漆黒の足
machi
第1話:世界最速の男
トラックには、すでに数人の走者が集まっていた。ブレードのしなりを確かめるように2,3度軽く飛び上がると、アレン・イシザキはスタートラインから電光板を見上げた。張り詰めた空気。スタンド席から目に飛び込む、溢れんばかりの観客。その声援は、聞こえない。集中に成功している、と自分に言い聞かせる。
代わりに、色彩が強烈に映る。抜けるような空の青さ、トラックの橙、まぶしいばかりにまっすぐに続く白線。乾いた空気の質感…そして太陽光を乱反射して煌く、片足がない選手たちのカーボン製の義足の艶。
用意。アンパイアの号令とともに、7人の走者が前傾姿勢をとる。走り出したのは一瞬だった。先頭走者から体一つ分ほど後を追う。残り30mほどで、背後から凄まじいスピードで追い上げてくる気配がした。
それは一瞬だった。その男が、アレンを一瞬で捉え、追い抜いて行った。垣間見た姿は、走る、というよりは、接地面と一人相撲をしているように、地面と、重力と、空気抵抗と戦っているように見えた。
サインボードを振り返る。アレンは3着で終わった。予選通過だ。
息を切らしながら、停止姿勢を取る。異様な観客のどよめきが聞こえた。1位の男。ジョシュア・タン。大会史上初、世界記録「WR」の二文字が躍っていた。怒号まじりの歓声の中で、選手たちは茫然と立ち尽くしている。無名の選手が、ダンピオンの予選で世界記録を出す。
「お前のそれ、テューダー製か」
ぶっちぎりで予選を通過した、例の隣のレーンのその男が、ゆっくりと近づいてきた。一瞬あった目線を逸せられないような眼力の強い男。年の頃は自分と同じか、それ以上か。肩にかけて隆々とした筋肉もさることながら、顔面から肩にかけて赤黒い重度のケロイド痕が異形だ。思わず、目をそらしかける。この競技の選手たちは、その見た目の通りに傷を抱えて生きている者だが、ほとんど過去を語ることはない。
「そうだが、旧式だ。皆が羨ましがるようなもんじゃない」
アレンが硬直したまま、こわばった笑みを浮かべた。
「そうか」
男はつまらなそうにうなずいた。
「見ただけで、よくわかったな」
「しなりでわかった」
ぼそりと言った。男の義足を見やると、今までアレンが見たことがないものだった。ブラックカーボンの筐体に、アクチュエーター。ロシア製か、旧帝国軍からの流れものの改造品か。
気がつくと男はいなかった。太陽光を跳ね返すチタン製の漆黒の筐体の輝きだけが眼の中に残り、トラックに満ちた。
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