(19)夫婦喧嘩勃発

「あそこがレスターの家だけど……」

「凄い人だかりね」

 エマが通りの角を曲がってすぐの家を指し示すと、その戸口の前に立派な馬車が停まっていた。その前後に近辺の住人達が群がって道を塞いでいるのを見て、二人は呆気に取られる。しかしエマはすぐにシレイアの手を引き、「おじさん達、ちょっとごめんね」と周囲に断りを入れながら人垣に割り込んだ。

 大人達はエマの行為に対して目くじらを立てるような真似はせず、子供である彼女達を快く通す。すると二人が最前列になったところで、家の玄関から三人の人物が外に出て来た。 


「わざわざこんなみすぼらしい家に足を運んでいただき、ありがとうございました」

「公爵様と奥様に、よろしくお伝えください」

 緊張の面持ちで深々と頭を下げた夫婦とおぼしき男女に向かって、執事の制服らしい黒を基調とした出で立ちの壮年の男が、穏やかな笑みを浮かべながら応じる。


「畏まりました。何分急なことで驚かれたでしょうが、本人は半年間家にも戻らず、身を粉にして働きたいと申しております。彼なら大丈夫かとは思いますが」

「勿論です! こちらには、何の異論もございません!」

「息子を遠慮なく鍛えてやってください! どうぞよろしくお願いいたします!」

「承りました。責任者にそう伝えます。本日は急な訪問にも関わらず、ご両親揃って対応していただきまして、誠にありがとうございました。それでは失礼します」

「はい! お気をつけてお帰りください!」

「今日はありがとうございました!」

 そのやり取りの一部始終を見たシレイアは、あまりの展開の早さに、感心するのを通り越して呆れ果ててしまった。


(うわ……、本当に公爵家の執事っぽい。それに馬車に付いている、あの模様……。所謂、家紋って物よね。凄く仰々しいんだけど。それに、もう話がついたなんて、早すぎるわよね? 息子がこの場に居ないのに、見知らぬ人間の話を鵜呑みにするとか、迂闊すぎない?)

 直後に執事を乗せた馬車が走り去ると、付近の住人の一人が好奇心を抑えきれない様子で、レスターの家族に問いかけた。


「おい、スカール。今の場違いな馬車と男は、どういう事なんだよ?」

 それにレスターの父親のスカールが胸を張り、得意満面で答える。

「おう! 聞いて驚け? なんとレスターの奴が、シェーグレン公爵家にお仕えすることになったんだ!! しかも下男とかじゃなく、執事見習いとしてだぞ!? どうだ、恐れ入ったか!!」

 しかしその報告は、レスター親子をよく知る近所の住人達に、疑念を抱かせただけだった。


「……はぁ? お前、何言ってんだ?」

「公爵家にお仕えするですって?」

「よりによって、あのレスターが?」

「ありえないだろう」

「お前、また仕事をサボって、昼から酒を飲んでやがるな?」

「相変わらずだね……。これまでアニタに散々苦労をかけているのに、まだ懲りないのかい?」

 自分の話が周囲に全く信じてもらえない事に腹を立てたスカールは、苛立たしげに妻を振り返りながら叫ぶ。


「貴様ら、ごちゃごちゃうるさいぞ!! 俺だけじゃなくて、女房も一緒に話を聞いたんだからな!? アニタ! この馬鹿どもに、俺の話が本当だと言ってやれ!」

 促されたレスターの母であるアニタは、夫とは異なり、近所の者達に幾分自信なさげに告げる。


「その……、皆、信じられないだろうけど、この人が今言った事は本当なの。ちゃんとレスターの名前でのシェーグレン公爵家での雇用契約書を取り交わした上で、半年分の給与の先払いと支度金として、金貨を規定数頂いたのよ。まだ少し、信じられないけど……」

 彼女の話を聞いて、周囲の者達は漸くその話を信じ、次いで驚愕の面持ちで問い質し始めた。


「そうなると、本当の話のか!?」

「一体、どうしてそんな事になったの!?」

「それが……、さっき使いで来た執事さんの話では、レスターが街中で何やらとてつもない善行を働いているところを、馬車で通りかかったシェーグレン公爵家のお嬢様が目にしたそうなの。それにいたく感動されたお嬢様が、レスターを褒め称えつつあれこれ尋ねているうちに、あの子が就職先や修行先が未定と分かったみたいで。それなら仕事をする気があるなら、公爵家で雇うから来なさいという話になったそうなのよ……」

 アニタがそう説明すると、周囲が益々騒ぎ立てた。


「そんな事があるのか?」

「凄い幸運じゃない!?」

「だが、あのレスターが、そんな大した善行を本当にしたのか?」

「一体何をやったんだい?」

「その辺りは、執事さんも直に見ていないから詳細を知らないそうなの。でも、私も信じられないわよ。あの子ったら、一体何をやったのかしら?」

 アニタは息子の幸運を喜ぶ以前に不安が込み上げてきたらしく、途方に暮れた表情で自問自答する。しかしスカールは妻とは対照的に、豪快に笑い飛ばした。


「何でも良いだろ! さすが俺の息子! やる時はやる男だぜ! 今日は俺の奢りだ! 皆、好きなだけ飲ませてやるぞ!」

 その宣言を耳にしたアニタは、瞬時に顔を怒りに染めた。


「ちょっとあなた! 冗談は止めてよ!? まさか今日貰ったお金に、早速手を付けるつもりじゃないでしょうね!?」

「なんだよ。こんな大金貰ったんだから、パーっと派手に使っても構わないだろうが!?」

「これはレスターの半年分の給与の先払い金だから、半年の試用期間を無事に勤められなくて辞めさせられたら、残りの日数分を返金しないといけない条件なのは聞いたでしょう!? あの子が早々に叩き出されて、大金を返さなくならなくなったらどうするのよ!?」

「その時はあいつが返せば良いだろ」

「あなた、息子の金で飲んだくれた挙げ句に、息子に借金させるつもり!?」

「あいつが家にも帰らずに半年踏ん張って、正式採用になれば良いだけの話だろうが。お前は息子を信じてないってのか?」

「冗談じゃないわ! レスターは信じているけど、あなたなんか全く信用できないわ! それは私が預かります!」

「あ、おい! 何をする! 俺の金だぞ!?」

「あんたのじゃないわよ! レスターのでしょうが!?」

「ちょっと待て!」

「二人とも落ち着け!」

「引っ張るな、危ない!」

 派手な口喧嘩の挙げ句に、レスターの両親は金貨の入った小さな布袋を掴んで引っ張り合いを始めてしまった。とても放っておけずに、罵り合う二人を近所の者達が取り囲み、宥めて引き離そうとする。そんな混沌とした状況を目の当たりにしたシレイアは、どうする事もできずにその場に立ち尽くした。


(うわぁ……、なんて修羅場なの。まさかこんな事態に遭遇するなんて。これからどうなるのかしら?)

 するとエマが溜め息を吐いてから、心底嫌そうに呟く。


「これは駄目だわ……。シレイア。事態打開の為に、ちょっと協力してくれないかな?」

「え? 協力って……。私ができる事なら勿論するけど、何?」

「じゃあ、ちょっと行ってくる。危ないから、シレイアはここで待ってて」

「あ、うん。待ってるけど……、エマ?」

 明確な指示もないまま、何をどう協力すればよいのかとシレイアは首を傾げたが、エマはそのまま大人達が揉めている輪の中に割り込んで行った。


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