疾走する闇
18
ブラインド越しの窓の外ではシトシトと、冷たく湿った雨が降り始めていた。
どんよりとした暗い空とは裏腹に、無機質で人工的な明るい室内を見渡して花屋敷は胃の腑が徐々にキリキリとするような緊張感を覚えた。水を打ったように静まり返った刑事部屋の室内は今、静かに鳴動を始めている。
ここ数日ですっかり見慣れているはずの景色がやけに重苦しく感じ、花屋敷は息苦しさを覚える。そして気がつく。この迷走する一連の事件が始まってから幾度となく感じてきた、この違和感や圧迫感がようやく一つの形になり始めている事を。
花屋敷や石原を始め、古井警視に磯貝警部、そして所轄の柏崎ら目黒署の刑事達の視線は一斉に白衣を着た監察医に注がれていた。
座はひたすら不可解な現実を目の当たりにしなければならない深刻さに満ちていた。
白衣姿の監察医、山瀬拓三はひとしきり場を見渡してから言った。
「リン酸オセルタミビルはスイスの製薬会社、ロシュ社により製品化された、新型のインフルエンザ治療薬の名称です。
商品名『タミフル』として販売されているもので、この名前の方が世間での認知度は高いようです」
解剖学以外にも博識な白髪の老医師は、彼にしてはめずらしく神妙な表情でそのまま続けた。
「これは従来のインフルエンザA型にしか効果のなかったシンメトレルという薬とは違い、A型B型のインフルエンザ両方に作用する薬といわれています。B型には多少効果は薄いとはいわれておりますがね…。
これはC型インフルエンザには効果がない代わりに致死率が非常に高い感染症であるH5N1型…あの鳥インフルエンザに効果があるとされ、近年注目されるようになった薬なのです」
「名前だけなら俺も聞いた事があるぞ…。
娘が去年インフルエンザに罹った時に病院の本か何かで読んだ記憶がある。先生…確か世界中で原料となる物質が品薄状態になって問題になっている薬ではありませんでしたか?」
大柄な柏崎に向け、老医師は小さく頷いた。
「ええ、柏崎刑事…。その通りなんです。
この薬の精製の仕方については多くの研究チームによって今も研究が進められているようですが、現在タミフルは、中華料理でトンポゥロウを煮込む際などに香辛料に使われる、トウシキミという植物の果実、八角…。
この主成分であるシキミ酸を原料に、10回の科学反応を経て生産されているのが大部分です。
タミフルの全世界での使用量のうちの、実に75%を日本が占めており、世界各国のうちで最も多く使用されているのはもちろん、統計的なデータでは世界2位のアメリカと比べても、子供への投与量は人数比にして約13倍という非常に稀有な薬でしてな。
もちろん、これにも理由があるのですが…」
ゴホン、と山瀬医師は軽く湿った咳をした。
「2003年のインフルエンザの流行に伴い、インフルエンザ脳症に関する危険性が大々的に報道され、国内での使用量が急増した事に加え、国民皆保険制度により薬に関しては患者の金銭負担が少なくて済むようになった事が、まず原因の一つといわれています。
インフルエンザウィルスは皆さんもご存知の通り、タチの悪い風邪などと違い、安静にしてただ寝ていれば治るという安易なものとは違います。
ウィルスに耐性がなくなるような疾病を持つ患者や、免疫力のまだ弱い小児、抵抗力の弱った老人であれば、最悪の場合、罹れば死亡するケースもあるのですから、厚生労働省でなくとも、新種のウィルスに対抗する手段として、国民へ安定供給する為の最終的な保険となる薬の備蓄は必要不可欠な政策な訳です」
なるほど、と間を縫うようなタイミングで古井警視が頷いた。
「新種のウィルスに一切の対抗手段がなければ、人から人、動物から人へと感染し、一気に蔓延するかもしれないと国側が危惧するのは自明の理だな。
疫病が蔓延して際限なく人がバタバタ死ぬというのでは、日本のような狭い国ならばウイルス一つで国が滅んでしまう危険性もあるから…という事ですね」
デスクに肘をつき、眼前で指を組み合わせて目を向けた古井に、山瀬医師は大きく頷いた。
「ええ、インフルエンザに限らず、ウィルスは生物の体内で耐性ができると新たに性質が変化してしまう所が、最も厄介だといわれています。
そうなれば、警視の仰るように、また新種のウイルスとなって流行る危険性もある。
そうした意味で疫学は常に歴史の中で疫病と戦ってきた人類の歴史の象徴ともいえる学問なのです。まるで犯罪者と警察のようにね」
よく判る喩えだと花屋敷はそう思った。社会を健常に機能する人体に喩えるなら犯罪者はその人体から生まれたウィルスであり、警察はそれらへの対抗手段としてのワクチンや薬剤のようなものだという事だろう。
犯罪がいつまでたってもなくならないように、それは永劫に繰り返される、究極の鼬ごっこであるかもしれなかったが。
「さて、インフルエンザに効果のあるこのタミフルですが、実際に効果のほどは確かな薬なのです。
この薬のメカニズムは簡単に言えばウィルスの分子レベルでの働きを、その酵素にだけ働く鍵のような分子によって阻害するという、対ウィルス製剤であり、HIVウィルス薬同様に、ごく最近になって確立された最新の製薬技術なのですな。
元々この薬は、パーキンソン病治療薬の製造過程で生まれた、代替治療薬としての面も持っていたそうです。
海外ではタミフルは高価で富裕層しか使えないというのが実状ですから、医療保証制度が国民全員に行き渡る、この日本という国こそが特異な国なのだといわれてしまえば、それまでですがね…」
僅かに言葉尻を濁した山瀬に向けて花屋敷が間を継いだ。
「まぁ、そんな高価な薬を国民全員の為に備蓄しておこうと考えるあたり、この国がいかに異常ともいえる、恵まれた環境にいるかは分かりますよ。しかし、インフルエンザウィルスの脅威に対してそのタミフル…ですか?
その薬の効果が確かなのはわかりましたが…。いまいち先生の仰りたい事…その真意までは測りかねます。医学に暗い自分には、何がどう今回の事件と繋がるのやら、さっぱり見当もつきませんよ」
お手上げだという表情でそう言った花屋敷に、山瀬医師は薄く苦笑しながらも丁寧に応じてくれた。
「まぁ、専門的な医学用語が多いので多少、退屈な話に感じるかもしれませんが、これも重要な前振りなので聞いて下さい。
なにしろ、今現在も様々な論議を生んで問題になっている薬ですからな…私としても多少、慎重にならざるを得ないのですよ」
まるで花屋敷以外の誰かに弁解しているようである。このどこか飄々とした監察医がここまで慎重に話している辺り、かなり微妙で慎重な社会問題に触れているのだろうという事は伝わってくる。
「この薬はノイラミニダーゼという糖タンパク質の酵素を阻害する事によって、インフルエンザウイルスが感染細胞表面から遊離する事を阻害し、他の細胞への感染、増殖を抑制する薬なのです。
この『抑制する』という所が味噌ですな。分かりやすく言えば、ウィルスが体内へ浸食するのを薬が防いでいる間に、人間の抗体がウィルスと戦うという事なんです。
症状が現れ始めてから飲んでも効果はあるのですが、『増える前に飲め』という予防策としての面も併せ持っているようです。
健常な成人者であれば、タミフルを投与後、3日~7日以内に体内のウィルスを淘汰することができるといわれています。
ただし症状が収まる時期と、体内のウイルスを淘汰する時期というのは必ずしも一致しないので、症状が収まったからといって投与を中止できない所に注意しなければならない…、と処方する医師側の方は指導しておるようですな」
「タミフル…ですか。私はそんな薬、見た事も聞いた事もありません。
要するに効果が持続している間も、体内のウイルスを駆逐する為に飲み続けなければならない薬だという訳ですよね?
薬の飲み過ぎは毒なのだとしても…要はそれこそ風邪薬と同じ感覚なのではありませんか?
そこに何か問題でも?
…そもそも、一体どんな薬なんですか?」
ようやく動揺から抜け出した石原が畳みかけるように尋ねた。
「そう思って、ここに持ってまいりましたよ。
知り合いの薬剤師に今朝方、無理を言って貰ってきたのですがね。
…このカプセルが、リン酸オセルタミビル…タミフル75のカプセルです」
山瀬医師は白衣のポケットから薬の箱を取り出し、風邪薬を飲む時のように銀色の封を破って一粒取り出すと、それを手のひらに載せて示した。
片側が淡い黄色で色分けされた、透明で小さなカプセル錠が一粒載っていた。
「この薬は見ての通り内服投与…要するに飲み薬である為、感染部位への到達時間が遅い、それまでにあったザナミビルや同様の効果を持っていても、鼻から吸引するタイプのリレンザという薬よりも服用が非常に簡単である為、老人や小児にも投与しやすいという特徴があるのです」
「見た感じ…薬局で売られているような、普通の風邪薬のカプセルと変わりありませんね?」
「ええ、見た目だけなら我々がよく知るのとそう変わりないので解熱剤やビタミン類などを混合した風邪薬同様、手軽な感覚で飲めそうだという人はいそうですな。
実際に小児用のドライシロップも販売されているぐらいですから。
様々な薬が世界中で今も研究、開発され、国によって認可されて民間に流通している以上、こうした薬自体がある事は別段、何の不思議もないんです。
ただタミフルに関しては見た目より、その副作用の方に若干の問題があると言われております…」
「…副作用?」
石原が訊ねた。
「これは厚生労働省がタミフルに関して注意喚起している一文なんですがね…」
山瀬は自前の黒いドクロのついたファイルに挟んだ一文を読み始めた。
「『稀にタミフルの服用により重い副作用を起こす事があります。服用の際は、以下の点にご注意下さい。
1.アナフィラキシー・ショック症状。
2.皮膚粘膜眼症候群(Steven-Johnson症候群)。
3.中毒性表皮壊死症(Lyell症候群)。
4.急性腎不全」
淡々と読み上げていく山瀬の声が、次第に低い声音を帯び始めていく。
「そして、これが注目して頂きたい箇所です。
『5.精神、神経症状。
意識障害、異常行動、譫妄(意識朦朧とした状態)、幻覚、妄想、痙攣等が現れる事がありますので、これらの症状が現れた場合は直ちに医療機関にて受診して下さい』」
花屋敷には後半はほとんど聞こえていなかった。
「なんだって!それじゃ先生…ま、まさか…川島由紀子の…」
『きゃははは!あははは!あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!』
アレは…。
「ちなみにこれは、先ほどのタミフルをくれた友人の医師に聞いた話なのですが…」
まるで湖面に広がった波紋のように医師の言葉は、とどまる事なく花屋敷を動揺へと駆り立てた。
「その知り合いの病院では昨年の12月から4月にかけてインフルエンザに陽性反応のあった1才から16才にタミフルを投与した総数は、およそ2600名だったそうです。
その病院ではインフォームドコンセントの観点から、投与患者全員にインフルエンザの高熱時に伴う幻覚等の症状、そしてタミフルにより原因不明の精神異常が起こる可能性がある事を逐一、説明した後に薬剤を交付したそうです」
この上、まだ何か…。花屋敷はまるで先の見えない展開にゴクリと唾を飲み込んだ。
「実際に初回の服用開始から二時間前後より、幻覚、幻聴、妄想を言い始めたという保護者からの苦情や問い合わせが23件あったそうです」
「え…!?」
石原が息を飲んだ。
「…ある少年は突然、泣き出したかと思えば、譫言のように『誰かが追いかけてくる!』と繰り返し親に訴えたのだそうです。
またある少女は、身体に何かついているとしきりに身体中をかきむしったそうです…。奇声を上げながら、皮膚が血で真っ赤に染まるほどの力で…」
「そ、それって…」
花屋敷は怖ろしい予感に目の前が真っ暗になった。
「無論、これは一つの症例でしかありません。高熱時に苦しい最中、悪夢を見たのだと保護者や医師はそう結論づけたようですが…」
「2600分の23…この数字を高いとみるか低いとみるか、微妙な所ではあるでしょうね」
あくまで冷淡な古井が同じく淡々と語る山瀬に向けて言った。
「…ええ、約113人に1人の割合でそうした症状が出ている事になります。
そのうち二名は両親が医者です。その内の11人の話では時間の経過と共にそうした症状は消失したようです。しかし反復投与した所、再度幻覚等の症状が現れたのだそうです…」
感情のない声で医師は再び淡々と続けた。
「一方、別の医院で検査なしにタミフルの予防投与を受けた家族のうち…これは母親と長男3歳、長女2歳の三人だったそうですが。全員が初回服用後、意識を消失して倒れたそうです」
「なんですって…!」
「ちなみに三人ともインフルエンザによる既往歴はありません。
家族が慌てて救急搬送して搬送先の病院で後に検査の結果…インフルエンザは陰性と判断された事例だったそうです」
「それって…医療ミスって事ですか?」
石原がため息を漏らすように問い掛けた。
「いいえ…。インフルエンザが疑われた為に予防策として医師側は処方したのでしょうし、実際に効果はあると国側が認めている訳ですから、病院側だけを責める訳にはいきませんがね…」
室内は異常なほどに静まり返っていた。表の雨の音がいつの間にか少し強くなっていた。
「思い出したぞ…!リン酸オセルタミビル…。あのタミフルか…。あの時も問題になったあの薬の事だったか…」
突然の沈黙を破ったのは磯貝警部だった。
「警部も…何か知っているんですか?」
怪訝な表情の花屋敷に向け、磯貝警部は神妙に深々と頷いた。もはや花屋敷はこの展開に既にして対応できなくなっていた。
「知っているも何も…。昨年の11月の事だ。
ある県でパジャマ姿の高校生が裸足で雪の中を猛ダッシュで駆け回った挙げ句、建物付近のフェンスやコンクリート塀を幾つも乗り越え、躊躇いもなく国道を横切った際に、走ってきたトラックに轢かれて交通事故死するという事件が実際に起こっている」
「な、なんですって!
そ、それじゃあ…!」
『きゃははは!あははっ!あーはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!』
「その男子高校生はどこにでもいる普通の生徒で、平素からいじめの被害などに遭った事も一切なく、自殺するような素振りも見せなかった為、両親は事故後『なぜ、あんな事をしたのかわからない』と供述したそうだ」
磯貝警部の言葉に老医師は関心したように、幾度も頷きを返した。
「正に磯貝警部の言う通りなんです。説明する手間が省けて大変助かります。
ちなみに補足するならば、その高校生は医師の診断の結果、インフルエンザの症状があり、自宅療養中にタミフルを処方して1時間半ほどしてから、嘔気…つまり吐き気に見舞われたのだそうです。親が目を離した隙の、突然の異常な行動だったと、新聞でもそう報告されています…」
「まさか…。では…今回の川島由紀子の事件も?」
「ええ、彼女は免疫系の過剰産生であるサイトカインストームを思わせる症状はなく、死後の検査の結果、脳CT、脳MRI、脳SPECTでも何ら異常は見られませんし、髄圧への感染もありませんから、インフルエンザ脳症であった可能性は低い。但し、検査によってインフルエンザの変異は確実に認められました。
…間違いありません。
彼女が喉に炎症が出るほど咳をしていた事。
そして、前日にはマスクまでしていたというクラスメートの証言。
医師の処方が必要なこの薬を、なぜ彼女のような普通の高校生が通院さえしていないにも関わらず所持していたのかは、まだ一向にわかりませんが…。
彼女が時期的にも外れたこの6月にインフルエンザに罹った特異な患者である事…。
胃の内容物である昼食の弁当の消化状態…遅ればせながら、分析の結果と考え併せて、昼休みから死亡する16時37分までの間に…タミフルの服用があった事はまず間違いないと思われます」
「なんてこった…」
絶句する花屋敷と石原。
銀縁眼鏡を外してしきりに瞼を押さえている古井。他の刑事達も完全に色を失っていた。
何という事だろう…。
花屋敷は再び、心中でそう呟きたい思いだ。
この事件は確かに自殺でも他殺でもない。
ありふれた日常に突如として異常な因子が紛れ込んだ故の、不測の事故(!?)という事になる。
誠に恥ずかしい話なのですが、と山瀬拓三は苦渋の表情で告げた。
「先ほどから長々と説明してきたように、インフルエンザの症状とタミフル…。
実際の所、両者に何らかの因果関係が認められるかについては厚労省も対応に苦慮している今は私自身、はっきりと判断は下せない。明確に結論を出せないというのが本音なのです。インフルエンザ脳症の可能性はないとしても、タミフル服用による異常行動かもしれないし、インフルエンザの発症に伴った際の熱性譫妄の可能性もありえる…。
いずれにしても、川島由紀子という女生徒が、なぜ目が眩むほど高い、あの校舎の屋上から狂ったように笑って、自分から飛び降りたのか?
…なぜ、あのような異常ともいえる行動に出たかの謎について、監察医として明確な結論を出そうとするならば、事故死として結論づける以外にないという事です」
「そんな…」
刑事達は一様に、この事態に戸惑っていた。
「待って下さい!
先生…この事件が仮に事故なのだとしても…。では12年前の山内洋子の事件はどうなるんです?
この事件がそもそも他殺ではないかと疑われるきっかけとなったのは、川島由紀子が12年前の事件を独自に調べていたからではないかという事が判明しています。
容疑者である武内誠が最後には自殺してしまった、あのSE207号事件です。
石原が先ほども言いましたが、被疑者自殺の根拠となった決定的な要因は何だったのですか?…担当監察医だった先生ならば当然、知っているのではありませんか?」
まくし立てるように問い掛けた花屋敷に山瀬はよくご存知で、と僅かに驚いた様子だった。それから医師は俄かに再びの苦渋の表情を見せ、それから何かを決心したかのように静かに何度か頷いた。
「偶然とは本当に恐ろしいものですな。いやはや…世間は本当に狭い。最近とみに、そう痛感させられますよ。
よもやあの時、一監察医に過ぎなかった私が再び、聖真学園でこうした不可解な検死に携わる事になるとは…」
「それでは…やはり今回の事件と過去の事件には浅からぬ関係があるという事なんですか?」
石原が古井をきっと睨んでから問いかけた。古井警視は眼前で指を組み合わせたまま、身じろぎ一つしなかった。
「ええ。科学を信ずるべき私がこんな事を言ってはいけないのでしょうが…。これはもう悪魔的な偶然としか言いようがありません。
12年という時を経て、今また同じ場所で似たような事件が繰り返されたということ自体、何か運命的なものすら感じますよ…」
「似たような…事件?そ、それは…」
何かが壊れたような石原の表情。花屋敷の動悸が俄かに激しくなってくる。
「まぁ偶然はいつだって最強の神の悪戯ではあるのでしょうが…」
そう言って山瀬は古井へと意味ありげに静かな視線を送った。
「古井警視。こうなった以上は、もう捜査員に公表しても構わないのではありませんか?」
「え…!?」
刑事達の視線は一転して古井の方へ向いた。
ある者は疑惑の目を、ある者は驚嘆の眼差しを。
いきなり話を振られても古井は動揺を見せず、深い溜め息をついてから再び自らの目頭を押さえた。銀縁の眼鏡を外した苦悩の表情はいつか早瀬の前で失態を演じた人物と同一人とは思えなかった。
花屋敷に分かるのは彼がただのキャリアではなかったのだという、その事実だけだった。
「今は管理官の一人として過去の警察の失態を認めるような発言は、出来れば最後までしたくはなかったのですがね…。仕方がない。
ここから先は私が話しますよ、タクさん…」
「タク…さん?」
鸚鵡返しに問い返した花屋敷は、古井と山瀬医師を交互に見返していた。古井に向け、タクさんと呼ばれた山瀬拓三は静かに頷いた。
「この限られた人員ならば問題ないでしょう。…どうあれ、過去の事件でしかないと言われればそれまでの事。箝口令…。一体、その言葉にどれほど知らない方がよい事が含まれているのか、多くの人は測りようがないでしょうからな…」
「全くです…。早瀬君のサポートも兼ね、事件のお目付役として遣わされてきた身なんですが、やはり本来の自分の部署から調査を進めた方が、どんなにか気が楽だったかしれませんよ…」
本来の…部署?
「ふ、古井警視…」
磯貝警部ですら、この展開に置き去りにされているようだった。
山瀬は静かに言った。
「事実をいかに歪めて世間が伝えていようとも、浮かび上がってくる真実の片鱗は、いつか必ず顔を見せる時が来る…。結局はそういう事なのでしょうな…」
黒いファイルを手にして目を閉じた老医師。デスクに両肘をついた古井。
もはや花屋敷は自分が木偶人形にでもなったような壊滅的な思いだった。物言わぬ花屋敷達を置き去りにして世界がどんどん歪んでいくような、そんな妄想を抱いた。
警察の…失態…?
新たなステージにバトンタッチされた形となった古井警視は、ついにその重い口を開いた。
「これから私が話す事は、12年前の女子高生監禁刺殺事件において世間が伝えている事実と大幅にズレた部分の話が混じるだろう。
…敢えて言うなら、警察が語れなかった部分の話だ。よって他言は一切無用。…その事をまず、念頭に置いて聞いてほしい」
眼鏡を外した別人のような古井の表情は、もはやプライドの高いキャリアの顔ではなかった。花屋敷は気付いた。それはもう今さらながらとしか言いようのない、愕然とするような疑問だった。
自殺とも取れる女子高生の墜落死事件。この小規模ともいえる現場の事件捜査にキャリア組の人間が二人も存在しているのだという、その事実に。
「1994年の事だ…」
窓辺のデスクに座った古井の向こう側、花屋敷はふと窓の外を見やった。
今やスコールのような大雨は霧のように街全体を包んでいた。
霧雨に霞み出したその風景は、底知れぬ闇を覆い隠すヴェールのように薄い膜となって花屋敷の世界にベタリと張り付いていた。
荒れるな…。
暗然と深淵に広がっていた不確かな闇はついに蓋を開け、不可解な事件に、今再びの狂騒を与えようとしている。
花屋敷はここに至り、始めて鈍感な自分の身体が細かく震えている事に気づき、深く戦慄した。
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