幕間の悲劇

12


およそ探偵には見えないダークスーツに身を包んだ探偵の来栖要は、見ためにも高級そうなその上着を脱いで無造作に肩に引っ掛けるとゆったりとした動作で勇樹の元へと歩み寄ってきた。


歩む度に真っ直ぐな黒髪がサラサラと揺れる。上着を脱いだ真っ黒なアンダーシャツにサスペンダー姿。緋色のネクタイという風貌がひどく絵になる。これでソフト帽でも被っていれば、まるでフィリップ・マーロゥみたいなダンディーな探偵に見えることだろうな、と勇樹は思った。


長身でしなやかな痩躯は外国人モデルのような、一種独特の気品さえ漂わせていて一見してビジネスライクな探偵には見えない。


相変わらず左手をすっぽりと黒いレザーグローブで覆い隠し、赤い瞳をした異様な風体を除けば、まるで一体のギリシャ彫刻のように壮健で逞しく、優美な魅力に溢れた人物である。


「気がついたか。思ったより元気そうで安心したぜ。怪我の具合はどうだ?」


相変わらず見ためとは裏腹な、やさぐれたぶっきらぼうな口調で来栖は話しかけてきた。涼しくも優しげに細めた目が勇樹を真っ直ぐに見つめてくる。あまりに現実味のない衝撃的なファーストコンタクトであっただけに、今の彼の豹変ぶりは意外だった。


来栖のこうしたやさぐれた態度や口調は、相手にはややつっけんどんな印象を与えることだろう。これほど見た目と内面の口調が一致していない人間はめずらしいが、普段は温厚で話のわかる人物なんだなと勇樹は改めてそう感じた。


「あ、はい。助けてくれて本当にありがとうございました! あの時、来栖さんが来てくれなかったら今頃どうなってた事か…。怪我の手当までしてもらって…」


「礼ならアリサに言えよ。それに俺は仕事を果たしてるだけさ」


勇樹はアリサも同じ事を言っていたのを思い出して思わず微笑んでしまった。


「…あん? どうした?

…さてはアリサがまた余計な事でも言ったのか?」


来栖はわずかに微笑んで困ったような表情をした。


「あ、いえ…」


勇樹はアリサに来栖と恋人同士なのかと尋ねたのを思い出し、今になって急に気恥ずかしくなった。


「すまなかったな。わざわざここまで運ぶ必要はなかったんだが、こちらも色々と訳ありでな。事後承諾になるが了解してくれ」


「あ、いえ…僕の方こそ、いきなり押しかけちゃった形になってすみません。

改めて色々と話を聞かせてもらってもいいですか?」


「ああ、取り敢えずお互い堅苦しいのはなしにしようぜ。俺はそれほど育ちのいい方じゃない。

俺もお前に色々と聞きたい事がある。まぁ適当にくつろいでくれ。

…どうやら、もうすぐ晩飯も来るみたいだしな」


来栖はチラリと先程アリサが入っていった部屋に視線を送った。この地下室のような変わった事務所兼住居がどのような間取りになっているかはわからないが、おそらく向こう側はダイニングかキッチンなのだろう。

来栖の言う通り、先程から室内には食欲をそそる、いい匂いが漂い始めていた。


異国の占い師は今頃、腕によりをかけて、珍しい来客と一風変わったパートナーの為に、遅い夕食を用意してくれているのだろう。


勇樹は近くにあったソファーに腰掛け、来栖は上着を机の側の壁にあるウォークインクローゼットへと仕舞い、自分の肘かけ椅子に座った。


二人はここにきて、ようやく互いに情報交換をする機会を得る事となった。


………


「じゃあ来栖さんは、そもそも理事長の依頼で学園に来てたという訳ですか?」


「ああ。正確には娘である間宮先生の依頼、だな。

…といってもあの女医先生も、困った父親を見兼ねて仕方なくといった所だったが…」


自己紹介も終わり、二人はどういった顛末で自分達が事件に関わるに至ったのかを語りあっていた。


来栖は続けた。


「理事長の間宮孝陽氏は、お前も知ってるだろうが、かなりの高齢でな、まだ軽度だが進行性のアルツハイマーを患っていて、今じゃ車椅子での生活を与儀なくされてる状態だ。

…あの爺さんもえらく生徒思いな理事長でな。

ここは一応は探偵事務所となってるが、依頼も何もあったもんじゃなかったぜ。

いきなり来て早々、俺の顔を見るなり『どうか生徒達を助けてやってください!』の一点張りだ」


来栖は近くにあったセブンスターの箱を、あのライターごと手に取った。


勇樹も自分の学園の理事長の事は知っていた。


天気のよい日などは車椅子で中庭や学校中を巡り歩いて生徒達に声をかけるのが理事長の楽しみらしく、勇樹も何度か声をかけてもらった事がある。生徒の何人かが理事長の車椅子を押している姿はよく見かけていた。


理事長は年不相応な赤いスーツを好んでよく着る、長い白髪を後ろで縛ったものすごく特徴的な老紳士なのだ。


今は皺くちゃだが若い頃はさぞかしモテたであろう。

端正な顔立ちをした人物で、生徒達をまるで実の孫達を見るような目で微笑む、好々爺のような姿が勇樹の目に浮かんだ。いつぞや、その珍しい姿にテレビ局が来た事もあるほどだ。


勇樹は頷いた。


「理事長は今は仕事らしい仕事はしてないって誰かに聞いた事があります。昔から今の学園を支えてきた生き字引みたいな人だからって…。教育委員会を通じた仕事やなんかの大半は、今は校長が引き継いでるそうです」


「らしいな…。

あの隠居爺さんには気の毒だが、実際かなり認知症の方は進行してるようだ。白内障も患ってるし、内臓の方もよくない顔色をしている。あの分じゃこの先、もう長くないのかもしれん…」


来栖は赤い瞳を僅かに細め、何かを堪えるような不思議な表情を見せた。


勇樹も理事長を思うと、沈黙せざるをえなかった。


「俺も老人向けのボランティアをしてる訳じゃない。そんな内容も漠然とした、訳のわからん依頼なんか最初は断るつもりだった。

だが、あの学園には前から興味があってな、依頼の受理は先延ばしにしていた矢先に川島由紀子が死亡したものだから、原因を探る名目でも結局は引き受ける事にした訳だ」


来栖はとんとんと煙草の先で葉を詰める動作を幾度か繰り返した。


「この事務所にあの二人が来たのは、事件の起きた日の前日だったんだよ。

時間はちょうど今ぐらいだったかな。もっとも、ここには時計なんかないから正確な所はわからねぇが…」


相変わらずぶっきらぼうとも取れる低い口調で淡々と答えた来栖要は、自分の椅子に深々と腰掛け、愛用の不思議な色合いのジッポーライターで煙草に火を点けた。


紫煙がゆるゆると尾を引いて上方へと巻いていく。やがて煙はヘリのローターのような天井のファンの回転に紛れて消えていった。


勇樹は反射的に自分の携帯電話を取り出し、時間を確認した。奈美と勇樹がツーショットで笑っている写真を待ち受け画面にした液晶の画面には『PM09:21』の表示。


自分以外の高校生の帰宅時間の平均値など勇樹には知る由もないが、普段の部活帰りと較べても、ずいぶん遅い時間なのは確かだ。


しかし今は時間を気にする心配もないのだった。


周到な探偵は、例の廃工場に置きっぱなしにしてきた勇樹のバッグをちゃっかり勇樹ごと回収してきていたのである。探偵は椅子に座るなり、見慣れた勇樹の黒いバッグをポンと勇樹の手に投げて寄越した。


「忘れ物だぜ。

いざ傷害だなんだで警察沙汰となると理由を説明するのも一苦労だからな。回収しといた。警察もじきにここを嗅ぎつけてくる。

まぁ安心しな。お前がやった連中の一部は凶器持ちだけじゃなく、あちこちでコソ泥や暴力事件にも手を染めてるような臑に傷を持つ連中だ。警察が嗅ぎ付けて事情を聞かれても、俺が全部やった事にすればいい。

ま、罪の引っ被りついでに色々聞きたい事がある。

なんだったら泊まっていってもいい。晩飯がてらゆっくりしていきな」


とサラリと言ってのけたのだ。

勇樹はびっくりするより先に正直呆れた。


あの状況でよくそこまで気を回せたものである。さらに勇樹を呆れさせたのは勇樹の実家にまで彼の手が及んでいた事である。


勇樹を運び出し、勇樹の携帯電話から自宅の電話番号を調べ上げ、早々に勇樹の母親に連絡までしていたのである。


学園の教師を装い、保護者向けの事務的な口調で電話で話したらしい。


『夏休みにある、空手部の合宿の打ち合わせの件で、部長代理の成瀬君は今夜帰りが遅くなります。着替えや食事は学園の寮を使用しますので一切心配いりません』と嘘八百並べて丸め込んだらしい。


後でお礼に伺いますって、オフクロさんが言ってたから適当にフォローしといてくれ、と彼はあっけらかんと語った。返す返すも油断のならない男である。


探偵の守秘義務である所の依頼人を見ず知らずの勇樹に明かしたり、不良達と大立ち回りを演じたりと、破天荒な探偵もいたものだ。悪人ではないとは思うのだが、どうも微妙な雲行きだった。勇樹にわかるのは、一筋縄ではいかないタイプの男だという事だけだ。


勇樹は最初から気になっていた疑問を、ここで始めてぶつけてみる事にした。


「あの…須藤達はあれからどうなったんですか? あいつらが僕を襲ったのは僕が川島から、何か知られてはヤバイ物を預かってるかもしれない、と誤解した為らしいんですが…」


来栖は赤い瞳を考え深げに空中へと向けながら、ぷうと煙草を吹かした。


「ダチュラ…って知ってるか?」


「え…?」


唐突に何を言い出すのだろう。

ダチュラ…?


勇樹が怪訝そうな視線を向けたのを見てとると、彼は淡々と話し出した。


「ダチュラは花の名前だよ。和名を朝鮮朝顔、俗名を曼陀羅華。そうそう、こんなふうにも言われるんだっけな…」


探偵はそこでチラリと上目使いで勇樹を見やった。


「キチガイナスビ…」


「気狂いナスビ!?」


一体なんの話を始めるものやら、まるで意図は汲めなかったが何かが勇樹の琴線に激しく触れた。


探偵は続ける。


「インド原産の一年草で、高さは1m程度。大きさ15cmほどの見ためが派手な白いラッパ状の花を咲かせ、強いジャコウのような芳香を放つ。

園芸品種もあって黄、紫、ピンク色をしたものもあり大きくなって、毎年花を咲かせる。

こいつは根、茎、葉、花といった全草のすべてに幻覚性のアルカロイドを含んでいる有毒植物でな、モルヒネのような直接的な鎮痛効果はないが、痛覚が鈍くなる為に昔から麻酔薬や喘息薬としても知られてる。

江戸時代の外科医である、かの華岡清州はダチュラを主成分とする内服全身麻酔薬の『通散仙』を完成させ、日本最初の全身麻酔による乳癌摘出の手術に成功してもいる。

こいつは猛毒でな、素人がみだりに手をつけるとえらい事になる。インドの山間部では毎年のように誤って口にした何人もの人間が病院に搬送されるか、死亡してもいる。効果は違うが、トリカブトのようなものだな」


来栖はそこまで喋ると、机にあったクリスタル製の灰皿で短くなった煙草を揉み消した。


「来栖さん…! まさか、川島のあの事件は…」


訝しむ勇樹に向け、来栖は待ったとでもいうように片手で制した。


「早まるなよ。いずれわかる事もある。今はもう少し俺の戯れ言を聞いとけ」


来栖は両手で頭の後ろに手を回してどっかりと椅子の背に凭れた。


「ダチュラの成分は薬物にも使われているんだ。

ドラッグの隠語で『魔王』、または木立朝鮮朝顔…英名でエンゼルストランペットと呼ばれる別の品種にあやかって『天使のラッパ』とも呼ばれている。

だが、ダチュラのアルカロイドの一番の特徴は、恐ろしいほどの譫妄状態を引き起こす事にある。全ての妄想が行動となって現れるのさ。意識はグシャグシャになり、己の意思決定が一切できなくなって獣のような状態になる。

その昔、外国の娼館の主は売られて間もない嫌がる女達にダチュラを投与して、積極的に男の身体を欲しがるように仕向けたという記録さえある。

譫妄中にいくら凌辱されようが女達には一切の記憶が残らないから、男の欲望を満たすには実に都合がいい代物だったという訳だな。

さて…ここで成瀬勇樹、お前に質問だ。聖真学園には無茶な商売をする困ったお嬢ちゃん達が実際にいるって噂があるそうだな?」


いきなり来栖は話題を変えた。


「そんなのたんなる噂に決まってます!須藤から何を聞いたか知りませんが川島はそんな事…!」


勇樹は由紀子の屈託のない笑顔を思い出し、思わず来栖を責めるような強い口調になってしまった。


すいません、と言ってから思わず目を逸らした。冷静でなければならないのに、自分でもどうしてここまで腹が立つのだろう。


「まあ俺も変化球が多いのが悪いんだが、話は最後まで聞きな。

須藤直樹だったな…お前のクラスメートのあいつだけは普通の病院に連れていく訳にはいかなかった。なにしろ首謀者なんだ。一カ所に集めて警察に売ってやった他のザコ共とは違う。

…あいつは今、この近くの診療所にいる。警察に身柄を拘束される前に事情を聞いておきたくてな…さっきまで話を聞いてきた所なのさ」


「来栖さん!あいつは…須藤は何て言ってたんですか!?

…僕もそこに行きます!

診療所なんでしょ? どこなのか教えて下さい!」


我慢出来ずに勇樹は思わず立ち上がっていた。

多弁だった探偵は、いきなり沈黙した。


居心地の悪い空気とともに互いの視線がしばし交錯した。勇樹は来栖を見つめる。


来栖は身じろぎ一つせず、能面のような凍てついた表情でただ勇樹を黙って見つめていた。

勇樹は僅かにたじろぐ。言ってしまってから自分がひどく軽はずみな言動をしてしまったことに気付き、ひどく後悔した。


診療所。来栖は今しがた確かにそう言ったのだ。警察病院ではなく診療所だ。勇樹はその意味を察した。おそらく須藤を治療しているのは闇医者なのだ。


勇樹は沈黙した。


来栖の事はまるで知らない勇樹だが、話しぶりや言動を見てもひどく慎重なタイプだし、傍目には大胆不敵で破天荒で無茶苦茶のようにも見える一連の行動は、彼なりの理由や哲学に添って動いている節がある。


自分が必要と感じた情報しか開示するつもりがないのは、彼の表情を見ていてわかった。


彼は探偵なのだ。

情報の取捨選択と開示の仕方を誤る事は、彼にとっては死活問題なのだろう。

考えてみれば勇樹が須藤に会えたところで、いまさら何もできはしない。


勝者と敗者を決める我の張り合いを演じたクセの強い者同士が、どのツラを下げて会えというのだろう。あのプライドの高い、負けた須藤の気持ちはどうなる?


勇樹は自分の浅はかさがとことん嫌になった。


ここは新宿だ。実際は魔所のようなアンダーグラウンドな部分も多く抱え込む、東京は新宿の歌舞伎町なのだ。

聖真学園のある目黒からは山手線で、たかが四駅。

しかし来栖と勇樹の立場や地位を加味すれば、この距離の概算は大きい。


人生経験の浅い、たかだか高校生の勇樹にはさながら迷宮のような場所だ。

ここは探偵のフィールドであり、活動拠点なのだ。言ってみれば勇樹の方が異分子だ。


人の数だけ真実や世界があるように、彼らには彼らなりの繋がりがある。非合法とはいえ闇医者は追いつめられた人間の救済手段として成り立っている以上、立派な商売なのだ。場所をおいそれと明かす訳にはいかないし、来栖の行動原理にそぐわないのだろう。


勇樹は諦め、脱力してソファーへと座った。


来栖は能面のようだった表情を僅かに和らげた。

しかし、今度はより厳しい表情で勇樹を見つめた。


「固い口を割らすのに、苦労したんだ。奴とは…須藤とは一つ約束した事がある。クサい言い方だが、男同士の約束だ。

これから話す事は、同時に奴からお前へのメッセージだって事も忘れるなよ」


来栖は机の上で肘を立て、祈るように指を絡ませ口元を隠す仕草になった。鋭く赤い瞳が、勇樹だけを対象に真っ直ぐ捉えている。


そして来栖要は須藤直樹の物語を始めた。それはただのクラスメートに過ぎなかった勇樹には、決して見える事のなかった須藤直樹という人間のリアルな現実だった。


それは川島由紀子を真ん中に据え、勇樹を光とするならば影の性質を持った、もう一つの世界の話だった。


ひと通り話し終えると来栖は再び白い煙草の箱に手を伸ばした。


「後はお前も知っての通りだ。

真偽を確かめようとした矢先に川島由紀子は死に、不可解な事実と妙な噂ばかりが残ってしまった。奴がお前を襲った理由はおそらく…」


「やめて下さい!」


勇樹は堪らなくなって叫んだ。そこは聞きたくなかった。


「来栖さん、お願いです。その先は…その先だけは言わないで下さい…」


「………」


来栖は険しい表情のまま赤い瞳を伏せ、僅かの間、沈黙した。が、残酷にも真相を告げる死神の言葉は止む事はなかった。


「奴からのメッセージをそのまま伝えるぜ。

奴らが『魔女』と呼ぶ、ダチュラを使ったクスリを一刻も早く回収しろ。奴らを放っておけば人が死ぬような事件がまた起こる。

校長を始めとする、学園の後ろ暗い過去と噂の秘密を探っていけ。由紀子はおそらく売春などしていない。口封じに殺されたに決まってる。

由紀子の為にも奴らを止めろ。

これはお前にしか出来ない」


勇樹には探偵の低い声が須藤の声と重なって聞こえていた。勇樹は血が滲む程に唇を噛みしめ、拳を握りしめていた。


無知という己の罪を再び呪った。

自分は何もわかっていなかった。


身近にいる同じクラスメートの事さえ…。初めて唇を交わし、身体を重ねた相手の事さえ…。


何も。何一つ。


好奇心猫を殺すという。

どこかで歪められてしまった事実は現実まで狂わせてしまうということなんだろうか?


勇樹も須藤も由紀子も。ただそれぞれ知りたいと願って行動していただけだというのに。


過ちを糾す。

誤りを質す。

歪みを正す。


方法はそれぞれ違っていたけれどたったそれだけを願った真っ当な気持ちや意志が実は触れてはならぬものだったというのか。


だとすれば、それは何だ?


須藤のおかげで由紀子の関わっていた売春グループの存在ははっきりした。

『ヘブンズ・ガーデン』。

紆余曲折はあったが調査の的は定まった。この連中の正体を探らなければならない。

貴子にも知らせてやろう。


勇樹は静かな決意を胸に、ガラスのテーブルに乗ったタロットカードを見つめた。カードの裏側には泣き笑いのような表情をした太陽が無知蒙昧な勇樹を嘲笑っているかのように見えた。


勇樹はカードを裏返した。

茜色の荒野に堂々と立つ魔術師の姿が描かれている。


探偵は何かを悔いるようにしている勇樹のそんな所作を静かに見つめている。


探偵はボソリと呟いた。


「この事件はまるでそのカード…【魔術師】のようなものだ。

曖昧で不確かな噂や過去の事件が長い時間経過と共に余計な深さを持ち、新たに発生した奇妙な事件がさらに過去の事件を曖昧なものにしていく…。

そのカードのように夕焼けの緋色か朝焼けの緋色か一見しただけで事実は解らない。

関わっている人物の顔がはっきりと見えないが故に、受け手によって事件の様相がまるで違ってしまう。事件の場に関わろうとする者は不確かで蜃気楼のような事実や際限なく増える噂の数々に翻弄され、ただ混乱するばかり。

奇術や魔術にしか見えない事実は表層に浮かんだ謎の一つ一つにしか過ぎないのになぜか混乱させられる。

俺達は既に全能な魔術師の組み上げた檻に囚われた…哀れな鼠ってところさ」


来栖はこの世のものとは思えぬ暗い、嫌悪の表情を浮かべてボソリと呟いた。


「あんなものがあるから、こんな事件が起こる…」


「えっ!?」


その時、部屋の入口の白いドアを叩く渇いた音が響き渡った。


「来たな…」


来栖は険しい表情をしたまま黒いドアを開いた。


おそらく警察の人間と思われる二人の男達は事務所に入ってきて来栖の姿を見るなり、驚きを隠せないといった表情だった。最初に入ってきた男は季節外れにもなんと白いコートまで着ている。


「久しぶりだな…早瀬」


眼鏡姿の白いコートの男に向け、来栖は僅かに微笑んで出迎えた。


「その様子じゃ俺達が来るのはあらかじめ分かっていたらしいな。抜目がないのは相変わらずか…」


白いコートの男は低い声で居住まいを正すと、黒縁の眼鏡のフレームを三本の指でくいっと押し上げて微笑み、来栖に右手を差し出した。


来栖はニヤリと微笑むと、無言で彼とがっちりと固い握手を交わした。


「六年ぶりだな来栖。まさかこんな形でお前と再会するとは思わなかった」


「それは俺も同じだぜ。

警察が来るのはわかってたが、まさかお前が直接尋ねてきてくれるとはな。こいつは嬉しい誤算というヤツだ。それに…。

おやおや、こいつはまた懐かしい顔もいるもんだ」


勇樹は早瀬と呼ばれた男の後ろに控えていたもう一人の男の方を伺った。プロレスラーか柔道選手のような立派な体格をした大柄な男である。


「来栖…。お前、本当にあの来栖要なのか?」


「久しぶりだな、花屋敷。その昔テキーラの飲み比べで賭けをしたダチの顔も見忘れたのか?

…六年経っても、お前はちっとも変わらないな」


来栖は花屋敷と呼ばれたもう一人の大柄な刑事に向け、悪戯っぽく微笑んだ。


「お前…その目と左手は?

それにお前…」


花屋敷と呼ばれた男は表れるなり大柄な身体に似合わぬ動揺ぶりを見せた。彼にとっては旧友の変貌ぶりが相当、予想外なようなのだが勇樹にその理由を窺い知る事は出来なかった。


「ん…これの事か? これは…まぁ訳ありってやつだ。

花屋敷、早瀬。見ての通り今日は他に客もいる。積もる話は座ってからにしようぜ。

…勤務時間は終わっているんだろう? 狭い所だがゆっくりしていくといい」


その時、トレイになにやら色々と料理を載せたアリサが部屋へと入ってきた。


「カナメ、ユウキ。晩御飯できたけど食べるでしょ?

…あら、お客さん?」


彼女は占い師のドレス姿から、いつの間にか身体の線がはっきりと分かるラフな黒のシャツにジーンズ姿に変わっていた。おまけに赤いバンダナで長いブロンドの髪を留め、黒いエプロンまで掛けている。


これには意表を突かれたというべきか、勇樹も含め、早瀬も花屋敷も三人ともがいきなり目を丸くした。


花屋敷に到っては、あんぐりと口を開けて固まってさえいた。勇樹は改めて流暢な日本語を話すアリサを眺めた。


まるで絵画の中にいる人物のようだった彼女の不思議な幻想は消え、彼女がいきなり身近な存在に感じた。生活感漂うエプロン姿には理屈抜きな摩訶不思議な効果があるらしい。


「アリサ、紹介しよう。

俺の大学時代の友達で早瀬一郎。そっちのデカイのが花屋敷優介。二人とも警察の人間だぜ」


「えっ!そうなの? あらやだ! アタシ何にも悪い事してないわ」


「当たり前だ。そこにいる成瀬ともども、例の学園の事件のことでここに来たに決まってるだろう。お前みたいな場末の占い師を、誰が好き好んで捕まえになど来るものか。日本の警察は忙しいんだ」


「相変わらず失礼な男!

言っときますけどね、アタシの占いの客には政財界の要人や大企業の社長だっているのよ。

ふん…。困ってる飼い主の為に迷子のペットを探してあげたり、離婚夫婦の危機の為に地道な調査活動をしたり、世間で探偵と呼ばれている人達は誰かさんと違って、もう少し勤勉に働いていてよ。

仕事もしないでフラフラしてる探偵なんかと一緒にしないでちょうだい」


「しないんじゃない。まともな依頼がないだけだ。

大体、人間に飼い馴らされて自ら餌を取る事も忘れた怠惰な犬猫を探したり、相手から慰謝料をいかに多くふんだくるかばかり考えて依頼しにくる欲の皮丸出しのバカ夫婦の離婚問題の為にカメラ片手にコソコソとセコい証拠集めをするなんざ、そもそも探偵の仕事じゃないんだよ」


「聞いた、ユウキ?

親切ごかして気まぐれで人を助けたりもするけど、実際はこんないい加減な奴なのよ。刑事さん達も、こんな社会の屑は捕まえて牢屋にでもほうり込んでおいた方が世の中の為になるわ。構わないからさっさと連行して」


「早瀬、花屋敷。

この小うるさいケルト系のハーフの女はアリサ・コールマン。占い師だが一応、俺の助手をしているんだ。本業の方は政財界のお偉方を骨抜きにしてる大変腕のいい占い師だそうだ」


「ちょっと! なによ、その紹介の仕方は!」


膨れっ面をするアリサをからかうのが常なのか、来栖はニヤニヤと微笑んだ。


勇樹に限らず早瀬も花屋敷も色々と問題発言が連発の二人の応酬を半ば呆れながら見守っていた。

二人の間では日常的な会話なのだろうが、はたから見たら口喧嘩にしか見えない。旧友である早瀬達の心情は計りかねた。


「ユウキ、それに刑事さん達。今日はタイ料理に挑戦してみたの。

あんな馬鹿探偵はほっといて私達だけで出会いの晩餐を楽しみましょう。

…さ、どうぞ席について。飲み物はどうなさる?

ユウキはまだアルコールはダメだからね」


「おい、俺のトコの食材を勝手に使って俺の分はなしなのか?」


「今日の料理は自信作なのよ。左からトムヤンクンにこの鳥肉料理がカオマンガイ。パクチーと季節のサラダはナムプリックで召し上がれ。これがタイのイエローカレーでデーン・マッサマン。どれも辛いから気をつけてね」


「おい、無視すんな」


勇樹は思わず吹き出した。ようやく早瀬と花屋敷の顔にも笑みがこぼれる。


思わず二人の反応を見守っている自分に気付いた。変わった探偵と、その変わったパートナーから人間らしい表情が覗けたというだけで場の雰囲気が自然と軟化したように感じるから不思議なものである。


部屋の入り口に立っていた刑事二人は、ようやく中へと通された。

革張りの黒いソファに学生と探偵とブロンドのハーフと刑事が膝を付き合わせて座っている座は、かなり珍妙な恰好である。


来栖の事務所に訪れた男達は改めて見開きの警察手帳を取り出し、勇樹に示して見せた。


「警視庁捜査一課強行犯係の早瀬一郎です。こちらが花屋敷優介巡査。川島由紀子さんの事件を担当しています」


学生の勇樹に対しても慇懃無礼な態度を崩さず、早瀬はそう自己紹介した。傍らの花屋敷も勇樹に首をちょこんと下げて礼をした。


「な、成瀬勇樹です。聖真学園の2年B組で川島由紀子と同じクラスです」


勇樹も慌てて名乗った。


「そうか。川島君と同じクラスなのか。ふむ、学生がこんな時間にこんな場所にいるのはあまり感心しないな。見た所、君は怪我までしているようだが…」


早瀬は鋭い刑事の目で勇樹を観察すると、いち早く何かを嗅ぎ付けたのか、どこか探るような目付きでそう言った。


まさか同じクラスの男と喧嘩していたとは言えない。


「これはその…成り行きで…」


勇樹は後ろめたさのあまり思わずどもった。不可抗力だったとはさすがに言えない。幸い早瀬はそれ以上、何も追究してこなかった。


勇樹はタイプのまるで異なる三人の男達を改めて眺めた。

どういう偶然か三人は同じ大学の同窓生のようだ。


二人の刑事、殊に花屋敷刑事の方は旧友との再会を喜んではいるのだろうが、来栖を見つめるその表情はどこか腑に落ちないといった様子であった。返す返すも謎の多い男である。


早瀬はおそらく警察の階級でもかなり上の方だろう。

眼鏡の奥の目が怜悧で知性的で、いかにも仕事のできるエリートといった感じの優男である。

夏場だというのに象牙色の白いコートに何かしら強いこだわりでもあるものか、彼は事務所に入っても一向にコートを脱ごうとはせず、到って涼しい顔をしている。


ぱっと見は現代的なサラリーマン然とした風貌だが、物腰や態度にどことなく気品があり、普段から人に命令しなれた者が放つような独特の威厳が早瀬にはある。まだ若いがキャリア組という奴なのかもしれない。


一方の花屋敷刑事は、これまた特徴的な顔立ちの刑事だった。入口のドアから最初に入ってきた瞬間、勇樹は暴力団員か何かだと思った。名前は忘れたが、ヤクザ映画に数多く出演している厳つい顔立ちをした俳優に似ている。


細い目と不機嫌そうな表情が無言で初対面の勇樹やアリサや旧友である来栖を交互にジロジロと威嚇しているように感じた。


「さて、俺達がここに来た目的はお前なら、ある程度は察しているだろうと思う…」


早瀬は鋭い眼差しで来栖を見つめてそう言った。


「俺を捕まえに来た…ってところかな」


来栖は平然とそう言うと皿の上の唐揚げを手づかみで取って食べた。


「うん、旨い。しかし辛いぜ、これ」


「ヒンとコリアンダーを合わせてみたの。スパイシーでイケるでしょ? それはそうとカナメ、行儀悪いわよ」


「へいへい…」


アリサが母親のように来栖を窘める。彼女は酒を固辞した早瀬達の為にコーヒーを淹れていた。


早瀬は人を馬鹿にしたような来栖の言動にあからさまに眉をひそめた。


「化かし合いは嫌いだ。

単刀直入に言おう。そこの成瀬君も無関係ではなさそうだ。渋谷の不良共を痛めつけ、自分からわざわざ警察にタレ込んで我々を呼び出した、その真意を聞こう」


来栖はニヤリと微笑んで、聡明な旧友を見返した。


「バレバレか。なぜ通報したのが俺だとわかった?」


「警察を見損なうなよ。

今の110番電話センターは通報者の声は必ず録音する。便利で人を信用しない世の中なんだよ。第一発見者こそ犯人なんて事件はざらにあるものだからな。

まぁそれはさておき…大体、仕事が丁寧過ぎる。

あれほどの騒ぎで目撃者めいた人物は他になく、不良達や親達から今のところ一切の苦情や被害届けも出ていない。

…なぜか? この犯人は知っていたんだ。たとえ誰かに痛めつけられたのだとしても本人や親が警察にわざわざその旨を自白する訳がないという事を。何せドラッグに凶器まである。指紋でも出れば決定的だ。

小細工をする時間的な余裕など最初からないにもかかわらず、この犯人はわざわざ不良達を断罪するかのようにナイフやスタンガンといった凶器だのドラッグだのを、ご丁寧にも一まとめにして逃げおおせている。

始めは暴力団絡みのいざこざかと思われたが、どうも管轄も場所も違う。不良達が素手で痛めつけられていたのも理由の一つだ。

この犯人は信じられない事だが単独犯で、おまけに素手で突発的な犯行の下に暴力行為を行った…という仮説が成り立つのは当然の事だろう?

目撃者のいない時間と場所をこれ幸いにと狙ったが、困った事に犯人にも何か手を離せない重大事が…たとえば怪我人を抱えていたとかな。そうした事があったに違いない」


早瀬はそこまで言って勇樹をチラリと見つめた。勇樹は慌てて目を逸らした。


「不良達が目を覚ませば証拠を隠滅される怖れもある。だから仕方なしに自分で通報する事にした訳だ。あとは想像と当て推量さ。

犯人は素手で不良達を痛めつけられるほど馬鹿みたいに腕っぷしが強い男でドラッグを毛嫌いしており、尚且つ警察に貸しを作りたがっている人物…としか思えない」


来栖はよく出来ましたとでも言うように、ゆっくりパチパチと拍手をした。


「お見事! さすがは竹馬の友。そこまで見越しているとは恐れ入ったぜ。

…お察しの通り、俺が悪ガキ共にキツイお灸を据えた張本人だよ。傷害事件の犯人さ」


早瀬は目を細めた。いつの間にか、まるで取調室のような緊迫した空気が辺りに漂っていた。


「最初の質問に答えろ。

なぜこんな回りくどい真似までして警察を…いや、猿芝居はもう終わりだ。お前は今回の事件の捜査責任者が俺だと知っていたから自ら関わったんだろう。

…違うか?」


「ああ。お前に事態を手っ取り早く伝えたかった」


「不良達を痛めつける事で俺達に一体、何を伝えたかったんだ? 厄介な暴行傷害事件が一件増えただけで俺にはさっぱり訳がわからないんだけどな」


今度は傍らにいた花屋敷が来栖に問い質した。


「そのでかい体についてる頭を少しは使えよ花屋敷。

俺も学園で調査してる人間なんだぜ。今まではお前達にばれないように、柄にもなくコソコソやってきた。

…だが、これからは違う。

早瀬は回りくどいと言ったが、とんでもない。ガキ共の薬物は新たな事件の幕明けになる一幕だ。

多少強引だが厄介な事件の火種は早々に消さなきゃならなかった。これはそういう事件(!)なんだからな。それをお前らに手っ取り早く、最短の方法で示したつもりなんだが」


「司法取引をする…そう言いたいのか?」


「ああ…残念ながら今回の事件を依頼人の望む形で終わらせる為には警察の力がいる。警察の言葉で言おう。

俺は事件に関して、警察も知りえない、ある重大な事実を握っている。警察が俺に協力してくれるなら、俺の知っている事実で捜査協力する事もやぶさかではない」


「これは大きく出たな。言っておくが正当防衛とはいえ、少年達を痛めつけた傷害容疑の男を放っておくつもりなどない」


「なんだと…」


怪しい雲行きだった。勇樹は金縛りにあったように固唾を呑んで見守る事しかできない。

アリサもただならぬ二人の様子を窺っていた。


「お前が何を知っていようと市民が警察に協力するのは当然の義務だ。それに警察を嘗めてもらっては困る。

名探偵が灰色の脳細胞とやらを駆使して事件を解決するなどという、古き良き絵空事はあいにくだが実現しない。

…申請は却下する」


「本気で言ってるのか?

…見損なったぜ、早瀬。

お前だけは話の通じる相手だと思っていたのに…」


早瀬は立ち上がり、花屋敷に目配せした。


「花屋敷、緊急逮捕だ。

21時56分。傷害容疑で28才の男を確保。氏名、来栖要。職業、私立探偵。目黒署管内の傷害事件の容疑者だと西新宿署に伝えて一次的に身柄を拘束させろ。明日には目黒署に移送だ。ついでに本部に身柄を照会させるんだ。

来栖要…お前には聞きたい事が山ほどある」


「早瀬! 事は急を要するってのが解らねぇのか。

言い訳なんざしねぇが、チンピラのガキ共を傷つけるのとは訳が違う。このままこの事件を放っておけば間違いなくまた人が死ぬぞ。

川島由紀子の事件は言ってみれば呼び水のようなものなんだ。この事件もその一幕だ。お前ら警察には、この事件の底に流れてる歪な憎しみが見えないのか?」


「話はゆっくり署で聞こうじゃないか」


花屋敷が立ち上がった。


「お前は強い。俺に手荒な真似はさせてくれるなよ。

来栖要…いや、お前はそもそも一体誰なんだ? 六年前と変わらない姿で俺の前にいるなんて…。お前…本当にあの来栖なのか?」


来栖は花屋敷を睨みつけた。

予想外の展開に勇樹は思わず口元を押さえていた。


「アリサ…しばらく留守にするから事務所を頼む。

成瀬…すまないな。

分からず屋の馬鹿どもに、事情を説明してやらなきゃならない。

…楽園の花園から近いうちお迎えが来るはずだ。夜道と満月に気をつけろ。特にお前はな…」


その謎の言葉が合図だったかのように、花屋敷と早瀬は来栖を両側から抑え込むようにして出て行った。


勇樹は事情聴取も兼ねて、重要な証言者として警察に連行された。


これが幕間劇だというのなら、なんてメチャクチャなシナリオなんだろう。


勇樹はそう思った。


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