忍び寄る悪意

15


これも、その日の数時間前の出来事である。


見られてる…?


何者かの張り付くような視線を感じ、貴子は思わず俊敏に後ろを振り返った。


ひんやりした涼しげな空気と共に遠くから噴水の水が流れる音が聞こえてくる。


気のせい…だよね…。


そっと胸を撫で下ろす。

不審な人影などあるはずもなく、部活もない放課後の学園はいつも以上に閑散としていた。疲れきった溜め息を一つして、貴子は再び歩き出した。


カツーン。カツーン。


一人で歩いていると驚く程自分の足音が遠くまで反響するのがわかる。生徒達の声のしない学園はまるで廃墟か遺跡のようだった。


石造りのデコラティブな装飾が致る所に施された聖真学園の校舎はロマネスク様式だか何だか、貴子も知らないような大層な名前の建築様式らしい。およそ異文化の西洋建築の多くがそうであるように、外側からは綺麗で洒落た作りに感じる建物の内部は無機質で、ひどく冷たく感じる。


校舎の中にした所で壁も床も天井も、どこまでも平らで真っ直ぐで、そして硬い。


鉄筋コンクリートの学校は何も吸収してはくれない。皆、跳ね返してくる。笑い声も泣き声も、音という音は皆反響してしまう。

衝撃を吸収しない構造は走ろうが歩こうが滑ろうが転ぼうが、負担は皆、己の身体にかかってくる。


叩いても蹴っても痛いのは自分の方だ。悲しい事も楽しい事も辛い事も可笑しい事も、全部お前が自分で処理するんだとばかりに力いっぱい突き放される。


学校はちっとも優しい場所なんかじゃない。由紀子の事件以来、貴子は何度もそう感じるようになっていた。


学園の中庭。『楽園の庭』と呼ばれる噴水広場。西門に程近い庭園の周囲は既に暮れなずむ夕日の中、真っ赤に染まっていた。

時折、頭上の茜空を一際早い勢いで雲が流れる度に周囲は黒く翳りを帯びた。


およそ学園という風景には似つかわくない、驚く程に広大な中庭である。


天を貫くように高くそびえ立つ時計塔。細長いその姿は中庭の中央で丸く刈り取られた草花の部分に影が差すと日時計にもなる。


ギリシア数字の描かれた四角四面の時計塔。一際細長く聳え立つノッポの影法師は、中心の丸い白い文字盤の部分だけが浮いているように見えた。


貴子は頭上を見上げた。

赤と黒の斑模様のように、はっきりとしない空だった。

今しも雨が振り出す前触れなのか、六月の終わりにしては冷たい、身を切り裂くような鋭い風が一瞬、貴子のショートの髪を散らし、制服のスカートをはためかせた。


もう一度、辺りを見渡す。寒い訳でもないのに、貴子は思わず身を震わせた。


自分でも臆病過ぎるとは思うのだが、どうもビクビクしてしまう。

理由はわかっている。


二日前。はからずも例の少女達の背徳的な会話を盗み聞きしてしまってからというもの、貴子は生徒会長でもある一条明日香に咎められた後ろめたさも手伝って学園にいる間中はずっと気が気ではなかったのだ。


そして、もう一つ。

あの後ろ暗い会話を耳にしてからというもの、貴子の周囲ではおかしな事が立て続けに起こるようになっていたのだ。


つい昨日のことだった。

下校時に玄関を抜けてすぐのことだった。いきなり貴子の頭上から何か固い物が落ちてきた。ガシャン、という音が貴子の真後ろで響き渡った。

一瞬、何が起こったのか判らなかった。


自分のすぐ真後ろの足元でバラバラに砕け散った鉢植えの残骸が散らばっていた。突如自分を襲ったその物体を貴子は暫くの間、呆然と眺めていた。


あと二、三歩歩むのが遅ければ、間違いなく加速度をつけた固い鉢植えという凶器は貴子の頭を直撃していた事だろう。


現実に立ち返り、慌てて頭上を見上げても校舎の開け放した窓には当然誰の影も見えなかった。

どす黒い焦げ茶色をした土とバラバラに砕け散った鋭利な陶製の破片。そして、そこには血のように真っ赤な薔薇の花が一本、黒い根を晒した姿で貴子の足元に転がっていた。


顔面蒼白の貴子をよそに、何も見ていないか気付かなかったかのように何事もなかったかのように、帰りの途へとついていく周囲の生徒達。


貴子は目の前がぐらりと傾くような現実感の喪失と、総身が粟立つような恐怖がじわりと足元からやってくるのを、意識した。


何者かの視線が貴子をずっと監視しているような気がして寒気がした。


そして、今日の事だ。

午後の休み時間にトイレに立った貴子をまたしても不可解な事態が襲った。


開け放した誰もいない個室のドアを閉め、カタリとカギを掛けてすぐに異変は起こった。

周囲に足音はなかった。

いきなり外側のドアに何か固い物がゴツッと当たる音がした。


昨日の件で過敏になっていた貴子が気付いた時にはもう遅かった。


…閉じ込められた!


貴子はパニックになって、狭く、暗い密室の中、力任せに何度も拳でドアを叩き、肘をぶつけ、膝で、足で蹴飛ばした。


『…開けて!助けて!』


その言葉が出ない。あらん限りの声を張り上げ、誰かに助けを呼ぼうとするのだが、喉から出かかった自分の声は、恐怖のあまり肝心な所で乾いたようにつっかえ、激しい吐息と共にひいひいとおかしな音をあげるだけ。


どうして昼休みなのに、誰も来ないのよ!


華奢で小柄な自分の身体が恨めしかった。半ば懇願するように幾度か体当たりを繰り返すと、ドアの外側からバキッという音と共に何か堅くて丸い物が転がる乾いた音がした。


ギイッと軋んだ音を立てて白いドアはあっさりと外側に開いた。

表のドアを見るとモップの柄の部分がつっかい棒になって斜めにドアを塞いでいた跡があった。折れた部分が引っ掻いたような白い筋になって残っていた。地面に転がった、欠けたモップの尖った先が貴子へと向いているのを見て、貴子は身震いした。


由紀子が死んだ日から数えて六日が経過していた。学園側は結局、由紀子の死を完全に自殺と見做す当初からの予定どおりに処理する方針を固めた。


生徒達には朝と放課後前のホームルームで。教育委員会には校長と生徒指導部顧問が。保護者には教師や学園関係者がPTA総会を設けて応対し、マスコミや警察には教頭が代表して声明を発表するらしかった。


今回の事件は、川島由紀子という一人の女生徒の予期せぬ自殺であり、遺書も存在していない以上、彼女は人知れず誰にも言えぬ悩みを抱えて自殺した。

そう結論づけられた。


これを受けてかどうかはわからないが、三日前まで放課後には何人も見かけた警察も今では数える程しかいなかった。


それでも生徒の何人かは、相変わらず校門をくぐれば週刊誌やテレビといったマスコミの取材を受けている。状況的にはあまり変わり映えしていないのかもしれない。


公園などでよく目にする、備え付けの白いベンチに腰掛け、貴子は自分の携帯電話を取り出した。


啜り泣くような音を立てて六月の物狂おしい風が吹き去ってゆく。

色とりどりの花に満ちた庭園からむっとするような芳香が貴子の鼻をかすめた。


勇樹に会って相談するべきだろうか? しかし、学園を三日も休み続けている勇樹にどう相談したものか、貴子は測り兼ねていた。


例の放課後の件はその日のうちに連絡してもみたのだが、携帯電話の電波の届かない場所にいるものか、何度連絡しようと勇樹には繋がらなかった。

協力関係にいるとはいえ、迂闊にも勇樹とメールアドレスの交換まではしていなかった。


考えたくはない事だったが、勇樹も何か事件に巻き込まれてしまったのだろうか?


クラスの誰かや、まして学園側の人間である担任の山内には相談できる内容でもなかった。


由紀子の死。そしていきなり退学処分となった須藤の噂もあって二年B組は今や奇妙な沈黙状態にあった。


それもそのはずで同じクラスの仲間とて、学園を離れて制服を着替えれば、そこにいるのはただ一人の個人個人でしかないからだ。


隣人の顔さえ見えぬ、この黄昏時と同じなのかもしれない。


昼と夜を分かつ時間の境界は、著しく視認性をぼやけさせる。高校生という仮面を脱ぎ捨てた途端、その属性は曖昧なものとなる。

私服の趣味やメイク一つでガラリと大人びた雰囲気を纏う女子高生のように。


学校の放課後に限らず、アフターファイブには自然と別人の仮面を被れるように現代人は出来ているのかもしれない。


由紀子や須藤のように。

貴子のような鈍臭い小娘には、そうした機微はわからない。今の貴子は、ついこの間まで隣にいた親友やクラスメートの顔さえ、ぼんやりとしか想起できないでいるのだった。


…これからどうしよう?


明らかに貴子は何者かに狙われている。

この二日間で貴子の身の周りに起きた事はけして偶然の一言や、まして冗談や被害妄想では片付けられない。


貴子はぶるりと身を震わせた。

怖くて堪らなかった。貴子は雑念を払うようにゆるゆると頭を振った。


落ち着いて…。冷静に考えなきゃ駄目…!


なぜ自分が襲われなければならないのかを考えるのだ。このままでは相手の思う坪だ。


彼女達の秘密を知ってしまったから…?

あるいは元々、由紀子に近しい人間だったから…?あの図書室で起こった事を思い出せ。何かあるはずだ!

思い出せ…!


この二日間で降って沸いたように、いきなり自分に身の危険が迫っているという事実を検証してみなければいけない。


あの図書室という密室での彼女達の会話。

ガーベラ。リリー。そして彼女達の間ではローズと呼ばれていた由紀子。

リーダー格と思われるダチュラという名の女生徒。そして有名人の一条明日香。


大事な人の前以外、絶対に髪留めを外したりしないと言っていた由紀子が、時計塔に上がり、あの髪留めを外したまま墜落したという事実。


なぜ現場は、あの時計塔でなければならなかったのだろう?思考は今や猛烈な勢いで貴子の頭を巡っていた。


「あ…!」


貴子の頭にある閃きが浮かんだ。

考えてみれば当然過ぎる程に簡単な一本道のロジックだし、俄かには信じられない思いだった。しかし、これ以外に明解な解答はない気がした。


つまり。貴子が図書室の件以降に襲われたという事実は、取りも直さず一つの事実を指し示している。


あの密室でリリーとガーベラは、貴子の存在に気付いてすらいなかった。

にも関わらず、貴子は別々の場所でおそらくは別々の人間に別々の罠を、まるで狩りを楽しむように仕掛けられているのだ。


貴子を襲った犯人は、おそらくは複数犯だ。これがリリー達の仕業ならば、必ず彼女達に貴子の存在を報せた内通者がいたのだ。


そして、あの図書室の死角に隠れた貴子の存在に気付いていた人物はあの時、一人しかいない。


その人物が現れた瞬間の、ガーベラとリリーの動揺ぶりを貴子は思い出した。

そして、あの人は噂によれば、時計塔に行く前に由紀子が最後に会っていたであろう人物でもある。間違いない。


自らをヘブンズと呼んでいた、かの売春グループの頭目であるリーダーのダチュラは…。


その時だった。


「危ない! よけてっ!」


女の声がした。ヒュン、と鋭い何かが風を切る異質な音がした。


突然、体当たりでもするように何か黒い塊が貴子にいきなりぶつかってきた。


刹那、全身に走った衝撃と痛みに貴子は思わず顔を背けた。ベンチから転げるように、貴子はもんどり打って地面に倒れた。


背中に鈍い痛み。

一瞬、息が止まる。


…ドカッ!


ベンチに何かが当たった。次いで弦を弾いたようなビーンという振動音。

気が付けば、貴子はむっとするような草いきれと花の香りのする地面に倒れていた。誰かが貴子に覆い被さっている。


貴子と同じ制服だ。

それはいきなりガバッと立ち上がると、貴子の腕を無理矢理引っ張って立ち上がらせた。


痛いっ!腕がちぎれそうだった。


「何してんのよ! 立って! 急いでここを離れるのよ!」


禀とした声で女は貴子にそう命じた。訳もわからず貴子はおろおろと立ち上がった。


貴子は気付いた。貴子が座っていた白いベンチに何か細長いモノが突き射さっていた。


それはアーチェリーに使われるボーガンの矢だった。


「早く! ここから離れなきゃ殺されるわ!」


殺される!?


貴子はいきなり現実へと引き戻された。


女は貴子の手を取ると猛然と校舎の方へ駆け出した。半ば引っ張られるように貴子も後に続いた。


走りながら、女の後ろ姿に貴子は呆然としていた。風にそよぐ長いロングヘアーとポニーテール。


雲間から覗いた夕日が一瞬、貴子の目を眩ませた。逆光の中、振り向き様に一瞬だけ見えた女の顔に貴子はぎょっとした。


夕暮れはいつも得体の知れない悪夢を伴ってやって来る。


「由紀…子…!?」


黒い影にしか見えない周囲の風景が過ぎてゆく。猛然と駆ける貴子の向こう側に、時計塔のある校舎が見えた。

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