれない。


奈美と共に薄暗い階段を素早く駆け上がった。

一階から二階、そして踊場へと。


明かりの一切ついていないガランとした校舎はまるで廃墟のようだった。屋上へと近づくにつれ、雨音が次第に強くなっている気がした。


「貴子…、見て」


踊場の中程まで来た時だった。前を歩く奈美が窓辺に立ち、下の方向を指差して言った。

貴子はそっと、奈美の示す方向に視線を送る。


懐中電灯の明かりがぼんやりと向かい側の校舎の一階、細長い廊下の辺りに伸びているのが見えた。やはり植田は反対側の校舎に向かったようだ。


「いずれこっちに来るかもしれないね…」


「大丈夫。時計塔に入ってしまえば、そうそう簡単に見つかりっこないよ」


いつになく慎重な面持ちの奈美に向け、貴子は強気に言った。先ほど殺されかけた恐怖はどこへいったのだろうか。不思議と今は落ち着いている。どちらかといえば、普段は引っ込み思案な自分からは想像もつかない。

仲間を信じ、待ち、何かを覚悟した時というのはこんなものなのだろうか?


薄暗い階段を二人は一歩一歩踏みしめていく。屋上へ近づくにつれ、二人の足音が雨音に紛れていくようだった。


完全に影と同化した貴子達はただ無人の校舎をひたひたと登っていく。


昼と夜。光と闇。その狭間にある時間が今なのだ。


笑い声や人の話す声が常にどこかから聞こえる昼の顔。耳が痛いほどの沈黙に支配された冷たい夜の顔。薄暗い校舎のがらんとした風景はやはり、どこか廃墟じみていた。


『監獄や牢獄ってもしかしたらさ、この学園と似てるのかもしれないね』


由紀子はあの時、どんな気持ちで貴子にそう切り出したのだろう?

二ヶ月前…由紀子があの時から既に売春グループに関わっていたというのなら、あの言葉は本当はどんな意味を持ち得たのだろう?


たとえ自らの目的が売春グループの告発にあったとはいえ、親友である貴子に隠し事をしているという慚愧や自責の念があの言葉に繋がったのか…。貴子に最後まで打ち明けなかったのは、何も知らない貴子をゴタゴタに巻き込まない為だったのか。


それとも、あの言葉には貴子も知らないもっと深い意味があったのだろうか?

今にして思えば貴子は、そうした親友の気持ちなどロクに汲みもせず、普段通りの答えを当たり前のように返した事になる。


貴子は知っている。

正義感が強く、曲がったことが嫌いで困っている人を見ると放っておけなかった由紀子を。


猫が大好きで街中で知らない家の赤ちゃんを見ると、その子のお母さんに頼んで抱かせてもらったり、あやしたりするのが好きだった優しい由紀子を。


チョコレートパフェよりもフルーツパフェが好きで、俳優のオダギリジョーのファンでミッフィーの小物集めが好きだった由紀子を。

それらは全て表向きの仮面だったというのだろうか…。


貴子は何も知らない。

売春グループの不正を暴き出し、告発しようとする一方で彼女達の一員でもあった由紀子を。


売春はしていないにしろ、彼女達の手助けをして一度でも彼女達の危機を救ったであろう由紀子を。


親友のコトなら何でも知っているようで、実は何も知らなかったのだ。


貴子はぎゅっと唇を噛み締め、自分の無知と不明さを呪った。


今ならたった一つだけ分かる事がある。

あの時、きっと由紀子はこの学校と同質の堅牢な構造を備えた建築物は、監獄くらいしか想起できないと、そう貴子に言いたかったに違いない。


泣こうとも喚こうとも。笑おうとも叫ぼうとも、何もかも跳ね返してくる、この生を持たない鉱物のごとき校舎。


堅牢な構造を持つものは、全て拒絶や絶望を予感させるという意味では同質だ。


この建物にいると、そんな風に感じてしまう。跳ね返された忌まわしい言葉や感情はきっと行き場を失い、発した人間に悉く跳ね返って、いずれは誰かを傷つけてしまうように出来ているのかもしれない。


ここはきっと…。

そうした善くない場所なのだ。


貴子は思う。

悪しき力を孕んだ場所は、それ自体があらゆる災厄を閉ざして封じ込めておく為に存在する箱のようなものなのかもしれない、と。


二人は屋上へと続く階段に差し掛かった。


「ねぇ貴子、本当にこの先に…行くの?」


闇の中、背中を向けた奈美が立ち止まり、階段の前でポツリと呟いた。


「うん…。私は行くよ。奈美には悪いから、やっぱりここで待っててくれてもいいよ」


毅然と貴子は返した。


「…どうして知りたいの?結局この先に何もないかもしれないんだよ…?」


相変わらず背中越しに奈美はそう問いかけてきた。心なしか声が震えているように感じる。怖いのだろうか…?

無理もない。貴子は階段の上を見上げた。


昼でも暗いこの場所は、十三階段とも呼ばれている不吉な噂のある場所だった。

以前の貴子ならきっと、こんな場所など近寄りすらしなかっただろう。

『夜に屋上に上がってはいけない。あなたもきっと気が狂う。あなたもきっと…』


関係ない。怖くない!

こんなの十二段しかない、ただのコンクリートの階段じゃない!


貴子は奈美のそばに近寄ると肩を叩いた。


「こんな時、由紀子や勇樹だったらきっとこう言うんじゃないかと思うの。

『何もなくても知りたいと思う気持ちが大事。前に進んで変わろうと思う気持ちが大事。そこに何もなくたって変わろうと思った瞬間、その人のきっと何かが変わってる…』って」


我ながらスカした台詞だとそう思った。誰かさんの性格が空間を隔てて貴子に憑依でもしたものか。けれどそれは貴子の本当の気持ちだった。貴子は言った。


「由紀子はもういないけど、私にはまだ勇樹や奈美がいてくれる。私だって誰かの役にたちたいの。もっとちゃんと誰かのコト、知りたいし。由紀子ができなかったコト…私、由紀子の為にしてあげたいの」


「…………」


「奈美は勇樹をここで待ってて」


じゃあまた後で、と俯いて黙ってしまった奈美に向けて貴子はそう言った。


「……に何が…よ…」


追い抜き様、俯いた奈美が何かを呟いたような気がしたが、その声は外の雨音に紛れて聞こえなかった。気をつけてとか、用心しろとでも言ったのだろう。


濃密な闇へと踏み出した。

コツ…コツ…コツ…。

階段を踏みしめる。


吹き荒ぶ嵐の音が徐々に眼前に近付いてくる。石の床を踏みしめる度に、乾いた音が周囲に反響していく。


貴子はドアの前に立った。警察が立ち入り禁止のテープを剥がした跡がある屋上へ通じるドア。躊躇わずに貴子は扉を開けた。


「…うぅっ!」


開いた瞬間に猛烈な突風と豪雨が貴子の体に襲いかかってきた。


思わず顔を背ける。貴子は薄目を開き、どしゃ降りの空を見上げた。


空が鳴動している。黒い雲が上空を疾走する暗黒の空は、凶暴な風と共にさらなる夜の闇を運んでこようとしている。


恐ろしく風が強い。風を孕んだスカートのせいで動きにくい。雨の飛沫が目に、髪にひっきりなしにかかってきて鬱陶しい。貴子は手をかざして前方を見た。


ついに…来た。


そこには異様なほど高く、そして驚くほど黒い漆黒の異形が待ち構えていた。巨大な龍のごとき塊が鎮座して、貴子を見下ろして建っていた。


赤というより黒。夕方だというのに深夜のごとき暗い時計塔の外観は、ただそれだけで邪悪を孕んでいるかのようだった。


異教徒の建てた校舎。昔、誰かが死んだ塔。

それを包む清浄な校舎のレリーフやデザイン。そのモチーフがたとえ何であれ、闇を介せば今は薄気味悪い化け物にしか見えなかった。漆黒の闇を纏い、雨に煙る異様な佇まいの中に、ただならぬ気配だけが蠢いている。


貴子はゴクリと唾を飲み込んだ。ひどく喉が乾いている。


貴子は重々しい雰囲気の両開きの扉の前に立った。


由紀子はきっと…。

あの時、ここに…。

冷たい雨に打たれ、濡れそぼった貴子。肌に痛いほどに強く冷たい雨だった。


僅かな逡巡の後、貴子は意を決し、力いっぱい両開きの扉の片側を開け放った。

見た目の重厚さに反して、さしたる抵抗もなくあっさりと扉は内側に開かれた。


質量を持った濃密な闇が眼前に広がっていた。


「……!」


扉を開けた瞬間に、貴子はある事に気付いた。

鼻腔を刺すような、この微かなある香り。どこかで嗅いだ事があるこの…。


後方から足音がした事にも気付かなかった。


「ごめん…!貴子!」


「…えっ!?」


貴子が振り返ろうとしたその時、いきなりどんと誰かに背中を押された。


「……!」


貴子は強引に闇の中へと押し出された。


ガシャン!


背中に重い金属音。


一辺の光もない。

闇。

漆黒の闇。

何も見えない。


…閉じ込められた!?


そう思い、慌てて振り返ろうとした、その時…。


ふふふ。


笑い声がした。


「うふふ…ご苦労だったわね、ダチュラ…」


ふふ…。


「予定より…ちょっとだけ遅くなったわね」


ふふふふ…。


「はじめまして。鈴木貴子さん」


ふふふ…。

クスクス…。


「ようこそ。飛んで火に入る鈴木貴子さん」


ふふ…。

うふふふ…。


「宴の支度は出来てるわよ。鈴木貴子さん」


クスクス…。

ふふふ…。

うふふふ…。

ふふふ…。

クスクスクス…。


「…だ、誰!?」


闇の中、次々に別々の場所から聞こえてくる声、声、声。


忍び笑う声。


ふふふっ…。

クスクス…。


「あぅっ!」


強く背中を押され、貴子は今度こそ、前のめりに躓いて倒れた。



『ねぇ、貴子…』


冷たい石の感触がいきなり頬にあたった。自分が地面に這いつくばっている事にさえ、貴子はわからなかった。


禍々しい気配がいきなり迫ってきたと思うや。


『この世に地獄ってあるのかな…』


いきなりこめかみに鋭い痛みが走った。


『監獄や牢獄ってさ…』


髪の毛を引っ張られ、仰向けにされ…。


『もしかしたら…』


ビリビリッと音がして服を破かれた。


『この学園と似てるかもしれないね…』


強く腹を蹴られた。激痛に一瞬、目の前が白くなる。


「ぐっ…ふぅっ…!くふっ…うぅ!」


冷たい暗闇から幾つも伸びてくる手が無理矢理、貴子を捕らえる。


痛い!痛い痛い!やめてやめてやめてやめてやめて!


その時、ピシャリと周囲に雷光が走った。


「あ…あぁっ…!」


貴子はこの世ならぬ光景を見た。


雷鳴に一瞬浮かんだ幾つもの黒いシルエット。

影の一つ一つが黒いマントに身を包み、貴子を見下ろして立っていた。


見たこともない。

異形達の群れ。


顔はのっぺりとして目には丸い穴が空いていた。口はぐにゃりと半月形に、耳まで裂けている。顔面は鈍い銀色に輝いている。


銀色の…仮面?

仮面を被ってるの?


ぼんやりと一つ、黄色い明かりが頭上に灯った。


「…ひっ!」


貴子はマントを着た怪人達に完全に取り囲まれていた。


ふふふっ…。

うふふふ…。

クスクス…。


貴子は後ずさる。手にグニャリと何かの感触。


振り返る。

眼前には。


「あぁああぁ…」


化け物だった。

半開きにした口からだらしなく涎を垂らした…。


違う!

この人は…。


「こ、校長先生…!?」


目の焦点が合っていない。

全裸の校長がグニャリと蠢きながら、貴子に向けて手を伸ばしてくる。


「あぁあ…あぁああぁあぁ…」


凄く嫌な声だった。

根源的な恐怖に貴子の顔が歪に引きつった。


なぜだろう…?

急にお母さんに会いたくなった。


ごめんね! ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!


どこか遠くの方から、そんな悲痛な声が響いてきた。


「うふふふ…。さあ、楽しい楽しい…パーティーの始まりですわ!」


どこかで聞き覚えのある、その絶望的な声が闇の中で高らかに響き渡った、その時。


貴子は悲鳴を上げた。

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